5話 絶望
おかしい。
手応えがない。
イリスは肩で息をしながら、己の血で赤く染まった剣の柄を必死に握りしめていた。
先ほどから12、13体は倒している。
なのに全くコボルトの数が減っている気がしない。
切り傷は身体中にあり、両手はすでに皮が完全に破れている。体力は限界で、最早、何とか気力で踏ん張っているような状態だ。このままではジリ貧である。
どうすれば、どうすれば戦況を変えられるの……?
すぐ近くで男の雄叫びが聞こえた。
一人の兵士が倒したコボルト目掛け、斧を振り上げている。よく見ると、先ほどしゃがれた声の男と一緒に魔法部隊の少女をからかっていた男だった。
良かった。まだ無事でいたのか。
見知った顔が生きていた事にイリスは小さく安堵する。
それは束の間の出来事だった。
俄かに、斧使いの背後から青白い光の筋が逼迫した。
――別のコボルトだ!
「危ない!」
叫んだその時既に、斧使いは喉元を食い千切られていた。
鮮血がイリスの近くまで飛んでくる。
血を撒き散らしながら死体が地面に倒れ伏せる。
すぐに複数のコボルトが群がって来て、肉を裂き、骨を噛み砕く音を立て始める。
イリスにどす黒い感情が突き上げてくる。
守れなかった。私がもっと早く駆けつけておけば……。
目の前で仲間を喰われた恨みと、助けられなかった無念がイリスの中で渦巻く。
「やめろ!! 死体に触るな!」
イリスがそちらに向かって走り出そうとした時。
首筋に吐息がかかる。
唸り声。
背筋が凍る。
――後ろを取られた!
しかし唸り声は不意に甲高い断末魔へと変わった。
振り返ったイリスの目に、コボルトに剣を突き立てる男の姿が目に入る。
あのしゃがれた声の男だ。
捨身の体当たりをして、何とか硬い皮膚に剣を捩じ込んだのだ。
「あ、ありが……」
イリスはコボルトが倒れたのを確認してから礼を言おうとした。
「馬鹿野郎! この状況で弔い合戦してる場合か!」
その声を遮った男は息も絶え絶えに叫んだ。よく見ると額からかなりの出血があり、片目が潰れている。
「あ、貴方こそ重症じゃない!」
「俺のことはいい! だから村人を――」
声が途切れた。
男の首が、無い。
代わりに顔のあった場所から不気味な青白い光が二つ、イリスの方をじっと睨んでいる。
ついさっきまでイリスと会話していた男の血飛沫がイリスの頬を濡らした。
音がやけに遠くなっていく。
鉄のぶつかる音、地面を満たす血溜まり、倒された兵士たちの断末魔、コボルトの嘲り笑うような哮り、傷だらけの手で剣を握る痛み――。
全ての風景が、音が、感覚が、
混じっていく。濁っていく。
曖昧になっていく。
ここは、地獄だ。
イリスは全身を吐き出すような叫び声を上げ、目の前のコボルトに剣を振りかぶった。
上から下へ、右から左へ、次々と繰り出す攻撃が空を切る。
昂った感情が、怒りが、剣撃を単調にしている事にイリスは気付いていない。
不意を突いたコボルトの鋭い爪が迫る。
――かわせない。
イリスはその時、やっと自分が前のめりになっていることに気付いた。
とっさに剣で身構える。
が、受けきれない。
二者の力の差は圧倒的だった。なす術なく、薙ぎ倒されるかのように吹き飛ばされた。
あまりの衝撃に意識が途切れそうになる。
痛い。
骨が何本か折れたかもしれない。
剣で受けていなければ確実に腹を抉られていた事だろう。
地面に転がったイリスは、痛む腹を庇いながら何とか立ち上がった。足元がフラついている。先ほどまでの機敏な動きはなりを潜めてしまっている。
コボルトの一撃が想像以上に強力だったのだ。
しかし立ち上がったイリスは、更に窮地に追い詰められていることに気付く。
――囲まれている。
イリスは戦慄に顔を強張らせた。
青白い光の群れ。それはまるで生者を引き摺り込もうとする亡霊のようにイリスをぐるりと取り囲んでいる。
ほとんど兵士が残っていないのだから、イリスに群がってくるのは当然ではあった。
もう剣で切り伏せながら突破する力も残っていない。
魔法の詠唱が間に合うかどうか……。
もし連中が突っ込んでくるのであれば、一か八か、頭上を跳び超えるという手段もあるが、今の状態で成功する確率は低そうだ。
コボルトはジリジリと包囲網を狭めてくる。
迷っている暇はない。
イリスは魔法の詠唱を開始した。
その声を、思わず中断してしまう。
「どうして……」
蒼白になったイリスは消え入りそうな声で呟いた。
彼女の正面には、毛と皮膚が黒く焦げ上がったコボルトがいる。それは確かにイリスが雷の魔剣で斬り殺したはずの個体だった。
それも一体や二体ではない。確認できる限り、四体は確実にイリスが殺した筈の個体が混じっている。
それが、何故。
殺したはずなのに、どうして生きているの?
どうして立てているの?
もしかしてこいつらは不死身なのか?
だからさっきから殺しても殺しても数が減らないのでは……。
そうだとしたら、もう勝ち目が無い。戦っている意味も、無い。
違う!
イリスは歯を食いしばって前に向き直る。
ここまで背負ってきた少女たちを死なせてはいけない。そして私はこんな所で死ぬほど弱く無い。冒険者になってから死線は幾らでも超えてきた。今回だって……。
コボルトたちが更に迫る。
次の瞬間には飛び出して来そうだ。
こうなったら、こいつらの頭上を飛び越えるしかない。
その時、後ろの方からコボルトの短い呻きが起こった。何者かがコボルトを蹴散らしている姿が見て取れる。
コボルトの巨体を薙ぎ倒し、宙に放り投げながらこちらに近づいてくる
「君! 大丈夫か!」
それは兵士たちを率いていた副隊長の声だった。彼の声は冷静だ。ほとんど息も乱れていない。
しかしイリスは彼の姿を見た瞬間顔を歪めてしまった。
「副隊長さん! 手が……」
右手に槍を持つ彼の左手には、先ほどまであったものがない。腕から先が消失していて、急いで止血したであろう布の上からは血がダラリと垂れている。
「待ってて! あたしが止血し直してあげるから」
「いい。もうそんな時間はない」
副隊長はかぶりを振ってイリスに背を向けた。既に複数のコボルトがこちらに集結しつつある。
「いいわけ無いでしょ! そのままにしておいたら死ぬわよ!」
イリスも副隊長に背を向け、剣を構えながら叫ぶ。副隊長はその事に答えなかった。
「ここの連中は俺が食い止める。君は村人たちの方に行って、どうにか彼らを森に逃がしてやってくれないか」
「そんな事出来るわけ……!」
「全員とは言わない! 何人か、いや、せめて子供一人だけでもいい。子供を連れて君だけで逃げるんだ!」
副隊長はこの部隊、ひいてはこの戦闘での最高責任者である。彼には村人を守る義務と信念があったはずだ。その彼が下した決断は、この戦闘が絶望的な状況にある事を如実に示していた。作戦は失敗したのだ。
彼のせいではない。あの状況では100%戦うしかなかった。そして兵士たちは逃げずに戦った。だが……。
コボルトの群れが取り囲むように距離を縮めてくる。
「時間がない。君の正面を開ける。そこから村人たちの所へ向かってくれ」
万全の状態であれば、イリスはその意見を飲まなかっただろう。副隊長をここに置いて行こうとはしなかった。
しかし今のイリスは、己の無力感を噛み締めながらその言葉に従う以外の道を見出せない。一人でも村人を助ける手段が他に思い浮かばない。
「分かった」
イリスは上ずった声で言った。
「ありがとう」
副隊長は穏やかな声で言うと、イリスの背中から飛び出し、正面にいるコボルトを槍で薙ぎ払った。その勇猛な後ろ姿は腕を一本失った戦士のものだとは到底思えない。
「行け!」
副隊長の言葉と共に、イリスは弾かれたように走り出した。
全力で走った。
決して振り返らなかった。
ここで躊躇うことは副隊長の覚悟を無駄にする事に他ならない。