2話 会敵
ーー警鐘が鳴り、壁の上から初めてそいつらの姿を村の外に見た時、イリスは直感的に死を覚悟した。いや、これから始まる惨劇で楽に死ねるなら良い方だとさえ思った。
イリスの目に映ったのは、黒い鉄の波に乗った青白く光る「何か」が、唸り声を上げて押し寄せて来ている場面だったのだ。
その後村で起こった出来事は正に筆舌に尽くしがたい。至る所で殺戮が起こり、村の各所で死体の山が築かれていった。
そうやってイリスが先ほどの地獄のような光景を思い出して暗い思いになっていた時だった。
「みんな元気を出せ! もうすぐ森に入るぞ!」
先頭を走る兵師団の副隊長が明るい声を出した。
「はい」
と兵士たちが息を切らしながら答えるのが聞こえた。
彼は村に残って戦う兵士団の隊長から、村人を連れて逃げるように任された存在だ。腕が立つらしく、ここまでの彼の言動を見ていると兵士たちからの信頼も厚い事も伺える。
「おい、まさかこれだけでバテてるわけじゃないだろうな?」
副隊長は半分茶化すような口調で言った。
「副隊長、もう、疲れましたぁ」
イリスの隣から若い女の声がした。兵士の一人で、杖を抱えて走っているのを見ると魔法が使えるらしい。
「もっと走り込まねえからだ」
後ろの方から野太い声が飛ぶ。ちらりと目をやると、声の主は斧を背負った大柄な兵士だ。
「私は魔法専門なんです! 走っても魔力は付きません!」
まだあどけなさの残る声で先程の少女が言い返す。
「まあ走力よりは滑舌のトレーニングをした方がいいな」
今度は左の方からかすれた男の声が飛んできた。見ると弓を担いだ痩せた男が目に入る。
「何でよ!」
「だってお前、詠唱の途中にめちゃめちゃ噛むだろ。初級魔法を詠唱し終わるまで一分掛かる奴なんて初めて見たぜ」
兵士たちの間から笑いが起こる。
「こ、こんな所でそんな事言わなくても良いでしょ!」
少女は半分懇願するような口調になっている。
「俺も一緒にトレーニングしてやるから。ほら一緒に、アーアーアー」
男の掠れた声が音痴過ぎてイリスも吹き出してしまった。そもそもそれは滑舌じゃなくて発声のトレーニングではないのか。
今は確実に笑っていられる状況ではないのだが、副隊長をはじめ兵士たちはどうにか村人を勇気付けようとしている事が分かった。自分も落ち込んではいられないと思い直し、イリスは前を向いた。
正面で真っ暗な森が口を開けている。
森に入れさえすればこっちのものだ。
この森を少し進むとエルフの集落がある。兵士達の話だとエルフの集落にも兵師団が派遣されているらしい。しかも彼らは森での戦闘に慣れたエルフ部隊だ。
森の中の彼らなら、モンスターたちに遅れを取ることはないだろうと踏み、住民の保護も兼ねて救援要請をしに行くのだ。
イリスは今から行く集落の出身では無いが森の中での戦闘には自信があった。冒険者としての実戦経験も積んでいる。森にさえ入れればうまく立ち回れると思っていた。
森の入り口が近づく。心なしかみんなの足取りが軽くなっているのを感じる。
「もうすぐ森に着くぞ! がんばれ!」
副隊長の声が飛ぶ。
その時、数人の村人たちが隊列を抜け出した。
「森だ!」「早く隠れよう!」
彼らはみるみる隊列から離れていく。一刻も早くモンスターたちから身を隠したいのだろう。
「隊列から離れるんじゃない!! 危ないぞ!」
先ほどまで温厚だった副隊長が怒鳴り声を上げる。
しかし駆け出した村人たちの背中は遠ざかっていく。
遠ざかっていく。
遠ざかっていく。
そこに血の柱が立った。
総毛立つような寒気がイリスを貫く。
先ほど飛び出して行った村人の一人の血飛沫だ。首を食い破られている。
唸り声がする。狼の吠え声に少し近いが、似て非なる、どこまでも冷酷で冷たいモンスターの声だ。
待ち伏せされていた。そう直感したときには既に他の駆け出して行った村人の断末魔が響き、大量の血が吹き上がった。
闇夜に舞う血は村を焼く炎に反射して不気味に紅い。
その血の在り処に、燐のように青白い光がポツリポツリと灯り始める。
増える。まだ増える。
とてつもない数だ。
光はギョロリギョロリと左右に動き、やがて此方を向いてピタリと留まった。
同時に嘲笑うかのような無数の絶叫が押し寄せてくる。
あの目だ。村に集団で押し寄せてきた獰猛なモンスター共の目。
あの声だ。呪いのように邪悪な唸り声を上げながら人々を殺していったあの響き。
先ほど経験した怒りと恐怖が蘇る。
暗闇に慣れたイリスの目に、その全体像が見えるようになる。
体が沸騰するような熱を帯びる。
連中の発する青白い光は、どす黒い殺気で湛えられた鋭い眼光だ。
全身は毛で覆われており、長く伸びた口吻からは、二本の鋭い牙が左右に大きく突き出している
コボルト。
二足歩行する狼。
恐らくそうなのだ。だが、
ーーコボルトと呼ぶにはあまりに大きく、凶暴すぎる。
一般的なコボルトは子供と同じくらいの背丈しかない。凶暴ではあるものの、せいぜい家畜を襲うくらいのものだ。
こいつらのように、積極的に人や村を襲い、喰らい、火を付け皆殺しにしようとするなど聞いた試しがない。
連中はかなりの前傾姿勢であるにも関わらず、一匹一匹が成人男性の背よりも高い。肩は山のように盛り上がり、身体は胸壁のように分厚い。体型は大型のモンスターであるオークとほぼ変わらない。そのパワーも通常種と桁違いであることは、先ほど村の中で嫌というほど味わった。
その突進は家を砕き、その爪は人を真っ二つにした。
こいつらは、本当に、コボルトなのか……?
イリスが考えていると、村人の一人が悲鳴を上げた。
その声ははたちまち集団に伝染していく。
泣き叫ぶ者、恐怖で耳を塞いでいる者、神に祈る者もいる。全員、今にも散り散りに逃げて行ってしまいそうだ。
「みんな! 聞いてくれ!」
明朗な声に村人達がみな顔を上げる。声の主は兵師団の副隊長だった。
「今パニックに陥っては連中の思う壺だ。我々が必ず貴方達の身を守る! モンスターを打ち倒す! だから今は姿勢を低くして草むらに身を隠していてくれ!」
副隊長の顔に焦りは見えず、どっしり構えて人々を見据えている。その様子に安心したのか、村人達は少しづつ落ち着きを取り戻しているように見える。
なるほど、副隊長の肩書は伊達ではないらしい、とイリスは思った。
「退路はない! 戦って切り抜けるぞ! 総員戦闘態勢!! 魔法部隊は詠唱開始!」
今度は兵士たちに向け、副隊長は頭上に槍を大きく掲げた。
「おう!」
兵士たちの声が揃う。
弾かれたように兵士たちが動き始め、周りでガチャガチャと鉄のこすれる音が響いてくる。
それに混じって魔法を詠唱する声も聞こえる。杖を構え、震える声で詠唱する彼らの周りでは淡く緑や紫色の光が立ち上っている。こんな時でなければ幻想的だと思えたろう。
退路はない。
副隊長の言う通りだ。
イリスはコボルトから遠ざけた場所に、背負っていた二人の少女を下ろす。草むらは大人の腰ほどの高さがあるため歩きづらかったが、彼女たちを隠すのにはうってつけだ。
「ここでじっとしておいて。あたしが戻るまで決して動いては駄目よ」
少女たちは涙を溜めた目で何度も何度も肯く。
その健気な姿にどうしようもない気持ちが込み上げてくる。自分たちが負けたらこの子たちも殺され、喰われてしまう。
絶対に負けるわけにはいかない。
イリスは自分に強く言い聞かせ、弓を手に前線へ出た。