1-66.『感情』
「どうしたの? 刻?」
瑠夏の問いに、答える刻。
「あそこ。何かあるかもしれない」
刻が指していた方向は、先程いた山を降りた後且つ、この山を登る直前みに見た綺麗な湖の方面である。しかし、瑠夏たちが見た時には何もわからなかった。
「刻……何か見えたのか?」
「何か、影が動いた」
「え? 影?」
「ここからじゃ遠いから、流石に何の影かはわからないけど。行って直接確認しに行くしかない」
「じゃあ……この山も下山しなきゃか」
「そういうことになっちゃうか~。ま、どうせ下りるのは楽だし他には何も見当たらないしね~」
「じゃあ、下りよう。透も、いつまでもこんな所いたくないだろうしな」
「まぁ、俺の気分に関係無くどのみちいずれは下りないといけないけど」
透たちは、刻が何か見えたのを基にして下山し始める。下山途中、刻が囁くようにして透に話す。
「透お兄ちゃん……さっきは呼んでくれたのに返事しなくてごめんね。無視したようになっちゃって……」
「大丈夫だ。何か気づいたことがあるなら、今はそっちの方が大切だからそれを優先してほしい。刻の考えあっての行動だし、俺は無視されたとか思ってない」
「ありがとう……」
刻は、頬を赤くしながら透にお礼を言う。刻の工夫により、透の視界限定ではあるが久しぶりに感情の変化を見せる刻。不機嫌になった刻をこうして感情を豊かにするきっかけはいつも透であった。透を愛しているからこそ、透が刻の全てを取り戻す鍵となっていたのである。
「……」
透を酷い目に遭わせた明日花や乃之、そして彰人を憎く思っている刻。しかし、それらの存在よりも憎く感じていたのは刻自身だったのである。
透を守ると普段から約束しておきながら、透を守れずに怪我を許してしまった自分。そして、夢で苦しみ続ける透を今でも助けられていない自分。更にはおめでたい日だったはずの透の誕生日の昨日、透が断末魔を上げて翌日まで目が覚ますという状況を避けさせることが出来なかった自分。
何度も、透に良くない状況が続いている状況を見逃してしまっている自分に嫌気を差しており泣きたくなっていた。「私が透お兄ちゃんを助けないといけないのに……守らないといけないのに……」と責任を感じていたのである。
現状、こんな訳の分からない世界に透や自身を含む皆で迷い込んでしまっている状況に、何も出来ずにいる自分が情けなく悔しくなっていたのであった。
普通に過ごしていただけなのに。
将来は、医者を目指している透。皆や自分の将来の為に、毎日秒単位の時間を惜しんで勉強を頑張っている。一人でも多くの人間を救う為に、医学書を集めて研究している。趣味の時間等を忘れて。
現役で医師を務めており、世界中で数多くの実績を残して来た透の父。樹を上回るのではないかというくらい、彼に負けないくらい透はまだ中学生となったばかりの年齢でありながらも医学に一日中向き合っているのである。
沢山の人を救う為に、日々努力している透。そんな透が、どうしてこんなに苦しめられなきゃいけないのかと幾度となく考えても答えが見つからない不快な疑問に、刻は目に涙を浮かべ始めていた。しかし、今は透以外に皆もいる場である。透にだって涙を見せて心配かけたくないのに、皆のいるこの場で泣くわけにはいかない。そう思って必死に涙を堪えていた。
「それより、刻」
「……え?」
透が刻に話を続ける。
「足は怪我してないか? さっきの建物は床があちこち荒れてたり、ガラスの欠片が散っていてサンダルだと怪我するリスクが高かっただろうから」
「…………」
刻は目を覆った後、乱れかけていた呼吸を整える。頬を桜色に染めて微笑みながら透に返事をした。
「……うん。大丈夫。心配してくれてありがとう」
「よかった」
返って来る透の一言。自分のことで大変なはずなのに、刻のこともしっかり気にかけてくれる透。刻は、そんな透を心の底から敬愛していた。
自分の事よりも、他の人を先に心配する透。そんな透の姿に刻だけに限らず、皆が今まで惹かれてきたのである。そんな透が不調そうに悩みを抱えている。「今度は自分が透を助ける番だ」と刻や幼馴染みたちの中で気持ちがシンクロしていた。
それは、口にするまでもなく刻や幼馴染みたちがまるでどこかのタイミングでアイコンタクトでも交わしたかのように、自分たちが今後するべきことをわかっていた。言葉にするまでも無く、全員が無意識に協力し合う気でいたのである、
現状が現状なので、具体的な解決策を見つけ出すのは困難ではあるものの、透を支えることだけは確実に一貫しようと全員が思っていたのである。
刻は、無意識に透の左手を握った。
「刻?」
刻の行動に名前を呼んで尋ねる透。
「せめて……こうしてたいなって。私たちの故郷に帰れるまでは、ずっと……急に離れ離れになんてなりたくないから。今度はいつどこで、何が起こるのかわからないから怖くて…………」
「刻…………」
すると、透が刻の手をゆっくり握り返す。
「……!」
刻は、透の温もりが濃くなった瞬間に頬を始めとする全身が熱くなる。
「と、透お兄ちゃん……」
「あぁ。そうだな。刻の言う通り、ずっと一緒にいよう。家族なんだしな」
「…………うん!」
目をキラキラと輝かせた刻は、まるで無邪気な子どものように可憐に頷いた。そして、刻はもう片方の手を透の左腕を組むようにして回した――――。
そんな二人の様子に気づいた幼馴染みたち。刻の感情がすっかり元に戻っていることにも、安心していた。
「やっぱ……お似合いだな。透と刻は」
「あぁ。最も関係が安定している二人だ。見ていると、こっちも安心してくる」
「将来、あの二人が結婚したら……すげえ良い夫婦になりそうだよな」
主に、男子がそう話していた。その男子のやり取りを聞いて複雑そうになる女子たち。刻の元気が一先ず戻ったことに関しては安心する。しかし、それとは別に思うことがあった。
「……」
自分たちも、それぞれ透に対する想いはある。やっぱり、時間も質も、刻には敵わないのだろうかと悲観的になっていた。いつもポジティブな瑠夏でさえも、透への恋愛感情に関わる話は気が沈みそうになる。どうしても、この複雑な感情だけは瑠夏でさえも打ち勝つことは出来なかった。瑠夏でも参っているのに、これに関係なくメンタルが弱い燈にとってはもっと自信が無くなっていた。
「…………」
そして、燈にとっては別の意味の不安もあった。透と燈との事故による濃厚接触。ああして二人がくっついていれば、本当にバレるのも時間の問題だろうと。
一方で、月葉は感情こそ顔に出さないが、その分それを飲み込むようにして中で溜め込んでいた。プラスマイナス問わず、あらゆる感情を自身の中に蓄積されていく。それが、気づかぬ内に消化されているのかそれとも混ざり合って新たな感情が出来上がり始めているのか。月葉自身にもそれはわからなかった。
もし、前者ならストレスも一緒に溶けるように消えていそうなのでまだよかった。しかし、もし後者の場合なら……内部で何らかが爆発した時に、それを自身で制御出来るのだろうかと月葉にとってはそれが最も大きな懸念要素だった。
これが、感情を失った時の刻と同じなのかどうかもわからなかった。違うとすれば、何がどう違うのか。作家の月葉でさえも、それを言語化するのが困難んだった。我慢は良くないことは頭の中では理解していても、自らリスクを犯してまで爆発までする必要があるのだろうかと疑問になっていた。
そもそも、昔の自分はどうだったのだろうか……。文字列ばかりを見つめる毎日で、今思い返すと鏡で自分の顔をそこまで見たことない気がしてくる月葉。今、鏡を見れば一瞬でも「誰?」って思ってしまうかもしれない。それくらいに、自分に関心が無いように月葉は自覚し始めてきた。自分よりも、本や作家活動、そして透の方が遥かに興味があったのである。
男子たちが透と刻の関係の深さに納得、女子たちが透と刻の関係の深さに複雑な心境になっている中、ようやく透たちは下山を終えて先程の湖へと辿り着いた。




