蝶 第5翅
やたらと自信のなさそうな猫背を追い掛けるも、既に砂貴の姿は見当たらなかった。今すぐに問い詰められないのは残念だけれど、どうせ隣の席。またいつでも話せる。
(……でもあの反応は、何か知っている)
パック飲料のストローを咥えて、一気に飲み干す。口の中を漂う苺の香りを、呼出煙のように吐き出した。
学校帰りに通りがかるあの公園には、透き通った立派な池があった。もう今は年月が経ち、泥でどす黒く濁っている。いつの間にか放流されていた色とりどりの鯉たちは、子どもたちが放り投げる食パンの耳を、毎日毎日貪っていた。鮮やかな色合いの遊具も雨ざらしにされ続け、よく見れば年季が入っている。雲梯を掴めば、酸化した鉄の匂いが指の腹に染み付く。この物寂しい雰囲気は、いつも子どもたちのはしゃぎ声で相殺されている。垣根に咲く躑躅の花に止まった一匹の蝶が、飛び立って顔の横を通り過ぎた。
「……鳳蝶だ」
誘うように飛ぶ綺麗な翅を、視線で追い掛ける。その先に、丸くなった背中を見つけた。鎖の錆び付いた赤いぶらんこの上で、遠くの空を見つめているあの子。
「凜?」
凜の肩が、びくりと跳ね上がる。
「……ひろ、こちゃん……」
「奇遇だね。何してんの?」
向かい合う形で柵に腰掛け、凜の応答を待つことにした。スカート越しに、日光で焼かれた鉄の熱がじわりと伝わる。
「な、何にも……」
そう言って凜は、俯いてしまった。
「何にも?此処にいただけ?」
黙ったまま、細い首が縦に動く。
「いつから?……どのくらい?」
凜は、人形のように細く白い手で、数字の七を作った。
「七時間」
絶句してしまった。
何もしないで、七時間。あたし達が学校に行って、授業を受けて、ご飯を食べて、友達と帰る。この子はその間、ずっと公園で時間を潰していたの?初めて会った時に抱いた、微かな違和感が膨れ上がる。凜は、自分とは違う。違う場所で生きているような気がする。でも、この違和感の正体をすぐに確かめることは出来なかった。友達になったとはいえ、いきなり深い所まで首を突っ込むのは、不躾だと思ったから。だからと言って、この黒い違和感から、目を背けることも出来なかった。
「凜。聞いちゃいけないかもしれないけれど、教えて」
揺れる青い双眸に、あたしの姿が映り込んでいる。
「もしかして学校、行ってないの?」
「……うん」
「……そっか」
「でも、わたし、」
明らかに動揺している。不安に潰されて、はくはくと口を動かしている。落ち着いてくれるようにと、手を繋ぐ。
「大丈夫だよ。そんなことで責めないし、引かないから」
「……うん、……」
薄い唇から細々と漏れる事情を、聞き逃さないように注意する。凜は、この町の生まれではなかった。最近になって引っ越してきたのだと言う。最初は学校に行っていたものの、もう行かなくなってしまったらしい。上手く馴染めなかったんだろうか。暴かれたくなかった秘め事を言葉にして突き付けてしまったのは、正直気持ちのいいものではなかった。
「……凜、駄目な子なの」
「どうして?違うよ」
「違くない」
凜は首を大きく横に振った。所々跳ねた黒髪も、乱れてゆく。
「他の皆より、文字も読めない。計算も、簡単なやつしか出来ない。わからないの」
「これからゆっくり知ればいいじゃん!」
「ま、間に合わないよ。凜、もう十五歳なの。本当なら、三年生なんだもん」
中学三年生。年齢も此処で初めて知った。幼い言動と見た目で、勘違いをしていた。この子について知らないことが、あたしには多過ぎる。間にそびえ立つ見えない壁を壊したい。目の前にしゃがみ込んで、あたしはもう一度凜の小さな手を包んだ。
「時間掛けたっていいし、間に合わせようとしなくていいんだって。知らないことが沢山あるのは、凜が駄目な子な理由にならないよ」
「で、でも」
「だからあたしも、時間を掛けて凜を知れたらいいなって思うの」
手と顔を交互に見つめられる。すん、と鼻を啜る音が聞こえた。
「……広子ちゃんは、優しいね」
「別に。普通だよ」
胸の奥底にかかる黒い靄は未だに晴れない。鳴りを潜める何かが、この子の身体に取り憑いている。
「……ううん。優しいよ」
哀しそうに目を伏せた凜は、とても大人びた顔をしていた。西に傾き掛けた日差しが、あたし達の背中を焼き続ける。
頑張って正気を保ちたい所ですね