蝶 第2翅
お待たせ致しました。
「ぁ、あの…ありがとう、ございました」
浴室で、湯の流れる音が止む。
「おかえり。少しは温まった?」
「は、はい。と、ても」
上気する頬。
女の子の少し傷んだ黒髪が、水を含んで艶々と光っていた。少し大きめのレギンスと、ふんわりとした柔らかいニットに着替えている。
あたしのお古だ。
女の子を椅子に座らせ、髪を乾かしていく。
身体を冷やして、風邪を引かないように。
微かなシャンプーの匂いがした。ドライヤーの温風に、杏の香りが乗って、鼻を打つ。
名前も知らない子を道端で拾って、あたしは何をしているのだろう。流石に、やり過ぎただろうか?善意とはいえ、家に上がらせてしまったのはまずかっただろうか。
女の子は、されるがままだ。
着せ替え人形のように、微動だにしない。
あたしの手を拒むこともしない。
ただ、緊張しているのか、落ち着かないのか。
透徹した青い瞳だけが、左右に揺れ動いている。
「ごめんね、急にこんなことして」
「…大、丈夫、です」
足の指を擦り合わせながら、か細い声で答える。この子は、あの公園で何をしていたのだろう。
「ねえ、聞いてもいい?」
指通りの良くなった髪を梳かす。
──傍から見れば、あたしはただの野次馬なんだろう。
携帯に浮かび上がる数字は夕暮れ時を示す。
間もなく、辺りは暗闇に包まれようとしていた。町中の街灯は、あたし達の進む歩道を薄い橙色に照らしている。強く降り続けた雨は、いつの間にか小雨になっていた。
名前は?
何処から来たの。
傘も差さずに、何をしていたの?
答えを聞いて、相槌を打って。また一つ、探る。
一問一答式の参考書のような、稚拙な会話。
それでも女の子は、吃りながら答えてくれた。
「傘がないから、雨が降っていても、差せなくて」
女の子──凜は、道端の砂利に残った誰かの足跡を、自分のものに上書きしながらそう言った。家に傘がないのは、少し妙だと思う。壊した、ということだろうか。
「傘がないのに、雨の中外へ出たの?」
「このくらいなら、大丈夫かなって、」
「…あたしの傘、一つあげよっか?」
鞄から折りたたみ傘を取り出すと、凜は慌てて首を横に振る。別に悪いと思わなくていいのに。
「…結局、見つからなかったな」
桃色の唇が、小さな不満を漏らす。
凜は、宝物を探していた。家族写真が入った、銀色のペンダント。何処かで落としてしまい、心当たりのある場所をその小さな足で駆けては探し回ったようだ。
「いや、誰かが拾ってくれたかもしれないよ。交番、行ってみれば?」
「こ、交番…」
「うん。見つからなかったら、あたしも探すし」
凜の目が、一瞬大きく開く。
青い双眸の丸みが、はっきりとわかった。
「ひ、ひろこ、ちゃん。そこまでしなくても、いいよ…?」
「別にいいよ?何か、ここまでやっちゃったし。最後まで付き合う」
警戒されているのは、わかっているつもりだ。これも、当然の反応だと思う。でも。この子を見ていると、何か心が騒めくのだ。
傘の滑らかな柄が、生物のような体温を秘めた時。小さな青い屋根の家へと辿り着いて、凜の足がぴたりと止まった。
表札には、“風原”と書かれている。
この子の家だ。
「これ、あたしの番号ね」
別れ際に、筆箱に入っていた小さな蛍光色の付箋を白い掌に乗せる。
「ひろこちゃん…!わ、私、ママに、」
「怒られないよ。友達って言えば」
そう。あたし達は、友達。
「あたしが友達じゃ、嫌?」
「…、…嫌じゃ、ないよ」
便宜上、それでいい。
宝物が見つかるまでで、いい。
「明日は晴れるといいね」
もしこの子が拒むなら、後はもう自分が関わらないようにすればいいのだから。
いつものように、寝具の中で。
明日の朝日を待ち望んでいればいい。
後ろで、扉の開く乾いた音が聞こえた。
蛹【さなぎ】pupa
完全変態を行う昆虫類で、幼虫から成虫に移る直前に形態を変え、食物をとらずに静止状態となったもの。ガ・ハチのように繭の中にこもるもの、チョウ・カブトムシのように裸のものがある。