蝶 第1翅
がたん、がたん。
今日も変わらぬ、教室の鼓動。
誰かの足が机を小突いた音、椅子が床板に擦れる音。話し声。空を交差する喧騒が、心地良い。
今年の春、あたしは高校二年生になった。
小さな町の、公立高校。屋上から見える朝日が綺麗だから、旭に因んだ名前が付いたらしい。
新しい教室、新しい友達、新しい環境。
日々は目まぐるしく過ぎていく。新学期が始まってから、もう一ヶ月が経っただろうか。
もうすっかり、あたしの身体は新しい色に適応してしまった。
「今日の授業、つまらなかったなぁ」
「本当だよ。早く二人で帰りたかった」
春雷と放課後。篠突く雨。
窓から校庭を見下ろすと、大きな水溜りが出来ていた。運動部の声援やホイッスルの音が、今日は聞こえない。褐色の通学鞄を携え、仄暗くなった階段を親友と一緒に下りていく。踊り場に取り付けられた白い蛍光灯が、ちかちかと点滅していた。何処からか侵入した羽虫の黒い影が、中で蠢いている。
「…広子、短いスカートで寒くないの?」
「お洒落に我慢は付き物じゃんね」
赤いゴムで括られた奈穂のおさげが、揺れている。背丈が低いのも相まって、小動物の様にかわいい。
「春だけどまだ肌寒いんだよ?冷やすのは良くないのに」
「わかってるって、奈穂」
一階に降りると、足の間に冷気を感じた。
暖かな日差しは遮られている。
この様子だと、まだ雨は止まない。
様々な色の傘が、昇降口で咲き乱れている。
花畑のように。
「あ、いたいた。月見里さん」
黄色い傘を手に取り、外へ出ようとすると、奈穂が呼び止められた。
「…はい」
一瞬、奈穂の顔が強張ったのは気のせいだろうか。
「図書委員の当番、月見里さんだよね?先生が早く来いって」
赤い傘が、無言で傘立てに放り投げられる。
がらん、と虚しい音が鳴った。
「広子…今日は先に帰ってて。…ごめん」
「いーよ。あたしのことは気にしないで」
「…うん」
黒光りするローファーを履き、昇降口を後にする。振り返ると、奈穂が小さく手を振っていた。左腕を使って大袈裟にアピールすると、親友は嬉しそうに微笑んで仄暗い廊下に消えていった。
濡れる傘の群れに紛れ込む。
路肩の隅で、小川のように流れる雨水と桜の花びら。擦れて薄くなった横断歩道を渡り、並木道を歩んでいく。いつもなら、家族連れがよく訪れる広い公園を通り過ぎ、住宅街へ進む。
そう、いつもなら。公園は、ひどく静かだった。鮮やかに彩られた数々の遊具だけが、そこに佇んでいる。その下で青々と萌える雑草の上に、小さな背中を見つけた。黒髪の女の子だった。白いワンピースに身を包み、しゃがみ込んで動かない。
あたしは反射的に踵を返して、傘の群れを抜けて走り出した。水溜りを踏み抜き、泥水が靴下に跳ねて汚れるのも気にせず。
「…傘、無いの?」
女の子の肩が跳ね、中途半端に伸びた黒髪の先から、雫が落ちる。雨に降られて、相当時間が経っているのかもしれない。
「…お姉さん、だぁれ…?」
女の子は、膝を抱えたままあたしの顔を見つめた。
「あたし広子。この近くに住んでるの」
「…広子、さん」
「突然ごめんね。ちょっと、放っておけなくて。…びしょ濡れじゃん」
女の子の目の前に、しゃがみ込む。
なるべく、そっと。
「…あのさ、良ければ一緒においで。風邪引いちゃうし」
「で、でも」
「いいから。本当にそのままじゃ、危ないし」
白いワンピースの裏側に、肌色が透けている。
あの場に1人残すのは、危険だと思った。
「…大丈夫、かな」
「大丈夫だよ。何もしない。…ほらっ、いこ!」
空いている左手を差し伸べると、女の子はそっと手を握ってくれた。2人で並木道を通る。相合傘をしたのは、久しぶりだった。女の子の横顔を見つめる。長い睫毛の中に煙る瞳は、綺麗な青色をしていた。