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陽炎の夜  作者: 戸坂
9/24

夕暮れに向かう街 1

 アドレイはカジノを出て、午後を過ぎ行く日差しの街並みを早足で歩く。夏場の太陽はそれでもまだ水平線とかなり距離があるが、気温は徐々に下がり始めているのが体感で分かる。

 白壁の商店と色鮮やかな石畳が続く表通り。飲食店や屋台からは香辛料の香りが漂い、雑多な露店に人が群がって混雑の原因になっている。慰霊祭の目玉となった花火大会を目当てに集まった、大勢の観光客に紛れてアドレイは進む。

 仕事は終わったも同然だ。

 誰にも見咎められる事なく、ひっそりと標的を始末して、必要な物を持って帰る。いつも通りの仕事だ。普段と何一つ変わらない、腐れた汚れ仕事。

 祭本番の今日、ヴェスティア中央市内のカジノのど真ん中で、と言われた時には躊躇もしたが、依頼料は魅力的だったし、「あなたなら簡単よ」というヒラリーの言葉は正しかった。どうにも影が薄い、という小さい頃からのコンプレックスは、今や仕事に対するうってつけの能力となった。

 全く別のベクトルからのアクシデントはあったものの、結果として、アドレイはロッディを片付けて、誰にも捕まる事無くカジノを出ている。後は、ロッディの持っていた、今はアドレイが持っているこの銀色の薄いプレートを、指定の場所で待つ男に届けるだけだった。

 その後は完全にフリーだ。そうなれば、ヒラリーからブラックドレスの彼女の居場所を聞いて、会いに行く事が出来る。会って、とにかく話がしたい。何を話せばいいのかは分からないが、彼女に思いを伝えるには、話をしなくては始まらない。

 それはもしかしたら、上手くいかないかもしれない。彼女はアドレイに興味を持ってくれないかもしれないし、或いはアドレイが彼女への思いを失ってしまう可能性だってある。

 だがそれでもいい。始める前から諦めて終わるのだけは、絶対に御免だ。

 自分自身、冴えない男だという自覚がアドレイにはある。

 かっこいいと言われた事は人生で一度もないし、服装のセンスを褒められた事もないし、自分自身外見に自信もない。意識している女性を前にすると緊張して体が強張ってしまうし、汗も出る。告白が成功して交際を始めても、慣れるまでその状態は暫く続く。話をするのも上手くないし、感情表現も得意ではないらしい。

 それでもアドレイが唯一つ、これだけは譲れないと決めているのが、「諦めない事」だ。

 初めての彼女、レイチェルが呆れたような笑顔と共にくれた言葉が、今も胸に残っている。

――アドレイってさ、めげないよね。

 それだけが、アドレイが自分に自信を持てる部分だ。

 ドットガル帝国東部の、数少ない中流家庭に生まれたアドレイは、諦めだらけの人生を歩んた。

大好きだった歌手のレコードはいつも眺めているだけだったし、好きな子は遠くから見ているだけだったし、学校の成績はいつも最下位付近を彷徨っていて、勉学は向いていないのだと自分に言い聞かせていた。そして高等学校への試験に失敗し、親から見限られ、流されるようにスラム街を転々としながら、違法な仕事に手を染めていった。自分はきっとこうやって死ぬまで挫折して生きるのだと、諦めていた。

 そうして小金を稼いでその日暮らしをしていた十八の暮れに、アドレイが大好きだった歌手のジャンド・ブルックスが、愛人と心中した。稼いだ金でレコードを買って、いつも寝る前に聞いていたアドレイには、大事件だった。もう新曲を聴く事はできない。ここでもまた、アドレイは諦めるしかなかった。

 だが、ジャンド・ブルックスは死ぬ前に新曲を残していった。それが彼の死から一ヶ月遅れで発売され、アドレイの耳に届いた。最後の曲で、ジャンドはこう歌っていた。

”好きに生きろよ。上を向いても、下を向いてもいい。だけど愛を知らずに死ぬのかい?”

 その歌詞が、何もかもを諦めていたアドレイにたった一つだけ目標を生み出した。

 愛も知らずに死ぬのは嫌だ。

 何と単純な奴なんだと、自分でも思う。だが、そう思った瞬間、アドレイは生きる活力が沸くのを確かに感じた。今思えば、その歌詞はありふれた、陳腐な台詞にも聞こえる。だがそれでも、その日を境にアドレイが変わった事だけは確かだった。足元だけが微かに見える真っ暗だった今日から明日への旅路に、一つの流星が瞬いたのだ。

 あの日以来、アドレイは少しずつ諦めに対して抵抗を始めた。何よりも、こと恋愛に関しては絶対に諦めない。少なくとも、相手の女性からはっきりと、ノーを言い渡されるまでは。今回も、彼女自身からはっきり、交際の可能性は0%だと断言されるまで諦めるつもりはない。

 とりあえずは通信石を渡したい。

 ヴェスティアで出会った以上、彼女がアドレイと同じドットガル出身であるとは限らない。とりあえずは友人からでも、関係を持ちたい。であれば遠距離連絡手段は必須だ。そう思い、通信器具店を目で探し始めたアドレイの耳に、現実を知らせるヒラリーの声が響いた。

『アドレイ、今どこにいるの』

 相棒の声には焦燥が滲んでいる。

「……今大通りを歩いてる。君の指定した喫茶に向かってるところだよ」

 嘘は言っていない。その途中に買い物をしようと考えているだけだからだ。

『そう。良かったっていうか、良くないんだけど、まあ、分かってるわよね』

 アドレイは足は止めないまま、視線を左右に振り回しながら答える。

「時間を過ぎたって言うんだろう? 悪かったと思ってるけど、もう過ぎたものは戻せないし」

『そうね。あなたから言われるのは途轍もなく腹立つけど、その通り。向こうには連絡してるから、四時十五分にカフェに行って。席は店に入って左手の、奥から三番目。絶対遅れないでね、いい?』

「今何時なのかな」

『勿論四時よ。今一分位経った』

 アドレイは遠目に通信器具店を見付けて、早足でそちらへ向かう。

「あと十五分ないって事? ヒラリー、悪いけどそれってちょっと無理だよ。俺まだ大通りに出たばかりだし」

 目的のカフェは、大通りを突っ切った後、更に少し距離がある。寄り道をして間に合うとは思えない。

『大通りに出てるんなら間に合うでしょ。アドレイ、言っとくけど今度遅れたらホントにヤバいから。馬車でも何でも使って時間守ってよ』

「馬車は無理だって。慰霊祭で滅茶苦茶混んでるんだよ。歩くのも大変なくらい」

『ふざけんじゃないわよ。あんたが人混みで歩けなくなる訳ないでしょ。つべこべ言ってないで、じゃあ走ってでも間に合わせなさいよ』

 ヒラリーの言葉遣いが乱暴になってくる。彼女の地が出てくる時というのは、本当に焦っている時だ。アドレイは仕方なく、ショップへ向かう足を大通りの方へ戻した。

「分かったよ。時間は何とかする……と思う、多分」

『絶対よ、絶対。アドレイ、時間に遅れたらツインテールの女の情報は教えてあげないから』

「ちょっと待ってくれよ! それは卑怯だろ? 仕事はちゃんとやったんだから」

 言いながらアドレイは走り出した。人気の屋台に群がる人、家族連れ、カップル、店の呼び込み。それらを、仕事で培った足取りと集中力ですり抜け、流水のようにするすると前に進む。いくつもの会話や息遣いや匂いが、アドレイの前から後ろへと流れていく。

 集中力だ。自分以外の世界の動きが緩やかになっていく。

『仕事の途中よ。届けるまでが仕事。帰るまでが遠足って言うでしょ』

 どこの言葉だよ。知らないよ。

 頭の中でだけ反論して、アドレイは大通りを抜ける。小道に入り、中央区と南湾区への境に向けて、走り続ける。真夏の昼過ぎに運動をする代償は、すぐに全身に出始める。汗だくだ。どう考えても人に会う前の適切な状態ではない。この先のカフェで待つ相手ならともかく、その後の彼女と会う前には着替えなければならない。息もどんどん上がってくる。

「くそっ……」

 幸いといっていいのか、殆ど全速力で人の波間を駆け抜けるアドレイの事を、周囲は全く気に留めなかった。仕事で染み付いた足運びと絶望的な影の薄さに、情けなさが込み上げてくる。自分が道を踏み外した、日陰を行くしみったれた人間だと否応無しに自覚してしまう瞬間だ。

 T字の分かれ道に出て、左右へ首を振る。焦っていてどちらが正しい道か思い出せない。

「ヒラリー、どっちだっけ? 右? 左?」

『何の話よ? そんなのいきなり言われて分かる訳ないでしょ』

「ああもう、いいよ!」

 ジャンド・ブルックスの最後の曲に感銘を受けたあの日から、アドレイは変わった。迷ったらとりあえず行動する事。

 アドレイは左へと走り出す。暫く走っていると、ヒラリーが指定した店が見えてきた。

「やらずに後悔より、やって後悔、の精神だな……微妙に違う気もするけど」

 店の扉の前で立ち止まり、アドレイは独りごちる。

『アドレイ、今どこなの。マジで』

 ヒラリーの焦り声がルビーの瞬きに乗って耳に届く。

「今店の前だよ。入ってから、左手の……ええと」

『左手の奥から三番目の席』

「それだ、ありがとう」

 ほっと一息ついたような声に押されて、アドレイは扉を開いた。小さなドアベルの音と共に中へ入る。

 店内は木材を基調とした、落ち着いた色合いで統一されていて、小洒落た雰囲気がある。天井で緩慢に回る三枚羽のファンは氷結元素を利用した冷風機ではなく、風を送るだけの送風機のようだ。窓は開け放たれており、その前時代的な空調環境が内装を華美に見せず、程よい調和を生み出していた。まだ外が明るい為か、吊り下げ式の照明はほんのりと極僅かにオレンジの光を放っているのみだ。

 アドレイにとって間違いなく苦手な部類の空間であり、アドレイの仕事にも不向きな空間に思えた。

 左手に目をやると、奥から三番目のテーブルに男が座っている。前のテーブルとの間にある観葉植物に半身を隠すように座り込んで、男は自分のアイスティを見つめている。その視線が一瞬だけアドレイの方を見て、またグラスに戻った。

 荒くなっていた息を整える最後の深呼吸をするついでに、アドレイはそれとなく店内を見回す。客は他に三名程いる。入り口から右手の、通りに面した席に座っている三人は、テーブルにカードを広げて何かのゲームをしている。仲間内で賭けでもしているのかも知れない。店内に入ってきたアドレイには目もくれずに楽し気な声を出している。

 アドレイは約束の席に向かった。テーブルの上にはアイスティの他に食べ掛けのチョコケーキもあり、注文者と組み合わせた絵面はちぐはぐに見えた。向かい側、入り口を背にする席に腰を下ろしても、仕事相手の筈の男は無言だった。仕方なくアドレイは声をかけた。

「やあ。待たせちゃったみたいで」

「……ああ」

 やや痛んだ印象のある短い茶髪を後ろへ流した男は、アドレイと目も合わせず、どこか無関心な呟きを返したのみだった。最初の約束の時間に遅れた事を問題に思っているのだろうか。

 何か問題が起きた時、頭を下げて謝罪する程度では許してもらえないのがこの業界の辛い所だ。十五分に渡るランニングの代償である、額から流れる汗を手の甲で拭いながら、アドレイは目の前の男がその姿の意味に気付いて、温情を働かせてくれる事を願った。送風機の緩やかな風通りでは、この汗は暫く引きそうにない。

 注文を取りにテーブルへと向かいかけてきたウェイトレスに、目の前の男のグラスを指差す。指差してから思い出し、チョコケーキは要らないと訂正しようとしたが、ウェイトレスはもうアドレイに背を向けていた。厨房へ入っていく後姿を目で追っていると、男がようやくアドレイに話しかけてきた。

「プレゼントは」

 アドレイが引き渡す品の事だ。

「ああ、これだ」

 アドレイは上着の胸ポケットのボタンを開き、中から薄い銀色のプレートを取り出してテーブルに置いた。ロッディが持っていた、何かに使う物だ。詳細は知らない。

 アドレイの仕事は、ロッディという男を始末して、彼の持っている銀の薄いプレートを取り、この男に渡すまでだ。普段の仕事と同じく、それが何に使われるか、どういう意味を持つのか等は知らされない。もしかしたらヒラリーは知っているのかも知れないが、アドレイは別段知りたいとも思わない。

 自分が汚れ仕事をしている自覚はあるし、多くの事に意識を割ける程器用でもないと思っている。服飾店の店員が、閉店時間と共に客を放ってさっさと店じまいを始めるように、アドレイも自分の受け持ち以外の部分には関わらない。

 茶髪の男はプレートを手にとって、それをじっと見つめ始めた。アドレイはその時、テーブルの上の男の左手が、緑色の石を摘んでいる事に気付いた。複数の相手と同時に会話が可能なタイプの通信石だ。

 男がプレートをテーブルに戻した。

「始めに確認なんだが……俺達の仕事ってのは信用と沽券で成り立ってる」

「……は?」

 唐突な切り出しにアドレイは返事が出来ない。男は独り言のように呟いて、感情の読めない目線もテーブルのチョコケーキの辺りに固定している。自分への言葉なのは分かっているが、返事をするべきなのか、聞き続けているべきなのか判断出来なかった。

 迷っている内にまた男が口を開いた。

「前提の話だよ。今時は時代がさっさと人間を置き去りにしてどんどん進んでいっちまうんだが、俺達はなんというか、昔気質っていうのか?古臭い価値観の下で生きてるらしいな。約束はぴしっと守り、嘘はつかない。仕事に問題が起きた時はきちんと頭を下げて、失敗を取り返す。俺には当たり前の事に思える事ばかりなんだが、今は違うみたいだな」

 ここでようやくアドレイは、男の言わんとする所を察した。

「約束の時間に遅れて、本当にすまなかった。俺の相棒が説明してくれたと思うんだけど、トラブルが発生してしまって、取り返すのに時間が必要だったんだ」

 再度、アドレイは謝罪した。今度は表情を引き締め、視線の合わない目の前の男を直視して。

「許してくれ」

 ヒラリーの言葉が頭の中で微かに響いた。

――今回はマジにやばいんだから

 正直な所アドレイにその実感はない。今この状況においても、アドレイの頭の大部分を占めているのはツインテールの彼女の事だ。しかし彼女の情報をヒラリーから教えてもらうには、まずこの仕事を完了させなければならない。

「許すさ、ああ」男が小さく頷いた。

「何しろ一番厄介な部分はきっちりやってのけたんだからな。ヴェスティアの、しかもレノックスのど真ん中で、マークされてる運び屋をこっそり片付けるなんて、中々出来る事じゃない。俺達じゃ厳しいと判断したから依頼を出したんであって、その点は流石だよ」

「そう言ってもらえると助かるよ。昔っから、影が薄い事だけが取り得だったもんだから。これが取り得になる日が来るとは思いもしなかったけど」

「謙遜するな。影が薄いなんて程度じゃとても出来ない事だ。お前はプロだよ」

「いや、うん……ありがとう」

 答えながら、アドレイはこの会話への根本的な疑問がぶり返してきた。つまり、この男は何が言いたいのだろう、と。

 緩慢に回り続ける天井のファンの音が、静かな店内の空気を揺らす。

「あの……それで」

 アドレイはテーブルの上で放置されている銀のプレートを、視線で指した。

「受け取ってくれるんだろう?」

「これじゃない」

 素っ気無い一言の意味を、アドレイは少しの間考えた。分からない。

 開け放たれた窓から店内に入る、遠い表通りの音が、二人の間に暫く流れた。

「……え、どういう事だ。ちょっとよく……」

「これじゃない。間違えたんだよ、お前。見ろ、ここ」

 男はプレートの表面下部を指差した。ダイスとカードとボールのエンブレムに、レノックスという彫り込み。

 アドレイの脳内を、急速に血液が循環する。引きかけていた汗が一気に額に浮かび、しかし背筋には氷の芯を突き刺されたかのような寒気が走る。

「これはルーレットの商品交換用の札だ。俺が受け取る筈だったものは、倉庫の鍵だ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。鍵だって? 俺は最初から銀の……」

 男がプレートに向けていた人差し指を素早くアドレイに向け、ゆっくりとその角度を上げていった。アドレイは大きくなりかけていた声を小さく抑えて、抗議を続けた。

「俺は銀の札を持ってくるように言われてたんだ。鍵だなんて聞いてない」

「そうだ、銀の札だよ。それは合ってる。知らないのか? ヴェスティア湾岸区の貸し倉庫は、鍵がこんな感じの銀色の札なんだよ」

「だ、だったら」

「お前に落ち度はないって? ここ見ろよ。レノックスって彫ってるだろ。何日も前から依頼されてた仕事が、当日運良く当たった物を取ってくる事だと思うのか」

「対象が俺に知らされたのは昨日の夜だよ!」

「それは対象の名前がであって、仕事自体はもっと前から依頼してただろ」

「それは……」

 アドレイは言葉に詰まった。確かに、これがルーレットの交換札だと分かっていたなら、持ってはこなかった。

 だが一方で理不尽さも覚える。今回の仕事は最初から奇妙だった。アドレイは誰を始末するのか直前まで知らされず、昨日の夜突然に相手と、相手の居場所を教えられた。恐らくそれは、仕事を受けてアドレイに伝えるヒラリー自身もそうだったのではないか。何日も前からロッディの事を知らせてくれていれば、もっと仕事のし易い環境だってあったかもしれない。

 しかも言葉の上で見た時、アドレイは確かに仕事をやり遂げているのだ。彼の仕事は間違いなく「ロッディを始末して、銀のプレートを持ってくる事」だったのだから。額の汗が、眉間から鼻筋を通って頬から顎まで滴り落ちる。先程まではドレスの彼女を思うばかり、半ば麻痺していた思考も、今となってはこの上なく正常に事態を把握していた。

 つまり、これは間違いなく危機的状況だ。

「それは、そっちの事情っていうか……俺は銀の札を持って来いとしか言われていない訳で……それに、人が多いホールの中で、しかも多分監視も付いてた奴を片付けて、持ち物を取るのに、そんなのいちいちチェックする余裕なんかないだろう。こんなの事故だ」

 何か言わなければならない。その一心から出た言葉であったが、言いながらもアドレイは、自身の非を内心で自覚していた。それは無論、ロッディから目を離していた二時間弱だ。ブラックドレスの彼女を探していた時間を、本来の目的通りに使っていれば、この事態は防げた可能性がある。

 一階のルーレットのレイアウトテーブルでは、流石に殺す事は不可能だっただろうが、ずっと見張っていればロッディがルーレットを当て、商品交換用のこのプレートを受け取る瞬間も確認出来た筈だ。

「そうだな。まあ、これはかなりレアケースだ。事故とも言えるよな」

 茶髪の男は、どうでも良さげな無表情で、アドレイの言葉に頷いた。さも、そうとは思っていないと言わんばかりだ。

「でもな、事故だったからしょうがない、って訳にいかないのが仕事なんだよな」

「そんな事言われても、俺は頼まれた仕事はやった訳で……」

「そういう理屈が通じる業種じゃないだろ、俺等」

 アドレイの言葉を、男が鋭利な声音で遮る。

 ヒラリーは今回を、絶対に失敗出来ない仕事だと言っていた。余程大物からの依頼なのだろう。ドットガル出身のならず者達なら誰でも、そういう怒らせてはいけない人物を一人は知っている。彼等の怒りを買った代償は、一つしかあり得ない。

 無機質な現実が、アドレイの目の前を塞ぎ始めていた。これではブラックドレスの彼女に思いを伝えるどころではない。今すぐにでも、生命の危機が訪れる可能性がある。アドレイは動揺のままに視線を泳がせる。汗が一層噴出す。

「でもお前は運が良いと思うぜ。挽回のチャンスがまだあるからな」

「チャンス?」

 男は勿体つけるようにフォークでケーキを一口食べると、アドレイをねめつける。食べ物のせいでいまいち迫力に欠けるが、緊張は高まる。

「誰が持っていったのかが分かってる」

「えっ?」

「誰が、俺達の欲しがってる、お前が持ってくる筈だったプレゼントを今持ってるのか、分かってる」

 男が左手の指で弾いた紫色の小石が、テーブルの上を転がる。映像記憶装置だ。魔力波を七色にコントロールし、出力する事で、予め撮影しておいたものを表示出来る。

 男の視線を気にしながらもアドレイが指で触れると、アメジストの中に込められた術式が反応し、周囲の魔力元素が色調変換されて、テーブルの上にやや色合いの悪い静止画が映し出された。場所はカジノホールの二階階段付近。俯瞰で多くの客が映されている中、画像中央の人物が赤丸で囲われている。

「なっ」

 そのマークされている人物を見て、アドレイは思わず椅子から立ち上がりかけた。

「同業者だろうな。そいつは警備隊の包囲網を掻い潜って、今は市内を逃亡中だ……何だ、知り合いか?」

 男の説明や質問も碌に頭に入ってこない。

 ほぼ黒一色のパーティドレスと長い二房の金髪。

「おい」

「い、いや……知らない」

「そんな顔付きじゃあないぞ」

「本当に、本当に知らないんだよ、何も」

 そう、アドレイは彼女について何も知らない。だから知りたかったのだ。これから、少しずつ知っていきたかったのに。

「まあどっちでも同じだ。そいつは今警備隊に追い回されてる。情報は流してやるから先回りしろ。もうやる事は分かってるな」

 荒い画像からでもはっきりと分かる、見間違えようのないその顔。瞼の裏に焼き付けた、場違いなまでに生き生きとした少女のようなその表情。二時間前に、アドレイの時間を停滞させた張本人。

「いや、でも……」

 心臓が一気に鼓動を加速させ、呼吸が乱れる。彼女だ。

「待ってくれ……」

 例の彼女が、赤丸に囲まれている。

「これは何かの間違いじゃないのか?彼女は……何かの手違いで追われてるだけで、ただの一般人なんじゃ……だってほら、見てくれよ」

「画像は俺にも見えてるよ」

 テーブル上の半透明な画像は、色調変換コードが暗号化されていて他人からは見えないが、この男は先程から記録装置に触れていたので、コードの解析パスが視覚に届けられている。

「動きにくい格好してるし見た目も派手だ。だろ? 同業者には全然……」

「こいつがヴェスティア警備隊に通せんぼされた出入り口を力尽くで突破して、カジノを出ていかなきゃ俺もそう考えたよ」

 男の言葉に、アドレイは絶句する。一般人には絶対に出来ない事だ。ヴェスティア警備隊員が相手では、アドレイとて、正面から対決すれば勝てる気がしない。そんな事は、戦闘のプロでなければ絶対に出来ない。勿論、テーブルの上に映し出された彼女が成し得たなどと言われても、信じる事は出来ない。

「嘘だろ?」

「大マジだ」

 思考が上手く纏まらない。

 ウェイトレスがケーキセットを持ってきて、アドレイの前に置いた。「ごゆっくりどうぞ」彼女の目には、テーブル上の画像は見えない。

 場所を奪われて一瞬歪んだ記録画像が、すぐにケーキの上に映し直される。半笑いのまま画像を見つめるアドレイの瞳には、やはり思い人が映っていた。

「食ってる暇はねえぞ」

 男が自分のフォークでドレスの彼女を刺して、その下のケーキを丸ごと自分の皿へ移した。元々食べる気などなかったが、何か言葉を探す為に空になった自分の皿を見る。フォークがない。

 同時に届けられたアイスティを、アドレイは手に取った。

「走ってきたんだ。飲み物位飲ませてくれよ」

 事実アドレイの喉はカラカラに渇ききっている。

 目の前の取引相手がアドレイに与えたチャンスとは、正確に言えば命令であり、その内容はアドレイにとって絶望的である。要するに、彼女を殺して鍵を取り返せと言う事だ。

 どうすればこの状態が好転するのか、まるで思い浮かばず、とりあえず時間稼ぎをしてしまう。

「おいおい暢気だな。俺がお前なら今すぐにこれを持って店を出るぜ」

 男は指で緑色の通信石を弾いた。大振りのエメラルドがテーブルの上を軽く跳ねて、アメジストに当たった。

「この女はもしかしたらこのままヴェスティアの外に逃げ切るかも知れないんだ。そうなったらもうプレゼントは届かねえ。ここは四大国の中継点なんだ。どの国へだって行ける。それがどういう事か分かってんのか?うちのボスがドエラいカンカンになるんだ。そうなったらお前は終わりだ。勿論俺も終わり。関わった全員が終わりだ」

 怒らせてはいけない相手を怒らせた代償は、一つ――

「行くよ。行くって、すぐ。でも」

 アドレイは一息にアイスティを飲み干してグラスを置く。こめかみに刺すような痛みが走る。

「っ……っでも、要するに鍵を取り返せばいいんだろ? それ以上は別に必要ないよな」

 男が不思議そうに眉を片方だけ上げた。

「お前何言ってんだ」

「だってそうだろ。ただでさえ警備隊に追われてるって奴をさ……その、やっちゃったら騒ぎになるだろうし」

「沽券の問題だよ。俺等のボスの邪魔をしたこいつがのうのうと生きてたら、俺達みんながナメられるだろ」

「そんな事はないと思うけど」

 男の双眸が不意に不穏な色を放った。

「お前が思うかどうかは関係ねぇんだよ。お前、なんだやっぱりこいつの知り合いなのか」

「違うよ。何でそうなるんだよ」

「だったらやれよ。関係ないんならよ。さっきもやってきたばかりだろうが。つうか他にどうやって取ってくるんだよ」

「スるとか、話して交渉するとか……」

「向こうが何が何でも渡さねえって言ったらどうする。警備隊とやりあえる奴と、正面からやりあうのか?この祭りでごった返してる最中に? そんなやり方でいいなら失敗したお前をぶっ殺して俺達が総出で取り返すんだよ。お前はこっそり仕事をするプロだろうが。こっそり近づいて、先制の不意打ちで取り返してこい」

「いや、そうなんだけどさ、でも」

 動揺のままに目を泳がせながらアドレイは何とか打開策を模索する。

 この仕事を断る事は出来ない。アドレイ自身が命を狙われる事になるし、アドレイが断ったからといって彼等が鍵を諦める事は絶対にない。違う誰かに彼女の始末を依頼するか、さもなくば今の宣言通り、何振り構わず自分達で実行するだろう。

 アドレイが受けて、彼女を殺さずに済む方向に持っていくしかない。

「でもやっぱりさ。穏便に済むのが一番だし、俺が交渉してみるからさ。任せてくれないかな」

「それじゃ駄目だって今言ったよな」

「君のボスが誰かは知らないけど、女を一人見逃したってナメられたりしないよ。

むしろ心の大きな人なんだって、俺ならそう思う」

 視界の端に、カラトリーケースとその中のフォークやナイフが見える。

「おい、時間がねえんだよ。女は今も祭でごった返す市内を逃げ回ってて、俺等も先回り出来てねえ。始末するってのは勿論だが、警備隊が捕まえるより先にって条件もついてるんだ。じゃなきゃ鍵は押収されんだからな。お前はそんだけ面倒なヘマをやらかしてるんだよ。なのに何をグダグダ文句言ってんだ」

「文句じゃないよ……鍵の入手法をほんの少し変えたいってだけでさ」

「こいつは俺達の獲物を搔っ攫った上に間違いなく同業者なんだよ。つまり完全に狙いも俺達と同じなんだ。見逃せる訳ねえしそもそも交渉で片が付く訳ねえだろうが」

 アドレイはテーブルの上の銀のプレートを指差した。

「俺と同じようにさ、勘違いしたんじゃないかな。彼女はこっちが欲しかったのかも」

 窓は開け放たれていて、表通りの活気が右側から聞こえてくる。

「埒があかねえな」

 男の声のトーンが変わった。アドレイの心臓が一層跳ねる。

「つまりお前、やる気がねえんだな? やらねえって言うんだな」

「そうじゃないって! ちょっと落ち着いてくれよ、だからさ、別にそうじゃ……」

「いや、もういい」

 断定的な強い口調。男が左手の中の通信石に親指をつける。仲間と通信を取る――

 極度の集中がアドレイの周囲の時間を遅らせる。色彩が失われていく。音が遠ざかっていく。

 男の口がゆっくりと形を変え、その瞳が黒く塗りつぶされていく。

 不味い、と頭の中の冷静な部分が叫んだ。アドレイの手が、無意識にカラトリーケースへと伸びる。弛緩した時の中で、アドレイの体が自動的に動いていく。

 止めなければ、と冷静な声が頭に響いた。

 この男はアドレイとの話を終えようとしている。仲間と連絡を取るその意味は、つまりアドレイの提案の却下を意味している。自分達だけで鍵を手に入れる気だ。

――あなたみたいな奴って、長生き出来ないのよ。

 と、よく知っている女の声が、耳の奥で鳴った。

 男の瞳がゆっくりと、大きく見開かれていく。まるで驚いているように。墨のような飛沫が男の顔の左側を汚した。アドレイには、男が顔を汚された事に驚いているように見えた。

「あ」

 と間抜けな声を出した時、時間の流れが、失くしていた色や声と一緒に戻った。

 男の首元から鮮血が噴き出して、周りを赤く染めていく。理由はすぐに分かった。自分の右手がナイフを握って、今まさに血が迸る男の首の横にあったのだから、一目瞭然だ。男が慌てて左手を首に当て、噴き出る血を抑える。握っていた通信石がテーブルの下へと転がり落ちた。アドレイはつい仕事上の習慣で、そのまま男の喉仏の上へナイフを刺し込んだ。止めの一撃。

「やっば……」

 アドレイの呟きと同時に男が前のめりにテーブルに倒れこみ、椅子の蹴倒される音が大きく店内に響く。目の前と、そして自身の後方から。

 アドレイは振り返る事なく窓から外に飛び出て、路地を走り出した。男達の怒号とウェイトレスの悲鳴が、窓の内側から聞こえてくる。ついで、複数の足音が追ってきた。

 石畳の裏路地を、アドレイは表通りへと駆け抜ける。後ろを振り返る余裕はない。足音の正体は入り口付近に座ってカードゲームをしていた三人組だ。監視されていた。アドレイは最初から信用などされていなかったのだ。裏切りに備えられていた。

 しかしアドレイが逃げ出す事は想定していても、まさか取引役の男を殺して逃げるとまでは想定していなかったらしい。アドレイもまた、そんなつもりは無かったのだからおかしな話だ。

 止めなければ、と思っただけだ。アドレイは目の前の男の通信を止めたかっただけなのだ。

 必死に足を動かしながらも、アドレイの脳内では一つの言葉がクリスタル製ファンのように高速で回り続けていた。

 何でこうなったんだ?

 いつものようにヒラリーの口車に乗せられて仕事を引き受け、ヴェスティア観光を一日ばかり楽しんだ後、

カジノのど真ん中でいつもの仕事を済ませて、全力で走ったりもして荷物を指定の場所へ届けた。ただその途中、電光石火の恋をしただけだ。それだけで何故こうも予定が狂ってしまったのだろうか。

 表通りへ出て、人波を泳ぐように走り抜ける。背後からの気配は未だにアドレイを追ってきている。相手もその道のプロだ。簡単に振り払う事はできない。それも、彼等のいう所の沽券がかかっているのだから、諦めてくれる事にも期待できない。

 夏の、祭日の、人混みの、通り一帯の白壁に反射された太陽光の熱気が再びアドレイを包み込む。緊張のせいか、疾走のせいか、心臓は既にこれ以上ない程の速度で脈打ち続けている。

 とにかく今は逃げ切る事が先決だ。隠密行動、奇襲、不意打ちに長けるアドレイであるが、正面戦闘の技術は一歩以上劣る。つまり立ち止まって追手を撃退するという選択はあり得ない。そもそもが門外だ。

 裏稼業に手を染めておきながら――しかも殺しを引き受ける事が多々ありながら――アドレイは荒事が不得手なのである。栄えあるドットガル帝国軍官舎ではなく、スラム街路地裏の酒場に身を置くのには、相応の理由があるという事だ。

 理性的に動くなら、ヴェスティアを出るしかない、今すぐにも。だが、それは出来ない。一刻も早く脱出しなければならないこの街に、しかし留まらなければならない理由がアドレイにはある。

 ブラックドレスの彼女だ。今ヴェスティアを逃げ出せば、再び出会えるとは思えない。彼女が自分と同じ裏稼業の人間である可能性は出てきたものの、ここは四大国の中継地なのだ。おまけに慰霊祭の真っ最中でもある。彼女はいつまでもこの街に居てはくれないだろう。

 更に言えば、今や彼女はある種警備隊より厄介な連中に命を狙われていて、しかもその事を知らないのだ。警備隊に拘束されるにしろ、そうでないにしろ、彼女は今絶体絶命の只中にいる。

 アドレイはあの日から変わった。諦める事に逆らうと決めた。自分で嫌になる程の半端者だと自覚しているが、恋愛に関してだけは、何が何でも諦めないと誓ったのだ。そう、それはつまり、幸せになる事を諦めないという彼なりの決意。惨めでしみったれた、汚泥のような毎日から抜け出して、自分を愛してくれる、愛する人と共に笑って生きていく。

 そのチャンスが今、目の前に有るかもしれない。それは今、ウェスティアを逃げ出せば永遠に手に入らない。ならば、逃げ出す事は出来ない。

「ヒラリー……」

 情報が必要だ。彼女に関する情報が。アドレイは胸ポケットに放り込んでおいたルビーを取り出そうとして、左手の中に小振りな丸石の感触がある事に気付いた。握りを開いてみれば、それはカフェで殺した男から投げて寄越されたエメラルドだった。

 手癖の悪さに自己嫌悪してしまう。次いで、その意味する所にアドレイの焦燥は一層高まった。

「まっずいぞ……」

 通信石の中には、自身の位置情報を親の石に伝える機能が付いている物がある。彼等の使用用途を考えれば、付いていると考えるべきだ。

 すぐさま投げ捨てようとして、しかしアドレイはそれを寸前で踏み止まる。位置情報機能はそれほど精密ではない。しかも、今は慰霊祭で人だらけだ。位置情報を発信するリスクさえ容認すれば、この通信石は、アドレイに彼等の持つ情報を届けてくれる。多人数連絡用のこの通信石には、特定の一つにだけ送受信をカットするような機能はない筈なのだ。凡その位置を伝える為、石を持っている限り追手を振り切る事は叶わないが、現状を踏まえるとこれは得な取引に思えた。

 アドレイは改めて胸ポケットからルビーを取り出した。まずはヒラリーからの情報が必要だ。

「ヒラリー?」

『ああ、アドレイ……』

 心底安堵したような相棒の声が耳に響く。

『仕事は終わったのよね、そうでしょう?』

 彼女の問い掛けは、まるで懇願のようでいて、その実一つ以外の返事を断固として許さない圧力のようにも聞こえる。

「ああ、荷物は届けたよ」

 アドレイは真実だけを伝えられるように言葉を選んだ。

「さあ、約束だ。ブラックドレスの彼女の事を教えてくれ。今どこにいるのかを」

『ああ、ええ。ツインテールの女ね』

「そう、ブラックドレスに、金髪の彼女」

『ブラックドレスに金髪の、ツインテールの女ね』

「そうだよ、ツインテールの!」

『そう、その彼女なんだけどね、アドレイ』

 ヒラリーがさも言いにくそうに言葉を濁す。無駄な焦らしに焦燥が高まる。一刻を争う状況だ。

「まだ見つけてない?いや、見つけてる筈だ。さっき仕事を終えたら教えるって言ってたじゃないか」

『仕事を終えないと教えないって言ったの』

「同じ意味だろ?ヒラリー、まさか君、本当に彼女を見つけてないの?」

 人混みをすり抜けながら、殆ど怒鳴るように会話を続けるアドレイへ、周囲から迷惑げな視線が向けられる。だがそれも一瞬の事だ。すれ違う誰もが、ほんの一瞥の後に、すぐさま彼を忘れたかのように振る舞う。アドレイという人間は、大声を上げて通りを走っていても、存在感を示す事が出来ない。

『そうじゃない。アドレイ……見つけてはいるのよ。でもちょっと、そのツインテールの彼女、問題があるっていうか』

「約束だろ!」

『追われてるのよ……ヴェスティア警備隊に!なんというか、この女に関わるのは良くない。だってそうでしょ、貴方も今、警備隊とは出来るだけ距離を置いたほうが無難な身なんだから』

「俺も警備隊に追われてるの?今」

 そうであればこれ以上ない絶望的な状況だが、聞き返すアドレイの声音にはどうしても一握りの期待が混じってしまう。

『いえ、貴方は追われてない。見つかってないわ』

「……だよね」

 芥子粒のような期待は当然のように吹き飛んでなくなった。

『でもこのツインテールに告白するのは無理よ。一緒にいる所を逮捕されれば、後の調査で貴方の仕事が発覚しかねないし、追われる身でナンパを受けようなんて思う筈ないし。第一この女、今市内を逃げ回ってて、一か所に留まってないのよ、全然』

 予想通りの答え。逃げているのだから、動き続けているのは当然だ。

「行動を予測して先回りとかできないかな。彼女の目的とか分からない?」

『……そういう情報を買うのって高いのよ?分かってる?』

「そんな事言わずに、頼むよ。俺の取り分から引いていいから」

 はあ、と溜息の音。

『ちょっと待ってて。追加料金払わなきゃいけないんだから……』

「それって誰に頼んでるの?俺が直接相手に依頼して、支払っても……」

『無理よ。貴方、合言葉知らないでしょ』

「君が誰に頼んでるのかも分からないのに、答えようがないよ。っていうか、合言葉教えてくれればいいじゃないか」

『無理よ。ヴェスティアで誰に頼めばいいかを分からない時点で無理。合言葉だって、一つ教えただけじゃ意味ないの。その後の会話全部、相手の指定した暗号で答えるんだから』

「……そりゃ無理かもね」

 真夏の大通りを、追手から逃げつつ言い合うのには限度がある。アドレイは黙り込んで逃走に専念する。合言葉。嫌な思いがじわじわと胸の内に広がっていく。

 もう4時を半ばは過ぎたというのに、太陽の位置は季節を象徴するように高く、日暮れはまだ遠い。呼吸が熱い。つい先程飲んだアイスティは、とうに全身から滲み出てしまったようだ。

 このまま、何一つ達成出来ないまま、男達に捕まり殺されてしまうのではないか。そんな一抹の不安を、カジノで見た横顔を思い出して振り払う。諦めない。どれだけ惨めに這いずってでも、まだ出来る事があるのなら。

 程なくして、ルビーから手の平に微かな振動が伝わった。着信。

『分かったわ。あの女は今夜の湖上遊覧船に乗る予定よ。ついでに名前はカーラ・ニーセット、偽名だろうけどね』

「湖上遊覧船?あの金持ちとかが乗るやつ?」

『そうね。少なくともそういう届けでヴェスティアに入ってる』

 アドレイの中に新たな疑問と混乱が生まれた。警備隊と正面から渡り合える、富裕層の、スリ……

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。何でそんな船に乗るような人が……」

『警備隊に追われてるのか、でしょ。私も気にはなったけど、でも別料金なのよ、それ』

「そんな、ヒラリー……」

 頼むよ、と言いかけてアドレイは気付いた。ヒラリーはその理由を知らない方がいい。

『……しょうがないわね。でも、もう一度確認するけど、高いのよ情報って。貴方の取り分から引くわよ、いいのね?』

「いや、そうだな。その情報はやっぱりいいよ。大丈夫」

『えっ?』

 ブラックドレスの彼女が追われている理由は、超高確率でロッディ絡みだ。そうなれば必然的に、アドレイの仕事が問題のある終わり方をした事にまで辿り着かれてしまう。アドレイが知りたいのは彼女が現在追われている理由ではなく、彼女の存在そのものなので、「何故警備隊に追われているのか?」はわざわざ聞く必要がない。

「理由がどうであれ、彼女が遊覧船に乗る予定って事が分かったんだ。ならやる事は変わらないよ」

『そうかも知れないけど……追われてる理由によっては、船に乗らないんじゃない?予定を変更するかも知れないわよ』

 ヒラリーの尤もな指摘に言葉が詰まる。本当にその可能性もあるのだ。カーラが、彼女が何者かがはっきりしない限り、湖上遊覧船が彼女にとって必要不可欠な目的なのかも分からない。

 君は何者なんだ。

 アドレイの意識が、ヒラリーとの通信の際に交換で仕舞い込んだ、胸ポケットのエメラルドへ向く。カーラ・ニーセットを追っているのは警備隊とアドレイだけではない。アドレイの仕事相手、最早関わってはいけない彼等の情報を盗み聞けば、新たな何かが分かる可能性はある。だが……合言葉……

『アドレイ?聞いてるの?』

 暫し黙り込んだアドレイにヒラリーが声をかけてくる。いつもの事だ。アドレイは意識を一旦ルビーに戻す。

「ああ、ごめん聞いてるよ」

『本当?まあ貴方が必要ないっていうんなら、私はいいけど』

「うん、それでさ……」

 と、その時、不意にアドレイの右側から風の吹きこむ感触があった。それは「嫌な気配」だとか「直観」というようなモノだったのかも知れないし、或いは物理的に風が流れたのかも知れない。そのどちらだったにせよ、アドレイは反射的に足を一歩引いて、その風を避けた。

 そして避けてから、この人混みを掻き分けて走っている状況で、横から風が吹き込む意味について考えた。そして視線を落とす。

 ナイフ。

 刃渡り15センチ程のナイフと、それを握る武骨な拳が、アドレイの腹のすぐ前に右横から突き出されていた。

 驚愕の声を出す余裕さえなかった。ナイフはまるで蛇の舌のように滑らかに、俊敏に人垣の中に引っ込んでいき、すぐ様アドレイに向けて突き出されてくる。

「うっ……わっ……」

 まるで通行人の壁から、ナイフを握った腕だけが生えてきているかのような状態だ。左へ飛び退こうとして、人の波にぶつかる。満足に距離が取れない。

「ちょっ……」

 ナイフがアドレイの腹部を目掛けて一直線に突き出される。避けられない――

「いやっ、まっ」

 アドレイは寸前で、その汚れ仕事に慣れきっていそうな拳の手首を掴んだ。そのまま、包み込むように両手で相手の拳を握り、手首を固定したまま内側へと捻る。人体の関節の仕組みから、拳が開き、アドレイはすかさずナイフを奪う。ついでに、刃を手首に押し付けた。得物を奪われて焦った腕はその事に気付かず、先程と同じように素早く人垣の中に引っ込んでいき、手首から血飛沫を撒き散らした。

 それまで眼前で行われていた暴力に全く気付かなかった観光客達が、自らの衣服に血がかかる事で急速に事態を把握していく。笑顔と活気に溢れた中央市内大通りに、悲鳴が上がった。

「やばい、やばいやばいやばいっ……」

 口の中で呟きながら、アドレイは立ち止まり混乱する人々の合間をすり抜けていく。奪ったナイフは咄嗟に上着に隠したが、男の手首を切った際に僅かに返り血が飛んでしまっている。逃げ出した後方から次々と声が上がる。

「血だ!うわ、あんた大丈夫か」

「おい、動くなって!死んでしまうぞ」

「切られてる……警備隊を呼べ!」

 混乱は瞬く間に周囲に伝播し、先までとは別種の騒がしさが充満する。何が起きているのか分からない距離であっても不安は伝わるのか、幼子が泣く声まで混じっている。市場は騒然となった。

「すみません、ちょっとすみません」

 尚一層停滞する人波の中を、アドレイは流れに逆らうように進む。悲しくなるほどに、誰も彼の事を気に留めない。それは今この場において明らかに強力な利点なのだが、アドレイは素直に喜べない。

「いや、そんな場合じゃない、そんな場合じゃないよ。ヘコんでる場合じゃない。なんだよあれ。こっそりやるとかいって白昼堂々じゃないか。もうなりふり構わずってこと?」

 人目をまるで無視した追手の襲撃に、今更ながら戦慄する。あれが続くようでは、自身の位置を伝え続ける通信石を持っておく訳にはいかない。

 競歩のような早足でアドレイは通りの端へ向かう。この状況では、身動きの取れない人混みの只中はかえって危ない。

『アドレイ?聞いてる?』

「あ、ああ。聞いてるよ聞いてる。大丈夫」

『大丈夫って、なにが?』

「だから、その情報は買わなくて大丈夫って事」

『それは分かったけど……貴方、どうしてそんなに息が荒いの』

 アドレイは大きく息を吸い込んで、出来るだけ落ち着いた声音を出した。

「そりゃあ……この天気の大通りを、走り続けてたからだよ。だって時間が危なかったじゃないか。君が走れって言ったんだろう」

『そうだけど、それってもう20分くらい前の話じゃない』

「全力疾走だったんだよ。暑いし、まだ肺が疲れてるんだ」

 一旦ルビーから親指を離して、アドレイは深呼吸を繰り返す。ヒラリーの耳聡さは頼もしくもあるが、大体の場合厄介だ。

 左から、風――

 アドレイは瞬間的に目を走らせ、自分に襲い来る刃を躱すと、その持ち主へと間合いを詰めた。一見無害そのものといった風貌の、サウインファッションの男が、はっと目を見開いてアドレイと視線を結ぶ。

 通りの端側へ移動した事で観光客の密度は幾分か減っており、それはアドレイの視界不良と行動制限を劇的に緩和していた。距離を詰められた追手の男が、大慌てで次の一撃を繰り出そうとするが、間に合わない。アドレイは躊躇なく相手の股間を膝で蹴り上げ、痛みに腰を折り曲げたせいで突き出された喉へ、周囲の露店から拝借した木串を突き刺した。喉を貫通し頚椎へ挟み込まれた異物が、男の動きを止める。

 そのまま前のめりに倒れこむサウイン風の男をするりと避けて、アドレイは通りを曲がって小路に入った。咄嗟の対処だったので止めを刺せていない恐れもあるが、ナイフで首を刺せば今し方の比ではない量の血が通りに噴き出す事になる。返り血を考えれば、上着のナイフは使えない。

 間も無く新たな悲鳴が表の通りに響いた。アドレイは胸ポケットからエメラルドの通信石を取り出す。ブラックドレスの彼女、カーラ・ニーセットへの情報源を失うのは痛いが、このままでは命が夕暮れまで保たない。捨てるべきだ。分かっていても、踏ん切りがつかない。

『そうね。でもそれって貴方が原因でしょ。わたしのせいで時間カツカツだった訳じゃない』

 非難がましいヒラリーの反論。

「そうだね。だから別に君に不満がある訳じゃないよ。そんな事言ってないだろ」

 疲労と焦燥から、つい口調が攻撃的になってしまう。ヒラリーが黙り込んだ。何かフォローの言葉を足そうかとも思ったが、今はアドレイも相棒のご機嫌取りに割く脳内容量がない。

 捨てる前に何か少しでも情報を、とエメラルドに指を付けると、散発的に男達の意味不明な言葉が飛び交っている。予想はしていたが、暗号会話だ。アドレイにはまるで理解出来ない。何らかの会話の体をなしているなら翻訳も試みる気になるが、「ドラゴンの肝臓」だとか「甥っ子の反抗期」だとか「峠岬から心中」と言ったそもそも意味の分からない単語がただ一言呟かれるだけなので挑む余地すらない。

「ほらな……こういうのばっかりなんだよ、いつも……」

『はあ……もう、しょうがないわね』

 耳元へ流れ込む魔力波が混線し、軽い耳鳴りがする。ヒラリーとの通信に使っている石はあまり質のいいものではない。同時に別の通信石を使用していると、送受信する魔力波を間違えてしまったり、壊れてしまう場合もある。アドレイは慌ててエメラルドから指を離した。

「え?何が?」

『今回だけよ、アドレイ』

 ヒラリーの声が、心なしか先程より弾んでいる気がする。

「何がだよ……え、どういう事?」

 祖国ドットガルのそれとは比べようもない、小綺麗に清掃された裏小路をアドレイは走り抜ける。エメラルドの通信石は脇に並ぶ植木鉢に放り捨てた。

『今日の仕事は、まあ、バッチリって訳じゃなかったけど、やっぱり貴方だからこそ出来た事だもの。いいわ、この情報は奢ってあげる』

「いや、いいよ!」

 アドレイは思わず声を張り上げた。

『……アドレイ?』

「いや、やっぱりほら、君あってこその仕事だったしさ。今回は迷惑かけちゃったし、この先も迷惑かけちゃう事もあるだろうしさ」

 不審げに声を潜めるヒラリーへ、周囲を見回しながら説明を付け加える。大声は不味い。

「お互い様だよ、ヒラリー」

 人気のない裏小路では、音がよく通る。幸い今の大声に反応はなかったようで、アドレイは安堵の息をついた。殺してしまった仕事相手から渡されていたエメラルドを捨てた今、アドレイの位置情報は彼等に伝わらない。適当に裏道を経由して、再び大通りの人混みに紛れれば、追跡を振り切る事が出来るかも知れない。そうでなくては困る。

『ふうーん、他の女の尻を追いかけながら、そんな事も言えちゃうんだ』

 ヒラリーの声は妙に楽し気で、ただでさえ余裕のないアドレイは言いようのない不安に駆られる。

「いや、だからさ、これは仕事の話で……」

『分かってるってば。ほんの冗談。あなたの恋路に割り込もうなんて考えてないよ。これはビジネスパートナーへの、敬意を込めた贈り物、日頃の感謝ってやつね。ま、日頃の感謝はむしろあなたにして欲しいんだけど』

「してるよ、いつも君には感謝してる。いや、そうじゃなくて、ヒラリー、その情報は本当に……」

『そう?だったら今度、このお返しにドットガル百選十番以内のお店でディナー奢ってよねっ』

「いいけどさ、お返しとかじゃなくって普通に奢るからさ!ヒラリー」

 小声で必死に呼びかけるアドレイを半ば無視するように、ヒラリーからの応答がなくなる。

「うそだろ、おいおい……」

 病的に周囲を見回しながら、アドレイは足を止めずに呟く。

 君ってば、何で時々そうやっていいお姉さんぶるんだよ。大抵いつも裏目に出てるだろ?

 視線を感じて顔を上に向けると、並ぶ白壁の家々の窓の一つからこちらをじっと見ている男と目が合う。男が窓の縁際に身を隠すように移動し、小さく口を動かしている。監視――

「見つかってるじゃないか……!くそっ」

 猶予はない。

 アドレイは意を決して再び大通りへと走り出す。危険だが、張り付いている監視を振り切りたいならやるしかない。小路から大通りへと足を踏み入れるその瞬間、左右から伸びる手。

 集中力が時間を遅延させる。自身へと向かってくる両方向からの腕は、どちらかしか躱せない。どちらも躱せる体運びはあったのだろうが、既に大通りへ一歩踏み出しかけているアドレイには選べない。今アドレイがどれ程時間を緩慢に感じていても、実際の世界は変わらず進行している。世界の中にある彼の体は、その進行に逆らえない。

 アドレイは上着のナイフに右手を伸ばしながら、上半身を左へ傾け、右からの手を躱す。左肩に強い握力を感じる。そのまま、引かれる力に身を任せて左側へ加速し、自分を掴む男の胸元へ飛び込む。

 男が身を硬直させ、肩を掴む手から力が瞬間消える。アドレイの突き出したナイフが、肋骨の下から男の心臓を抉った。

 反対側の男が事態を察してすぐ様アドレイに向かってくる。振り返らず、アドレイはナイフを眼前の男の体内に置き去りにして通りへ混ざり込んだ。

 刺された男の倒れる音と、悲鳴。当然ながら振り返る余裕はない。

「……いつだってそうなんだよな……っ余裕、ないんだよ……振り返る余裕なんて……っああ、くそ、暑い……」

 真夏日の全力疾走に喘ぎながら、アドレイは自身の境遇に毒づく。悲鳴はまるで彼の後を追うように、背後から迫ってくる。

「警備隊を呼べ!」

 つい先程聞いたばかりの言葉がまたも通りに響いた。

 手首に巻いたチェーンの先でルビーが瞬いている。ヒラリーからの通信。自分で引き起こした周囲の混乱に自身も中てられながら、アドレイは親指をつける。

「ヒラリー?」

『どういう事よ……アドレイ』

 低く唸るような震え声。

「それがどうにも、俺にも何がなんだかさっぱり……」

『仕事は終わったって、貴方さっき言ったじゃない……』

「終わったよ。ちゃんと銀のプレートをカフェにいた男に届けた。本当に」

 恐らくは全身に迸る怒りを抑えているのであろうその声は、弱々しい、打ちひしがれた女のそれにも聞こえて、アドレイは急速にヒラリーへの申し訳なさが込み上げてきた。

 今回の仕事についてはアドレイも多少言いたい事はあるのだが、思えば彼女には面倒をかけ通しだった。

 職種の段階で中々無理な話だとは思うが、ヒラリーは仕事を自分の人生の中できっちりと仕分けしたがるタイプで、過不足なく予定通りに働く事に拘っている。そこに極力プライベートは挟まないし、プライベートに仕事は持ち込まない。つまりアドレイのように、仕事の途中で一目惚れなどしない。今回にしても、商社の事務係が書類を整理するように淡々と自分の担当をこなして、さっさと夏の余暇に突入したかった筈だ。

 その、こんな職業でさえなければささやかと言える望みをぶち壊しているのが、大体いつもアドレイだ。

流石に罪悪感を覚える程度の良識はアドレイにもある。

「でもちょっとし……」

『じゃあどうして貴方のカーラはロッディ殺しで追われてるのよ』

「……どうしてだろうね」

『それだけじゃない。カーラ・ニーセットはロッディの所有物を盗んでもいるって。ねえ、アドレイ、もしかしてこれって私達の仕事のやつじゃないわよね?ちゃんとブツは渡したんでしょう?』

「渡したよ、銀のプレートを。でも……そうなんだ、これじゃないって言われた」

『なんですって!?』

 ヒラリーの怒号が耳に響く。周波数限界ギリギリのヒステリックな悲鳴だ。自分一人にしか届かないその声の威力に、アドレイは顔をしかめる。

「鍵だったんだよ、ヒラリー。届けないといけなかったのは銀のプレートじゃなくて、鍵だったんだ。でも君、俺に銀のプレートとしか言わなかっただろ?」

 彼女への罪悪感はともかくとして、アドレイはとりあえず抗議をしてみる。

『だって鍵っぽくないんだもの、ここの鍵って。貴方には出来るだけシンプルに話をしないと、変な事になると思ったから。でもねアドレイ。じゃあ貴方一体何を彼等に届けたのよ』

「銀のプレートだよ、間違いなく。でも違う銀のプレートだった」

『ダミーを持ってたって事?』

 一瞬嘘をつこうか考えたアドレイだが、彼女へのせめてもの誠意として踏み止まった。

「いや、どうも、レノックスの景品交換用だったみたい」

『な、それ……』

 ヒラリーが言葉を詰まらせる。

『何で気付かないのよ、だからちゃんと監視してって言ったじゃない!女の尻追っかけてるから気付かなかったんでしょう!?』

 ご尤もな指摘だ。

「悪かったと思ってるよ……本当に」

『それで!今何してるのよ貴方』

「人混みの中を走ってる」

 視線を回しながらアドレイは答える。喧騒は相変わらず続いている。

『貴方さっきツインテールの居場所を聞いたよね。つまり鍵を取り返しに向かってるってこと?』

「まあ、そういうこと」

 ヒラリーが黙り込む。嘘は言っていない。ブラックドレスの彼女から穏便に鍵を受け取れれば、それに越した事はない。主目的が別にあるだけだ。

『取引相手は何て言ってるの。彼等はそれでいいって?』

「ああ、鍵を取り返してこいって」

『分かったわ。じゃあ私も連絡を取って、彼等と一緒にツインテールを追うから』

「いや、駄目だ!」

 アドレイは思わず声を上げてしまう。今彼等と連絡を取ればヒラリー自身の身も危ない。実際には交渉は決裂しているのだ。そこでアドレイはようやく気が付いた。ヒラリーに身を隠すように言わなければ。

『何でよ、彼等だって情報網を敷いてる筈よ。連携を取った方がいいに決まってるでしょ』

「ヒラリー、やめた方がいい。というか、今ヴェスティアにいるんだよね?」

『だったら何』

「すぐに出た方がいいよ。それで身を隠した方がいい」

『待って、何よそれ。仕事相手は鍵を取り返してくれば許すって言ったんじゃないの?』

 ヒラリーの声に焦りが混じる。

「そう言ってたよ。俺もそうする気だったんだけどやり方について問題があって」

『……殺せって言われたのね?ツインテールを』

「そう、でも出来ないだろ?」

『だろ?じゃないわよ!やりなさいよ。アドレイ、あんたが彼女に一目惚れしたのは分かってるけど、命に係わる問題なのよ!四の五の言ってられる状況じゃないの。大体一目惚れなんでしょう。運がなかったって思って諦めなさいよ……え、待って。じゃああんた今どうなってるの。彼等とはどうなったのよ』

「だから、やり方で意見が食い違って」

『その後!その後、どうなったのよ……』

 さも聞きたくなさげなヒラリーの声は、僅かに震えている。

「その後、えーと、取引役の男が死んじゃって……」

『ふざけないでよ!!』

 ヒラリーの絶叫が脳内に叩き込まれた。周波数限界を超えてしまったそれはぼやけて伝わり、狭い室内でコンサートバスドラムを打ちまくったような低い共鳴音となってアドレイの鼓膜を震わせた。

『勝手に死ぬ訳ないでしょ。あんた、まさか、まさか、やめてよ、何でそんな事』

「ふざけてないよ。俺だって必死なん」

『殺したのね』

 低い、絶望を孕んだ声。

「……俺だって、そんなつもりはなかったんだけど」

『殺したのねアドレイ……そんなつもりはなかったって?ふざけないで。自分が何をやったか分かってるの……』

「分かってるつもりだよ」

 実際に、その後表通りの中で何度も襲撃されたのだから、嫌というほど分かっている。そんなつもりは全くなかったのだが、非常に危険な事をしてしまった。

『分かってる?何が分かってるつもりよ。ふざけんな、このバカ、クズ!絶対に失敗できない相手だって言ったわよね。失敗したらドットガルには居られなくなるって。なのに、なのになのに、一目見ただけの女の為に裏切るだなんて、このくそったれ!』

 ヒラリーの言葉遣いが危険水域を突破している。完全にブチ切れている証拠だ。

「ヒラリー、悪かったって。でも、前向きな話をしよう。どうにかしてこの状況を変えないと。とりあえず君は……」

 身を隠してくれ、その言葉より、ヒラリーの呟きの方が早かった。

『手に負えない』

「え?」

『手に負えないわ、もう。言ったじゃない、そういう奴は長生きできないって。何度も忠告したわ。そういう刹那的なとこ直しなさいって。もう十分よ』

 彼女が完全に絶望した時の声だった。以前に聞いたのは確か、三か月前から入念に練った計画をアドレイが台無しにしてしまった時だ。

「ヒラリー?いや、待ってくれ。俺は本当にそんなつもりは」

『あんたの情報を全部向こうに渡すわ。名前も住所も顔も目的も全部!』

「ちょっと待ってくれよ。なんだよそれ!」

『あんたに私を責める権利はないわよ。これだけしても許されるか分からないんだから。全部全部あんたが悪いのよ、アドレイ!あんたのせいで私だって殺されるんだから。命乞いの為ならなんだってするわ』

「俺が彼女から鍵を取り返せば交渉材料になるだろ?少なくとも彼等の本来の目的はそれなんだし」

『だったらそっちの可能性はあんた一人で狙いなさいよ。私は私のやり方で交渉するから』

「でもそれ、俺の情報売ったらさ、俺の状況悪化しない?」

『知らないわよ!何度だって言ってやるけど全部あんたのせいよ!大体さあ、こんなになってもツインテールを殺す気はないんでしょうあんた。取り返すって、ナンパのついでに返してってお願いでもする気なんでしょう。バッカじゃないの。あんたよく言ってるよね。諦めることだけはしないって』

「ああ、うんそうだよ。俺はどんな状況でも諦めない。だからヒラリー」

『あ、き、ら、め、な、さ、い、よ!自分勝手に周りを巻き込むくらいならさあ!あんたがあのツインテールを諦めてたら、最初からこんな事にはならなかったんだから!』

「いや、待ってよ、ヒラ……」

『さようならアドレイ。あんたとはここまで。じゃあ、元気でね。元気でいられるものなら』

「ヒラリー!?」

 アドレイの鼓膜に、断線を意味する小さな振動が伝わる。周囲に巡らせていた視線を一瞬だけ手元に落とすと、ルビーの光は消えていた。通信拒否だ。

「嘘だろ……状況がむしろ悪化した……」

 あの状態のヒラリーを今説得するのは不可能だ。前回ああなった時には一か月の絶え間ない謝罪メッセージと、彼女の好きな三番街のスイーツ店の人気商品献上が必要だった。今回はもっと長いかもしれない。

 不幸中の幸いというべきか、追手の攻撃は止んだようだった。アドレイを見失った可能性がある。喧騒の表通りを走り回った甲斐はあったらしい。

 ならばどうするべきか。やらなければならない事は、ブラックドレスの彼女、カーラ・ニーセットに会う事。そして告白と、鍵を返してもらい、仕事相手に鍵を渡す。だが仲間を殺された彼等が、鍵を取り返したというだけでアドレイを許す事はまず有り得ない。

 鍵はどこかのロッカーにでも入れて、間接的な接触で渡すしかない。その上で、ヴェスティアから脱出する。そうして、ほとぼりが冷めるのを待つ。ヒラリーが本気ならドットガルの自宅にも暫くは戻れない。

 改めて考えると失ったものは大きい。だが、それでもアドレイにはカーラを諦めることはできない。いや、今となっては彼女に接触するのは自身の命の為にも絶対だ。もう退路はない。カーラに会う。真実それ以外にアドレイの選択肢はない。

 ヒラリーはカーラが、湖上遊覧船に乗船すると言っていた。カーラが市内を逃げ回っている以上、アドレイが彼女を補足するには、そこに賭けるしかない。遊覧船へ潜り込む必要がある。そしてその後、ヴェスティアを出る手段が。

「……でも、そんなのどうすればいいんだ?いや、でも……確かヴェスティアには」

 裏家業の情報網に精通はしていないアドレイだが、噂で聞いた事がある。この自由都市には逃亡を専門に請け負う業者が存在すると。

「逃がし屋……確か、連絡は、市内のどこかにある通信石……」

 裏家業の者達にとっての命綱とも言える、他のあらゆる勢力と繋がらない不可侵地帯。仕事でヘマをした者達がすがる最後の希望。あれは噂で聞いた話ではあるが、恐らく只の噂ではない。

「只の噂じゃない……だからヴェスティアには鬼の警備隊がいるのに、犯罪者が駆け込むんだ……ここが四大国の中継地で、自分を逃がしてくれるルートがあるから……だから絶対にある……目印は、樽の上の……」

 前途は余りに多難だ。だがアドレイは諦めない。例えその努力の方向が傍目に全く間違っていても、彼は諦めない。自分の人生を、自分の力で掴み取ると決めたのだから。

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