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陽炎の夜  作者: 戸坂
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祭り日を彩る鼠達 4

 港区のオープンカフェで、ウォルターは目の前の女と口論寸前の会話を続けている。イズオライド王国の魔法技術省に勤める女、ジリアンは、淡緑の瞳をじっと合わせたまま、一歩も引かない。

「現実的に無理よ。持ち込んでいる道具は二十程度なの。他の駆除方法はないの?」

 イズオライドで好んで使われるという暗号会話を即座に脳内で翻訳し、早口に繰り出す彼女に対して、ウォルターはいつも変換が一拍遅れる。

「ない。農薬を他に変えるのは危険だ。地主が俺に目を付けるだろう。そうなったら終わりだ」

「埒が明かないわね」

 ジリアンはうんざりとばかりに椅子の背もたれに身を投げ出し、グラスを取ってストローを咥えた。二十分近い舌戦は問題の解決を見ないまま、僅かな時間中断となった。

 海風がそよぎ、うみねこの声が一際大きくなる。ジリアンが声の方向を向いて、鳥達を見た。

 物憂げなジリアンの表情は、傍目には美しい。

 透き通るような長い金髪、長い睫毛。すらりと整った鼻梁。大きく開閉する二重瞼。肌は白く、それは夏の日差しに照らされて尚一層なめらかに見える。誰がこの女を、万人規模の殺戮兵器を研究する機関の一員だと思うだろう。生きた人間を分解してあれやこれやを切ったり繋げたりした後、平気でミートパイを味わえる人種だと。今まで散々極悪人と向き合ってきたウォルターも、これ程外見と本性が乖離した者は中々見た事がない。

 尤もそれは、遠目で眺めるに留めた場合の話だ。こうやってテーブル越しに向き合って話をすれば、彼女が人の皮を被った別の何かである事は、少し敏感な者なら気付くだろう。

 問題はその遠目に見た場合、ジリアンが文句の付け所のない美女であって、彼女の正面に座っているのがヴェスティア警備隊長としてそこそこに顔を知られている自分だという事だ。ウォルターを知る者が見れば、一体どんな解釈をされてしまうやら分かったものではない。

 ジリアンとは普段顔を突き合わせる事などないのだが、今回は急なトラブルで時間がなかった上、事態が事態だけにこうやって直接会っている。告発者の素性やそのバックが知れない以上、重要な秘密事を盗聴の危険がある通信石で話すのは憚られたのだ。

 当然周囲にも気を配っているし、このカフェも、自分の管理区域の外である。

 部下には嘘をつき、知人には隠れて、誰とも分からない告発者に注意しつつ、女と会う。自分が雁字搦めになっているのをウォルターは実感する。それでも、この関係を断つ事は出来ない。

 一人娘メリッサの為に。娘の命を繋ぐのに、この女との取り引きは不可欠なのだ。

 海の方を見たまま、ジリアンが呟く。

「お子さんの容態はどうなの」

 ウォルターは右の拳を握り締める。今すぐにでも目の前の女を殴りつけたい衝動を抑える。

 三年前、初めてウォルターの前に現れた時も、この女は同じ言葉を口にした。自分達に協力すれば娘を助けてやる、とも。あの日から、ウォルターは職務に背く道を選んだ。

 彼女の要求する商品の取り引き、受け渡しの黙認。四大国の中心に位置する都市において最も期待されるのは、つまり流通だ。

 人体、売買を禁止されている生物、魔術兵器の基礎部品、そして新薬。

 罪の意識は日を追う毎に薄れていった。

 自分が見逃している商談が、ヴェスティアのみならず国際的に見て非合法なものである事は重々承知していた。だが、妻との闘病生活とその終わりが、警備隊員としての年月が、それを日常の一部として受け入れていった。

 歯を食い縛り誠実に生きたところで、アイリーンを助ける事は出来なかった。その一方で、ヴェスティアを中継点とする犯罪は減る事がなかった。

 使い捨ての運び屋を捕まえては牢へ叩き込む日々を繰り返す内、ウォルターも流石に認めるしかなかった。罪人には捕まえられる限界があり、本当の悪人はウォルターの手の届かない場所から、駒を使って犯罪を続けている。そしてそのような大物は、実はヴェスティアという都市の経済を円滑に回す一員なのだと。

 発足当初は諸手を挙げて警備隊を歓迎していた市民達が、やがて彼等の持つ強権に愚痴を零すようになったのも、つまりはそういう事なのだ。

 望まれてもいない正義を貫いて、大切な家族を失ったウォルターに対し、溝鼠共は腐肉を喰らい生を謳歌している。民衆はそれを受け入れている。ならば、そんな正義を後生大事に守る必要がどこにあるのか。そう自分に言い聞かせて、ウォルターはジリアンに協力し続けた。

「腎機能が少しずつ悪くなっている」

「そう。本格的に影響が出ない内に、取り替えた方がいいんじゃない」

 そして何よりメリッサだ。ジグラルが発症し、急激に健康を失っていった我が子が、この裏取り引きの見返りによって普段の生活を取り戻した。笑顔で毎日を過ごせる日々が戻ってきた。親として、それ以上の喜びがあるだろうか。ウォルターは決意したのだ。何を失ってでも娘を助けると。警備隊の誇りを捨て、唾棄すべき溝鼠に成り果てようとも。

「一ヶ月もすれば作れるわ。一ヵ月後に、私達がまだ友人であったなら」

 ジグラルは、体内に留まった魔力によって臓器が正常に機能しなくなるのが主な病状だ。魔術大国イズオライドの研究員であるジリアンは、ウォルターに娘の新しい臓器の提供を持ち掛けた。同じ病で妻を失っていたウォルターに、予め目を付けていたのだろう。

 外科的手術によって痛んだ臓器を取り出し、新たな物を付け替える。言葉の上では簡単なこの処置は、実際には患者に適合する臓器を用意するのが極めて難しい。それを彼女等は、本人の血液や細胞を元に一から部位を作るという荒業でクリアした。

 イズオライドの魔法技術省が他国に恐れられる所以である。彼等の技術は人道を飛び越えて、暴力的なまでに進歩する。

 無論臓器の取り換えはジグラルの根幹治療にはなり得ない。しかし特効薬や治療法がない現在では、唯一の対処法だ。

 私達の研究はいずれ、ジグラルも解き明かす。ジリアンはウォルターにそうも言った。それが口から出任せではなく、確信を持って放たれた言葉である事を、警備隊長は理解していた。以来、ウォルターはその日を待ち続けている。彼女達が、解決の一手を紡ぎ出す日を。

 その場凌ぎの手術だろうが、その日まで生き長らえればいいのだ。裏を返せば、その日までに臓器の提供が止まってしまえば、メリッサはアイリーンと同じ道を辿る事になる。

 手術は今の所、おおよそ一年に一度。二、三年も滞れば、致命的だ。メリッサの命は、この女に握られているも同然だった。

 つまりウォルターとしては、可能な限り彼女に従うしかない。それでも今回は首を縦に振れない。

「俺を脅した所で何も変わらん」

「そうかしら」

 警備隊に届いた謎の告発書。それは正に、ウォルターが見逃す筈だったジリアンの闇取り引きを示唆していた。いや、告発書には詳細が書かれていなかったので、或いは別件だったのかも知れない。しかしその結果、職務に忠実な警備隊員達が目を付けたのは、ジリアンに商品を引き渡す役目を負ったロッディという男だった。

 監視は張り付いていて、取り引きどころではない。通信石も傍受されているので、ロッディ本人に状況を教える事も出来ない。取り引きの時間は夜、警備隊の存在しない湖上遊覧船の上で、彼女はロッディから商品の受け渡し場所と合言葉を聞き、鍵を受け取る手筈だった。今となっては、警備隊はその権限をフルに発揮して、それがどこであろうとロッディを追跡する。例え乗船客が予約で限られた船の上であろうと。

 なので、警備隊長のウォルターとしての意見は、遊覧船に乗り込む前、人海戦術の通用する昼間に、なんとか監視の隙を突いてロッディと接触し、鍵と場所と合言葉を受け取るのがベストであるというものだ。ジリアンはその提案に必要な人数の非現実性を主張し、ウォルターに監視の穴を作るよう要求している。

 それは、告発書の内容や信憑性を考えると、至難の業と言えた。余程の事でもない限り、今ロッディについている目を極一時的にでも外すのは不可能だ。だがそんな警備隊としての事情を、この北国のエリート気取りは理解しようとしない。

 貴重な時間が過ぎていく。メリッサの病院へ顔を出すと言って現場を抜けて、もう小一時間経とうとしている。隊長としていつまでも休憩を取る訳にもいかないし、万が一病院の方へ連絡されれば居場所の嘘が発覚してしまう。それを抜きにしても、もう時間の猶予は殆どない。今回のアクシデントに対して、何等かの対処を決めなければならないのだ。

「こちらの案に乗れないなら、見送るしかない」

 ウォルターは話を再開する。見送る、つまり今回の取り引きを諦めるという事だ。

 相手からの信用は落ちるだろうが、事情が事情であるし、取り引き自体は彼女の仕事だ。ウォルターには関係ない。ジリアンがちらりと横目でウォルターを見返した。

「今回は、特別、なの。何度も言ってるでしょう。お子さんの研究にも絶対に役立つわ。諦めていいの」

 テーブルの下の右拳に力が入った。最大限協力しているウォルターに対して、まるで交渉の場についているかのように、メリッサを引き合いに出して無理を通せと迫ってくる。そんなジリアンの、どこか余裕ぶった態度が堪らなく神経を刺激する。

 殺すか。

 ウォルターは真面目にその可能性の検討を始める。

 今回の取り引きは明らかに危険だ。ジリアンを殺して今夜の取り引きを流させ、次の交渉人が現れるのを待つ。ウォルターが窓口を開けている事は、彼女の所属する部署で把握されている筈だ。事故を装って殺す事が出来れば、そうでなくともウォルターとは全く無関係の殺人だと偽装出来れば、次がやってくる可能性は十分にある。メリッサの腎臓は、まだそれ程急を要するものではない。

「断っておくけど」

 港を見ていたジリアンが、顔をウォルターに向けた。

「妙な気は起こさない事ね」

 ウォルターは警備隊で培った無表情で応じた。

「何を言っている」

「例えばだけれど、私を解雇して、次の農夫を待つ、とか」

「考えもしなかった」

「ええ、そうでしょう。貴方は賢明だものね。まずそのプラン変更は時間的に問題があるし、次の機会に今回と同じ虫が混入しない保証もない。むしろきっちり駆除しない限り何度でも沸いてくるでしょうね。それからこれは最も大切な事なのだけれど」

 ジリアンはグラスをテーブルに置くと、足を組んで見せた。右手はいつの間にか、肘掛の上に置かれた小物入れの中に入っている。

「貴方では私は解雇出来ない」

 貴方では私を殺せない。

「そんなつもりはないと言っているだろう」

 言いつつ、ウォルターは小物入れの中身を予想した。恐らくはイズオライド王国御自慢の、雷撃銃だ。小物入れの大きさから、相当なコンパクトサイズと思われるが、威力は彼女が浮かべている表情から窺い知る事が出来る。ヴェスティア中央区警備隊長から身を守るに十分な性能らしい。

「だが、俺も男だからそうまで言われると単純な疑問が浮かんでしまうんだが、お前は狩猟の経験でもあるのか。腕はあるのかな」

「同じ事よ」

 ジリアンは即答した。

「あってもなくても。その位の準備はしてきているの、仕事柄」

 ウォルターはテーブルの上に乗っている、白く細いジリアンの左手を見た。ともすれば中指に嵌めている絢爛な指輪の重みで折れてしまいそうな、華奢な五指を。あの指に引き鉄を引くだけの力があるかどうか、試してみたい衝動をウォルターは撫で付ける。

 イズオライドの魔術武装を甘く見てはいけない。彼等の作り出した魔撃銃は火薬銃を時代遅れにし、戦場から剣や槍といった近接武器を殆ど駆逐しかかっている。それらの前時代武装は、昨今ではレーダーに補足されないという殆ど唯一の利点を生かして、奇襲戦に用いられるのがせいぜいになってしまった。

 今ではヴェスティア警備隊の警棒も、魔術加工が施されたものばかりになっている。何故か。強力で便利だからだ。前時代の武器郡と比べて、明らかに、圧倒的に。

 それでも武器が電撃銃一つならまだなんとかなる自信がある。問題は、彼女が間違いなく他にも何等かの武装をしているという事だ。危機的状況から離脱する為の何かを。

 騒がれればすぐに人が集まってくる祭り日の昼間に、そんな女をひっそりと殺害するのは、彼女の指摘通り現実的ではない。

「話を戻しましょうか」

「そうだな」

 しかし、今夜の取り引きを成功させる妙案もまた、思いつかない。ここで延々と方策を練る程の時間もない。重い嘆息をウォルターが漏らすのと、彼のズボンのポケットの中から振動が伝わってくるのは同時だった。

 ウォルターは振動の正体、ストラップ用の金具が付けられたサンストーンを取り出した。個人用通信石は、応答を呼び掛けて規則的に光を放っている。交代でカジノに篭っている、部下のラットからだ。

 ウォルターは宝石の部分に親指を当てた。

「なんだ」

『あ、隊長。今どこっすか』

 微細魔力波に乗ったラットの声が、宝石内部の魔術式に吸い込まれ、ウォルターの耳にだけ音を伝える。

「病院だ」

『まじっすか。じゃあ今から出ても暫くかかりますよね』

「どうした、何かあったのか」

 左手でジリアンに少し待つよう伝える。ジリアンは口を閉じて、興味深げにウォルターを見詰めている。

『あったっていうか……まだ分からないんですけど。隊長、まだ病院って事は今の警備隊の通信、聞いてないっすよね』

「ああ、ロッディの事か?」

『そうです。クーさん達から今報告があって、まだはっきりそうだって訳じゃないみたいなんですけど』

 ラットが歯切れの悪い言葉を続ける。言いにくい報告のようだ。ウォルターは冷静になれ、と自分へ言い聞かせた。

「なんだ、どうした」

『遠目の監視でイマイチはっきりしないそうなんですけど……ロッディの野郎、死んでるんじゃないかって言ってるんですよ』

「何だと?」

『まだはっきりはしてないんですよ。接触してないんだから、当たり前っすけどでもなんか様子が変だってクーさんが言ってるんです』

 ウォルターは目だけを動かしてジリアンを見る。無機質な瞳がじっと目の前の男を見詰め返していた。

「監視は続けていたんだろう。誰かと接触していたのか」

『クーさんが言うには瞬間的に……』

 ラットの言葉が切れる。

「おい」

『すいません、隊長。警備隊の方ので直接話してくれませんか。伝言リレーじゃ色々あれでしょ』

「今病院を出る」

 言って、ウォルターはサンストーンから指を離し、代わりにポーチの中から大粒のエメラルドを出した。病院内では使用禁止の、カジノ内の隊員全員と音声を共有する大型通信石だ。病院にいる、という設定上、少し時間を空ける。

「業者が解雇された可能性がある」

 ジリアンに短く答えて、ウォルターは通信石を握りこむ。親指を当てると、すぐにウォルターの聴覚に、男達の緊張した声が聞こえてきた。

「落ち着け。クォール、もう一度説明してくれ」

 鼓膜を打っていた声が止む。ロッディを見張っていた部下、クォールの声が、分かりました、と響いた。

『おかしいと思ったのは、つい先程、奴のテーブルに女が近づいた時です。カジノ客の女が正面に座ってほんの何秒か話をしたように見えたんですが、すぐに席を立ちました。ロッディはそれを黙って見送ったんです。ほんの少し前までは、通る女に手当たり次第絡んでたのに。そこから気付いたんですけど、奴は全く動かなくなったんです。その女が来た辺りからピクリとも』

「酒は飲んでいたよな」

『ええ。だから寝ているだけかも知れません。でも全く動いてないように見えるんですよ。全くです。遠いせいもあると思いますが。でも酒で寝てしまった奴が、あんな器用に体を起こしたまま座り込めるとはどうも……それで隊長の指示を仰ごうと』

 ウォルターは報告を聞きつつ、その可能性を考える。

 心臓発作のような突然死は考えられない。そうであれば、周囲が気付く程度の動きは見せた後に死ぬ筈だ。

 では他殺はと言えば、これは有り得る。ロッディという男の素性は完全には分かっていないものの、こういった仕事をしている者の末路として、かなりの割合を占めるのがこれだ。

 ただ、それが警備隊員による監視の最中でとなると、方法は限られてくる。クォールの報告にあるように、体を崩さずに座り込んだまま死ぬというのであれば、かなり即効性が高く、苦痛のない毒薬が使われたか、そうでなければ死後に誰かに整えられた事になる。

 また、殺されたのであれば、相手の目的は何であったのか、それも問題だ。

 ジリアンが半眼でこちらを見詰めている。

 考えているばかりでは何も進まない。ウォルターはポーチに入れていたもう一つのエメラルドを取った。カジノの外、ヴェスティア市内に配置中の警備隊用通信だ。

「俺だ。確認だが奴の部屋には誰も来ていないな」

 少し間を置いて、返事が来る。

『ロッディの泊まっているホテルの部屋には、誰も出入りがありません』

 部屋に取り引きの道具と思わしきものが無いのは、既に踏み込んで確認済みだ。となればロッディ本人が持ち歩いている可能性が高い。ウォルターの裏の事情としても、そこは何としても確かめておきたい。もしロッディが殺されているのなら、彼の持つ鍵が目的の可能性は十分にある。ウォルターは通信石を持ち替えた。

「確かめろ」

『接触が必要になりますが……』

「構わん、包囲はしておけ。生きていたなら確保だ」

『了解』

「ちょっと……」

 ジリアンが口を開いた。先にも増して目には不機嫌の色が浮かんでいる。

「どうするつもり? そんな事したら……」

 鍵を受け取れなくなってしまう。最後まで言葉にしないイズオライド流の抗議。

「盗られているかも知れん。そうなら、さっさとそいつを見つけ出さないと取り返しがつかん」

「案山子を置いていたんでしょう? 貴方御自慢の」

「そうだ。だが万が一はある。それとも、お前がどうしてもと言うなら中止してやろうか?」

 その結果今回の取り引きが流れるなら、むしろその方がウォルターには有難い。ジリアンは開きかけた口を一度閉じた。

「……いいわ。プロの判断だもの、任せましょう。けれど、見送りになってしまった時の損失は計り知れないわよ。今回は特別だって言ったでしょう。今後の関係を見直さざるを得ないでしょうね」

「俺を脅す暇があったら追加のクワの目処でも立てていろ」

 顔を顰めてウォルターは自身のグラスを取った。薄緑の冷茶を一息に半分ほど飲む。南サウイン茶葉の爽やかな甘味が喉を通ると、家族の顔が浮かんだ。今は皇国の一部となってしまった、かつての故郷の味だ。

 ヴェスティアへ移住したのはもう二十年近く前の事で、アイリーンと出合ったのも移住後である。当然メリッサが生まれたのもヴェスティアなのだが、ウォルターは家庭の飲料として、南サウインの緑茶を買い続けた。メリッサはこの味を気に入って、今も二人で食事を取る時には、必ず飲んでいる。

 彼女は、ここ二日父が昼食時に現れない事を、寂しがっていないだろうか。その理由は間違いなくメリッサの為なのだが、今この状況においても、ウォルターは気にせずにいられない。

 緊迫したクォールの声が静かに耳を打った。

『死んでいます』

 ウォルターは静かに息を吐いた。やはりメリッサの為には、イズオライドの研究員との関係は断てない。目の前の女がどこまで本気かは分からないが、メリッサへの治療提供を打ち切られる可能性がある以上、今回の取り引きは成功させなければならない。

「死因は」

『首の骨を外されています。右手で肘を突かせて固定していました』

「周りの客には気付かれてないだろうな」

『大丈夫です』

 ロッディの死が周囲の客に知れると騒ぎになる。混乱がホールに広がれば収拾が付かなくなり、犯人にとって逃走の良い助けになってしまう。

「接触者は本当にいなかったのか……いや、いた筈だ。思い出せ」

 冷静なつもりではいるが、語気が若干強くなっている事をウォルターは自覚する。

『先程報告した女の他には……いや……』

 クォールが考え込むように言葉を切る。

「その女は尾けているな?」

『はい。ですが……それともう一人、デイジーが気になったって奴が』

「何?」

 少し間が空いた。

『ええっと』

 低い女の声が返事をする。クォールと共にロッディを見張っていたデイジーだ。

『女がこいつの席に座る十分位前だったと思うんですけど、男が席の後ろを通ったんです。その時、なんだか少し時間があったようなきがして……』

 クォールに増してデイジーの報告は歯切れが悪い。

「それだけか? 後ろを通っただけで気になったのか?」

『いえ、実はその時、丁度一階のルーレットの勝負の瞬間だったんです。二階の客も皆盛り上がってて、一階の様子を見る為に中央の方に寄ってました。こいつの姿は見えていたんですけど、その周りの動きが結構あったんです。私も一瞬、こいつから目を離して別の客を見たりしてました。それで……目を戻した時に、その男が丁度こいつの後ろを通っていました。でもなんだか、まるで少しそこに立ち止まっていたような、私がそっちを向いた瞬間に動き始めたような、そんな感覚があったんです。でもクォールはそんな風に見えなかったと』

『俺もその時丁度別の客から目を戻した所で、はっきりとは言えないんです』

 二人の報告を聞いて、確かにウォルターも釈然としない、引っかかりのようなものを感じた。

 間違いなく張り込みのプロである警備隊員が、同時に標的から目を離してしまう瞬間があり、そして違和感を覚えた相手がいる。こういった感覚は、口では表現し辛い、経験則からの危険信号のようなものだ。

「そいつは追っているのか」

『いえ……その男は本当にすぐその場を通り過ぎましたから。なんというか、存在自体がぼんやりしてるみたいな感じで、特徴も背格好位しか』

 十分程前の出来事となると、もしその男がロッディ殺しの犯人なら、もうカジノから出ていてもおかしくない。

「とりあえずは女の方を確保しろ。それと、奴から取り引きの目印になるような物は出てきたか」

『いえ、持っていません』

 ウォルターは通信石から指を離して舌打ちした。他の隊員達と違って、ウォルターはロッディが今晩の闇取り引きの仲介人である事を事実として知っている。彼が確実に鍵を持っていた事を知っている。それが死体となった本人から出てこないという事は、間違いなく鍵が持ち去られたという事だ。

「持ち去られている」

 ジリアンの、ウォルターを見詰める眼差しが一層鋭くなる。ウォルターは指をエメラルドに戻す。

「女を検査しろ。隅々まで。デイジー、お前がやれ」

『はい。男の方はどうしますか』

「そっちも追え。少しでもいいから特徴を外回りの隊員に伝えて全員で探せ」

『了解』

「それと一応、奴の食べていた物を調べろ」

 親指を一旦離して、ウォルターは目の前で報告を待つ女に声をかけた。

「考えようによってはチャンスかもな。鍵を持ち去った奴を、お前達が先に捕まえればいい」

「貴方のご自慢の案山子達がこんなに有能だったなら、いっそ直接取りに行った方が早かったかもね」

 ジリアンの皮肉にウォルターは顔をしかめる。監視体制の中、まんまと対象を殺されたのだから反論こそしないものの、ウォルターは彼の部下達が無能ではないと断言できる。

 ヴェスティア警備隊の入隊試験は、他国の現役軍人でも合格が難しいレベルの身体、判断能力が要求されるし、入隊後も、決して甘くはない訓練の日々が待っている。職務では、街に入り込もうとする危険な組織を発見、撃退したり、軍人崩れのグループを鎮圧する事もある。要注意人物の監視など通常業務の範囲内である。監視につけていた二人も、間違いなくプロだ。

 これは、その隊員達の目をかいくぐる程の者が行った犯行、というだけの事なのだ。つまり、相手もプロ中のプロだという事。出処を完全に隠した告発状を送りつけてくるような。改めて今回の取り引きを邪魔する者が、厄介な相手だと実感する。だが、捕まえる以外に道はない。

『女が逃げましたっ』

「絶対に逃がすな。出入り口だ」

「もう少し回りに気を使った方がいいんじゃない」

 ジリアンが口を挟み、ウォルターは一瞬だけ周囲の気配を探る。どうせ近くには頭の悪そうな娘三人組と、自分達に酔いしれている青年カップルしかいない。こちらの会話など、聞いていないだろう。

『飛び降りやがった!』

 クォールの叫び声。

「落ち着け。何があった」

『女が二階からホールへ飛び降りました。くそっ……嘘だろ、見失った!』

「落ち着け! 出口を固めているなら外へ逃げられる事はない。女の特徴を伝えろ」

『黒のパーティドレスに、身長は150程、髪は長い金髪を後ろで二つに分けてる……お前等、二時間前のあいつだ!』

「なに?」

 思わず声が大きくなる。ジリアンが眉を絞るのが見えたが、ウォルターはそれを無視して部下へ問い質した。

「二時間前だと?その女はマークしていたのか?」

『二時間前にもロッディと接触はしていました。ですが、マークはしていませんでした』

「何故だ」

『言い争っていたんです。ルーレットのテーブルで奴が女に絡んで、女はすぐに席を立ちました。

奴は大声を上げて注目を集めていましたし、あれで取り引きはないだろう、と』

 部下の判断にウォルターは胸中で賛同する。秘密の取り引き相手と話をつけるのに、大勢の人の目をわざわざ集める馬鹿はいない。関係ないと考えるのも無理はないだろう。だが、その話を聞いたからには別の可能性が頭を過ぎる。

「とにかく女は確保しろ。それから、一応デイジーが気になったっていう男の方も調べたい。カジノの従業員に言って監視映像を確認しろ。どこかに映っているかも知れん」

『私がやります』

 デイジーが応える。

「男が映っていたら焼いて回せ。俺もすぐに戻る」

 映像記録装置は犯罪抑止目的で、一年前から島内のカジノに普及し始めた。ヴェスティア最大のカジノであるレノックス遊技場には、最新の物が設置されている筈だ。写りの角度がよければ、顔の特徴も分かるかもしれない。

 ウォルターは丸めた制服の上着を持って席を立った。

「話は終わっていないでしょう」

 テーブル越しの軽蔑するような上目遣いを、警備隊長は睨み付ける。

「ここでじっと座っていられる訳がないだろう」

 最早娘の為に病院へ行っているという理由は通じない。事態が大きく動いた以上、ウォルターは現場に戻り指揮を執る必要がある。

「情報は流してやる。さっさと網を揃えて、俺達より先に虫を捕まえろ。それが何よりの解決策だ」

「先に捕まえろですって? 今貴方の言葉を聞いた限りだと、もう捕まるのは秒読みのようだけど?」

「いいや」

 ウォルターは席を立ったまま、逡巡の後に顔をジリアンに近づけた。

「女は恐らく囮だ。鍵を持ち去ったのは、その前に接触した男の方だろう」

「男?」

 通信を直に聞いていないジリアンは、事態が掴めず聞き返すが、ウォルターは構わず続ける。

「カジノに戻って男の写真を作る。それと、俺達の情報を使って先に男を捕まえろ。多分そいつはもうカジノを出ている」

「カジノを出てどこにいるかも分からない男を、捕まえろっていうの?」

「街に紛れている溝鼠共を見つけ出すのが俺達の仕事だ。まあ、やる気がないんだったら諦めろ」

「ふざけているの?」

「こうやって俺を引き留める程、そいつを見つけられる可能性は低くなっていくぞ」

 ジリアンは小さく舌打ちして、テーブルに赤い宝石を投げた。

「連絡はこれで」

 ルビー製の個人用通信石。部下のラットとの通信に使っているものより、遥かに高価で高性能な石だ。過信はできないが、盗聴対策も施してあるだろう。

 無言でそれを受け取り、ウォルターは再び警備隊用の回線を開きつつオープンテラスの外へ歩き出す。この女に別れの挨拶は必要ない。

 だが意外な事に、彼女はそうではなかった。

「いいのよ。ここは私が持つから」

 足を止めて、ウォルターはズボンのポケットから財布を取り出した。眉間の皺が一層深くなる。

「気にしないで、私は経費で落ちるから。貴方はそういう訳にもいかないでしょうし」

 紙幣を一枚抜き出し、投げるようにテーブルへ置く。冷茶一杯には過ぎた額だが、いちいち伝票を見直す気にもなれない。

 小馬鹿にしたような、腹立ち紛れのような女の鼻息を今度こそ無視する。

 足早に海岸通りへ出ると、ウォルターは今まさに客を降ろしたばかりの馬車を見つけて近づいていった。

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