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陽炎の夜  作者: 戸坂
7/24

祭り日を彩る鼠達 3

 カジノ二階のバーカウンターに、リダは腰を下ろしている。カジノスペースから少し離れた壁際に設えられていて、照明も抑えられている、休憩所のような場所だ。

 吹き抜けのホールからの光に背を向けて、リダは度の低いカクテルを片手に先程から同じ事を考え込んでいた。

 時刻は午後四時に差し掛かったところだった。

 手元のグラスをちびちびと舐めるその目は、全く酔っていない。原因は、あの男だ。リダからルーレットの一階席と、彼女の狙う七色玉のネックレスを浚っていったにやけ面。階下から歓声が聞こえる度、あの下品な笑顔と嘲笑が甦り、ストレスが積み重なる。

 カジノのゲームは当然ルーレットだけではない。カウンター席で暫しカードゲームに興じてみたりもしたが、勝てないので鬱憤は晴れるどころか膨れ上がる一方だった。

 手持ちの金は、順調になくなってきた。ルーレットに比べれば格段に必要ベットの少ないカードゲームも、回数を重ねればその支出は馬鹿にならない。

 スツールの上でパタパタと足を動かす度に、ドレスの内側に冷風が吹き込む。頬杖を付いて不貞腐れるその姿は、身長の低さも相俟って淑女というよりは少女に見える。

 大きく溜息をついて、リダは一時間前からずっと考えていた選択肢にとりあえずの結論を出した。

 ダイスを振ろう、と。

 胸元から大と小のダイスを取り出し、テーブルに投げる。石材の上をぶつかり合いながら二つのダイスが跳ねる。大の1と、小の5。出目の意味は「あたしは悪くない」。それを見て、リダは決心と共に頷いた。

 あのクソ野郎に仕返しをしよう。

 我慢を覚えなさい、と肩を落とす老人の姿が頭に浮かんだ。

 先生ごめんなさい。でも、どうしてもイライラするんです。

 ダイスを胸元に仕舞い込みながら、リダは過去の教えに言い訳をした。

 別に殺そうって訳じゃないんです。ただ、あいつがあたしの欲しい物を当てたから、それを頂くだけです。

 些細な事だとリダは頭の中の老人に、そして自分に言い聞かせる。

 それに、占いもやれって言ってるし。

 リダが度々参考にする、ダイスの出目に割り振られた意味は、非常に偏っている。自分を諌めるような言葉は殆どない。ダイスに頼った時点で復讐はほぼ決定していたのだが、そんな確率的な事実にリダは取り合わない。

 スツールから飛び降りて、リダはルーレットの一階席を見下ろせる吹き抜けの中央席まで移動した。

 目を凝らして、あの男がいた黒のレイアウトテーブルを見回す。だが、リダの記憶にある席にはもういない。席の覚え違いを考慮してテーブル全体をくまなく捜すも、やはりあの男は見当たらなかった。

 あの一悶着から二時間近く経っているので、席を立っていても不思議ではない。カジノ自体から去っている可能性だってある。

 もっと早くに決断すべきだったかと、リダは歯噛みする。だが、後悔の一方で、見つからないのなら仕方が無い、という安堵もあった。

 まさに師の指摘通り、リダは時折感情のコントロールに失敗する。その失敗の反動は大抵後悔と共にやって来て、その度に彼女は「なんであたしが」と言うような目に合う。

 挑発に乗ったり誘惑に負けたり、つまりは精神的に未熟なのだろう。その問題は彼女自身も理解していて、直そうと意識してはいるのだ。けれど、それでも上手くいかない時はある。なので外的な要因によって、我慢させられる状況が作られるなら、その方が楽ではあった。

 大陸中に名を轟かせる大商人が街のシンボルとして設営したこの巨大なカジノの中から、目だけで人を探し出すのは、ルーレットで大当たりを当てる位の幸運が必要になる。つまり、仕方ない事だと諦めるべき状況なのだ。

 リダは小さく、一つ溜息をつく。空振りして宙に浮いたままの決心をなんとか宥めて、少し何か食べようと気を取り直した。先程からカードゲームの片手間にちびちびと薄いカクテルを飲んでいただけなので、小腹が空いていた。夜は遊覧船の上で豪華なディナーが出るので、時間的に考えて軽くサンドイッチでも摘めばいい。

 リダはバーカウンターに戻って、向かいの店員に声をかけた。

「ねえ。サンドイッチみたいな、軽い食べ物ある?」

 この二時間弱で何度か注文を頼んだ男性店員が、リダの声に振り返って、すまなそうな表情を作った。

「こっちのバーはドリンク専門なんですよ」

「あれ、そうなの」

 リダは軽く周囲を見渡す。確かにバーの料理と思わしきものを食べている客はいない。

「珍しいんだね」

「こっち側は空調の風上だって事で、匂いが飛ばないようにって配慮なんです。そんなの気にする客いるのかって、私も思うんですけどね。ほら……」

 店員の目配せの先を追うと、吹き抜けのホールから少しせり出した四色のテーブルスペースと、そこで歓談する身なりの良い集団が目に入った。金持ち御用達、ルーレットの二階席だ。

「ああ、なるほど。気にしそう」

 リダが苦笑すると、店員も続いた。

「反対側のバーは普通に食べ物も出してますよ。それを持ってこっちに来てくれても構いません……私達は規則通り、ドリンクしか出していない訳ですから」

「そうだね。向こうのドリンクが気に入らなかったらそうする。ありがとう」

 鏡の前で何度も練習した、自分を一番無邪気に見せる笑顔をプレゼントして、リダはカウンターを離れた。他人と会話して気が紛れたという事もあって、足取りは軽い。

 間接照明に柔らかく照らされた店内スペースから、煌びやかなカジノスペースへと戻って、吹き抜けの欄干際を歩く。天井から吊るされたクリスタル製のシャンデリアは、現在時刻に合わせて発光色を白から徐々にオレンジへと変え始めている。色は僅かにながら絶えず変化し、二十四時間をかけて一巡すると、ガイドブックに書いてあった。

 蝋燭のような原始的な光源では不可能な芸当だ。時代がかった照明器具の外見だけを借りた、最先端技術品という訳だ。

 一階にいる時は二階の窓から光が差し込んでいるように感じたが、あれも、このシャンデリアの光彩調節でそう思わされていただけだった可能性がある。

 リダは暫し足を止めて、光を放つクリスタルに目をやった。

 魔術大国イズオライドが、大気中の魔力元素を生物以外の動力として利用し始めて以来、技術の進歩は一気に加速した。これらの技術は、今や一般人の生活にも浸透しきっており、今では蝋燭を使って室内を照らす家庭など、スラム街ですらないと言い切ってよい程見掛けない。

 最早進歩というよりは、進化の波だ。抗う術などないし、恐らくその必要もないのだろう。リダとて、通信石や冷房のない生活に戻りたいとは思わない。

「……でも」

 誰に向けるでもない、小さな呟きが口端から漏れる。

 昔の生活に戻れないのは理解している。だがそれでも、リダはこの光の事が好きになれなかった。

「目に刺さるのよね、この光」

 目を眇めて、リダは輝きの中心を見詰める。

 過ぎ去っていくモノへの哀愁に胸が痛み出したのはいつからだったか。夜道の暗さを気にせずに済む今を歓迎する一方で、幼い頃によく見た炎の薄明かりを大切に思い始めたのは。

 全ては、リダの心の弱さが原因なのかもしれない。変化を恐れているつもりは、ないのだが。

 吹き抜けの階下から、ギャンブラー達の歓声が沸き上がった。周囲の客達が原因を突き止めようと欄干に寄って来る。瞼を下げて顔を戻すと、リダは再び歩き出した。今はサンドイッチだ。

 途中、ルーレット用の二階席スペースをちらりと覗き込んだ。テーブルの大きさに対して椅子の数が少なく、艶の良いスーツやドレスを着込んだ男女が、ゆったりとグラスを傾けながら歓談していた。ボルボンドルーレットへのベットは、備え付けの通信石でボーイに指示を出す仕組みのようだ。成程、金を払うに値する居心地なのだとリダは思う。

 そのまま暫く歩いていると、ようやく目的のバースペースに辿り着いた。風上のバーから、丁度円周を四分の一程回った位置に、全く同じ造りのバーがある。恐らくもう四分の一回っても、同じ光景に出会うのだろうな、とリダは予想した。

 一応確認の為周囲のテーブルを見渡せば、客達はピザやらローストやらを並べている。チーズの香りもほんのりと漂っている。先程までリダがいた風上のバーより、明らかに客が多い。当然だろう。やはり皆、摘む物は必要なのだ。

 リダは早速サンドイッチとアイスティを注文して、空いているテーブルを探した。カウンター席は既に一杯だった。慰霊祭で人の増えるシーズンである事も手伝って、大変混雑している。適当な席を見付けて、相席を頼む必要があるかも知れない。

 先に渡されたドリンクと交換で料金を先払いして、リダはもう一度首を廻らせる。カップルの席は論外だ。女達が内輪話をしている所へ入っていくのも気が引けるし、疲れる。一人で座っている席か、なければ男二人の席辺りがいい。

 最低限の礼節を身に付けていそうかどうかも、風貌から判断する必要がある。そう例えば、今リダの視線の先にいる、暴力的なまでに不潔感漂うぼさぼさ髪はアウトだ。アウトの筈だ。

 嘘でしょ。何で今……

 あまりの事にリダは目を見開いた。カウンターに背を向けて、欄干際のテーブルでうずくまるように座り込んでいる、品のない薄茶色のジャケット。見間違えるのが難しいあの全体像。仕事柄、人物の観察は癖になっているので、顔が見えずともはっきりと分かる。つい先程までは探しても見付からなくて、折角気分を入れ替えて諦めたというのに。

 あの男だ。

 二時間前のやりとりが脳裏に蘇ってくる。充血した目、脂ぎった鼻頭、黄ばんだ歯、臭い息。教養とセンスのない言葉の数々。

 何故今になって現れるのだろう、とリダは心底うんざりする。いや、正確に言えばあの男がリダの前に現れたのではなく、リダが彼を見付けてしまったのだが、そんな事はこの際どちらでも良かった。

 問題はタイミングだ。これがほんの十五分かそこら早ければ、この発見はリダに幸運を意識させてくれたのだ。ところが今となっては、不運と言う他ない。

 サンドイッチを受け取ってこの場を離れようか。風上のバーの店員が言っていたではないか。戻ってきても構わないと。そう考えかけて、何故自分が逃げるように移動する必要があるのだ、とリダは猛烈に腹が立ってきた。

 どれだけ振り返っても、二時間前のやりとりにリダの非はない。自分が悪くないのにあの男を避けて他所へ行くのは、人生の敗北であって屈辱だ。

 丁度ウェイターが注文のサンドイッチを持ってきたので、間違いなく笑顔を作って礼を言う。座る場所はまだ見付かっていなかったが、はしたないのを承知でリダはそれを齧った。

 柔らかいパンに挟まれたレタスと豚肉のカツとチーズ。チーズは熱で少しとろけていて、ソースと良い具合に混ざっている。肉とソースの香りが咀嚼の度に鼻を抜ける。明らかにカツサンドだ。

 軽いものにしてって言ったじゃない!

 出来立てサクサクのカツサンドを、リダはイライラしながら飲み込む。味は良いものの、ディナーまでに消化し切れる自信がない。だが、一旦齧ったものを残すのは、貧しくひもじかった幼年期からの経験で、強烈な罪悪感があった。

 そうだ、とリダは思い付いた。あの男への苛立ちも、カツサンドへの苛立ちも、両方解消する方法がある。やっぱり盗めばいいのだ。

 もう現品を持っているのか、それともまだ賞品交換用のプレートのままなのかは知らないが、あの男から七色玉のネックレスを頂くにはそれなりの労力が必要になるし、達成すれば気も収まる。体を売る気など毛頭ないが、そんな素振りを見せてあの男をどこか人気のない場所へ誘い出し、仕事を済ませたらすぐにその場を離れる。多分それ位動けば、胃の中身は無くなってくれるだろう。

 ダイスにお伺いは立てなかった。それはもう既にやって、結果が出ているからだ。

 頭の中で老人が、額に手をやって大きな溜息をついた。

 ごめんなさい先生。でも、サンドイッチを残す訳にはいかないし。

 カツサンドを味わいながらリダは言い訳する。自分でも良く分からない言い訳だと思った。口の中のソースをアイスティで洗い流して、皿とグラスをカウンターの隅にそっと置いた後、リダは欄干傍へと歩き出した。

 一歩一歩男に近づく度に、言い訳がましい自制心がちらつく。やると決めたのに、いざ決行しようとすると感情の一部がブレーキを踏もうとする。心の弱さだ。我慢を出来ないのも、やると決めた筈なのに踏ん切りがつかないのも、未熟だからだ。それを思うとまた腹が立った。

 近接戦の発生する間合いの一歩外でリダは立ち止まり、目を閉じ息を整えて最後に自問した。

 相手はちょっとヤバい奴で、バレれば面倒な事になる。

 この後夜には楽しみにしていた遊覧船でのひと時が待っているし、今から少し中央市内を見て回れば腹ごなしにもなる筈だ。やらなくてはいけない理由などない。

 あの男だって、本当は少し柄が悪いだけの、案外付き合いやすいタイプかも知れない。そこら中にいる、酒癖に難のあるただのお調子者かも知れない。

 彼だって、祭を楽しむ為にヴェスティアへ来たのだろうし、或いは何か辛い事があって呑んでいたのかも知れない。慰霊祭の主旨は当然、亡き者への弔いだ。誰かを失って、その人の為にここに来た可能性はある。

 それでも本当にやるのか。

 自分だって胸を張れるような人生を歩んできた訳ではないのに?

 七色玉のネックレスを当てた事は、彼の行いとは無関係なのに?

 酔っ払いに絡まれて気分を害されたというだけで?

 たったそれだけの理由で、他人の物を盗んでいいのか。


――――いいに決まってる。


 リダは目を開いて、ゆっくりとした足取りで欄干際のテーブル、男の正面に回り込んでするりと席についた。

「ねえ。あたしの事覚え……」

 用意していた言葉を止めて、リダは正面の男を見つめた。右手で頬杖をついたぼさぼさ髪の男は、眠っているのか、やや前かがみで俯いたままリダの方を見ようとしない。左手はバランスを取るように肘からテーブルについている。

 二時間前とは打って変わって、周囲の談笑や雑踏音に埋もれるようにひっそりと、男は座り込んでいた。これなら取り放題だ。ドットガルのスラム生まれにとって、眠っている男から物を盗む事程簡単な仕事もない。

 軽く拍子抜けしたものの、何か違和感を覚えてリダは演技を続行した。僅かに首を傾げて、リダは男の顔を覗き込む。ぼんやりと開いた目が見える。穏やかな眼。

 瞬間、リダは跳ね上がりそうになった足をどうにか堪えた。落ち着け、と自分を叱咤する。老人の教えだ。何より冷静でなくてはいけない。

 落ち着いて。落ち着いて。落ち着けって? だってこいつ。

 死んでいる。

 見間違えよう筈もない、命を失った者の目。目の前の男は、確かに死んでいる。

 あたしじゃない!

 リダは心の中で、全力で叫んだ。

 老人の顔が頭の中に浮かび、優しくリダに頷いた。その微笑が、彼女に教えを思い出させた。

 そう。そうじゃなくて、まずは落ち着いて。状況を把握しないと。

 自身に言い聞かせて、傍目からは分からないように深呼吸し、じっと目の前の男を観察する。表情や仕草は変えずに、まるで無反応の相手が返事をするのを待っているかのように。

 外傷は見当たらない。テーブルの上には飲みかけのブランデーと、食べかけのチーズクラッカーとナッツ。

 毒……と断定しかけて、待ったをかける。毒ならこんなに静かに死ぬだろうか、と。周囲の者達が誰も気付かずに放置しているのだから、絶命の瞬間に苦しみの声を上げたりはしなかったのだろう。仮に毒殺であるなら、極めて即効性が高いか、同時に眠りを誘うものか。毒にはそれ程詳しくないので判断出来ない。

 しかし、リダでさえ顔を覗き込むまで寝ていると勘違いする程、器用に体を支えて座り込んでいるのだ。この体勢は誰かに整えられた可能性が高い。

 と、そこでリダはこの死体が頬杖を突かされている事に着目した。何故わざわざ安定させるのが難しいこのポーズをとらされているのか。

 首だ。他の体勢では、首が有り得ない方向に曲がって気付かれてしまうのだ。つまり首を折られている。

誰にも気付かれる事なく首の骨を折り、素早く体勢を整えて、見咎められる事無く場を去る。凄腕の専門家がやったとしか思えない。

 この男は自分で匂わせていた通り、反社会的な組織に関わっていたのだろう。恨みを買い易い性分だったのは容易に想像出来るし、そういった組織の関係者は別に恨みを買っていなくても殺される事がままある。その果てがこの様だ。ある日突然、専門家に命を畳まれる。

 この男の因果応報を嘲笑う気にはなれなかった。他人事とはとても思えなかった。今の仕事を続けていれば、いずれ自分にもこんな日が来るかも知れない。長生きしたければ、その日がくるまでに金を稼いで、さっさと引退するしかない。

 リダは、そこでまたはっと気付いた。

 こいつがどうやって死んだとか、どうでもいいでしょ!

 必要なのはこの殺人事件からの離脱で、考えなくてはいけない事は、それに対して障害があるかどうか、だ。冷静になったつもりで、全くなれていなかった。

 余計な考察に使ってしまった時間を悔やみながら、リダは周囲に注意を向けた。少なくとも、リダが気付ける範囲でこちらを見ている者はいない。今なら逃げる事も出来るし、第一発見者になる事も出来る。一見安全なのは後者だ。

 しかし、殺人事件の第一発見者となれば、警備隊に取調べを受ける事になる。目の前の男の職業が判明すれば、まず同業者を疑われる。疑われれば、彼等警備隊に与えられた権限の下、荷物検査が始まる。ドレスの腰の部分の膨らみに隠した、護身用のナイフが見付かると説明が面倒になる。

 事実としてリダはこの男を殺していないのだから、捕まる事は有り得ないが、遊覧船の乗船時間までに解放される保証はない。となると、逃げるしかない。

 謂れのない容疑で身柄を拘束されて、旅行の目的をふいにするなど、絶対にあってはならない。ならば、あとは極々自然に、このテーブルを離れるだけだ。

 退屈げに首を傾げて、リダは席を立った。相手にされなかった事を不満に思っているような仕草で。もしも、偶然こちらを見た者がいたとしても、きっとそういう風に見えるに違いない。

 演技しつつ立ち去ろうとしたリダの目が、男のはだけたジャケットの内ポケットで止まった。ジャケットの左の内ポケットの膨らみで。

 その時、リダの思考は高速で回転し、それ以上余計な事は考えなかった。演技を続けながら座り込んだ死体の右横を通り、背中側を回って、左へ歩き去る際に流れるように、手を差し入れてポケットの中身をくすねた。

 長年のスラム街生活の賜物だった。行動は一瞬で、体には触れない。歩く自分の体に合わせて手を動かしたので、真正面からでない限り、周囲からは見えない。

 そのまま何食わぬ顔でリダは店内スペースを出て、一階への階段へ向かった。呼び止める様な声は一つも聞こえない。成功だ。

 外面こそ平常を装っていたものの、内心は自らの完璧な仕事に興奮していた。

 呆れ顔の老人が頭に浮かぶ。

 ごめんなさい先生。でも、もうあいつには必要ない訳だし。

 今日一番の理に適った言い訳をして、リダは右手の中身をちらりと見る。手の平に収まる銀色のプレート。プレートには七桁の数字が掘り込まれている。ボルボンドルーレットの賞品交換プレートだ。大当たりの品のプレートは初めて見たが、以前に他人がもっと低い賞を当てた時に渡されていたのも、同じようなプレートだった。これを交換所に持っていけば、七色玉のネックレスを受け取る事が出来る。

 やってやったという歓喜と、やってしまったという緊張が混ざり合っている。

 盗ったからには、すぐに賞品に交換して、カジノを出なければならない。あの死体が見付かれば、警備隊が来て出入り口を封鎖するかも知れないし、二時間前のレイアウトテーブルでの件を覚えている者が、リダの事を証言するかも知れない。

 さっさとカジノを出て、夜まで街で人混みに紛れていたほうが良い。カジノも十分混んではいるが、建物を封鎖されれば分が悪い。

 リダは1階に降り、真っ赤な絨毯と人の波を突っ切って賞品交換所へ直行した。

 受付は空いていたので、並ばずにすぐ自分の番が来た。

「こんにちは。これお願い」

 受付嬢に差し出されたトレイの上にプレートを乗せて、リダは感じ良く挨拶をする。愛想良く頷いた受付嬢が、プレートに視線を落として、眉をひそめた。そしてプレートを手にとってしげしげと眺めた後、再びトレイの上に乗せて、リダの方へと押し返した。

「……どういう事?」

 内心の動揺を押し隠して、少し不満げな顔を作ると、受付嬢は事務的な表情と口調で短く答えた。

「これは当カジノの賞品交換券ではありません」

 言葉の衝撃がリダの頭蓋を揺さぶった。演技を忘れて、一瞬言葉が出てこなかった。

「交換券じゃない……?」

 内心で動揺しまくりながら、リダはどうにか、少し意外といった風を装った。

「え、でも……本当に?」

 言いながらも、それが本当である事は既に受け入れていた。受付嬢がそんな嘘をつく理由がない。これは事実として、賞品交換プレートではないのだ。

 受付嬢は暫し無表情でリダを見詰めた後、口だけを動かした。

「これは貴女の持ち物ですか」

 まずい。

 リダは大急ぎで言葉を探す。この質問の直訳はつまり、「盗んだ物ではないですか」だ。現に受付嬢は、リダの返事を待たずに半身を逸らして、後ろの係員を呼ぼうとしている。取調べを受ける事になれば、事実が暴かれるのは時間の問題だ。

「ええ……いや、待って!」

 焦りからリダは思わず呼び止めてしまう。演技が剥がれた事を自覚して、尚焦る。落ち着け、と自分に言い聞かせて、リダは立て直しを図った。

「本当言うと、彼に頼まれたの。換えて来いって。ねえこれ本当に違うの?彼、怒るとちょっと怖いから」

 必死なリダを見て、受付嬢の反応は変わらなかった。

「……見たところ、どこかの貸し倉庫の鍵のようですが。お客様、当カジノでは当選者本人以外への賞品受け渡しは原則として致しておりません。盗難のようなトラブル回避の為にです」

「あたしもそう言ったんだけど、酒が入っちゃってるし、言う事聞いてくれないのよ。本人のフリして貰ってこいって……あんまりしつこく言って機嫌悪くなったら嫌だし。でも、彼が間違えたんならしょうがないわよね」

 受付嬢が手を伸ばすより先に、リダはトレイの上の銀のプレートを取った。

「戻ってそういうわ、ありがとう。後、もう一度だけ自分で来るように言ってみる」

 そして、そのまま早足で来た道を戻りだした。

 背後に視線は感じたが、受付嬢は呼び止めてまでは来ない。連れが厄介な男だという事を強調したので、リダを拘束してもしそれが作り話でなかった時の面倒を考えたのかも知れない。

 人の波をぶつかる事無くするすると歩きぬけながら、リダは自分の迂闊さにうんざりとした。まさか盗む物を間違えて、しかもそれを他人に指摘されるまで気付かないとは。

 ボルボンドルーレットの賞品交換券は銀色の薄いプレート。それは以前見て確かに知っていた。だが手にとってまじまじと観察した訳ではないのだ。それに今手の中にあるプレートも、もっとよく確認すれば違和感に気付けたかも知れないのだ。それをしなかったのは舞い上がっていたから。つまり正に彼女の未熟さの表れだ。

 それにしたって、なんてツイてないのよ!

 自分の未熟は承知しながらも、リダはそう毒づかずにはいられなかった。

 でも、これで次に本物のプレートを持っていったら、盗品じゃないって思われるかも。

 都合のいい期待を抱いて、リダは二階への階段を早足で上がる。

 問題は、あの男がまだ死体だと周囲に露見していないかだ。

 手を引いた方が良いのかも、という思いが膨らんでくる。手の中のプレートは、受付嬢が言うにはどこかの倉庫の鍵のようだ。そちらを頂いても十分金にはなるのではないか。

 これが鍵? 薄っぺらい板じゃない、もっと分かり易い形にしなさいよ。

 苛立ちながらも、そうするべきかとリダは立ち止まる。早足から立ち止まったので、膨らみのあるスカートがふわりと揺れた。

 あれ、とその時リダは異変に気付いた。立ち止まった自分と同じく、周囲の一部で止まった気配がある。自分のかなり後方、リダが上りきった階段の辺りからだ。

 リダは振り返らずに、そこに何があったかを思い出す。何もない。立ち止まるような場所ではない。バーカウンターはリダの前方にあるし、階段傍にはテーブルも休憩席もない。

 勘違いであって欲しいと願いつつ、リダはゆっくりと歩き出した。止まっていた気配は、同じ速度でついてきた。

 尾行されている。一般人ならまず気付けない程の距離だ。リダにしても、背後の視線に気を配っていたから引っかかった程度の違和感だが、間違いない。

 いつから?

 ゆっくりと歩きながら、リダは考える。尾行されるような当ては、自分の魅力をさておけば一つしかない。あの男だ。

 ヤバい仕事をしていたあの男が見張られていたと考えるのが一番しっくりとくる。ほんの十数秒だが、リダはあの男と接触した。二時間前はルーレットの一階席で隣同士だった。ずっと見張られていたなら、自分に尾行がついてもおかしくはない。

 では誰に?一体あの男は、何をして誰に見張られていたのか。

 徐々に足を速めつつ考えるリダだが、候補が多すぎて断定出来ない。一つ分かるのは、さっさと巻かないと大変な事になるという事だけだ。

 リダはするすると人の間を抜けて、二階のカジノスペースを歩く。出来るだけ人の多い場所を選んで、紛れるように先へ進んでいく。ドレスのせいで多少動きが遅れてしまう。

 背後からの気配が急に速度を上げた。見失わない内にという事だろうか。完全に確保の為の速度だ。

 リダはわざと足を上げながら歩いてスカートを波立たせ、放るようにヒールを脱いで手で回収すると、欄干際へ全速力で走り出した。後ろからリダを呼び止める声が聞こえる。立ち止まらない。

「止まれ!」

 カジノの喧騒に、男の怒声が響いた。

 リダは走る勢いをそのままに欄干に手をかけ、ドレスを舞い上がらせて飛び降りた。

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