祭り日を彩る鼠達 1
カジノホールを早足ですり抜けながら、アドレイの焦燥はいよいよ後悔へと変わり始めた。
広いホールを漂う人々。日が徐々に傾き、その数が一層増えだしたカジノ客の中で、探し人が……ブラックドレスの彼女が見つからない。
すぐに追いかけていれば。
二時間程前に、アドレイの数メートル先を歩いていた彼女の横顔が脳裏に浮かぶ。長い金髪のツインテールを靡かせて歩く彼女の、期待に満ちた血色の良い笑顔が。
あの時、金縛りのように硬直した五体を無理にでも動かして、或いは声だけでも掛けていれば、今頃はまた違った状態だったかも知れない。
ブラックドレスの客は見渡す限りではあまり居ないが、目を凝らし、首を回して捜すアドレイの思い空しく、彼女には出会えない。二時間といえば、カジノを出ていてもおかしくない時間だ。広いとはいえ、たかだかカジノホールを二時間歩き回って見つからないのだから、可能性は高い。
そして屋外へ出た彼女を見つけるのと、このホール内での探索とでは、比べ物にならない難易度の差がある。そうなったら、もうアドレイ一人の力では無理だ。
屋内に居て欲しい、という希望。ただそれだけに縋って、ひたすらに人の波を泳ぐ。だが見つからない。湧き出る不安は、過去の記憶に起因している。アドレイは、この類の手遅れを何度も経験していた。
それというのも、肝心な時に意識が実時間と少しずれてしまうこの極限の集中力のせいだ。仕事の時には中々役にも立つが、それ以外にはかなり厄介な癖だった。
『アドレイ! いい加減にして、一体何やってるのよ!』
左手のブレスレットに嵌め込んだ通信石が固有の共鳴振動を受け取り、怒鳴り声を鼓膜に届ける。今回の仕事の相棒、ヒラリーの、我慢が限界を超えた時の音だ。彼女とはこれまでも、度々仕事を共にしている。
出身は知らないが、ヒラリーという名前は偽名だろう。
実際彼女はそんな上品な女性ではない。しかし仕事に対する姿勢は真摯で、下調べや下準備、後始末など、彼女の後方支援は抜かりがない。仕事の途中にカクテルを飲んだだけで怒られた事もあるほどの真面目だ。一目惚れした女を捜して仕事を棚上げするアドレイに、怒り心頭なのは間違いない。
だが、アドレイにも譲れない時はある。
というより、大抵アドレイは譲らない。譲れる時は譲るつもりなのだが、ヒラリーに怒られるような事態の時は、決まって譲れない事なのだ。今回のように。
「彼女が見つからないんだ。ヒラリー、どうしよう。もう彼女に会えないかもしれない」
切羽詰るアドレイに彼女は非情だった。
『知らないわよ! 仕事の途中で余計な事しないでっていつも言ってるじゃない。今回はマジに大切な仕事だとも言ったわ。その途中でなんで女の尻おっかけてるの!? あんた好き勝手するのも大概にしなさい。今すぐ仕事にかからないなら、もうあんたとは終わり、今すぐによ。今からでも別の人を探すわ』
ヒラリーはかなり本気で怒っている。アドレイは少しだけ彼女に譲歩してみる事にした。
「分かってる、すぐにやるよ。でも、あいつの方もちょっと今何処にいるのか分からない。君分かる?」
『なんで持ち場を離れてるのよ。女を追っかけたからでしょう、この馬鹿』
「そうだけど、それはもう今更言っても仕方ないだろう。君も場所が分からないなら、暫くはあいつを捜す意味でも歩き回らないと」
ヒラリーは何かを言いかけて、舌打ちした。
『こっちでも捜すわ。見つけたらすぐにやりなさい、いいわね、約束よ』
ヒラリーの返答に、アドレイは目を見開いた。
「君もこっちに来てるのか?」
『わたし自身は居ないわ。でも捜すから、ねえ約束して』
「なあヒラリー、ついでに彼女も捜してくれないかな」
『顔も見た事ないのよ!!』
怒鳴り声がウィスキー直呑みのように頭に響いた。殴打同然の衝撃にアドレイはきつく目を瞑って耐える。
「服装は上から下まで黒いドレスだ。シンプルだけど、所々綺麗な模様が入ってて、足元はふわっとしたやつ。背は多分160もない。顔は、髪が金髪で」
『ツインテール』
アドレイの説明を遮るように、乱暴で断定的な音色が響く。
「そう、それもかなり長い、腰くらいまであった」
『アドレイ、あなたが一目惚れするのはいつもツインテールよ』
「そうだったかも。でも別にツインテールが好きな訳じゃなくて……」
『どうだっていいの。ツインテールだけなのか、別の理由なのかなんてどうでもいい。ねえアドレイ、よく考えて』
苛立ちを抑え付けて、ヒラリーはアドレイに言い聞かせるようにゆっくりと話し出した。アドレイにとっては、音波で意識を攻撃されない分、人捜しに集中出来るので好都合だった。
『わたしはこれまで、色んなやつと仕事をしてきた。今も色んな奴と付き合いがある。その中でもあなたは最高の腕を持ってるわ。だから今回も、あなたとやるって決めたんだし。でも、色んな奴を知ってるから、色んな最期も知ってる。アドレイ、あなたみたいな奴って、長生き出来ないのよ』
いきなり話がぶっ飛んだ気がした。
「何だって? 俺の最後?」
『そう、最期よ。感情型で、一点集中で、協調性に欠ける。しかもなんていうか……そう、刹那的な面もあるでしょ。そういうのって長くもたない。最期は皆、あっさり、あっけなく死んでしまうの』
アドレイは顔を顰めた。自身の欠点はそれなりに自覚しているが、今指摘された所でどうにもならない。
「俺の死期が今何か関係してるの?」
『してるわ。アドレイ、あなたもうちょっと状況を冷静に考える力が必要よ。その場その場で目的を変えたり、方針をぐらつかせるのは駄目なの。あなたは今、任された仕事をきっちり果たさないといけない。今まで、何度か失敗しそうな時あったでしょ? 過去の仕事で』
「ああ、あったけど、ちゃんとその度何とか取り戻したじゃないか」
『それが駄目なのよ。失敗しそうな状況を予め回避しないといけないの。今までは運よく取り返しが利いただけで、これからもそうとは限らない。それに女の関係もそう。今まで付き合った女三人位いたわよね。どうなった?』
アドレイは、暫く無言で歩いた。余り考えたくないし、答えたくない事だった。頭の中から探し人を追い出して、いなくなった女達を思い浮かべるのが、必要な事だとは思えなかった。
だが、どれだけ沈黙していてもヒラリーは助け舟を出さない。仕方なくアドレイは口を開いた。
「全員死んだ」
『殺したのよ。アドレイ、全員あなたが殺したの』
アドレイは一瞬、きつく目を閉じた。
「仕方ないだろう。最初の……レイチェルは確かに、俺にも悪い所があったけど……」
初めての彼女レイチェルは、仕事終わりの酒場で出会って、半年付き合った。
半年経ったある日、アドレイが彼女の家に、彼女の好きなアラレ花をもって尋ねたら、彼女が半裸で見知らぬ男の首に手を回していたのだ。裏切られた怒りで、アドレイは二人を刺し殺してしまった。二人をこっそりとミデン川の魚達に提供できたのは、アドレイの人生の中で数少ない、幸運な出来事だった。
レイチェルはよく、艶消しをかけたようなダークブラウンの髪を左右に分けて赤いリボンで結っていた。つまりツインテールだった。
『何も殺す事はなかったでしょ。レイチェルをぶん殴って、男の方はアレを切り取るくらいで良かった』
「やめてくれよ。君は女だからそんな事が言えるんだ。男なら、そうなる位なら殺してもらった方がいいよ」
『じゃあ男もぶん殴るくらいで良かった。二人が死んでしまったのは、アドレイ、あなたが我慢の効かない、かなり深刻に駄目な奴だからよ』
反論しかけて、対向のカップルとぶつかりかける。慌てて体を半分逸らして、アドレイは片手を上げて二人に謝ってみせた。二人組は、さして気にした風もなくアドレイから目を逸らした。
ほら見ろ、とアドレイは思う。もし俺が本当に我慢の効かない奴なら、今の二人も殺しただろう、と。
「俺を殺人鬼みたいに言わないでくれる? 俺は必要な時にしか殺してない。それがギリギリ、必要じゃなかったかもしれないのがレイチェルの時だ」
すれ違い様にアドレイの言葉を聞いた婦人が、ぎくりと顔を向けた。アドレイはルビーから親指を離し、人差し指でブレスレットを差して婦人に見せた。
「二年前の東部戦線です……サウインの。相棒がしつこくって」
年嵩の婦人は納得したのか、していないのか、あいまいに頷いて顔を戻した。ここヴェスティアには、四国から戦争軍人も集まる。大っぴらに話す者こそ少ないが、この程度の会話は少し耳を澄ませば、酒の入った連中が冗談半分で繰り広げている。
『他の二人だって必要なかった。アドレイ、あなたを殺人鬼とは言わないけど、候補生くらいにはなってると思うわ』
「ナルンは、だって……二人目の彼女、彼女はだって、俺を殺そうとしてきたんだぞ。正当防衛だよ」
『あなたのコレクションのナイフで? どうして口論の時、あなたの大好きなナイフコレクションが
テーブルの上に剥き出しで置いてあったの?』
「手入れの途中だったんだよ。それで急に彼女が癇癪を起こしたから、一旦テーブルに置いたら……」
『手を伸ばされた時に、すぐに取ってしまう事だって出来たでしょ。大体、彼女の癇癪の理由は何だったの』
尋問のようなやり取りに、アドレイはうんざりとする。
「色々だよ。俺の仕事の事とか、休みの事とか。デートの事とか」
ナルンは少し神経質な所があった。アドレイが仕事で二、三日姿を消す事を不満に思っていたし、相手を教えてもらえない個人用通信石を持っている事も気に入らなかった。通信相手は勿論ヒラリーだ。彼女は目の覚めるような赤髪を、両耳の上で留めていた。ツインテールと言えなくもない。
『それで、面倒になって殺すことにしたのね』
アドレイは大きく溜息をついた。
「ほらこれだ。君は俺を最初から殺人鬼として見てるから、公正に判断出来ないんだ。俺が何を言ったって、俺がおかしいって事にする気だろう」
『はっきり言うとそうよ。だって普通は殺さないもの。最後の一人はどうやって殺したんだっけ』
真面目に答えるのが馬鹿馬鹿しくなって、アドレイは投げやりに返事をした。
「トールウッドの崖上からぶん投げた」
大空に投げ出されて落ちていく彼女もまた、ツインテールだった。いや、あれは正確にはツーサイドテールというらしい。
『ほらね。アドレイ、共通してるのは、どれも酷く衝動的で、後先考えてないって事。それって結局行き詰るのよ。気がついたら袋小路に走りこんでいて、進む事も戻る事も脇に逸れる事も出来なくなってる。今もそう。一目惚れしたその女は、本当に今すぐ捜さないといけないの?まずは最初の用事の、仕事を終えてから残りの時間を使うんじゃ駄目なの?』
「ここはヴェスティアなんだ。彼女がどの国の人かも分からないし、ひょっとしたらもう二度と会えないかも知れない」
『少なくともこの二時間があれば、仕事はさっさと終わってたわ。それから捜したって変わらなかった』
「それは結果論だろう」
通信石の向こうで、ヒラリーの嘆息が聞こえた。少なくとも激怒は収まったようだ。
『そうよ、結果として、あなたは今まで三人の彼女を殺したし、その勝手な振る舞いで何度か仕事をふいにしかけた。というか失敗した時もあった。アドレイ、今回の仕事は絶対に失敗出来ないのよ。これをしくじったら、わたしもあなたももうドットガルでは生きていけない』
「そりゃヤバいね」
『信じてないかもしれないけど、本当なの。さっき言ったでしょ、あなたみたいなタイプは長生き出来ないって。ジョルドを覚えてる? 先月死んだ奴』
「犬野郎? 覚えてるよ」
スラム街のごろつきの中でも、最低レベルの男だった。酒場でいつも騒いでいて、アドレイは面倒事を避ける為に彼とは関わりを持たなかった。
『そう、犬野郎のジョルド。あいつも身勝手で、衝動的で、たんまり恨まれてた』
「まさかあいつと俺が一緒だなんて言わないよね?」
『一緒じゃないけど似てるわ。性格とかの話じゃないの、そう、結果の話。あいつは女の苦しむ顔を見るのが趣味だったし、やってる途中で首を絞めて殺すのが大好きって言い回る、誰がどう見ても女を人間扱いしていない屑だった。でもね、あの屑がなんて言ってたか知ってる? 俺はあいつらを愛していただけなんだ、って』
聞いているだけで鳩尾がむかつく話だった。ヒラリーが何を言おうとしているのか若干気付いてしまったのも一因だ。
『そして最期は、妹を殺されて怒り狂った兄貴に滅多刺しにされた。トイレで暢気に小便してる時にね』
「ヒラリー、君女性なんだから、せめて用を足すとかにしない?」
『茶化さないで。結局犬野郎は、自分のした事のツケで死んだ。重要なのは、あいつが自分の所業にわたし達とは全然違う解釈を持っていた事よ。わたし達が最悪の下衆行為だと思ってる事を、ジョルドは愛情行為の延長位にしか思ってなかったの。あいつだけじゃない。半年前に死んだ二丁目のビッチだって、去年の暮れに殺されたクライブだって、皆同じ問題を抱えてた。本人達に全く無自覚なね。アドレイ、もうわたしの言いたい事解るでしょ。あなたも同じよ。あなたの価値観や考えは世間一般とは大分ズれてる。しかも命に関わるような方向に。そのまま進んだら、悲惨な死を迎えるしかないわ』
またも衝撃的な言葉が出てきた。カジノで運命的な一目惚れをしただけなのに、何故いきなり自身の死を考察されないとならないのか。
アドレイは反論しようとして止めた。自分の価値観がずれていると言われて、ずれていないと返事をする事など、ただの押し問答になるに決まっている。それにほんの僅かにだが、自身でも覚えがなくはない指摘だった。
「つまり君は俺が……すっとぼけた馬鹿で、今すぐ仕事に全力を出さないと死ぬって言いたいんだな?」
少しの間があった。彼女が大きく溜息をついていたら出来そうな間だ。
『大雑把に纏めて一言で言うとそんな感じ。もう頼むから聞き分けてよ、って感じ。そういう感じ、分かる? でしょ?』
ヒラリーの言葉が雑になりだした。補給された余裕や我慢が再び底をつきかけているサイン。
「でもそう言われても、あいつも本当に何処にいるか分からないんだよ。さっきから捜してはいるんだけど」
アドレイは口当たりの良い嘘をつく。本当はツインテールの彼女以外捜していない。もしかしたら、仕事の方はすれ違ってしまっているかも知れない。
『見つけたわ。二階のテーブル席で飲んでる。今すぐ行って、お願いだから』
「ああ、なるほど二階に行ってたのか」
おざなりな相槌を打ちつつ、アドレイはヒラリーの能力に舌を巻く。彼女が捜索を手伝いだしてから、十分経っていない。何処にどれだけの仲間がいるのか解らないが、彼女ならその気になれば、本当にアドレイの思い人を見つけられるかもしれない。
アドレイは素直に足を二階への階段へと向ける。こうなったら、さっさと仕事を終わらせて彼女に縋りついた方が早い。
「ヒラリー、今すぐに行くよ。だから頼む、彼女を捜してくれ。腰までの金髪のツインテールに、ブラックドレス。身長は155とかその辺の筈だ。髪を結んでるリボンは紺色で、縁に金糸が入ってた」
『いいからさっさと行きなさい、アドレイ』
ヒラリーの声は爆発寸前だった。有無を言わせない圧力を感じ、アドレイは黙り込む。
『捜して上げるわ。でも、わたしも、わたしが目にしてる連中もそいつの顔を知らない。過度に期待しないで。それと……』
「ありがとう! ヒラリー、本当に感謝するよ。君なら絶対に見つけられる」
アドレイは小走りになりながら階段を一段飛ばしに駆け上がる。階段付近は空調が行き届かない場所で、二階の窓から差し込む斜陽の中を進むアドレイは、じわりと汗が浮きはじめるのを感じた。
ゆったりと流れるカジノ客の合間を、アドレイは職業柄の足取りでするすると抜けていく。体に触れるか触れないかのギリギリを早足ですり抜けられているにも関わらず、客達はアドレイを一瞥すらしない。
誰も彼に気付いていない。彼を認識していない。
存在感を消すのは、アドレイ達にとっては初歩の初歩であり、彼等を捕捉できるのは、その為の訓練を受けた者だけだ。
『最後まで聞いて。アドレイ、仕事を完全に終えるのよ。それまでは、ツインテールを見つけても絶対に教えない。あなたの仕事は、荷物を受け取って、受け渡す事。ブツを手に入れたら打ち合わせ通りカフェに行って、合言葉を言って、相手にそれを渡すの。それでやっと終わりよ』
ヒラリーが念を押す。打ち合わせのカフェはカジノの外にある。仕事を終える為には、ツインテールの彼女がいるであろうこのカジノを一旦離れなければならない。だが、もうゴネていられない。
「解った。でもヒラリー、俺がカジノを離れる間、必ず出入り口を見張らせてくれ。もし彼女がカジノを出てしまったら、ピッタリ追跡でもしないともう会うのは無理だ」
『分かってるわよ。あなたこそ、必ず自分の手でブツを渡して。間違っても誰かに頼んだり、受取人が見つからないからってカフェを離れたりしないで。待ち合わせは四時と伝えたから、もしかしたらあなたが遅れてしまうかも知れないけど。それはそれで滅茶苦茶ヤバいから、絶対に遅れないで。もし遅れてしまっても、わたしの指示があるまでカフェから動かないで、いい?』
「分かった。四時か……」
アドレイは階下中央のクリスタル製の時計を見る。三時半を回っている。
「ヤバいな」
間違いなく急ぎ足ではあるが、アドレイの歩行速度は隠密行動を維持する為に抑えられている。現在の目的地、二階のテーブル席までは二分もかからないし、そこから仕事の男を捜すのもすぐだろうが、この密やかな足取りはカジノを出るまで続ける必要がある。客にぶつかってしまえばその場で隠密行動は台無しだ。
完全に避けつつ一階に降りて外に出るには、十分以上かかるかも知れない。
『だからさっきからそう言ってるでしょ、ずっと』
苛立ちに任せたヒラリーの悪態をアドレイは聞き流す。ツインテールの彼女の為に、今は仕事に集中しなければならない。
男はすぐに見つかった。階下を見下ろせる欄干傍のテーブル席で一人、オードブルと酒瓶を並べている背中。見るからに清潔感がなく、四人用のテーブルを当然のように一人で占有する様は、彼の教養の低さを如実に表している。
アドレイは息を整えた。最後に一度、目に焼きついたツインテールの彼女を思い浮かべて、すぐに消す。
「じゃあ、もう黙ってくれ」
ヒラリーへ開始を告げる。肩の力を抜いて、万一にも最初の一言で相手の機嫌を損ねないように喉の調子も確かめつつ、アドレイは男の背中へと近づいていく。
乱暴に物を食べる音がちらほらと聞こえてくる。彼が周囲から注目を向けられていない理由は、店が賑わっているからだけではなく、誰もがこの男に関わりたくないと思っているからに違いない。アドレイにしても、仕事でなければこんな男とは絶対に、ただ一瞬でも関わりたくなかった。
そんな内面をおくびにも出さず、アドレイは顔に笑顔を貼り付ける。完璧な商用スマイルを。あくまで歩みは慎重に。
階下のホール中央からベルが鳴る。ボルボンドルーレットのベット受付が締め切られた合図だ。ざわめきが静かに満ち渡る。ディーラーがボールを投げるのは後何秒後か。
バーの客の視線が階下へ集中する。ディーラーの挙動を見逃さないように、その後の客の怒号を見逃さないように、欄干から下に意識が向く。男も酒から顔を離して、のそりと下を覗く。アドレイは緩やかにその後ろへ近づいていく。
爆発したかのような音が、吹き抜けのホールを貫いて天井のガラス窓を揺らした。二階の誰もが一階の声に反応する。アドレイは、階下を覗き込む男の左肩に手を置いた。
「やあロッディ」
「あぁ?」
男が首を左に戻して、剣呑な眼差しでアドレイへ振り返る。
アドレイは男の顎とこめかみを両手で固定して、振り返る首を更に90度斜め上へと回した。