気怠い午後が導く色は 4
侵略と拡張を続ける四大国から逃れた者達の都市国家、ヴェスティアには、あらゆる人種が集まる。
観光業へと力を入れだしてからは、人の行き来は益々活発になった。名実共にヴェスティアは、国家の中継点だ。つまりこれもまた当然だが、他国者同士による問題が多発する。
特に観光要所である中央市内での事件発生頻度は非常に高く、ヴェスティアの創始者であるボルボンド・ゴルドンが特別警備隊発足の決議案を発表した時、異を唱える者はいなかった。
ヴェスティア特別警備隊は、他の四国で同様の立場にある組織より、多くの権利を持っている。本来の職務は言うまでもなく入国者や市民による暴力行為、犯罪行為の取り締まりだが、警備隊と銘打っておきながら、連絡船の積荷の抜き打ち調査や市内のホテルへの監査、果ては露天商品の売買額にまで力を揮う彼等の立場は、例えば白の大国、学術国家イズオライドで言えば、エリート揃いの魔法技術省の仕官クラスに相当する。彼等は有事と判断した事柄に関連する全ての実行権を、ほぼ無制限に持っているのだ。
ヴェスティア市内限定の話ではあるが、警備隊の権力は他に並ぶものがない。
無論、彼等が日々相手にする旅行者の一割以上は現役の戦争軍人であって、事件発生時に一線級の人殺しに立ち向かう必要がある故の強権である。ただ市民に横暴を働く為に志願する者など、入隊試験で地獄を見た上での不合格となるだろう。
職務の困難さに対する当然の力だ、というのが発足当初のヴェスティア市民のおおよその見解で、その影響力は市民感情に若干の変化が生じた現在も、見直されないままになっている。それ故に、カジノホテルはいつもあの手この手で情報を集め、次回の監査を穏便に切り抜ける為の工作している。
その泣く子も黙るヴェスティア警備隊が現在、水面下で厳戒態勢を敷いている。理由は、一通の匿名の告発状だった。
曰く、八月の慰霊祭において重大な闇取引が行われる、との事。
性質の悪い悪戯だ、という意見はすぐに消えた。ヴェスティア警備隊が全力で捜査したにも関わらず、この匿名者が特定出来なかったのだ。これは通常の事案にはまず有り得ない事で、その不透明さこそが、この密告の信憑性を無視できないレベルにまで引き上げた。
悪ふざけにしては手の込みようが違う。否、周辺への軽い聞き込みから始まり、郵便局への直接的な立ち入り調査に、使用されたインクや紙の出所、その劣化具合から予想する作成日時、そこから更に予想される他国からヴェスティアへの持込日時など、ありとあらゆる角度の検証に対して中指を突き立てるこの告発状に、警備隊の全員が直感していた。これは本物の情報だ、と。
書状に記された取引日時は八月十七日の夜間。つまり慰霊祭の山場、二時間に渡る花火大会と、遊覧船による湖上鑑賞が行われる本日だった。
警備隊長のウォルター・ドラインはレノックス遊技場の従業員用休憩室で、煙草をふかしていた。警備隊が協力を要請し、宿泊室のない都営カジノに提供「してもらった」簡易詰め所で、目の前のテーブルには吸殻が重なりだした灰皿と、三つのエメラルドと小ぶりなルビーが一つ置かれている。
エメラルドの二つは市街で警戒中の隊員との連絡用通信石、残りの一つがカジノ内の連絡用になっていて、市街の通信石をそれぞれ百人程度、カジノ内を三十人の隊員が使用している。いつ何時、何処で如何な問題が発生しようと、即座に対応する為の万全の連絡体制だ。ルビーはカジノ従業員との連絡用である。
午後を過ぎ、ローテーションで昼食の休憩を挟む報告が相次いだ後の静寂。時刻は三時過ぎ。紫煙を燻らせるその眼光は、五年間警備隊の隊長を務めた男に相応しく、鋭利で獰猛な輝きを放っている。
ウォルターが詰め所に篭ってから、四時間が経っていた。
カジノ従業員に頼んだドリンクは、もう三十分無視されている。威張り散らすのが警備隊、というカジノ経営者達の認識を変える為、今回の捜査では出来るだけ要求を避けてきたが、流石に飲み物一つでこれでは、権威を振りかざしてみようかという気にもなる。
従業員との連絡に使うルビーに手が伸びた所で、室外から足音が聞こえてきた。乗り出した姿勢を戻して椅子に背を預けると、ドアがノックなしに開かれた。
「お疲れ様っす。隊長、コーヒー買って来ましたよ」
口の隙間から白い溜息が出た。警備隊の部下、ラットだった。
「目上の者に対してはご苦労様、だと教えなかったか? 教えたよな、お前俺を舐めてるのか?」
横目で睨みを利かせると、ラットはコーヒーカップを差し出しながら空いた左手を振った。
「どうにも慣れないんすよ。勘弁してくださいよぉ」
ウォルターにしてみれば、同じ事を一年も正し続けさせられる方が勘弁してくださいよ、だった。このくだけた口調も、眉の動きしか変わらない笑顔も、一年間何度言っても変わらない。
こんなへらへらとした男が警備隊の試験を合格した事が信じられなかった。成績は下から数えた方が早かったが、ギリギリのラインでもない。去年の応募者が特別酷かったのだろうか。
ただ、彼は役立たずという訳ではない。何とも頭の痛くなる話だが、ラットは社交性において、警備隊の中で断トツのトップだった。
職務内容から、ともすれば嫌われ役を演じなければならない警備隊の中で、カジノホテル関係者と談笑の出来る隊員はラットだけだ。恐らく、あの締りのない表情と馴れ馴れしい態度が、相手の警戒心や敵対心をすり抜けてしまうのだと思う。さながら、戦場で敵地へ滑り込む一流の工作員のように。
頭が痛い理由は、そんなラットの精神的潜入技術が、ウォルターにまで効きだしてきた事だった。今も、苦々しい舌打ちとは裏腹に、丁度欲しかった飲み物を持ってきたから許してやるか、という気になっている。
由々しき問題だった。隊長として、礼節に問題のある隊員はきっちりと教育しなければならない。思いつつもカップを受け取り、口をつけた。砂糖の味。ウォルターは部下の頭をはたいた。
「いった! 何するんですか!」
「砂糖入れすぎだ馬鹿野郎」
「折角持ってきてやったのに……じゃあいいっすよ、捨ててきますから」
残りを飲み干してから、ウォルターはカップをラットへ放った。
「それより、奴はどうだ」
飛んでくる空のカップをキャッチし、外跳ねの後頭部を乱暴に掻き毟りながら、ラットは机のエメラルドを顎で指した。
「デイさんとクーさんがついてます。ルーレットのホールから二階のバーに移動して一服中で、今のとこそれらしい動きはなし。途中他の客と何か話してましたけど、関係ないってクーさんが言ってました」
現在警備隊が闇取引の関係者としてマークしている者の中で、最重要とされる男だ。ロッディという名で知られており、本名かどうかは分からない。
昨日の未明にステアル・グレイマンという名の偽造パスポートで、サウインの連絡船から入島しており、時期的にもこの男の闇取引への関与は濃厚だった。当然、入島管理局で張っていた隊員の目に留まり、二十四時間体制で張り付いている。ウォルターがカジノの休憩室に篭っている理由だ。
「ならいい」
小さく頷いて、ウォルターは立ち上がった。
「じゃあ、暫くここ頼むぞ」
「はい? どっか行くんすか」
「飯食ってくる」
「ちょっとぉ、隊長」
冗談半分に批難するラットに、ウォルターはちらと視線を投げた。
「どうせお前はもう食ったんだろ?」
「そりゃ……まあ、食べましたけど」
「朝からここに居るんだ、少しくらい顔を出してやらんといかん」
「あっ」
そこでラットは、成程と目を開いて頷いた。口も開いている。
「メリちゃんとこすね、分かりました。そうですよね、昨日も一昨日も行ってないですし」
「勝手に名前省略するのやめろ」
「いいじゃないすか。メリちゃんも喜んでましたし。じゃあ、何かあったらこっちで連絡しますから」
言って、ラットはウォルターへ赤色の通信石を投げた。サンストーン製の、個人通信用のものだ。机上のエメラルドは全て持っていくが、魔力波出力の大きな多人数用通信石はメリッサのいる場所では使用禁止で、魔力波を遮断するポーチに入れておかなければならない。もしもそのタイミングでウォルターの判断が必要になる事態が発生した時、指揮系統が混乱してしまう。魔力波出力が弱い個人通信用で、ここを見張るラットがウォルターに事態を説明すれば、その問題を解消出来るという訳だ。
自分から言い出さなければならない事だったが、重大な事案中に私用で抜けるという後ろめたさから、誰にも頼めずにいたところに、この配慮だ。
「……悪いな、助かる」
ウォルターは顔を顰めつつも、この部下の気遣いに感謝せざるを得なかった。こういった細やかな、何気ないサポートが自然に出る辺りが、ラットを嫌う者がいない理由だろう。
「いいっす、いいっす。メリちゃんを喜ばせて上げてください」
眉を八の字にした笑い顔で、ラットは手を振る。扉を閉める間際、ウォルターは降参した。
「コーヒーありがとうな」
返事を聞かずに廊下へ出て、そのままホールを突っ切ってウォルターは屋外へと出る。
午後の日差しはまだ強く、カジノの冷房を四時間以上享受した身としてはきつい。大通りに出ると、露店の鳥を焼く香ばしい匂いが微かに漂ってくる。
慰霊祭期間中は通りの露店が一気に増えるが、恐らくその何割かは自治会の承認を得ていない違法店だろう。取り締まりたい所だが、今は闇取引捜査に警備隊のほぼ全員を動員している上、如何せん数が多い。いちいち立ち退きを指示していたのでは、大変な作業になる。
ウォルターはやや色褪せた警備隊の制服を脱ぎ、小さく包めて手で持ち歩いた。今は警備隊として活動しない、見逃してやる、の意だ。
一人娘のメリッサが療養している病院は、歩くと三十分程かかる場所にある。待機所の個人馬車に乗り込み、御者の挨拶を無視するように行き先を告げた。
動き出した馬車の揺れを感じつつ、ウォルターは目を閉じた。
現在十一歳のメリッサが病に冒されたのは三年前だった。
不活発性魔力変異蓄積症、通称ジグラル。この世界に生きる者なら、大なり小なり、必ずその身に流れている自然との繋がりを示す力、魔力と呼ばれる流動性のエネルギーが原因となる不治の病だった。
本来は体外から体内へ、そして体内からエネルギーとして消費されて体外へ循環する筈の自然エネルギーの一部が、消費されずに体内に溜まり続け、人体機能に様々な悪影響を及ぼす、死の病。発症は非常に稀だが遺伝性が高く、妻のアイリーンも長い闘病生活の末、四年前に倒れた。
妻の死から一年後の娘の発症は、ウォルターを絶望させた。
ジグラルに対する研究は、どの国も全くと言っていいほどの手付かず状態だ。元々患者の絶対数が少ない上、変異した魔力の蓄積が原因だと判明したのすら最近で、更には、現在ヴェスティア周辺の全ての国家は何時決着するとも分からぬ戦争中なのだから、難病の研究も何もない。ろくな治療薬もなければ、治療法も確立していない。せいぜいが、ジグラルで痛んだ内臓箇所を適宜治療する程度で、根本的には全く解決していない為、すぐに次の異常が起きる。
アイリーンは最期の頃には、自力での排泄が出来なくなっていた。いくら介護者が夫とはいえ、平常心を保てる恥辱ではなかっただろう。情けなさに涙を流す妻の顔が、今も苦々しく頭の隅にこびり付いている。あんな思いを、まだ十代始めの娘にさせる訳にはいかない。
ウォルターはいよいよ本気になった。
無論、妻の時もウォルターは本気でジグラルに立ち向かった。各国の治療法を何度も試し、決して高くない警備隊の給与が許す限界まで、アイリーンの命を繋ぐ為に費やした。
だが、本当になりふり構わず、命を掛けて治療に努めたかと言われれば……今なら言える、そうではなかった。
隊長に就任する程なので、ウォルターの警備隊という職務に対する思いは強い。元々不正や理不尽を看過出来ない性分で、正義という存在を信じている。
他人の涙を糧にして利を得る者達が許せなかった。街の路地裏を這い回る犯罪者達、善良な市民に噛り付いて疫病を振り撒く溝鼠共を、叩き潰したかった。
アイリーンがジグラルを発症し、苦しんでいる時も、警備隊の職務をこなしながら介護に当たった。決して彼女をないがしろにしたつもりはなかったが、それでも家に帰れない日があった。
仕事あっての生活なので当然と言えば当然だが、警備隊を辞めて、もっと家庭に時間を取れる職へついたりはしなかった。ヴェスティア警備隊という理想の場所で、己が信念を貫きたかった。つまる所、まだ余地があった。死に物狂いではなかったのだ。
だが、今度はそんなつもりはない。娘は、メリッサは何としても助ける。その為には何を捨てる事になっても構わないと、ウォルターは決めた。
馬車が大通りの端を出て、海沿いの市街港区を走る。
「ここでいい」
ぞんざいに声を掛けて、ウォルターは御者に紙幣を渡した。
再び夏の太陽が照り付けてくるが、海風のおかげで大通りよりは幾分ましだった。
砂利を踏んで遠ざかり始める車輪の音を聞きながら、ウォルターは海岸線を歩く。浜辺へ降りる階段を挟んだ向こうには、白いパラソルが等間隔に並ぶオープンカフェが見える。
時間はそれ程余裕がない。メリッサの病院は、ここよりはカジノから遠い場所にあるが、見舞いがてらの昼食という設定上、長々と時間はかけられない。最長でも一時間で全てを終えて戻らなければならない。いや、現在の状況を考えればその半分が適切か。
ウォルターはパラソルへと近づいていく。足取りの先には、涼しげなワンピース姿の女が座っている。
細長い脚を組み、アイスグラスのストローを摘みながら、顎を引いて上目遣いでこちらを見つめる女は、
口端を僅かに上げて不敵な笑みを作った。メリッサなら生涯形作る事がないだろう類の微笑。
「遅刻よ、不良親父さん」
ウォルターは今回こそ本気だった。その為には、メリッサを救う為なら、正義も信念も要らない。
溝鼠め。
湧き上がる感情を押し付けて、ウォルターは向かいの席に腰を下ろした。