気怠い午後が導く色は 3
都営レノックス遊技場の赤い絨毯の上を、買ったばかりのブラックドレスと共にリダは歩く。胸の間の布地を指で摘んで小さく上下に扇ぐと、開いた肩口から遊技場の快適な涼風が送り込まれて、心地良さに頬が綻んだ。
ドットガルの老舗、ウェード・コンラーシェ製の黒絹は思ったより太陽熱を吸収した。もうカジノへ来て五分程経ったのに、まだ外にいた時の熱が発散しきれていない。八月のヴェスティア市街を歩けるような防熱効果はないようだ。
尤も、それこそがあの店の密かな人気の理由でもある。ウェード・コンラーシェの職人達は、魔術繊維を使わない。
かつて軍用装備にしか使用されていなかった、耐熱結晶を織り込んだ「氷の繊維」は、五年程前から民間の高級服へ使用され始め、今では夏のドレスの常識になりつつあるが、一方でそれら魔術加工品を邪道として忌避する者達も存在する。門外の力に頼らない、自分達の技術による涼感や工夫を尊ぶ誇り高き職人と、
それに賛同する通な消費者達である。
古き良き、そして無意味で、今や絶滅しつつある人種だ。
特殊加工繊維を使わないので多少値段が安いという、庶民的な強みもある。勿論、服の値段を気にするような所得層は、そもそもドレスを必要とする生活をしていないのだが。
何はともあれ、確かな腕を持った職人達が作っただけあってドレスとしての出来は良いので、リダはこの店の商品を気に入っている。多少の不便にはにっこりと目を瞑れる。
それに次に外に出るのは、本日のメインイベントである花火が打ち上げられる、夜だ。太陽光を気にする必要は無い。それまでは室内で、散財していればいい。
ボーイからグラスを受け取って、リダはホールの中央、ボルボンドルーレットのレイアウトテーブルへと向かう。全長10メートルを超える巨大なルーレットで、通常のそれとはルールの違う、レノックスだけのオリジナルゲームだ。
左手には、先程換えたばかりのカジノ専用チップを詰めたカップ。夜までの時間を潰すには十分とは言えないが、適度に休憩を取れば丁度良い位の量だ。
ヴェスティアへ来るかどうかは、かなりギリギリまで悩んだのだが、もう来たからには楽しむしかない。彼女自身のルールに則って、きちんと納得して来たのだから、後悔は似合わない。今夜市内の人造湖へ出る湖上遊覧船は、行き着けの酒場に貼り付けられたポスターを見た瞬間から気になっていた。抽選倍率や裏ルートでの入手価格やそのリスクなど、調べるほど諦める理由が見付かっていった乗船チケットが無料で手に入ったのだから、やはり使わない訳にはいかないだろう。
普段は絶対に請けない、軍事集団戦闘などという専門外のヘルプに付き合わされた甲斐もあったというものだ。頼み込みが余りにしつこかったので、あの男の仕事は暫く断るつもりであるが、縁を切るのはチケットに免じて踏み止まった。
長いツインテールを揺らして、リダは周囲を見渡す。豪奢なカジノホールには欲望と希望が入り混じっており、硝子張りの二階窓から所々差し込む斜陽が賭博場の雰囲気を演出していた。怠惰な午後を満喫できる場所。慰霊祭の山場とあって、外の大通りに劣らず人の入りは多い。
四つのレイアウトテーブルの中央に立つクリスタル時計を見ると、次のベットまで後十分程だった。ボルボンドルーレットは、金ではなく賞品が当たる。そのどれもが、伝説の商人と謳われる男の名を冠するゲームの報酬に相応しい価値を有した代物で、コレクションを目的とした富裕層から、一攫千金を狙うギャンブラーまで、誰もが注目する内容となっている。
ホール入り口のショーウィンドウに飾られた、ルーレットの現在の賞品は確認済みだった。ラインナップの中で何が一番高く売れるか。リダが売るという状況から考えれば、七色玉のネックレスだろう。棚に並んだ古代の絵画や不思議な置物と違い、特別な知識を持って売り込む必要のない、誰が見ても分かるシンプルな高級品だ。煌びやかな装飾品に飢えた故国ドットガルの貴族連中に売れない訳がない。
他の品の場合も、数ヶ月は金の心配がなくなる程度の値にはなる筈だ。当たったなら、旅行の予定を延ばしてもいい。中心街をゆっくり見て回って、高級店通りに並ぶ家具屋で洒落たテーブルセットでも買った後、ついでに専門店でサウイン産茶葉も纏め買いするのだ。仕事道具もいくつか新調したい。或いはそろそろ貯金をする頃合だろうか。皮算用を始めると表情が緩んだ。
四つの色に分けられたレイアウトテーブルの、黒の席について、リダは胸元のポケットから大と小の六面ダイスを一つずつ取り出した。
「さって……」
手の中で転がしていたダイスをテーブルに放つ。テーブルクロスに緩和された二つのダイスは、慎ましやかな硬質音と共に動きを止めた。
大のダイス3と小のダイス4。
リダは度々、自身の未来をダイスで占っていた。特に様式や格調のあるものではなく、方法は完全に自己流で、ダイスの目に予め言葉を振っておく簡単なものだった。しかも言葉はかなり適当で、中には完全に役に立たないような目もある。
要は占いというより、決断に迷いがあるような状況における、一種の自己暗示のようなものだった。だからこそ、ダイスの数字に振った言葉はわざわざどうとでも取れるものを多数含めている。今回の出目は「ちょっとヤバい」だ。
リダは露骨に顔をしかめた。この言葉自体を信じている訳ではないが、この組み合わせが出た後には、何故か強烈に面倒な事に巻き込まれる事が多い。ダイスは大して信じていないが、実体験には敏感だった。
次のルーレットをどこにかけるか、漠然としたお伺いを立てただけだったのに、ちょっとヤバいとはどういう事なのか。
そそくさとダイスを拾って再び胸元へしまうリダに、右隣から絡みつくような声がかかった。
「よう、勝負の前にサイコロ遊びかい?」
これの事かな、とリダは心中で嘆息をついた。振り向くまでもなく相手は酔っていると分かる。
席を移動しようかとも思ったが、午後の小休止で一時的に減っているとはいえ、黒のレイアウトテーブルはプレイヤーが多い。幸か不幸か、リダが座っているこの席が空いていた最後の一席だった。立っていてもルーレットには賭けられるが、一勝負のインターバルが15分あるので単純に疲れる。無視して席を立ったところで、この右隣が後を追ってこない保障もない。
言い訳気味に自分を納得させて顔を右に向けると、想像通りの男と目が合った。品の欠片もない粗野な服装と、不躾なにやけ顔。アルコールによって充血した眼球。ぼさぼさに爆発した髪の視覚的な不快感は暴力的ですらある。
リダはここが黒のレイアウトテーブルである事を強く意識する。
ボルボンドルーレットの四色のレイアウトテーブル。ご丁寧に振り分けられた大陸四大国の象徴色。特にルールはないが、大方の客は自国の色のテーブルへ座る。ドットガルに座る客として、この男程イメージ通りな奴もいない。
或いは、ドットガルと言えば、少し前までは貴族の色でもあった。
きっと二階席のせいだわ。
リダは心中で呟いて、視線を一瞬上へと向ける。
カジノが賓客用に増設した二階の特別席では、混雑も揉め事もなく、バーからの出来立てのオードブルをつまみながらルーレットを楽しめる。座るだけで金が必要な席だが、ドットガルの富裕層は皆そちらへ行ってしまった。それはつまり、ドットガルの残りカスが一階席を占有するという意味だった。
「何とか言えよ、ええ?」
黙っていたリダに男が催促する。息が途方もなく酒臭い。
「願掛けみたいなもの。出た目に大した意味はないのよ」
「そうかい、まあ、賭ける目位自分で決めなきゃあな」
男は何が可笑しいのか、くっくっと肩を揺する。会話を終わらせる為、曖昧な笑みで小さく頷き、顔を戻そうとするリダだが、男の方が少し早かった。
「どれが欲しいんだ?」
「高く売れそうなものなら、何でも」
「金か……それなら」
男がぐいと上半身をリダの方へ寄せた。臭い。
「俺が買ってやるよ、いくらだ?」
下品な眼差しがリダの胸元から腰、脚へじっとりと流れた。
言葉の意味はすぐに理解出来た。リダにとっては特に男の評価を下げるものではない。金で女を買おうとする男にいちいち軽蔑していたら、普段の生活に支障が出る。だが、交渉の言葉には品性が必要だ。その点で見ると、やはりこの男は軽蔑するしかない。
ベット開始のベルが鳴った。リダは顔をレイアウトへ戻して、チップの置き場所を探し始めた。
「おい」
男がしつこく絡んでくる。
「時間みたいだけど」
リダが言い終わるより先に、男はレイアウトを見もせずにチップを親指で弾いてテーブルへ飛ばした。
ルーレットに必要なチップは一枚でもかなりの値がする。それを、こうもぞんざいに扱える所からして、なるほど金はそれなりに持っているようだ。しかし風貌から考えて、まともな仕事で稼いではいないだろう。ちょっとヤバい事をしているのは間違いない。
分不相応な金を手に入れて、調子に乗ってしまった田舎者、といった感じだ。関わりたくないが、この分では今更無視した所で収まりそうにもない。呆れ気味の半眼でリダは隣を見やった。
「あたしとしたいの?」
「もったいぶるなよ。ほら、ふっかけてみろ。こう見えて俺は金持ちなんだぜ」
「期待してるとこ悪いけど、あたしまだ処女なの。売りはやってないのよ」
怒鳴るような笑い声がホールに響いた。
「吹いてんじゃねえよ、あばずれが」
噛み付かんばかりに目と口を開けて、男はリダを指差した。
「俺はな、目が良いんだよ。生まれなんて聞かなくてもすぐに分かるんだ。お前スラム街の出だろうが。プンプン匂うんだ……ああそう、鼻も利くんだ。スラムの娘がそんな服着るには、道はいくつもねえ。お前等の売り物なんて、体の他にはねえからな」
リダは席を立った。限界だ、何より臭い。
「おい」
呼び止める男にリダは侮蔑の視線を投げた。
「確かに、あたしはスラム街の生まれだよ。ドレスを買うのに選べる未来はあんまりない。けど、あんたも知ってるでしょ。ドットガルのスラム生まれが金を稼ぐ方法は売りだけじゃない」
リダは視線にありったけの敵意を乗せた。
「あたしをあんまり怒らせないで」
何度も鏡の前で練習した表情だけあって、効果はあったようだ。男は僅かに押し黙った後、リダをねめつけながらゆっくりと口端を上げた。笑ってはいるが、顔の赤みは増し、眉根が寄っている。
「言うじゃねえか、俺を誰だか知りもしねえ癖によ。ああ、お前を怒らせると何だって?何か出来るならやってみろよ」
ヴェスティアは暴力沙汰に敏感だ。都内を巡回する警備隊はどんな事情であれ、一切の揉め事を双方有罪で即座に罰する。戦乱の時代に、そのど真ん中で我関せずを決め込むだけあって、部隊は精鋭揃いと有名だ。
よくて一日拘束、悪ければ永久追放。この男がどこの誰であろうと、人の目だらけのこんな場所で手を出すつもりなど、リダにはない。遊覧船に乗って花火を鑑賞する、人生最高の夜が待っているのだ。
相手にせず席を離れるその背中に、男が吐き捨てた。
「最近の売女は無駄に演技派だな、鳴き声の方に力を入れろよ」
周囲の男連中が、付き合い程度に笑い声で応じた。反応するのも馬鹿らしい、殆どお決まりの捨て台詞だ。
黒のテーブルを早足で離れながら、リダは段々と抑えていた感情を解き放った。歩き方が雑になって、ツインテールが乱暴に振り乱れる。ドレスのせいで歩きづらいのが、また一層頭にきた。
あんな下品な男のせいで、テーブル席と勝負一回を逃してしまった。
スラム街という言葉は、ドットガル出身者の間では、悪口でもよく使われる。誰にでも思いつくような煽り文句を並べただけで、目が良い、鼻が利くなどとよく言えたものだ。確かに処女というのは嘘だったが、体を売った訳ではない。何年も前に、いつもの露店漁りの帰りに年上の窃盗団グループに囲まれてしまっただけだ。リダの中の貞操観念では、この時の回数はカウントされていない。だが、そんな繊細なニュアンスなど、あの男には説明した所で理解出来よう筈もない。
さっさと気を取り直そうとするリダだが、そう努めれば努める程、苛立つ自分を意識してしまっていた。ダイスの「ちょっとヤバい」がこれだったのかは分からないが、気分が悪くなったのは確かだ。
もしかしたら、今日は夜の為に昼の運は悪いのかも。
無理矢理に怒りの矛先を運のなさに変えてみる。あの男の顔を思い浮かべ続けるよりは幾分ましに思えた。
ホールの一角から歓声が上がる。ルーレットの結果が出始めたようだ。
ボルボンドルーレットのルールの特殊性は、時に大ブーイングを引き起こす。テーブルによっては「当たり目なし」が有り得るのだから、そこにチップを積んでいたプレイヤーとしては、ボールを放ったディーラーへ物を投げつけてやりたい気分だろう。
ルーレットの賞品の中には特注の魔術装備も含まれているので、プレイヤーに血の気の多い輩は多い。雷撃を打ち出す魔銃がショーウィンドウに並んでいた時の「当たり目なし」は、ホールのガラス窓に皹が入る程のブーイングが15分続いたと聞く。
今の所それらしき怒号は聞こえてこないが、リダはそれを期待していた。黒のテーブルの方から怒りの声が上がれば、さっきの男も漏れなく外れたと言う事になるからだ。
ところが、リダの耳に届いたのは、二度と聞きたくない下品な大声だった。
「見ろ、当たったぞ! 俺が当たった! ざまあみろ! 俺が当ててやったぞ!」
リダは足を速めた。苛立ちが一層増した。黒絹のスカートが空調でふわりと一瞬膨らんで、リダは立ち止まり、それを手で押さえる。薄い布がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。目を閉じて、リダは一つ深呼吸をした。
――気がたっとる時は深呼吸して、落ち着かんといかん。
小さい頃、少しの間だけリダの面倒を見てくれた老人の言葉だ。
はい、先生。
何時だって、重要なのは冷静な判断力だ。あの男が何を当てようが、どれだけの幸運を手にしようが、自分には関係がない。リダはゆっくりと自分に言い聞かせる。
露天漁りからより物騒な仕事を本職にすると決めた時に、何より最初に教え込まれた事。全ての要素を考慮し、限られた時間の内で検分し、判断し、選択する。その為に必要なのは、自分自身をすら範囲に入れた、徹底的な俯瞰視点だ。感情世界においての無関心だ。
老人の教示を噛み締めて、閉じた目を開く。
目の前の人々も、周囲の音も、リダにとってはもう無個性な情報の波でしかなかった。
ブラックドレスと胸元の白い地肌の対比が、視界全てに当て嵌められていった。カジノの鮮やかな色彩に翻弄されないように、認識はしながらも価値は見出さない。
先程の男のにやけ顔が、無味乾燥な人相に変化していった。苛立ちが凍り付いて、頭の隅に保留された。今は仕事の時間ではないが、気分をリセットするには一番うってつけの方法だ。後は、少し時間を置いた後、徐々に感情を戻せばいい。
カジノ客の歓声が続く。既に四度、大きな波が起きた。全てのテーブルの当選が確定した証拠だった。方角は右後方から右周りに続いたので、ドットガル、グレーゼン、イズオライド、サウインの順だったのだろう。
どのテーブルから何が当選したのか。自然な足取りで歩きつつ耳を澄ませて、リダは情報をただ情報としてだけ扱う。
ホールガールの溌剌とした声が拡大されて館内に響く。抑揚からアクセントの引っ掛かりまでクリアに
来場者へ届けるこの拡声器の原材料は、空気中のエーテルと共鳴し易い緑色石だ。
一等の骨董品はない。二等の装飾品が二件。右斜め前方の女性が手に持つグラスの中身は色合いと匂いから、度数の強いカクテルではあり得ない。後方を歩いている三組の二人連れはいずれも緊張感がないので、今のところ賭けに勝っているか、或いは金を気にする必要のない人種でこちらへの敵意は一切なし。頭上の二階席は未だ混雑していて――
『おめでとうございます! 黒のテーブル、二等七色玉のネックレス当選です!』
ホールガールの当選発表が、リダの努力を吹き飛ばした。
視界の色が一気に復活する。リダはゆっくりと、微笑を浮かべながら首を後方へと回す。
一等はなし。二等が二件。あの男が何かを当選。黒、ドットガルのテーブル。無感情に手に入れた情報の全てが、先程の下衆男がリダの獲物を手に入れた事を示している。聞こえる筈のない笑い声が脳内に響いた。
――お前はもうちょっと我慢を覚えんといかん。
老人の言葉。
はい、ごめんなさい先生。あたしにはこれは無理です。
リダはスカートの両端を摘み、歯を剥き出して二階への階段を荒々しく駆け上がった。