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陽炎の夜  作者: 戸坂
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陽炎の夜

 白で塗り尽くされた部屋のベッドに横たわり、ウォルターは薄目を開けて天井を見ていた。遊覧船三階の医務室。ここまで辿りついた事は、当然のようにも奇跡のようにも感じる。

 デッキから船内へ戻り、通路を暫く歩いた所で、デッキ入り口を遠目に見張っていた乗組員二人に駆け寄られて、体を支えられた。そのまま肩を借りて医務室へ向かう途中、デッキにはまだ暫く近付かないように念を押しておいた。自分の傷を見せた事もあり、彼等は何も問い返す事無く了承した。乗船客や自身らの安全を考えれば、当分は時間を稼げるだろう。

 白髭を蓄えた壮年の医師がウォルターの脇に立ち、シャツを切って前を開くと、傷口を確かめて道具を用意していく、

「この薬を打ったらナイフを抜きます。血が吹き出ますが、落ち着いてください」

「ああ……分かった」

 彼の手には、羽ペン程の太さの針が付いた注射器が握られている。それをナイフに添うように心臓へ突き刺し、共々に抜くと、宣告の通りに鮮血が飛び散る。

「……っ!」

「大丈夫です」

 医師はその上からゴム状の湿布を張り、流血を止める。すぐに熱が生まれ、皮膚が再生していくのが分かった。

「あまり体に良いものではありませんが……悠長な事を言ってられる傷ではありませんから」

 言って、ウォルターの腹部に空いた穴を見て呻る。

「こちらは傷が焼き切れているので、これを詰めておくしかありませんな。数週間から二か月ほどで、自分の細胞として反応しだすでしょう。当然絶対安静です。静かに寝ているのが一番いい」

 言って、ゼリー状の物体で穴を埋めていく。

「そうしたいがな……」

 ウォルターは肺から空気を逃がした。残念ながら必要最低限の処置が済んだら、また動き出さねばならない。

「中央病院でならもっと良い治療に引き継げるでしょうが……まあ少なくとも仕事は出来ませんよ」

 様々な薬液を落としたゴム状の湿布を、穴の空いた腹と背にも張り、医師は頷く。

「これで様子を見ましょう。痛みが酷い場合は麻酔を打ちます」

「いや、それはいい」

「分かりました、では暫くこのままで」

 医師が立ち上がり、カーテンを閉めて離れていった。

 のんびりとしている場合ではない。時間はまだ九時にもなっていないが、やるべき事はそれなりにある。黒いドレスの女、カーラの始末やジリアン達との口裏合わせ。遺体の処理方法の検討。ジリアンの私設兵は客として乗船している。事情を知らない一般人から見れば、警備隊長の同乗する船で十人を超える一般人の死傷者が出たという形になる。ウォルターがデッキを去る前、彼女は兵達に何等かの処置を施していたので、そこは向こう側でクリアする可能性もあるが、だとしてもまだ問題は山積みだ。

 いつまでも寝ている訳にはいかない。分かってはいるが、上体を起こす試みは上手くいかない。

 ここ数日寝る間も惜しんで例の告発状に取り組んでいた事もあり、決して柔らかいとは言えないベッドマットに体を任せる感覚は、それでも抗いがたいものがある。

 胸と腹の痛みは急速に薄らいでいっている。鎮痛効果の副作用なのかは分からないが、意識が曖昧になりかけて、ウォルターは歯を噛み締めてそれに耐えた。ここで眠ってしまえば、恐らく一時間ではきかない。

 必死にメリッサの事を思い浮かべた。全てはあの子の為。ここまできて、惰眠を貪る愚は冒せない。少しずつ、手足に力を戻していく。まだ倒れる事は出来ない。それは船を降りてからだ。

 どの位の間か、そうやって格闘している内に、誰かが医務室のドアを開けて中に入ってくる音が聞こえた。入室者は、入り口すぐの机に座っている医師と何やら軽快な口調で会話している。声量は場所の持つ意味合いを気にしてか小さめなので、今のウォルターには聞き取れない。

 扉が再び開閉する音が聞こえた後、残った足音はウォルターの他のベッドを回り、最後に彼の下にきてカーテンを開いた。

「おっ、いたいた。隊長、お疲れ様っす」

 砕けた口調、へらへらと笑う細い目。殴りたくなるようなその軽さ。

「ラット……」

 ウォルターはぼんやりと頭の痛い部下を見上げた。ラットはウォルターの上半身を見て大袈裟に驚く。

「うわっ、こりゃあ酷そうな怪我ですね。えらい事だ」

「お前……どうしてここに……」

 ウォルターはその意味を考えた。彼がこの医務室に来た時、まだ九時前だった筈だ。そして警備隊の橋からの降下は十時頃。まさか、とウォルターは視線を動かし時計を探す。もう一時間経ってしまったのか、と。

 起き上がる動作を見せたウォルターを、ラットが慌てて抑えた。

「いやいや、何してんすか。動いたらダメでしょ。医者のおっさん言ってましたよ、絶対安静って」

「今何時だ……俺は……上はどうなった……」

「大丈夫ですって、あとは俺等で何とかしますから。もういいんすよ隊長」

 ウォルターは起き上がろうとして、まだ上手く力が入らずに顔を顰める。

「痛みますか。ちょっと待っててくださいね、薬取ってきますから」

「いや、痛みは……」

 ない、というのを待たずにラットは薬品棚の方へ行き、薬と注射器を持って帰ってくる。

「おい、痛みはない、大丈夫だ」

「はいはい、分かってますって」

 ラットは慣れた手つきで注射器で液体を吸い上げていく。

「絶対分かってないだろ!」

「大きな声はやめてくださいよ。もう一人寝てる人いるんだから」

 礼節に問題のある新人から至極真っ当な指摘を受け、ウォルターはぐうと呻る。

「よし。ほーら、ちょっとちくっとしますよ~」

「やめろ馬鹿。大体お前薬なんぞ扱えるのか。今適当に選んだだろうこれ」

「いやいや、ちゃんと選んでますって」

 ラットがウォルターの首元に針を刺し、中身を注入していった。

「しかもどこに刺してるんだお前。首ってっ……」

 投与された途端、全身から力が抜けていく感覚があった。

「このっ馬鹿……なんだこの薬、意識が……」

「これでよしっ」

 ラットは薬品を片付けだした。医者気取りのつもりか、手には薄い乳白色の手袋をしている。

「まだ、上でやらないといけない事が……他の、奴等は……」

「いいや、あんたにもう出来る事はないし、他の皆はまだ船にいないっすよ」

 背を向けて棚に薬品をしまっていたラットが、扉を閉めて振り返った。いつも通りの笑顔。

「俺だけ先行して船に乗りましたから……っつーか、乗ってたんですけどね」

「……あ……?」

 意識が朦朧としだす。傷ついた心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。ラットはここ一年ですっかりと見慣れた馴染みの笑顔のまま、ウォルターのベッド脇まで戻ってくる。そこで初めて、彼が警備隊の制服ではなく灰色のスーツを着ている事に気付いた。

「いや、俺も心苦しいんすよ。隊長の事は、割とまじに好きでしたから。いや、これ変な意味じゃないっすよ」

「ラット……お前」

 浮遊感に包まれ、ウォルターは自分が殆ど呼吸をしていない事に気付く。意識した途端窒息の苦しみが襲ってくるが、肺も喉も碌に動かない。

「でもこれが仕事なんで、勘弁してくださいよ。俺ってばやる時はやる仕事人気質なんで。つーか本当に隊長が仲介人だったなんてな~」

 入隊して一年の新人。やけに社交性が高く、憎めず、身体能力は平均以下だが、その他では優秀なお調子者。

 謎の告発状。警備隊が全力で追跡して、それでも告発者の足取りを追えなかった、警備隊の捜査方法を知り尽くしているかのような書簡。

「お前……が……」

「いや俺はですね、個人的にはあんたの事見逃してもいいんじゃないかなーって思ってたんですよ。だってこっちは本命じゃないし。まあちょっと世話にもなったし、理由もあったしで。でもね~ボスがダメっていうから。これはもうホント、下っ端の辛いところっすわ」

 手遅れとなってしまった今、ウォルターは今回の事件に見え隠れしていた内通者を理解した。そう、この男は最初から、そちらの方面に特化していた。情報収集や人心掌握、ものの流れを掴んでひっそりと仕事をこなすことに。

「こちとら鬼の警備隊に入る為にあれやこれやと勉強して何とか滑り込めたってのに、扱いは低いもんですよ。ああ~もうホント、共通語の書き取りが特にしんどかった。敬語だの丁寧語だの……その上表現だの誤用だの、覚えきれるかってんですよ。おまけに、これ、この名前!」

 ラットは心底参ったとばかりに首を振る。

「偉大な男って意味でつけたはずが、一文字微妙に間違って鼠って意味になっちまってるとか……洒落ならんすよ。隊長が俺の同業を溝鼠って呼んでるの知った時はもう、終わったと思いましたね」

 自分が敗北した事はもう理解していた。この後どうなるのかも。

 だがそれでも、本当の名前すら知らない目の前の男には、どうも憎しみが湧かないのが不思議だった。警戒はしていたつもりだが、彼の毒は既にウォルターにも回りきっていたらしい。

「ま……お互いに下手打ちましたね。結局今回のメインのネタはあんたの方じゃなかったんですが、どっちにしろこうなってたでしょう。本命の方も手は打っときましたから、助からないですよ」

 ラットのいう「本命」の候補は、ウォルターには一人しか思い浮かばなかった。

 ジリアン。利害だけで繋がった協力者。

「諦めてください。お目溢しはそんなに何度も続かない、ってね。そう、つまりはそういう事ですよ。あんたは怒らせちゃいけない人を怒らせた。そういう事です」

 へらへらと笑う男に対して、怒りはなかった。そもそも、もう意識が薄れてきて碌に物事を考えられない。ウォルターの残り少ない思考能力の中で、今思う事は一つしかない。

 自身の最期にあって思い浮かぶ顔は、たった一つ。

「……メリ……サ……」

 メリッサ。ウォルターが全てを捨てて守ろうとした、この世界で足掻くただ一つの理由。胸を占めるのは、愛娘を守れなかった、という悔恨のみ。あの子に未来を与えてやれなかったという、自身への怒りのみ。

「……ああ」

 これまで、まるで状況を無視したように陽気な笑顔を浮かべていたラットの顔が、その言葉で苦しげに歪んだ。

「そう。メリちゃんは関係ないっすよね。あんたがどれだけあの子の為に汚れた仕事に手を出していたって、それはあの子のせいじゃない。あの子は何も関係ない……分かってますよ。面倒はみます、出来るだけの事してやりますよ。勿論、隊長があの子にしてやった程の事は出来ませんけどね……」

 既にウォルターには、返事をする余力すらない。呼吸が止まり、体のそこかしこが小さな痙攣を起こしている。もう何も考えられない頭の中には、愛する家族の笑顔だけが残っている。アイリーンとメリッサ、二人笑って食卓を囲んだ過日の思い出だけが。

 ラットが面倒を見てくれるのなら、きっと何とかなる。希望のようなものを抱きながら、男は目を閉じた。





「多分これで大丈夫だと思う」

 明るい照明の下、アドレイはソファに座る女性、カーラ……もといリダに様子を伺った。

 自分が首を刺して殺した女、ジリアンの使っていた特等室で、彼女の所持品から見付けた医療キットを使っての治療が一段落ついた所だった。

「ええ……そうみたい。良くなってるわ、凄く」

 ボロ布になったドレスから、この部屋にあった濃紺のワンピースに着替えたリダは、慎重な手つきで自身の体を撫で回し、頷いて見せる。全身の軽い火傷を跡も残さずに治癒した彼女は、見た目だけなら完全に回復したように見える。ワンピースの下の腹部には穴が空いているが、そちらもなんとかそれらしい治療を施し、今は受け答えが出来るようになっている。

 デッキ脇の階段を使って六階の個室まで運んでいる時は、もう助からないのでは、とも思ったが、白の大国の魔術医療は彼女の体を見る間に修復していった。喜ばしい事の筈だが……そう、恐ろしい程に。

「人類の進歩のおかげね……」

 腹を擦りながら俯くリダの顔は、自嘲気味に歪んでいる。事情のよく分からないアドレイは、元気づけようと努めて明るい声を出した。

「良かった。五階であの女の手下が、倒れてる仲間達にやってたのを見様見真似でやってみたんだけど、上手くいってるみたいだ」

「えっ……」

 リダが顔を上げる。

「あの、その男たちは……」

「ああ、大丈夫。ちゃんと改めて止めを刺しておいたよ。と言っても、半分位は普通に死んでたけど」

「……そう」

 瞼を伏せ視線を彷徨わせる彼女を見て、アドレイは言葉の選択ミスに気付いた。「半分は君が殺したんだよ」と言われて喜ぶタイプではない事は、嬉しくもあり、そして申し訳なかった。

「ごめん。言い方が悪かった」

「気にしないで。本当の事だし」

「本当は……助けに入りたかったんだ。でも俺、君みたいに強くなくてさ。多分割り込んだら邪魔になるだろうと思って……君があんなになるまで、息を潜めてた」

 アドレイは情けなさで胸が一杯になる。好きだ好きだと言って、色々なものを放り出してまで追いかけた相手が、殺される寸前になるまで何も出来なかった。それも、自分になんとか出来る状況になってからの話だ。もしあの時、近くに万全のウォルターがいたなら、飛び出せたかどうか。自分でも、その状況ではどうしていたか分からない。

 自分の気持ちが衝動的な、薄っぺらいものではないかという不安が過ぎる。

「気にしないでよ」

 リダが顔を上げて寂しげに笑った。胸を締め付けるような。

「あれはあたしの用事だったの。だからあたしが何とかするのが当然。関係ないあなたが危険な事をする必要なんてない」

「でも俺は、君の事……その」

「それに十分助けてもらったし。最後はもう本当にやられる寸前だったし、それに運んで治療してもらえなくても死んでたわ。あたしが今生きてるのは、間違いなくあなたのおかげ。感謝してる、ありがとう」

「いや、そんな……感謝だなんて」

 滅多にされる事のない感謝を、一目惚れした相手から受けて、アドレイは沈みかけた気持ちが一気に上向く。こんな状況でさえなければ、小躍りしてしまいたい位だ。

「君の力になれたなら、嬉しいよ。本当に」

 アドレイはテーブルの上から医療キットを片付けて、元々置いてあったものを戻した。サービスの高級菓子と、白い木箱から出された年代物のワイン。

「もし食べられるなら、少しでも。回復にはエネルギーが必要だろう」

 言って、自分も一つ菓子を取り、包みを開ける。黄色い紙に丁寧に包まれていた、もっちりとした薄い皮に爽やかな甘みのジャムが詰められた、一口サイズの饅頭を頬張る。

「ヴェスティアの名物だねこれ。名前は、えっと」

「リンリッジ、じゃなかったかな。橋の名前だった気がする」

 リダも一つ取って包みを開け、半分齧った。

「胃はやられてないみたい」

「良かった、残りも食べて」

 アドレイは立ち上がり、ワインを指さしながら廊下へと歩き出した。

「グラスを取ってくるよ」

 足早に廊下へ出て、放りっぱなしのワゴンからワイングラスを二つ調達して部屋に戻る。この部屋の本来の権利者が人払いをしたのか、アドレイがリダを運び込んでから今まで、スタッフは一度も顔を見せない。

 テーブルにグラスを置いてリダの向かいのソファに腰を下ろし、早速ワインを開けにかかると、彼女が躊躇いの声を上げた。

「お酒は……」

「ああ、ダメだった?」

「飲めないんじゃなくて……この後の事を考えるとね」

 リダは肩を竦める。

「一応逃げる算段をつけてたんだけど……間に合わなかったみたい。九時過ぎに、逃げ出す筈だったんだけど」

 言われてアドレイは部屋の壁掛け時計に目をやる。九時二十分に差し掛かろうとしていた。

「間に合わなかったって、どういう事。待ってくれなかったのかい?」

 視線を正面に戻すと、リダが手の平を開いてサンストーンの原石を見せ、テーブルに転がした。

「それ、もしかして逃がし屋の……」

「そ。九時過ぎに逃がし屋の船が近付いてきて、それに飛び乗って水路伝いに脱出……の筈が、あたしは死にかけてて連絡がつかずに撤退。やり直しは危険だから無理だって」

 アドレイはテーブルの原石を手に取った。

「君……逃がし屋に依頼出来るんだ……」

「え?」

「俺なんて、合言葉みたいなの知らないからさ。頼めなかったよ」

 力なく笑うと、リダがああ、と小さく頷いた。

「マードラの噂話、って知ってる?あれのどれかを使って話すの」

 裏稼業の者達なら誰でも一度は聞いた事のある、厄介者マードラの五つの失敗談だ。それぞれの話に異なる敵と、失敗と、結末がある。

「ああ、それなら一つ位は知ってるよ。なんだ、そうだったのか……」

「知り合いから聞いていないと分からないわよね。と言っても今回のあたしはちょっと特殊だったけど。まあいつもはそれよ」

「君は誰から?」

「仕事の仲介人から。もしもの為にって、以前にね。ヴェスティアで仕事をした事はないんだけど」

「いいなあ。俺なんて相棒がいるのに、」

 言い差してアドレイは小さな胸の痛みに耐える。

 相棒、ヒラリーは今回の件で激怒させてしまった。冷静に考えれば考える程、申し訳ない事をしたと思う。彼女もヴェスティアに来ていたような事を言っていたが、無事だったのだろうか。お互い無事にドットガルに戻れたらちゃんと謝ろう、とアドレイは反省し、そこで自分の問題も思い出した。

「あ……そういえば俺も、脱出の手段がないんだった」

 アドレイを見詰めるリダの顔が、ぽかんとしたものになった。

「何も?」

「ああ、うん……とにかく君に会わなきゃって思ったらさ、後回しになっちゃって。俺はそもそも乗船客じゃないから、潜入からだったしね。まあその、つまり」

「……行き当たりばったり?」

 気が抜けたような、呆れ顔の息が彼女の口から漏れ、アドレイは軽く手を上げてそれを肯定した。

「……そんな感じ」

「船に潜入出来たって時点で、凄いとは思うけどね」

「俺って昔から影が薄いらしいんだ。だからこっそり動いたり隠れたりってのは、まあ得意なんだよ。案外このままこっそり出れるかも、なんて甘い気持ちもあったりして……」

「それは流石に、楽観的過ぎると思うけど」

 少し笑った後、思い直したように頷いて、リダは饅頭の残り半分を口に入れた。

「でも、そんなものかもね。その位の気持ちでいいのかも」

 小さく口を動かすリダの穏やかな表情を見て、アドレイは彼女と問題なく会話出来ている事に安堵した。いつもなら緊張して何度も言葉をどもらせたり、相手の顔をまともに見れないのに、今は不思議と平常心でいられる。

 ――ツインテール、でしょ。

 相棒の鋭い指摘が甦る。

 確かに今、リダは髪を後ろで一纏めにしている。どう見てもポニーテールだ。一房切られたからだとはいえ、この髪型の変更に若干気落ちしている自分がいるのは認める。

 だがそれがどうした、とアドレイは自身を奮い立たせた。それでも……例え彼女に対して少しばかり魅力を感じなくなっていたとしても、自分はまだ彼女の事が好きだ、と。一目惚れではあるものの、決して髪型だけで好きになった訳ではなく、また、彼女との関係もこれから次第だ、と。現にアドレイは、リダと話していて楽しい。状況に反して心は弾んでいるし、彼女をもっと知りたいと思う。

 もしかしたら彼女は自分と合わない相手かも知れないが、それでもこの出会いを望んだ事は間違っていなかったと、はっきり言える。

「その服を着てここでじっとしておけば、この部屋の女と思われて見逃されるかも知れないよ」

 アドレイがおどけて言うと、リダが苦笑して首を振る。

「警備隊の名前を出してた奴がいたから、きっとそれは無理じゃないかな。あたしの顔はバレてるんだと思う」

 警備隊という言葉でアドレイは、盗み聞きしていた彼等の話の内容を思い出し、声を上げた。

「警備隊……そうだ、あの男が言ってたよ。十時頃に船が通過する橋から、警備隊が飛び降りてくるって」

「じゃああと三十分ちょいって事ね。流石に今警備隊と戦うのは無理だし、だめかな」

「下の女に君の服を着せておけば、少しは攪乱出来るかも。後から来る警備隊は君を直接見たとは限らないよ。君は今、服も髪型も違うんだし……あの男医務室に行ったんだよね。今からあいつの止めを刺してくれば、まだ可能性は……」

「いいの、やめて」

 少し強いリダの口調で、アドレイは浮かしかけた腰を下ろした。

「顔見られてるの、警備隊にも。きっと誤魔化せないわ。そんな事で、これ以上あなたに余計な殺しをさせたくない」

「俺は別に……」

「いいえ。やめておいて」

 言葉以上の眼差しを受けて、アドレイの胸に相棒の忠告がまた浮かび上がる。

 ――そういうのって、長生き出来ないのよ。

 なぜ今そんな事を思い出したのかは分からないが、リダがその戦闘力に反するように、殺しを良く思っていないのは確かだった。それはとても切実で、拒否すればその時点でこの関係が終わってしまう予感すらあった。

「分かった……でもじゃあ、どうするんだ?」

「どうにも。別に……もう捕まってもいいかな」

「そんな……それじゃ君が警備隊に」

「あたしがやった事以外は認めないし、ちゃんと調べがつけばそれが本当だって分かる筈」

 そう言うリダの顔は、しかし自分の言葉を信じているとは思えない程諦観が強く滲み出ている。それは全力で怒った後に、疲れ切ってしまった時のヒラリーにも似ていた。

「……本当にそう思ってるのか?」

「少なくとも、この船の死体はあたしの責任だしね。他人のチケットで船に乗ったのも、盗みをやったのも警備隊をやったのも……ああ、結構やってるわね」

 苦笑してみせるリダに、アドレイは頷けない。誰が何と言おうと、彼は彼女に惚れているのだ。これだけの事をしでかせば、警備隊に捕まった場合まず無事では済まない。このヴェスティアにおいては、彼等は彼女をあらゆる方法で取り調べる権利を持っている。あらゆる方法で。そんな事はおいそれと了承出来ない。

 しかもヒラリー達からの情報と併せて考えれば、リダが警備隊から追われる事となった原因は、アドレイがロッディから奪う物を間違えたせいでもある。彼女に罪があるのは認める他ないが、その重量は明らかに不当だ。

「ダメだ、そんなの。警備隊が君の話をまともに聞くとは思えないよ。医務室にいる奴が不利な証言をするだろうし」

「でも逃げ道はないし、あたしに警備隊を跳ね返す力はもうない。あなたにも、そんな危険は事して欲しくない」

「……まあ、言われなくとも、俺に警備隊と戦えるだけの力はないけどね。でもだからって君が捕まるなんて」

「だったら、ここで大人しくして、彼等が見逃してくれるのを期待する。やる事は変わらないけど、それでいいでしょ」

「でも、医務室の男は殺すなって?」

「こんな事言って信じてもらえるか分からないけど」

 少し気まずそうな顔。

「殺しは好きじゃないの。勿論あなたには感謝してるけど」

 移ろうリダの瞳が、真正面から見詰めるアドレイのそれと結ばれた。

 その瞬間

「でも、誰だって命は大事でしょ。きっと、どんな奴だって……あたしだって。だから」

 その瞬間、アドレイは数時間前のカジノホールで見た彼女の横顔を思い出した。長いロングツインテール。少し大人びた化粧とブラックドレス。大勢の観光客で賑わう赤い絨毯の広場の中で、彼が彼女に目を奪われたその理由は。

 場違いな程純真なその瞳。どれほど隠しても隠し切れない、未来への期待に満ちたその輝きだったのだ。

 それは単純な、自身だけの明日に対するものではなく、もっと広い、もっと大きい期待。きっとこの世界は、今がどれだけ穢かろうと、ここからは少しずつ美しくなっていく……その可能性はあるのだという、瑞々しい少女の希望。アドレイが強迫観念のように望み続けながら、しかし終ぞ信じ切る事の出来なかった幸福な未来を心から信じ願っていた、あの無垢で幼く力強い笑顔にこそ惹かれた。それこそが彼女に一目惚れした理由だと、アドレイは気付いた。

 彼女は自分を殺そうとしていた相手にすら救いを夢見ているし、殺した相手に有り得た人生を儚んでいる。その愚かな理想を、夢物語と断じて摘み取る事など、アドレイには出来ない。そこに魅せられたからこそ。

 ならば彼に出来る事はもう、一つしか残っていなかった。

「だったら、飲んでもいいんじゃないかな」

「えっ」

 ボトルのコルクを抜き、テーブルに置いたグラスへ開けた口を傾けていく。丸く底の広いグラスが赤色に満たされていく。

「素面でいたって飲んでたって、ここで待つなら変わらないだろ?むしろ飲んでた方が、この部屋の客だって信憑性が上がるよ」

 グラスをとって、アドレイはリダに向ける。出来る事は、警備隊が来るまでここで彼女と過ごす、ただそれだけだ。

「付き合うことないわよ。あなたは……その、人に紛れるのが得意なんでしょ?その服を着てスタッフの振りしてた方が、ここにいるより……」

 彼女の指摘の通り、アドレイ自身追われる身だ。しかも彼の方は間違いなくロッディの件と関係がある。だが、ここは譲れない。

「告白したばっかりだろ。君にも断る権利は、確かにあるけどさ。せめて今一緒に飲むくらいは許してくれよ」

「…………ちょっと、今そういうのは、正常な判断が出来てないと思うし、答え辛いんだけど」

 少し躊躇った後リダはグラスを取り、周囲を見渡す。

「だって、今は卑怯じゃない?」

 慰霊祭の山場の、誰もが羨む豪華客船の特等船室。向かい合って座る二人の側面は全面ガラス張りの窓になっていて、フィナーレに向けて打ち上がり続ける七色の花火達がその一瞬の美を空に描き連ねていく。

「俺にとっての勝負時って事だろ」

「まあ、そうかも」

 つまり舞台演出は最高という事。二人が腕を前に伸ばし、手首を傾けてグラスを合わせると、小気味の良い音が鳴る。

「会えて嬉しいよ、リダ。その……この後がどうなるかは分からないけど、君がよければ、今後もよろしく」

 リダが小さく噴き出した。

「よろしくアドレイ……この後がどうなるかは、分からないけど」

 そう、この先はどうなるか分からない。彼女は警備隊に捕まる可能性が高いし、アドレイとて他人事ではない。

 それでも、その道の先に光はあると信じて。

 二人がグラスに口をつける寸前に、大きな爆発がガラスの向こうの空で起きた。花火大会を締め括る最後の、特大の一発。ガラス窓を揺らす程の大音響と共に、宴の終わりを告げる虹色の大輪が花咲き、ゆっくりと深い蒼に溶け混ざっていく。

 手を止め、目を細めて透明な壁の外を見上げるリダの顔は少し寂しげで、その光に別の何かを見ているようにも思える。新たな明日へ、駆け出さんばかりの希望を抱く、子供のような純真さを持ちながら、過ぎ行く今日を惜しむ繊細さも同時に内包する彼女の、その有り様にアドレイは言葉が詰まる。

 全ては対比だ。美しさを際立たせるのは、心を動かすのはそのコントラスト。強い夏の日差しと、それによって道路に刻印される木々の葉の影のように。

 その横顔に見惚れながら、アドレイはワインを一口含み、慣れない葡萄酒の味を噛み締める。

 散々な一日ではあったが、それでも今日を振り返る時、こう断言出来る。いい日だった、と――




 一際大きな炸裂に、リダは顔をそちらへ向ける。最後の一発。空調の効いた室内から見上げる特大の閃光に目を細める。

 この旅行は最初から罠だった。更には、そこにリダ自身の未熟が招いたトラブルが重なり、お世辞にも楽しい余暇と呼べるものではなくなってしまっている。

 ウェード・コンラーシェのドレスはもう使い道がない程切り刻まれているし、後ろ髪は半分なくなったし、大怪我をしてしまったし、師の教えは破りに破りまくってしまったし、自分の技術は見破られたし、

何より、情けない泣き顔を何人にも見られてしまった。

 そしてそれらの清算として、恐らくは間もなく警備隊に拘束される。どう頑張って言い訳しても、今日はいい日ではない。

 だが「なんであたしが」という気分ではもうない。

 いつかはこうなるのだろうな、とぼんやり意識していた日が、とうとうやってきただけの事。後悔を言い出したらキリがないが、しかし理不尽とは思わない。凪いだ心は、或いはただの諦めなのかも知れないが、少なくとも今この花火を美しいと思えるだけの余裕を取り戻せた事は嬉しかった。

 捕まった後の事は考えたくもないが、大人しく投降すれば命までは取られないだろう。

 釈放後の、リダが台無しにしてしまった取引に関与していた連中の報復はもっと考えたくない……が、なんとかするしかない。そういう生き方を選んでしまったのは自分なのだから。

 もしかしたら、向かいに座る不思議な青年、アドレイがまた助けてくれるかも知れない。

 リダはその身勝手な期待に心中で自嘲した。

 彼が彼女より平然と命を奪える人種なのは気になるものの、悪い人間なのか、と考えた時、そうとも言い切れない。リダはアドレイが辿って来た人生を知らないし、もっと言うとほぼ何も知らない。

 リダが警備隊に捕まった後、まだ彼女と関わりを持ちたいと思っている可能性もあるし、案外あっさり他の女に一目惚れする、目移りタイプの可能性もある。もし前者なら……暫く付き合って見るのもいい。

 比べる事自体無礼な発想だと思うものの、リダの中のいい男査定でアドレイが二時間程前の紳士、オリオハイムより下位に位置しているのは、誤魔化しようがない。だが、その評価だってこれからの付き合い次第だ。彼が本当に、警備隊に捕まった後のリダを待っていてくれるのなら、逆転は大いに有り得る事。

 今日は間違いなくいい日ではなかったが、明日以降も必ずそうとは限らない。

 ゆっくりと、けれど確実に薄らいでいくヴェスティアの夏の風物詩を眺めながら、リダは唇に触れたグラスを傾けた。

 ごとり、と目の前で音がしたのはその時だった。

 リダは至って平常心でそちらに目を向ける。アドレイが半透明のテーブルの上へ、前のめりに上半身を投げ出して倒れていた。口元からはワインが零れ、手に持っていたグラスは深い絨毯に落ちて染みを作っている。

 数秒間、リダはそのままの姿勢で硬直し、何が起きたのかを考えた。

 倒れた。白目。動かない。口元のワインの色。赤すぎる。脱力。

 次の瞬間、リダは止まっていた時間を取り戻すようにソファから跳ね上がり、自分のグラスを投げ捨てた。くしゃり、と絨毯の上でガラスの割れる音がした。

「何なのよ……」

 急激な立ち上がりの反動が治っていない腹部へ押し寄せ、激痛に顔が歪むも、その目はしかと倒れこんだアドレイを見詰めている。何故なら、目の前の男は死んでいる。その原因は、どう考えても、

「何なのよ!!」

 思わず叫んだ後、はたと気が付いたリダはテーブルを回り込んで、アドレイが絨毯へ降ろした医療キットを開く。

「解毒……解毒剤は……」

どう見ても原因は毒だ。饅頭はほぼ同時に食べたリダが平気なのだから、ワインに入っていたとしか思えない。しかもこの即効性。飲んで数秒の内に死を招くなど、見た事がない。半端ではない威力だ。

「これ?これよね」

 漁ったキットの中から解毒治療用の注射器を取り出して、リダはその太い針を迷いなくアドレイの心臓へ刺し、中身を注入する。全身に一番早く、効果的に薬を回すにはここしかない。

 だがアドレイの首や手足は、まるでリダの付け焼刃の治療を嘲笑うかの如く青黒く変色していく。効いているようには見えない。いや、そもそも間に合っていなかったのかも知れない。

「うそ、嘘でしょ……」

 リダはこの医療キットの本来の持ち主、ジリアンを思い出す。彼女は、リダが殺した彼女の部下達に、何かを撒いていた。青い種のようなもの。リダはそれを探しだし、指で摘まむ。

「これ……どうやって使うのよ」

 使い方が分からない。そうしている間にもアドレイの全身はどんどん手遅れの色に染まっていく。

「ああ、もうっ!」

 どうにでもなれ、とばかりにリダはその種をアドレイの体へ放ってみた。きしり、と硬質な音がした。だがそれだけだ。肌の色は戻らず、アドレイの呼吸も脈も戻らない。明らかに死んだままだ。

「何よ……どうなってるのよ……」

 アドレイの首元から手を放して、リダは呆然と呟いた。あっという間の出来事で、悲しむ余裕すらない。彼には申し訳ないとも思うが、リダが彼の死を「人が死んだ」以上に感じるには、色々なものが足りな過ぎた。そこにはただ、後味の悪い戸惑いだけがあった。

「だって、そりゃあ助けてもらったけど、会ったばかりだし、でも、なんで」

 どう感じるべきか混乱するリダの目が、絨毯の上で光るルビーを見咎めた。個人用通信石。少し躊躇った後、考える事を放棄して彼女はそれを手に取った。

『……アドレイ。あなた今、本当に遊覧船に乗ってるの?乗ってるんでしょうね……』

若干のノイズに阻まれつつも、不機嫌丸出しの女の溜め息が、リダの鼓膜に届いた。

『ええ、ええ。そうでしょうとも!あなたはそういう奴だもの!そのせいでわたしがどれだけ苦労してるか……』

 リダは何か言おうと口を開きかける。

『いいえ、いいわ!何も言わないで。自分の馬鹿さ加減にもうんざりしてるんだから……

そう、確かにわたしにもほんの少しだけ……少しだけよ、落ち度はあったわね。あなたに鍵を盗るように言わなかった。言ったってきっとこうなったと思うけど、確かに可能性としては……そう、事実としてはわたしの落ち度もあった。だから、これっきりよ』

 女の声は酷く苛立っていて、それは未練がましくも、言い訳がましくも聞こえた。むしろ自分自身に言い聞かせているような口振りだ。

『四階の、452室に行って、ノックを六回、四回に分けてした後、明日の天気を教えます、と言いなさい。中にいる男が、そこから逃げ出す手配をしてくれるから。言っておくけど、あなた一人分しか払ってないからね。もしツインテールの女に上手く出会えてて、一緒に逃げようっていうんなら、あなたが彼等と直接交渉しなさいよ。それで、わたし達は本当に終わり。あなたの情報は全部、依頼元に洗いざらい吐いてるから。自宅になんて戻れないわよ』

 そこでまた一つ、大きな溜め息が聞こえた。

『じゃあ、それだけ。さよなら』

「彼、死んだわ」

 通信が終わるより先に、リダは応えた。相手が黙り込んだ。石は輝いているので、周波はまだ途切れていない。

 少しの静寂の後、先程とは打って変わった冷たい声が響いてきた。

『あんたが殺したの』

「違う、あたしじゃない」

 リダは動かないアドレイを見ながら答える。

「助けてもらって、それで、色々あって……そのワインを飲もうって話になって……」

『は?』

「本当の事なのよ!」

『端折りすぎじゃないの。色々って』

「そうなんだけど……でもワインを飲む事になる経緯には関係ない事ばっかりなのよ。要するにもう観念しちゃって、どうせ逃げられないなら開き直ってワインでも飲もうってなったわけ」

『……ああ、成程。納得出来てしまうのが悔しいけど、うん、納得した』

苦々しげな声を聞いて、リダはなんとなく通信相手の苦労を察した。

「それで……あたしが花火に目をやってる内に彼が先に一口飲んで、その後急に倒れて、今出来るだけの事をしたんだけど効いてる感じがしない。つまり、死んだままってこと」

『そりゃ死んだ後には何したって手遅れでしょうよ』

「そうなんだけど……」

 イズオライドの治療薬なら、と息を吹き返す可能性に賭けたリダの行いは、彼女には伝わらなかったようだ。

『……まあ、いつかはこうなるとは思ってたけどね。それが今日だったって事よね』

 今度の溜め息は、小さく物憂げだった。

『あんたのせいって訳じゃないんでしょうね、多分』

「あたしもよく分かってないけど……ワインを持ってきたのは彼。助けてもらった手前、何とかしたかったけど……」

『だよね。そういう所あったのよね、彼』

 相手はもう、アドレイを過去形にしていた。それは自然に聞こえたが、語尾には無理やり取り繕った響きが、微かにあった。

『仕方ないわ。じゃああんたがツインテールのカーラね』

「そういう呼ばれ方には慣れてないけど、そうね」

 今はポニーテールとなったそれを左手で弄りながら、リダは答えた。

『逃がし屋にはもうお金払っちゃったし、折角だから452号室にはあんたが行きなよ』

「逃がし屋に頼んだの」

『そりゃそうよ。この街で他にどこに頼む?』

「そうね、確かに……じゃあ、ありがたくそうされてもらう」

『じゃあね。もし良かったら……一目惚れした女の為に、周り中に迷惑かけて馬鹿やらかした挙句に死んだ、馬鹿な男がいたって事、覚えててやって』

「ええ、きっと」

 リダはそっとルビーをアドレイの顔の傍に置き、立ち上がった。自身のつくづくの半端者ぶりに落ち込む。結局逃げ出す道があるのなら、逃げ出してしまう。それが彼女だった。

「……まあ、それがあたしって事よね。情けないけど」

 呟いて身の回りをさっと一瞥したリダは、テーブルの上のワインボトルの底に何かが入っている事に気付いた。無言でボトルを掴み、絨毯の上に中身をぶちまけると、金色の、小指程のサイズのチップと、同じサイズの紫水晶が現れた。

 毒物の皮膚吸収を警戒して、テーブルの上にそれを落として観察する。アメジストは何かの映像を記録するのに最適で、そして金色のチップには複雑な文様がびっしりと書き込まれている。

 何かの取引品だ。チップを見るに、恐らくは軍事産業方面の。

 リダの頭の隅で、冷静な計算が行われた。これは値が張る。きっと、七色玉のネックレス等とは比べられない程に。

 少しの間それらを睨んだ後、腰のポケットから二つのサイコロを取り出して、テーブルに転がす。

 大のダイス3と小のダイス4。ちょっとヤバい。

「沢山よ」

 リダはサイコロを回収し、そのまま部屋を出た。

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