湖上のラグステップ 2
リダの体から力が抜けていった。ウォルターに握られた右手が力なくだらりと垂れ、左手はナイフを取り落とし、両膝が木床に落ちる。腹部に直撃した極光は彼女の体を貫通し、直径2センチ程の穴を空けていた。
未だ続く回復薬の効果がじわりと暖かい熱で患部を包むも、傷口は焼き切られ、自然治癒の見込みは有り得ない。体の中心より左に逸れていた為、背骨を撃ち抜かれる事だけは避けられたが、だからと言ってどうなる話でもない。明らかな致命傷だった。
「あっ……くっ、あ……!」
同時に、ぎしりと全身の関節が悲鳴を上げた。感情のリミッターを外し、思うがまま、最適と判じた動きを体に要求し続けた反動が、一気にリダに襲い掛かる。全身が酷い熱病に苛まれているかのように、熱く、重くなっていく。
敗北。意地を捨て、恥を晒しながら全力を出し切った結果、辿り着いたのは結局そこだった。
目の前でリダの手首を掴んでいたウォルターの体が、彼女と同じく力を失って膝を折る。胸に刺し込んだナイフは引き抜くだけで彼の命を奪うが、今のリダにはその力がないし、もうその事に意味があるのかも分からなかった。敵はまだ一人傍に残っているし、更には崩れ落ちたウォルターの後ろにももう一人いる。
自分の右手を掴む目の前の男の握力が、まだ持続している事が不思議でならなかった。彼もまた、腹に致命的な穴を空けられている。リダはウォルターの目を下から覗き込んだ。強い眼差しが、今も彼女を睨み付けている。そこには自身の状況に対する驚愕や失意が全くない。
何がこの男をここまでさせたのだろう、とリダは悲しくなる。相打ちを望んで腕を掴みに来る程に、自分の事が憎かったのかと。
だがその手前勝手な自己憐憫はすぐに納得に変わった。視界の端々に転がる男達、その無残な亡骸は自分が作ったのだと思い出す。彼等が警備隊でないだろう事は装備ややり取りで気付いたが、それでも殺せば死に物狂いの反応が返ってきて何ら不思議ではない。
自分は恨まれ、憎まれ、殺されるに値する人間なのだと納得してしまう。そして今日が、良い日でなかったという事も。
デッキ脇にある階段を使って、上階から誰かが下りてくるのが視界に入った。
リダを狙撃した女、ジリアンは場違いな程優雅な足取りでデッキ後方へと近付いてくる。歩み寄る途中、その付近にある死体がキシリと音を立て、青く発光する。
「酷い怪我ね、これをどうぞ」
ジリアンがウォルターに経口回復薬を渡し
「お代は結構よ。それから貴方は――」
残った最後の私設兵に向かって、青色の小箱を投げて渡した。
「それを使って彼等を保存して。まだ何人かは助けられるでしょう。適切に処置すれば」
受け取った男がリダの作り上げた死体達に、小箱の中身である青い飴玉に似た粒を投げると、空気を固めたような音が次々と上がり、青い光が一瞬上る。どのような効果があるのかは推測するしかないが、それでもリダが一つ確信を持てる事は、これがイズオライド製だという事だ。
ウォルターが気力を振り絞るように緑の液体を飲み干す。
「まあ、どちらの傷もそれだけでは足りないでしょうね。医務室へ行ったほうが良いのではなくて?あそこなら、うちの製品がきちんと整っているから、何とかなるでしょう」
ウォルターがリダの手を離し、立ち上がる。
「この女は……」
「私が尋問しておくわ。大丈夫よ」
「……分かっているな。あと」
ウォルターは黙り込んでジリアンへ目を移す。十時頃になれば、本物の警備隊が橋から降下してくる。リダに情報を与えたくない為口には出さないが、時間制限はある。
「ええ、問題ないわ」
ジリアンはさらりと頷いて笑った。
「貴方の方こそ、その恰好では示しがつかないでしょう。どう言い訳するつもりかは知らないけれど」
ウォルターは自身の状態を改めて確認する。胸にナイフを突き立てられ、腹に穴の開いた状態では、確かに警備隊の面々への説明に困る。捕らえた女、カーラ――リダは最終的に殺すしかないだろうが、今夜の事態について、遊覧船スタッフと警備隊、どちらも納得する理由を考えなくてはならない。
「なら任せたぞ……これで、俺の仕事は……」
「この女が本当に当たりなら、そうね。大負けに負けて完了と言ってもいいわ」
私設兵の男が死体達を青く発光させる中、二人は少しの間見詰め合い、やがてウォルターが穴の空いた腹部を手で押さえながら、デッキ入り口へと歩いて行った。胸にはナイフが刺さったままだが、抜けば出血が増えるのでそのまま行くしかない。
ウォルターがデッキを出る頃、私設兵の作業も終わった。
「あいつに薬を渡さなくて良かったんですか。あれ位の傷なら治せるやつ持ってきてるでしょう」
男がウォルターの出て行ったデッキを見やった。
「彼はここに居ない方が都合が良いの。それに、勿体無いでしょう」
声音も表情も変えずにジリアンはそれに答える。そういった返事に慣れているのか、男は小さく肩を竦め、足元の仲間達を顎で指した。
「こいつら五階へ移しておきますよ」
「ええ、私の部屋に一通り道具があるから、それで何とかしてみて。駄目だった者は……重りをつけて沈めるしかないわね」
「……出来るだけそうならないようにしますよ」
ジリアンからプライベートデッキへの通行カードを受け取った男は、苦々しい表情で倒れた仲間達をデッキ脇の階段から五階へ運び始めた。
「さて……それでは」
ジリアンがリダに振り返り、手に持つロッドの先を向けて微笑んだ。
「質問に答えてもらおうかしら」
二人の距離は3メートル程。ロッドはウォルター達が使っていた打撃用のものではなく、古い時代に活躍した魔術行使用だった。向けられた先には大振りなシトリンが嵌め込まれ、胴部には様々な文様が描かれている。
リダの視線に気付いて、ジリアンがおや、と眉を上げた。
「珍しい?今時は魔銃ばかりだものね。けれど……優れた術師にとってはこちらの方が使い易いのよ。魔力を正しく力として使える者にとっては……昨今ではどんどん数が減っているけれどね」
リダが黙っていると、ジリアンはつまらなげに溜め息をついた。
「喋れない程の傷という訳でもないでしょう」
「……腹に穴空いてるんだから、出来るだけ安静にしたいのよ」
言って、リダは顔を顰める。喋るだけで腹部の痛みは増し、眩暈がする。全身の関節の痛みは主張を続け、気を失いそうになる彼女の意識をその都度引き戻している。ジリアンにどう見えていようと、喋るのも辛い程の満身創痍だった。
「薬をあげたい所だけれど、貴女はどうも危険な動物のようだから、残念だけどこのまま続ける事にするわ……さあ、では簡潔に済ませましょう。貴女が盗んだ鍵を渡しなさい」
「ここにはないよ」
「ではどこに?」
「さあね」
今のリダは呼吸一つにも体が上下する。回復薬の効果はもう殆どない。
ロッドを構えたまま、ジリアンは小首を傾げた。
「口から答えてくれないのなら、頭に直接聞くことになるのだけど……多分相当に痛いわよ」
「あっそ」
言い返すリダだが、本心は相当に怯えている。先程の戦闘途中で聞いた、頭が半分残っていればいい、という私設兵の言葉が何度も頭の中を跳ねる。本当はさっさと吐いてしまいたい。だが、その後用無しとなった自分がどうなるかも、察しがついている。
そんな彼女の心境を見抜いてか、ジリアンはあやすように柔らかな声を作った。
「意地を張るのはやめなさい、私は貴女を評価しているのよ。ラグステップ、ですっけ?私の兵達を薙ぎ倒すなんて、凄まじいわね」
やはり警備隊ではなかった、という良く分からない安堵がリダの内に広がった。
「あんたの兵隊が弱いだけじゃないの」
「謙遜は必要ないわ。貴女の戦いぶりを見ていたけれど、自分の周りの魔力を感知して、微弱な振動を与えているのね。動きで相手を翻弄しながら、自分は反射される魔力の反応を見て全方位をカバーする……ソナーのように。素晴らしい技じゃない。特異な才能は要らないだろうけど、恐らく途方もない修練が必要だった筈。この先役に立つ機会は減り続けるでしょうけど、それは誇っていい事よ」
「……それはどうも」
魔力の反射だのと言った概念はリダには分からない。彼女はただ、その技を理屈でなく体で習得しただけだ。それでも、また一人自分を暴いた者が出た、という事は理解できた。
「だから、貴女にチャンスを上げてもいいわ。どこに属している者かは知らないけれど、私の兵にならない?待遇は保証するわよ」
灰色のドレスを纏った淡い金髪の女は、つい今しがた自分の兵を死傷させたリダに悠然と誘いをかける。困惑するリダににっこりと、作り物めいた完璧な笑顔を向けて。
「その技能は何か新しい技術に取り入れられるかも知れないし……ああ、勿論、貴女を切り刻みはしないわ。普段はイズオライドの第一都市で優雅に昼出勤。給与は紙幣で週五万以上。有事の際にはその分の手当も別に。装備は出来る限り最新のものを回すし、仕事の途中で死んでしまっても、助かるかも知れない。どう、今の仕事よりは悪くないのでは?」
これなら鍵を渡しても平気でしょう、と淡緑の瞳が問いかけている。
確かに、この女の言葉が本当なら喫緊の命の危険はなくなる。そして提案自体も魅力的だ。
ドットガルのスラム街に置いてきた全てを捨て、イズオライドに移住する。確かに悪くない。この女が警備隊と繋がっているのなら、この後ヴェスティアを脱出するのだってもっと簡単になる。仕事を行う回数は減るだろうし、普段の生活も向上するだろう。
第一都市と言えばイズオライドの中央、技術の最先端だ。リダはその生活を想像してみる。朝はゆっくりと日が昇ってから起きて、整備された道路沿いのカフェで朝食を食べ、文明の利器に囲まれながら当てがわれた仕事をこなし、夜は誰かと夕食を楽しんで、広い自宅に戻り冷えたドリンクを片手に眠気を待つ。時々は誰かに誘われて部屋にいく。休みには街をぶらつき、気に入った服や小物を買う。気分によっては家具も見て歩く。新しい街で出来た知り合いと、流行りのアクセサリーや人気の店について益体なく話し、好みの男性と出会うのを夢見る。
全くもって悪くない。きっとリダという人間にとって理想的な、これ以上ない成り上がりのルートだ。どうせスラム街に置いていくものなど、たかが知れている――
「……折角だけど、遠慮するよ」
「あらあら。本気なの」
「まずあんたが全然信用できないってのがあるし、それに……」
「この状況で誘いをかけているのに信用出来ないって……がっかりさせないで頂戴。穏便に済ませない方法だってあるのよ。それでもこうやって猶予を与えている時点で、真実の証明にならないかしら」
「ああ、そうだろうね。でも理由はもう一つあってさ。あたしも立派な人生歩いてきた訳じゃないけど、やっぱり人体売買なんてクソい事やってる奴等の仲間になるのは御免なんだよね」
「……人体売買、ね」
ふふ、と声を漏らすジリアンの微笑みに、蔑みの色が加わった。
いや、とリダは思い直す。この女は最初から周囲を蔑んでいた、と。
「酷い話よね。人を人として扱わず、切り刻み、抉り出し、投与し、分解し……生きる権利を剥奪する。……けれど、犠牲があってこそ人類は前に進む。私の兵や……恐らく貴女も使った事がある回復薬はそうやって進んだ結果に出来たもの。恩恵は皆受けているのよ。人は皆」
「じゃあそれを世界中に訴えなさいよ。禁止されるって事は、悪いって事でしょ……同じ、人を……」
傷の痛みにリダは顔を歪めて口を閉じる。デッキは今、彼女達二人を残して誰もいない。花火は空を漂う煙が散るのを待って、先程から少しの休憩となっている。風は穏やかで、二人の声はお互いによく届く。
「あらあら、その言い方だと人以外なら切り刻んでも良いという風に聞こえるわね」
ロッドの先の水晶をリダの心臓に向けたまま、ジリアンは肩を揺らす。その顔には、小動物を甚振って反応を観察する研究者の嗜虐性が見え隠れしている。
「犬や猫なら実験に使っていいと?人間以外の犠牲なら?より謙虚に考えるなら逆じゃないかしら。人類の進歩の為には人間を犠牲にする方が、理に適っていると思うのだけれど」
「理に適ってたって許されない事はあるわ。犬や猫でもだめで、勿論人間でだってだめって事」
「子供の言い分ね」
言いながら、ジリアンはリダが今回の取引を理解していない事を悟る。彼女は、今回の取引で扱われているのが人間ではないと知らない。それは彼女が、今回の自分達の取引を最初から邪魔し続けた密告者の仲間ではない事を示していた。
「人間に限らず、全ての命は他の命を犠牲にして生きている。犬や猫だって、人を食べられるサイズの者達は食べる。私達だってそう。牛を屠殺する現場は本当に残酷だけれど、メインに出てきたフィレ肉は美味しかったでしょう?」
倒されたテーブルを顎で示すジリアンに、リダは苦々しく答える。
「食べてない。メインが来る前に、あんた達が来たから」
「あら残念、とても美味しかったのに。でも、そういう事よ。食べるのではなく、実験の為に解体するというだけ。それが他の動物ではなく、人間だというだけ。私達に解体された人間は体の栄養にはならないけれど、その結果生み出された技術が人間の命を助けている。例えば、不治の病を克服したり、ね。私達の研究で助かった命がいくつあって、これから助かる命がどれだけあるか……考えてみて」
「どれだけあったって、その為に、何の関係もない誰かが、理不尽に殺されているのは変わらない。納得も了承もしてない人を無理矢理切り刻んでるのがあんたらよ。そんなのは、理屈や道理が正しくたって、許されない」
息を乱しながらもリダはジリアンを睨んで声を張る。間抜けな噴出音と同時に、花火が再び空に上がり始める。
「犬や猫や牛だって本当はだめなんだろうし、だめって事になるなら、フィレは残念だけどそれでもいい。問題は……言葉も感情も理解出来る同じ人間を、あんた達が他の動物と一緒に犠牲に出来てるって事。犬や猫相手にだって手が止まっちゃうような事を、人間相手に平気でやれるって事。そんな奴等の仲間入りは御免って事」
「街を見なさい」
ジリアンは視線を湖岸の市内へ巡らせる。夜の闇に浮かび上がる、白壁造りの商業都市、ヴェスティア。
「あの街の灯りを。夜を照らす文明の光を。あれだって多くの犠牲の上に得た技術なのよ。あの光を生み出す為にどれ程の犠牲があったかを多くの人々は知らないし、知る必要もない。ただそれを享受すればいいの。わざわざ目を凝らして見咎める必要なんてない。ほんの少しの、取るに足らない犠牲よ。そうでしょう?」
ジリアンがリダへ視線を戻す。
「今あの街の灯りが一つが消えたって、一体誰が気にするの」
反論しようとした口を閉じて、リダは俯いた。
きっと人々は気にしない。日々の生活が向上する陰で、ほんの何人かが世界を呪いながら消えて行っても、それに気を留める事はない。
夜を照らすのはガス灯や蝋燭ではなくクリスタルの方がいいし、夏の暑さを凌ぐのに今や冷風機なしは考えられない。子供の頃には只管罹らない事を祈るしかなかった疫病は、薬を飲めば三日で治る簡単な病になった。一部の者達の特権的資源だった魔力を、一般社会で利用出来るエネルギー源とした数々の技術で、人々の暮らしは間違いなく豊かになった。
それらの源流が軍事兵器の開発にある事は、リダも知っている。きっとこの世界の技術に、犠牲の必要無かったものはない。だからきっと、この女の言い分は許されなくとも、間違ってはいない。
「貴女一人がここで意地を張って、何になると言うの。痛い思いをして、人生を終えるだけ。貴女が誰の差し金で鍵を盗んだのかは知らないけれど、依頼主はそんなに崇高な目的で貴女に仕事を頼んだの?憐れな生贄一人を助ける為に?違うのではないかしら。取引を邪魔したって、商品が人間に戻れる日は来ない。貴女がしている事は……本当に無意味な頑張りよ」
その通りだ。
ここで意地を張ったって、取引に使われる人間が助かるとは限らない。ともすれば、もう死んでいるのかも知れない。仮に助かったとして、その誰かはリダの事など知りもしないし、助からなくたって誰もその誰かを気にはしない。そんな、庇っている相手すら分からないような抵抗に何の意味があるというのか。
さあ、とリダの冷静な部分が呼びかける。
この女の手を取るべきだ、と。今までの暮らしに見切りをつけ、新しい、より輝かしい明日を手に入れろ、と。
どうせここで一つ取引を潰した所で、何も変わりはしない。人は進歩するのだ。進歩の為に、何かを切り捨てるのは当たり前の事なのだ。
どこかで死んでいく命を。幼き日に夜を照らしてくれた蝋燭の光を。老人から教わった生き方を。薄汚れた、良い思い出の少ないスラム街を。知人に預けてきた、路地裏で拾っただけの鳴かない猫を。それらを犠牲にして、自分の人生をより良くする事に、何の問題があるのか。
「……りよ」
「花火の音で聞こえにくいの。もう少し大きな」
「お断りよ」
痛みに全身を震わせながら、リダは轟音に負けないよう声を張る。今度はジリアンが口を閉じた。
「確かにあんたの言う通り……意地なんて張ったってしょうがないわよね。牛肉は美味しいし、暑い日には冷風機に当たりたいし、怪我したら薬が欲しいし、銃の方がナイフより簡単で強い。あたしが一人我慢したって皆は使う。世界はどんどん前に進む。例えあんたを潰せたって、次の誰かがすぐに同じ事を引き継ぐ……無駄だよ」
一番の見せ場に差し掛かり、花火が一斉に空を埋め尽くし始める。
少しの距離を置いて傅くように蹲るリダと、それを詰まらなそうに睥睨するジリアン。二人の力関係は、この状況を見れば一目瞭然で分かる。何より当のリダ自身が一番良く分かっている。
「でも無意味じゃない。灯りが一つ消えれば、傍にいた人は気付く。その光を大切にしていた人は悲しむ。無くなってしまったものに胸を痛める。だから、止められなくたって助ける事に意味はある」
それでも、頷けない。
「それに命は街灯じゃない。一度消したらもう付け直せない。例え誰にも気付いてもらえなくたって!その光は勝手に消していいものじゃない。その先にどんなに眩しい光が待っていても、誰かが勝手に消す事は許されない」
半端者。リダは自分を理解している。この怒りの根源は、結局自分の弱さなのだと。
それでも、この女の手は取れない。弱いからこそ。半端者だからこそ。
「あたしはいなくなってしまった人達を、仕方ないでは割り切れない。無くなっていくモノ達を忘れて、笑って生きる事は出来ない。もう取り戻せないものだから、二度と戻れない日々だからこそ悔やむのよ。だからこそ今を大事に出来るのよ。躊躇いもなく前に進み続けられる奴は凄いと思う。でもあたしは、その為に大切だと思うものを捨てる気はない」
「どこの誰かも分からない売買の被害者が、貴女の大切なものなの」
「大切なのはあたしの気持ちよ。その誰かの命を、仕方ないねって済ませる事の出来ないあたしの価値観」
七色の光が頭上を飛び回るデッキの上で、リダは大声で叫ぶ。過去を重んじ、何度も後ろを振り返りながら生きる弱い自分を、それが自分なのだと認めて叫ぶ。良い思い出も嫌な思い出も、無かった事には出来ないし、してはいけない。それが今の自分へと続く道ならば、切り捨てる事は彼女自身と、そして彼女の為に過去になってしまった者達への冒涜だ。
睨むリダに、ジリアンは心底愉快げな笑い声をあげる。
「どの口が言うのかしら。私の兵をあれだけ殺して回っておいて……きっと今までだって同じような事をしてきたのでしょう。自分の都合で、他人の命を奪ってきたんでしょう。私と何が違うの。いいえ、私は人類の進歩に貢献しているけれど、貴女は恐らく、そんな目的なんてないでしょう。私の方が余程人道的に命を消費しているじゃない」
嘲笑する女の言葉が胸に刺さる。
彼女の罪を、今までリダという女が自らの為に費やしてきた数々の犠牲を指して嗤う。同じ事だと。ならば自分の方がより有意義だと。ロッドを突き付けて笑うこの女に、頭の隅で賛同する自分がいる。さっさと負けを認めて楽になれ、と囁く声がする。
それでも
「ええそうよ。何人も殺した……取り返しのつかない事をした。あたしはそれから逃げない。自分の薄汚さを、必要な事だとか、皆の為なんて誤魔化したりしない。奪ってしまったモノの重みに怯えながら生き続ける。決して!そうするしかなかったとしても、他に道が一つもなくても、正当化なんてしない!あんたはただのクズよ、イズオライド」
それでも、リダはジリアンに、頷く事は出来ない。
「あたしとあんたは同じじゃない」
少しの未練を振り払って言い切るリダとは対照的に、白の大国の魔術師は冷めた目で彼女を見詰める。その瞳には失望と、そして興味を失ったが故の無関心が浮かんでいた。
「話して聞かせるだけ時間の無駄のようね」
微かに頭を振ると、彼女の淡く長い金髪がさらさらと流れた。湖を進む船が受けるほんの僅かな風が、それをなびかせた。
「勧誘は諦めるとしましょうか……では、もう用事は一つだけ。鍵の在り処を白状なさい」
ジリアンの構える杖先のシトリンに、神秘の光が集まる。周囲を漂う魔力から特定の元素を取り込んだ黄水晶は、織り込まれた術式を彼女自身の魔力に制御されながら起動させていく。紡がれる一唱は先の閃光に違いない。今よりずっと距離のあった初撃ですら、発動から着弾までは一瞬だった。その速度は正しく光速。手首を押さえられていなかったとしても、正しく狙われていたなら避ける事は不可能だっただろう。今二人の間は3メートル弱。腹には穴が空いて跳び回る余力もなく、回避のしようもない。
「湖に捨てたよ」
リダは左手で、取り落としたナイフの柄を握る。
血を失って震える指先は力なく、全力を尽くしても武器として扱えるのは数秒に満たないだろう。
「ええ、そう。では貴女の頭の中の詰め物と直接お話するとしましょう……いいのよ、別に。本当に捨てていたって」
くす、と女が嗤う。
「私の指でかき混ぜられて、どんどん素直になっていく貴女を見たいもの。ああ、きっと、とても素敵な夜になるわ」
杖先の水晶は小さな光の粒を内包して輝き、次の瞬間にでも術式を発動出来るように待機している。二人の間は一足で詰められる距離だが、攻撃速度だけで完全に後の先を取れる彼女へ、先に切り込む事は出来ない。
「やってみな。やれるものなら」
紫色の唇を小さく動かして、リダは低く呻る。向けられた杖は真っ直ぐに心臓を指している。
「そう。では……そうしましょう」
うっとりと破顔するジリアンの杖先が瞬間強く光る。攻撃の動作。同時にリダは最後の力を振り絞って木床を蹴り、一直線にその光へと迫る。間に合わない事を知りつつ、二人の距離を詰めて左手を突き出す。
度重なる負傷で動きに精彩はなく、刃先は嗤う女へと迫るが、その表情は崩れない。遅い。全てが遅い。一瞬はその集中力によって、どこまでも引き伸ばされる。避けようのない閃光波が水晶から発射され……その光がゆっくりとリダの胸元を通過し、黒いドレスに吸われて奥の闇へと伸びていく。
「っ!?」
自身の勝利を確信していたジリアンが、その両眼を大きく見開く。確かに胸を撃ち抜いたはずの女が、未だに速度を失わず自分へとナイフを突き出すさまに、理解出来ず硬直する。
この距離で避けられる事はまず有り得ない。現に閃光は彼女の胸元を通過している。真っ直ぐに進むリダに、攻撃を回避する仕草は微塵もない。だが、心臓を貫いた筈の一撃をものともせず、リダは勢いそのままジリアンとの残りの距離を詰めてくる。
ナイフが迫る。一瞬の中で意識は限界まで引き伸ばされるが、体は自由にはならない。ジリアンの頭脳が高速で回転する。自分の見えているものが真実ではない可能性。
ラグステップ。
そんな筈はない。この女は動いてなどいなかった。跪いて自分を見上げていた彼女に、視覚を騙し得る動作など取りようがない。彼女と彼女以外誰もいないこのデッキで、動いているものは何もなかった。故に誤認識は生まれようがないのだ。動くものがなければ、ずらされる認識はない。
今このデッキにあるのは、倒れたテーブル席と、取るに足らない僅かな風と船の振動音と、そして空を覆う花火の光と――――その影。
「――っ!!」
まさか、と思う猶予すらない。即座に魔力を杖に回し、次弾を灯した水晶が鋭く輝く。
だが意識は加速させられても、体は加速出来ない。瞳を潤ませたリダの左手が、その刃先がジリアンの喉元へ突き出される。二人の視線が結ばれる。リダの瞳から置き去りにされた涙の線が、光を反射して煌めく。
絶叫がデッキに響いた。
天の光が落ちたかのような眩い炎は一瞬で収まり、燃焼した脂の不快な匂いが風に浚われていく。
デッキに立つ者は一人。汗を滲ませ、長い髪を揺らして一歩二歩と後ずさる灰色のドレスの女だけだった。
極度の緊張で息は上がり、表情は驚愕に引き攣ったまま。開かれた両眼は今起きた事をまだ疑うように、自身の目の前で焼け焦げて倒れる、黒いドレスの女を見詰める。
リダは弱々しい呼吸と共にジリアンへどうにか視線をやろうと首を動かすが、もう体に力は残っていない。金髪は燻り、ただでさえ無残に破れていたドレスは繊維が所々炭化し、覗く手足は赤く色づいている。
先程の突撃こそが彼女の余力を使い果たした最後の一撃だった。その攻撃は、ジリアンの首筋へ触れる寸前に、突如彼女の全身から発せられた炎の波に阻まれ、弾かれた。炎は火力より斥力こそを重要視されていたらしく、熱自体に人を殺せる程の威力はなかったようだが、最早リダに耐え得るダメージではなかった。
硝子細工が割れるような小さな音がして、ジリアンは左手を胸の高さに上げる。中指に嵌めていたカーネリアンの指輪が、石も台座も粉々に砕けて散った。
「使い捨てになってしまうようね……改良が必要だわ。けれど……ええ、助かった。これがなければ、負けていたでしょうね……」
中指を擦りながらジリアンは呟く。自身の体へ敵対者が一定以上近付いた時に自動で発動する、魔術師用の試作装具。彼女の防御における最大の切り札は、確かにその本懐を遂げていた。
理論はともかく、何が起きたのかはリダにも理解出来た。敵の魔術装備に負けたのだという事は。
全力を出し切って、それでもなお届かない。古い技術は、新しい波に淘汰されていく。
浅く細い息に、悔しさが滲む。もう抗うだけの力は残っていない。
「驚いたわ、本当よ」
大きく深呼吸を繰り返し、表情を取り繕える程回復したジリアンが、ゆっくりとリダに杖を向ける。
「花火の光で落ちる影の揺らめきを利用して、少しずつ体を動かしていたのね。いいえ、或いは……影だけでなく、この僅かな風や振動も、全てを利用してほんの少しずつ……激昂したように怒鳴ってみせたのも、その際の体の動きを利用する為に……」
冷徹な研究者の観察が、無遠慮にリダへと注がれる。
「驚嘆に値する、称賛に値するわ。私には、貴女のその技術力こそが理解出来ないもの。それを行えるという事が。この先の戦争に居場所はないでしょうけれど……ええ、認めるわ。その力はかつての英雄足りえるものだった。そして……新たな時代によって、過去になる」
心臓を指した杖先に再び光が灯る。今度こそ避けようのない一唱が、発動を待つだけの状態となる。
「貴女は長く飼ってあげる。うんと気持ち良くしてあげるわ……私をこんなに高鳴らせたのだもの。寝室の窓辺に置いて、第一都市の夜景を何度でも見せてあげる。きっと気に入るから……では、要らない部位とはお別れしましょう」
ジリアンの薄い微笑みが杖先の光に照らされる。
リダは目を逸らさない。最後まで、いや、せめて最期だけは、何からも逃げない。
不意にジリアンの体がひくりと引き攣り、何の脈絡も無く彼女の喉から黒い刃が飛び出た。
二人の女は意味が分からずに呆然とお互いを見詰め合ったが、それは一瞬の事。頸椎を切断されたその体はすぐに脱力し、刃が引き戻されるのを待たずに崩れ落ちる。
「良かった……いや、良くないよ……良くないけど、ギリギリ、何とかセーフって所じゃないかな……」
声が聞こえてようやく、ジリアンの後ろに人が立っている事にリダは気付いた。
遊覧船スタッフの制服をきた、茶髪の男がリダへ何とも言えない曖昧な笑顔を向けている。安堵しているような、困っているような。
「今こんな事言われても困るだけって分かってるんだ。でも……どうしても言わせてほしい」
二人の女が寝転がるデッキの上で、花火の光に照らされながら、男はリダを見詰める。
「好きです。今日、カジノで君を見た時から、一目惚れしました」




