湖上のラグステップ 1
連絡が入ったのは、ウォルターが三階へ降りて船内施設のスタッフにカーラ・ニーセットの容姿を説明している時だった。
『何をしているの、女が戻ってきたそうよ。貴方今どこにいるの』
「!戻ってきたのか」
スタッフへの説明を中断し、呆然とする相手に手を上げてその場を離れる。焦燥に駆られたウォルターの中に、一抹の安堵が生まれる。
「よし、俺は五分もかからずに戻る。それまでお前の駒達には手を出さずに入り口を囲ませておけ」
『どうも説明を聞く限り、穏便に捕まえるのは無理のようだけど?』
「何?」
ウォルターは走るように階段を駆け上がる。
『女の様子がおかしいそうよ。服装は所々破れて、手足にちらほらと生傷が見える、と。まるで誰かと一悶着あったみたい、ですって』
「……既に誰かが接触していたのか」
『勿論私の兵ではないわ。けれど、そうみたいね』
ウォルターは早足で四階通路をデッキへと向かう。乗船客はそのほぼ全てがデッキへと出ているので、人目はないに等しい。段々と駆け足になっていく。
『近付けばそれだけで警戒される可能性が高いわ。戦闘が必要になると思うのだけど』
「他の客達を避難させる。それまで少し待て」
言ってウォルターは走り出し、デッキ前に立ってフロアを管理している乗組員へ声をかけた。
「警備隊だ。協力を要請する」
ウォルターはポケットから隊章のバッジを見せ、動揺するスタッフへ声を絞って続ける。
「今、この先のデッキに危険人物が入り込んでいる。確保するつもりだが、抵抗が予想される」
あっ、とスタッフが声を上げて、一度デッキの方を見遣り、すぐに顔を戻した。
「先程の、黒いドレスのお客様……」
「そうだ」
ジリアンの言った通り、今のカーラの容姿は見ただけで異常と分かる状態らしい。話が早いのはウォルターにとっても助かる。
「かなり危険な人物だ。善意で協力してくれるその手に強い者達と連携して臨むが、このままでは一般の客に被害が出ないとも限らない。四階と、それから万が一の事も考えて五階の客も船内に避難誘導してくれ。決してデッキには近付かないように。終わり次第知らせる」
「ですが、デッキでの食事会は当船のメインです。これを中止にしては……」
難色を示すスタッフへウォルターは首を振る。
「危険人物を確保したら、その後は戻ってくれて構わない。このままでは客に死傷者が出るかも知れないんだ。どうするべきか、分かるだろう」
「……分かりました。スタッフに連絡をします。ただ、大声での誘導という訳にはいきませんよね」
「ああ、本人に出来るだけ気付かれないように……完全には無理だろうが、出来る限りだ」
「言い含めますが、それなりに時間がかかります」
「出来る限り早く頼む」
頷いて、ウォルターはデッキ前から外を窺う。花火に照らされるデッキに多くのテーブル席と人が見える。何をするでもなく入り口の外側に立っている三人組は、ジリアンの兵で間違いないだろう。
スタッフから離れてルビーに指をつける。
「スタッフに他の客の避難誘導を指示した。終わったらやるぞ」
『実力行使という訳ね……頭の痛い事』
「こうなったら言ってられんだろう。最初は俺が接触する。穏便に確保出来れば、それはそれでいいしな」
はあ、と溜め息が聞こえた。
『では、私はもう暫く食事を楽しむ事にするわ。上手くやって頂戴ね』
元々この女自身に捕り物参加の期待はしていない。苛立ちを抑えて、ウォルターはルビーをポケットに仕舞いこみ、腕時計を見る。
八時三十二分。時間はあと一時間半……後処理も考えれば一時間。間に合う。
誰が敵であろうが、この場を切り抜ける。娘の為に。ウォルターにはもう、それしか残っていない。
空に打ちあがり破裂する幾筋もの光彩が、湖面に反射して万華鏡のように重なり合っている。少しだけ蒸し暑い気温は、柔らかに肌を撫でる涼風で緩和され、程良い心地良さとなる。
散らされたバジルと深い鶏の味が手を取り合う、黄金色のコンソメスープ。
北方の群島海老に烏賊を添えた蒸し焼き。
一口のドリンクで喉を湿らせて、その柔らかい身をゆっくりと咀嚼する。
真っ白なテーブルクロスがひっきりなしに七色に染められ、リダは一口摘まむ度に目を上向ける。湖を囲む市内は夜の灯りに満ちて、街の建造物をぼおっと浮かび上がらせている。
周囲の歓声や話し声は少しずつ減っていき、花火の炸裂音だけが開け放たれた晩餐会の音楽となる。鼓膜を揺らす轟音以外には何もない、静かなテーブル席。
職人達によって紺色のキャンパスに描かれる、刹那の芸術が、絵心のない彼女の心にも響く。綺麗で、そして切ない。力強く輝く大きな光の塊すら、数秒の後には僅かな煙を残して消滅するその儚さに、胸が締め付けられる。
永遠などないのだ、と見せつけるような一瞬の美しさ。
けれどその奥には、今は花火に隠れて見えない小さな宝石達が鏤められている。いや、その輝きだって、無限とは限らない。
届けられたレモンのシャーベットをスプーンで小さく救って口に運ぶ。少しアクセントのある甘みが、舌の上で冷たく溶けていく。
後から振り返れば、きっと今日はいい日になる。だから
「それ以上はだめ」
リダはスプーンを置いて、けれど背後の男に振り返らない。
ウォルターは立ち止まり、リダの反応を用心深く窺う。
「まだメインとデザートが残ってるの。それを食べなきゃ、今日は終われない。でしょ?邪魔しないで」
その声は穏やかなようでいて、少しだけ震えている。
リダは振り返らない。長い二房の金髪が風でほんの少しだけそよぐ。もう一口だけ指で掬うと、今度は甘味だけが広がる。
ウォルターが小さく溜め息をついた。
「自分の立場は分かっているようだが……いや、分かっているとは言えんな。大人しくしろ。警備隊だ、お前を拘束する」
「お願いだから、分かってよ……」
微笑んだかのようなその声色に、男の眉が顰められる。
「何もかも、ただの勘違いなんだって。あたしはただ、花火を観ながらご飯を食べにきただけ。あたしを捕まえたって、あんた達には何も良い事なんてない」
「それはこちらが判断する。お前にはいくつかの容疑と、そして確かな罪状がある。大人しく投降しないのであれば、実力で制圧する」
既にデッキから一般の乗船客はいなくなっていた。そこにいるのはウォルターと、ジリアンの手駒の私設兵十二名のみ。入り口は封鎖し、そちらに四名を配置。船員達にも入り口から距離を空けさせている。
ウォルターが一歩足を進めると、リダはゆっくりと席を立つ。
「無駄な抵抗はするな――」
警備隊長の手が女の左肩に伸び、掴む瞬間身を翻して避けられ、視界をナプキンで遮られる。
ウォルターの経験が危険を察知し、素早く一歩後退すると、宙を舞うナプキンの向こうから鋭い一撃が繰り出された。
つい先程まで喉があった場所への攻撃。ウォルターは腰からロッドを振り下ろし構える。
舞い落ちる紺布の向こう側で、両手にナイフを携えてリダが立っている。湖を背に、ゆらりと髪をなびかせて佇むその寂しげな微笑が、花火の光で照らされる。
ナプキンが、床に落ちる。
「つまり大人しくする気はないんだな」
「あたしを大人しく食事させる気がないんなら」
「犯罪者が一人前の要求をするな。反吐が出る」
穏やかだったリダの顔が、一瞬苦しげに歪んだ。
「勘違いだって言ってるのに……でも否定は出来ないよね」
その様子に、流石のウォルターも原始的な疑問が湧いた。
「お前、カーラ・ニーセットではないのか」
「違うよ。ああ、でも、あたしを捕まえた後はそういう事にしたって構わない。どうせ大して変わらないし」
リダは投げやりにも見える笑顔をウォルターに向けた。
「警備隊をやったのは、あたしなんだし」
「だったら、お前は俺の探しているカーラ・ニーセットだ」
目の前の女がカジノで警備隊とやり合った人物だという情報だけで、ウォルターには十分だった。その時点で、彼女が取引の鍵を盗んだ張本人なのは間違いない。
話の間にも、包囲は進んでいた。規則的に並ぶテーブル席の合間から、何人もの男達が遠巻きにリダを囲んでいた。周囲をぐるりと一周、逃げ場はない。
リダはその場で片足ずつ、踵の上げ下げを始める。短くなってしまったスカートが波立ち、危うく中が見えかける。猫の足踏みを思わせる小さなリズムが、ツインテールを小刻みに揺らし始める。
「無駄な事はやめろ。お前が……」
花火の音で続きが掻き消され、ウォルターは舌打ちして大きく声を張る。
「お前がラグステップを使う事は知っている。対処法も。最後だぞ、大人しくしろ」
ウォルターの言葉の意味を、リダは俯いて受け止めた。それでも足は止めない。視線は儚げに移ろうようで、その実周囲を見回している。
「周りの奴等、警備隊?なんだかそんな風に見えないけど……でも、どっちだっていいよ。決めるのはあんたじゃない、あたしなんだ。あんたが邪魔するんだったら、あたしはやる。それを決めたのはあたしだから」
リダは前髪の奥からウォルターを見据える。
「だから、引くんなら、あんたが引いて」
ウォルターが木床を蹴ってリダに迫った。
振り下ろされたロッドは当然のように空を切り、斜め前に踏み込んできたリダが、右手を突き出す。それをどうにか寸前の所でウォルターは躱し、左膝で蹴りを放ち、また避けられる。
同時に、周囲の男達がリダへと一斉に飛び掛かった。
リダは自分のテーブルの足を蹴り倒して一方を牽制し、それを背にして向かい来る男達へと突撃した。すぐに呻き声が上がった。
持っていた警棒を落とし、膝をつく男の両脚から、血が流れてスラックスを汚す。先制の一撃。しゃがみこんだ男の首元へリダが柄での一撃を放つ前に、フォローが入って彼女は横に飛び退る。
ウォルターと違いあくまで一般客として乗船した私設兵は、魔術加工のなされた装備を持ち込めていない。短刀、ロッド、ナックル、そして小型の銃。彼等はそれを駆使し、連携を取り合ってリダへ攻撃を始める。
イズオライドの技術省研究員が雇う私設兵だけあって、ヴェスティア警備隊長の目から見ても纏まった良い動きをしている。攻撃に加わろうとした足をウォルターは止めた。この連携精度であれば、自分が入るのはむしろ邪魔になる。ならば、と距離を取り、戦闘の観察に徹する。
男達は互いに攻撃を邪魔し合う事のないよう、それぞれの武器の間合いを計算してリダと戦う。その緻密なやり取りを、リダは研ぎ澄ました集中力で感知し、空間を把握して駆け回り、死の包囲を掻い潜る。右からの刺突を躱して腕を指す。左からの振り下ろしを潜って避け、脚を切る。
悲鳴や怒号は男のものばかりだった。血飛沫が次々とデッキに舞い上がる。決して能力の低くない十二人の私設兵は、一人、また一人と膝を折っていく。
リダは全細胞を奮い立たせて、敵の無力化を目指す。
右、前、左、前、後ろ。目まぐるしく体を動かし、全ての攻撃に対応して反撃する。ウォルターが苦々しく舌打ちする程に、リダの動きは洗練されている。フランクという明らかな格上との戦闘を終えたばかりの彼女は、今最高以上のパフォーマンスを発揮してデッキ全体を俯瞰認識する。
だが。
だが、今一歩、最後の一撃を入れる前に必ずフォローが入り、数が減らない。絶対的な数の優位。男達は自らの個人能力を過信する事なく、その強みを生かして少しずつリダを追い詰めていく。
十人以上を相手取って立ち回るリダの肺はあっという間に危険な痛みを発し始め、既に酷使していた脹脛に重い倦怠感がぶり返してくる。
相手の攻撃は当たらない。こちらの攻撃は敵の手足を刻んでいる。だがそれでは数は減らない。
傷を負った男達が緑の小瓶を呷って湖に投げ捨てる。経口回復薬。それも、彼女が使っている物より性能が良いらしく、つい今両脚を切り裂いてやった男がむくりと立ち上がってすぐに駆け出して来る。
陽炎を織り交ぜてリダは彼等の攻撃を躱す。だが、どちらかの方向を欺いている時、その逆にいる者はリダの位置を正確に捉えている。
動く人の数が多すぎる為、全力の俯瞰視点は長く維持出来ない、僅かに解れる隙を突くように攻撃は積み重ねられ、背中を掠める痛みにリダは慌てて振り返り、ナイフで牽制する。足を止める事は許されず、すぐに別方向の対処の為体をくるくると回転させながらデッキの上を逃げ回る。
努めて呼吸を整え、男達の動きを観察、予測し、時間の流れに逆行する。
きっと先生なら、こんな場面すぐに切り抜けられる筈。
リダは己の未熟さに歯噛みする。
きっと、あのフランクなら――
取り囲む男達の一人が銃口を向けている事に気付き、リダは横に跳ぶ。白い太腿の内側が抉られて、血が噴き出す。
フランクとの戦闘も込みで、もうかなりの血を失ってしまっている。少しずつ頭の中に霧がかかり出す。視界に薄い膜が張られて、自分の体重が上手く認識出来なくなる。失血と疲労による、身体への休息命令が脳から発令されている。
歯を食い縛ってリダは耐える。
ここで捕まれば、ここで終われば今日が台無しになってしまう。朦朧としかける意識の中、リダはその意地だけで床を蹴る。
白布に覆われたテーブル達が引き倒され、踏み越えられ、押し蹴られて食器の甲高い悲鳴が響く。
襲い来る男達は、強敵ではあるが対処出来なくはない。つい先程まで戦っていた死神に比べれば、ただ強いだけの敵だ。彼等は誰一人リダの陽炎を見切れておらず、効果を発揮している方向からの攻撃はまるで芯を捉えない。何をされているのかも理解できず、ただ「避けられた」としか思っていない。だからこそ容易にリダの間合いに踏み込み、何度も反撃を受けている。
だが一方で、彼等は互いに連携し、リダの攻撃に対してフォローを飛ばし合っている。そのせいで、リダが意識を刈り取る止めの一撃を繰り出す前に、彼等はその場を離脱し、回復してしまう。回復薬の効果の高さが、それを更に厄介にしている。頭数がまるで減らない。
ローテーションを繰り返し、無理なく戦闘を続行する彼等に対し、リダの体力は失われる一方だ。フランクとの戦いで飲んだ回復薬はまだ多少効いてはいるが、先の分も含めて失血量が多すぎるし、何より休ませてもらえない。息はつく暇もなく、脚も腕も振り動かしている。集中力は常に限界まで張りつめ、僅かにも緩められない。
たった一つ。たった一つ諦めれば状況はそれなりに改善されるのだが、リダはそれを拒否し続ける。
手に足に、再び傷がつけられていく。フランクの時に感じたのとはまた違う絶望が、彼女の胸に広がっていく。このままこうやって、捕らえた虫をかごの外から突き回すように甚振られ、取り押さえられるのかと思うと、悔しさがぶり返す。
少しずつ、少しずつ頭の中に霧が広がっていく。
「髪だ!その長い髪が目を惑わせている!髪を切れ!」
ウォルターの怒鳴り声が花火の音を掻き消して、リダの耳にまで届いた。
見破られた。その屈辱がリダのちっぽけなプライドをぐちゃぐちゃに捏ね混ぜる。自分の技術を看破されるという事態は、例えフランクのように絶対的な強者が相手でも、陽炎使いにとっての耐え難い恥だった。その屈辱を一夜に二度も、それも大勢の者の前で受けてしまった。
ああ、ごめんなさい先生。
ただ後悔だけが、霞んだリダの頭の中に浮かんだ。
あたしが言い付けを守らなかったばっかりに、先生の技がバレてしまいました。
男達の狙いがリダの髪に集中し、振り回して体から離れていた左のテールが小型の鉈で乱雑に刈り取られた。
陽炎――ラグステップには、相手の認識を騙す為のトリガーが必要となる。ウォルターの指摘した通り、リダのラグステップは髪の動きを大きな起点としていた。腰まで伸びる長い金髪を、首を捻って操り、体の動きでは本来有り得ない方向になびかせる事で、誤認識の大きな一押しとしていた。それは絶対に他者に漏れてはいけない、彼女の生命線であり、誇りだったのだ。それが、見破られた。
陽炎使いにとっては、それは敗北にも等しい。
片方の髪を失ってたたらを踏むリダに、追撃の銃弾が撃ち込まれる。必死に射線から逃れるが、右腕に一発受けてしまう。血が流れる。痛みが尚一層リダを追い詰める。
自制せよ、我慢せよ、そして容赦はするな。その言葉をいつも守れず、痛い目を見てきた。そして遂に、来るべき日が来た。敵はすぐに始末する。技を見破る時間を与えず初見で殺す。何度も何度も叩き込まれたその教えを、破り続けた結果がこれだ。
ラグステップによる誤認識を修正した私設兵達の攻撃が、リダを捉え始める。手足に傷が増えていく。中でも、銃を持って距離を取っている男からの狙撃が避けられない。
気を抜けば今にもぼやける意識の中、ただただリダは後悔していた。
ごめんなさい先生。やっぱりあたしはだめな弟子です。先生の跡継ぎには、なれません。
古い技術はやがて淘汰されていく。それでもリダが教わったものは、まだ受け継がれる筈だった。次に継承出来る筈だった。彼女さえ、教えを全うしていれば。それを思うと、情けなさで、瞳が潤む。絶対に見せてやるものか、と歯を食い縛って耐えていた涙が、猫のように大きく開かれた眼から零れようとする。
ごめんなさい、先生。育ててくれたのに、面倒を見てくれたのに、ごめんなさい。道を示してくれたのに。本当にごめんなさい。でも、だから
足を止めてしまったリダに、私設兵が殺到する。前後左右。一斉に凶器が襲い掛かる。短くなったスカートの揺れが収まる。右のテールがふわりと慣性に従って揺り戻る。よろめいた左足の踵が、木床を鳴らす。
滴が頬を伝い、顎から零れ落ちる。
だから――
リダの中で、ちっぽけな意地が握り潰された。
元々、そう、彼女は半端者だったのだ。泣きたくない、という意地すら貫けない程に。ここまで追い詰められなければ、容赦を手放せない程に。自分の意志ではどちらにも突っ走る事が出来ない程に、彼女は中途半端な生き物だった。
だからこれは、彼女が選び取った意志ではなく、ただの生き汚い本能。
全てを諦め、それを認めた瞬間、手や足は自動的に本当の最善を選んで動き出す。
リダの体が水のように揺らぎ、背後から迫っていた男の突き出す短刀を首元で避け、右手のナイフで喉を貫いた。
「がっ……!」
刺された男の口から血と空気が吐き出される。
リダはすぐさまナイフを抜き、男を盾にして残りの方向からの攻撃を受け止めた。動作は最短で最速、そして、一切の容赦がない。私設兵の間に微かな動揺が走る。
「こいつ……やりやがったぞ」
囲む男の一人が忌々しげに呟く。
こと切れて倒れる男の背後から、リダは距離を取る。その表情の抜け落ちた顔から、涙を溢れさせて。
――だから、せめてもうこれ以上は、負けません。
手遅れの誓いをリダは記憶の中の老人に呟き、そして、叩き込まれた技術に身を任せた。
デッキにそよ風が吹き込んで、一房になってしまった金の髪を揺らす。
彼女を囲む男達に緊張が走る。誰もが、目の前の女の変容に気付いている。ぽろぽろと涙を流し続けるその女は、しかし何もかもを諦めたような、人形めいた無表情で立ち尽くしている。そこには感情らしきものが一切なかった。
「……生け捕りと聞いてましたが、一人やられましたよ」
男の一人がどこかに呼び掛ける間も、リダは風に髪を揺らしながら、立ち眩みを思わせる揺れ動きを繰り返す。それはまるで、夏の陽炎のように揺らめいて、少しずつ残像を纏っていく。
「殺す気でやるぞ」
男が通信を終えた。
「いや、殺したっていい。頭が半分残ってれば、必要な事は聞けるそうだ。殺すぞ」
リダを囲む男達が全員、それを了承し、声も掛け合わず一斉に飛び掛かる。先までとは違い、頭や首や腹を狙って、凶器を振りかざす。鉈の刃が、ロッドの腹が、短刀の先がリダへと吸い込まれ……その全てが手応えなく、空を切る。
「あぁ!?」
今度の動揺は、離れて事態を見守っていたウォルターにまで伝播した。リダは男達の攻撃を真正面からすり抜け、そのまま彼等の一人の脇を通り過ぎる。誰もがその動きを確認出来なかった。
次の瞬間、脇を通られた男が首から血を噴き出して倒れた。助かりようのない失血量。
「気を抜くな!」
男の一人が叫ぶが、それはあまりに虚しい言葉だった。彼等は誰一人として、気を抜いてなどいない。
十人になった男達が、崩れかけた包囲を立て直して連携を再開する。味方のフォローを優先し、距離を取って攻撃を繰り返す。だがその悉くが躱された。いや、躱されたというよりはまるで当たっていない。確かにそこにいる女に突き出された短刀が、振るわれた鉈が、撃ち込まれた銃弾が、皮膚をすり抜けるように空ぶる。見えている筈のリダが、彼等の見えている場所にいない。
「どうなってっ……」
驚愕する男の腹に、血に塗れたナイフが突き込まれる。
私設兵は全員、白の帝国謹製の最上級回復薬を使用している。それでも、致死の一撃を受ければ、死から回復することは出来ない。
倒れる男の生死を確認する事もせずリダは次に対応する。距離を取り、仲間達と絶妙の呼吸合わせで銃撃を繰り返す男へ、地を這うように背を屈めて詰め寄る。
「くっ……そが!」
乱発される銃弾が木床に刺さり、破片を弾き上げる。リダが男の数歩手前で更に身を低くし、一気に飛び上がった。
一瞬の跳躍。誰もが彼女に目をやる。銃を構えた男の顔に引き攣った笑顔が現れる。宙に浮いてしまえば、その軌跡を途中で変更する事は出来ない。一瞬はどこまでも引き延ばされ、その銃口はゆっくりとリダへと上がっていく。
勝利を確信した男の指が引き金を絞る刹那、リダの背後、その遥か上空で、空を焼き尽くすような赤い閃光が連続で花開く。撃ち出された銃弾が、光の波に呑まれていく。
「あああああがっ!」
肩口から深々と突き刺さった刃先が心臓を破り、断末魔が途切れる。
ナイフを抜いた肩口から、鮮血が噴き上がる。リダはそれを見る事なく、再び残りの男達へと突撃していく。
たった一つ、諦める事。
殺したくない、という、馬鹿げた願いを捨てたリダは、全てのしがらみから解き放たれて敵を狩る。それはとても楽で、そして惨めだった。
『……どうなっているの、これは』
不快感を隠す事もない女の声がルビーから耳に届く。
ウォルターはデッキ最後方で戦闘を続ける男女を、離れた位置で観察しながら、脂汗を垂らす。
「これがラグステップだ」
どうにか絞り出した声には、自分自身に対する不信感も含まれている。
ラグステップ。移動や動作に意図的な変調を加える事で相手の認識をずらし、自身の位置情報を錯覚させる古く寂れた技術。それが局地的に絶大な威力を発揮する事は知っていた。何度かその使い手と戦った事もあるウォルターは、それが脅威である事を知っていた。だからこそ対処法も知っていた。囲む事、そして距離を取る事。私設兵達はウォルターの忠告通りに動いた。なのに。
悲痛な呻き声が響く。男が胸を抑えて崩れ落ちる。
彼等の連携精度は本物の警備隊にも引けを取らない程緻密で正確だ。なのに。
「があっ……!く、あ……」
また一人倒れる。デッキ入り口で、船内から人が来ないよう見張っていた残りの四人も慌てて戦線に加わるが、まるで状況は好転しない。
異様としか表現のしようがない光景だった。
大勢の男達に囲まれた女は、手足を鋭く滑らかに動かして、次々に血の雨を降らせている。その彼女の姿の歪さに、ウォルターの顔が引き攣る。無表情に涙を流し続けるリダの手足は、慣性も遠心力も全てを無視するような、滅茶苦茶な動きを見せていた。
背後へ体ごと振り返りそちらへ対応するかと思いきや、右手はそのまま背を向けたはずの方向へと伸ばされ敵を刺し、左手は頭上から迫りくる刃を受け流して左足で踏み付ける。そのまま一歩前に踏み込んだ姿勢から、今度は背後に左腕を降り抜く。
顔が右を抜いた瞬間に脚は左へ打ち込まれ、長い金髪は物理法則を嘲笑ってふわりとゆっくり真下に波打ち、視線は正面を向いたまま、右手のナイフは難なく死角からの一撃を受ける。突進しておきながら攻撃方向は全く別で、顔と髪と、視線と四肢と、体の向きと移動方向、その全てがちぐはぐに動いている。
あまりに不気味だった。
大きく開いた瞳から涙を流し続けるその意味不明さ。手足の関節を疑う、唐突で滑稽な予備動作の無い攻撃。少しも色のない表情も相まって、それはまるで素人が初めて挑戦する下手くそな糸繰り人形のようだ。そのどこを注視しても、次の動きを読む事が出来ない。
それどころか、私設兵達はそのバラバラな動きを常に見せられ続け、彼女の次の一手に各々全く別の予想を抱いてしまうが故に、彼等の強みである連携精度を崩されていく。
そして彼女の動作から何一つ確かな情報が得られない為、取り囲んでおきながら間合いを見誤る。彼女は全ての方角、全ての視線に対して、ラグステップを仕掛けている。もう男達の攻撃は一切リダに届いていなかった。
それもその筈だろう。デッキ後方で戦闘を続ける彼女達から、かなり距離をとっているウォルターの目にすら、その認識のずれは修正出来ていない。これだけ離れていて尚大きく影響を受ける視覚情報のずれなど、間近で戦っている彼等には一体どれ程の誤差を生んでいるのか。
ラグステップは近接かつ少数戦で最大限効果を発揮する。だからこそ対処法は遠距離と集団戦、それは間違いない。実際に途中までは、激しく抵抗されながらも彼等はリダを追い詰めていた。
だというのに、何かが吹っ切れたかの如く……まるで心の糸が切れたかの如く女の様相が一変してからは、定石を塗り替えるように戦況が逆転してしまった。
それ程の技能者という事だ。ラグステップという古惚けた技巧は、使い手によって大きく効果が変動するという事。
ウォルターの額を汗が流れる。
精鋭揃いの警備隊を正面から撃破する相手だと、分かっていたのだ。あの女が相当なやり手だという事は。だが、時代に埋もれゆくかの技が、ここまで凄まじい威力を秘めているとは。使い手次第でここまで能力が向上するとは。
デッキ後方で繰り広げられる戦闘に喉が音を立てる。
あれに対処するには、集団戦闘どころか軍団戦闘が必要ではないのか。少なくとも彼女の得意とする状況で戦い続ける限り、例えウォルターが参戦しても勝てるとは思えない。
『彼等は何故あの女に当てないように攻撃を繰り返しているの』
怪訝な女の声にウォルターは瞠目し、顔を六階のプライベートデッキへ上げる。距離のある、上階からの見下ろし。ジリアンの位置からなら、リダの姿は正確に捉えられている可能性は高い。
「そこから見えているのか」
『ええ、少しばかり道具の力を頼っているけれど』
「あの女の姿がはっきり見えているんだな。お前の兵達がおかしな方向に攻撃しているのが」
『そう言われるとなんだか複雑な気分だけれど、そうね。確かに彼等の行動は変に見えるわ』
ラグステップは距離をおいた視線に弱い。特に上からの俯瞰視点には。同じ四階から見るウォルターでは、距離があっても位置情報に誤差が生じるリダだが、更に遠く、上方から観戦しているジリアンにまでは効果が及んでいない。
「お前、飛び道具を持ってきているだろう。電銃か氷銃か」
ウォルターは確信を持って問いかける。
『だったら、何』
「その位置からあの女を撃てないか」
はあ、と溜め息の音。
『私は狙撃の名手という訳ではないのよ。見た所的の動きも素早いし、私の兵に当たってしまうだけよ』
「お前の兵はこのままなら全滅する。奴等が見当違いの所を攻撃しているのは、女がそこにいるように見えているからだ。俺の位置からでもそう見える」
ウォルター達が話す間にも、私設兵達は次々と倒れていく。一見すると全身を滅茶苦茶に振っているリダの刃は、それでも男達に的確に命中し、彼等の命を刈り取っていく。
「そういう技なんだ。お前は離れた場所から見下ろしているから女を正しく把握出来るが、俺やあいつ等はそうじゃない。この場であの女に正しい攻撃を撃てるのはお前しかいない」
『冗談でしょう』
「お前の兵達が冗談で死んでいってると思うか」
ジリアンが暫し黙り込む。彼女の手駒は今この瞬間にも一人木床に倒れ込んでいる。
『だとしても、この状況でここから狙って当てられるとは思えないわ』
「その為の武器はあるんだな」
『ええ。けれどこれは私にしか使えないわよ。貴方では無理』
「いや、お前が使え。俺はあの女の動きを止める」
『何ですって?』
「必ず動きを止める。お前はそれを撃て。俺ごとになっても構わん」
ウォルターの覚悟はとうに決まっている。娘の為に。
『威力の調整はある程度可能だけれど……人一人を貫く程度に調節出来る自信はないわ。射線に入っていれば本当にもろともになるけれど?』
「構わん」
メリッサの為に、例え腹に風穴を開けられてでもあの女を捕まえ、そして生き伸びて見せると。
呆れたような吐息が通信石の周波に乗って耳に届く。
『では、まあせいぜい即死させないように気を付けるとしましょう……全く、とんだ大出費だわ……』
失われゆく部下達の命を出費と言い切る女に反発しかける内心を、押し留める。結局の所、ウォルターとて彼等の命にさしたる感慨は抱いていない。
「お前の兵が残り一人になっても女を押さえられなければ飛び込む」
言ってウォルターはルビーから指を離し、深く深呼吸する。出来れば自分の力で制圧して終わりにしたい所だが、近接戦を挑んで返り討ちにあえば、もうあの女を捕らえられない。そしてその可能性は非常に高い。ならば、より確実な手段を選ぶ。
ウォルターはリダを見据える。
夜闇と花火に紛れて跳び回り、次々と私設兵を殺害する暗殺者は、疲れを全く感じさせる事のない無表情のまま。だが疲労は蓄積している筈だ。夜とは言え気温の高い夏のヴェスティアで戦闘を続ける代償に、剥き出しの肌は汗に濡れている。それに彼女はウォルター達が囲んだ時点で既に傷だらけだった。席を立った後で、先に誰かと戦っていた事は容易に想像出来た。
そう、フランク・ブランドンと。その分も併せて、実際には相当疲弊しているとウォルターは予想する。彼女のラグステップを破る事は敵わずとも、攻撃の瞬間を見極めて、一撃耐えられるだけ急所をずらすくらいは出来る筈だ。
残り六人。目を疑う光景だ。女の握る両手のナイフは既に刀身が真っ赤に染まり、振り回される度に紅い残像を撒き散らしている。
残り五人。短いスカートが翻り、脚が剥き出しになる。長い髪は振り乱され、開いた胸元に浮かんだ汗が艶めかしく光を反射する。煽情的と言えるその姿に、しかし性的な艶は一切見出せない。手足をバラバラに動かしながら、背を屈めて跳躍する彼女はむしろ蜘蛛のような、人間離れした忌避感情を抱かせる。
残り四人、三人。人数の優位がいよいよ消失する。最早ここに至って私設兵達の強味は無いも同然だった。普段は本国製の高水準な魔術装備を駆使し、雇用者の依頼を完璧に遂行していたであろう彼等は、事この場においてのみ、滅びゆく先人達の手妻に翻弄され、理不尽な逆襲の憂き目に遭っている。本来ならばとうに一時撤退を判断している筈の彼等は、雇い主の命令により継戦を余儀なくされ、次々に倒れていく。
私設兵が虐殺させていくさまを見て、心身を整えたウォルターが今思う事は、もう一つしかなかった。これが警備隊の面々でなくて良かった、と。ヴェスティアを守る為日々職務に励む彼等が、こんな事故のような女に殺される事こそ許容し難い。
残り二人。もう囲む事すら出来なくなった二人組がそれでも左右から同時に突撃し、右手の男が関節の動きを無視したような女の刺突で武器を取り落とし、次の一手で横から首を突かれる。
ウォルターは渾身の力で木床を蹴り、リダへと突進する。
押し倒すつもりの掴みかかりは当然の如く空を切る。確かに肩を掴んだ筈のその右腕は、実際には彼女の体の一歩以上左に伸ばされている。がら空きの胴に、その胸元に赤い刃先が突き込まれる。肋骨をすり抜けて刃が心臓へと向かう。
それはウォルターにとって織り込み済みだった。だからこそ、左手はその一撃を寸前で掴み取れた。
「っ!」
女が掴まれた右手を引こうとし、すぐに諦めて右膝を突き上げてくる。膝で柄を蹴って、ナイフを心臓まで押し上げようとする。ウォルターはそれを、体の向きを捻る事でほんの少しだけずらす。もう刃先は心臓に到達している。押し込まれても抜かれても、助からない。しかも相手の左手はフリーだ。一秒の後にも、ウォルターの頸動脈は切り裂かれる。
だがこの一瞬、今この瞬間だけは、彼女の動きは止まっている。ウォルターはその一瞬の為だけに、リダの手首を押さえる。
涙を零し続けるリダの瞳が、一瞬自身の背後を気にしてぐるりと横に動き、そこにいた筈の男が距離を取っている事に気付く。視線を正面に戻したその瞳孔が、ウォルターの決意に満ちた双眸と結ばれ、大きく開く。自分の手首を押さえる男の後方、その上方に、花火ではない強い光を認める。
逃げる暇もなければ、回避の為に身を捩る猶予もなかった。
夜を切り裂くような細い閃光が、ウォルターとリダの体を一直線に通り過ぎていった。




