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陽炎の夜  作者: 戸坂
20/24

正義は復讐する 4

 夜空に瞬く光彩を浴びながら、ウォルターはじっとデッキの隅でカーラ・ニーセットを待っている。轟音と歓声、足音と談笑。平和を象徴するかのような夕食会の中で、殺意と焦燥を押し殺して手すりに寄りかかっている。

 時間はまだ五分と経っていない。女が化粧室へ行ったのであれば、彼がデッキへ降りるまでの時間を含めても十分現実的な範疇だ。だが、とウォルターは視線の先の空席を今一度観察する。

 明らかに食事途中の前菜、乱雑に投げ出されたナプキン、揃えられてもいないカラトリー。見れば見る程、あれは急に席を立った状態に思える。この遊覧船において、緊急で夕食の席を立たなければならない理由がどれ程あるだろう。引いた椅子の向きを揃える余裕すらなく立つ理由が。

 ウォルター達の動きをカーラが知る手段はない、筈だ。

 警備隊のウォルターが遊覧船へ乗船している事はジリアンと船内スタッフのみしか知らず、そのどちらも自分達の事情でそれを周りに知られたくない。

この情報は決して客達には漏らさない、筈だ。

 途中まで席について食事をしていたという事は、少なくともその時点まではウォルターの乗船には気付いていなかったという事。途中で気付いたのだとすれば、その機会は彼が先程六階のプライベートデッキから見下ろした時にしかない。

 ウォルターは六階デッキを見上げる。当然ながら、碌に見えない。この状態で、しかも警備隊の制服すら着ていない今の自分を見て、逃げ出す程の危機感を抱く可能性などない、筈だ……筈だが。

「ねえ」

 幼い声に話しかけられていると気付き、横を向くと、可愛らしいフリルのついたピンクのドレスを着たまだ十歳未満と思わしき少女が、テーブル席についたままウォルターを見詰めていた。ぴょこぴょことテーブルの下で足を動かす無邪気な姿から、六、七才程度に見える。

「そこの席のお姉ちゃん達を待ってるの?」

「こら、やめなさい……」

 同卓の母親らしき女性が控えめに止めに入る。ウォルターは少しだけ近付き、険を取り除いた真摯な表情を作る。

「そうなんだ。どこに行ったか知らないかな」

「黒いドレスのお姉ちゃん?」

「そうだ」

 困惑する母親にやんわりと手を翳して、ウォルターは頷く。

「知らないけど、ちょっと前に向こうに急いで歩いて行ったよ」

 少女はデッキの入り口を指差す。失望がほんの少しウォルターの中に広がる。そんな事は分かっている。

 だが、聞き逃せない言葉もあった。

「お姉ちゃん達、って言ったね。黒いドレスのお姉ちゃんだけじゃなかったのかな」

 ううん、と少女は小さな首を振る。それはウォルターにメリッサを意識させた。

「一緒にいた背の高いおじちゃんとお話して、その後一緒に出ていったよ」

 はっとウォルターは空席のテーブルを見る。

 カーラの席の向かい側に、もう一式のカラトリーセットとドリンクが置かれている。ナプキンが使用されていない事と、そして前菜が置かれていなかった事から、てっきりそこに座る客がいなくともセットだけは一律で整えているのだと思い込んでいたが、ドリンクは注がれている。

 自身の焦りを感じる。判断ミスだ。

 ナプキンがそのままなのは席の者が使っていなかったからで、前菜がないのは、食べ終わった状態で席を立ち、下げられたからだ。そこは本来ソロ席だからこそ、同席者を待つという配慮はされていないのだろう。

「ありがとう」

 少女へ礼を言ってウォルターは空席へ近付いていき、カーラ・ニーセットの向かい席のネームプレートを見る。

 フランク・ブランドン。

 気が付かなかった自分に怒りが湧いてくる。その存在は最初から分かっていた。ウォルター達の最大の障害として、最初から認識していたのに。

 内通者。警備隊へ闇取引を密告した謎の人物。この何者かが、今日の警備隊の動きを誰かに流していないとは限らない。

 そうなれば疑問も生まれる。警備隊へ情報をタレこんでおきながら、その警備隊の邪魔もするという動きには矛盾も感じる。

 だが、ないとは言い切れない。或いはその誰かの目的が、本来の取引を形式上失敗させた上で、完遂する事だとしたら。その可能性が再浮上する。

 カ-ラ・ニーセットはただのイレギュラーであっても、その計画自体が存在したのであれば、彼女を抱き込みさえすれば軌道修正は可能だ。その場合、やはり一番疑わしいのは六階で悠然と食事を取る取引相手、ジリアンという事になる。

 誰を信じればいいのか分からない。いや、そもそも、もうウォルターには信じるべき相手などいない。

 取引を押さえようとする警備隊。利益の為だけで繋がり、今その関係が崩れつつあるジリアン。協力を拒まれ、力で要求を呑ませる事となった遊覧船スタッフ。

 娘の為に全てを犠牲にすると決めた彼には、もう背中を預けられる誰かはいない。

 カーラは戻ってこないかも知れない。ならば、探さなくてはならない。十時を過ぎれば警備隊が橋から降下してくる。そうなってから見つかったのでは遅いし、ともすればもう今、彼女は殺されている可能性すらある。

 ウォルターは早足でデッキ入り口へと向かう。入り口はジリアンの私設兵が固めているが、彼女が敵なら彼等も信用出来ない。

 ジリアンへ連絡することなくウォルターは船内へ戻り、付近のスタッフへ聴取を始めた。




 大きな血飛沫が上がり、その次の瞬間にはお互いが距離を取った。

「……がっ……」

 フランクは右手を振って無駄な牽制を試みるも、それが決着の一撃である事は明らかだった。だらりと下がった左手はナイフを握ってこそいるものの、動かせる筈もなく、肩口からは深い紺色の上からでも分かる程赤が漏れ出していく。リダの方も満身創痍と言っていい負傷具合だが、フランクのそれは戦闘続行が不可能な決定打だ。

 胸元から零れ落ちた重みに、下を向く。

 表面を大きく削られた銀色のプレートが、音も立てずに絨毯へと沈んだ。自身を守る為の最後の切り札という認識はあったが、まさか物理的な命綱になるとは思いもしなかった。

 つくづく因果なものだとリダは思う。警備隊やヤバい連中に追われる事となった原因であるこのプレートがなければ、リダはフランクにここで殺されていた。もうどう解釈していいのか分からなかった。

 全身に刻まれた傷は、薬効で少しずつ回復していっている。

 リダは額から目にかかった血をハンカチで拭き取った。額の傷も、もう血は流れていない。左手も拭いて、フランクを見遣りながらナイフを拾い、握りを改めると、それなりに力は込められた。失った血液を作り直すのはまだ暫くかかるだろうが、傷自体は塞がっていく。

 乗り切った、という安堵が少しずつ胸に広がっていく。つい今まで全身に満ち渡っていた死の感触が、少しずつ抜け落ちていく。

 後は目の前の男をどうするかだった。

 放っておけば、この男はまた必ずリダを狙うだろう。その時はもう、こんな幸運は期待出来ない。やるべき事は決まっている。分かってはいる。

 老人の教えを守らなければならない――容赦はするな、と。

 リダは目を伏せ呼吸を整える。

 はい先生。けど、こいつはもう今は戦える状態じゃないし……

 ポン、と。間抜けな音が聞こえた。

 はっとして顔を上げると、フランクが素早く懐から取り出した緑の小瓶を開け、一気に呷っていた。経口回復薬。

「……何、してるのよ……」

 信じられない、とリダは目を見開く。フランクは小瓶を口で吐き捨て、右半身を少しだけ前に出して構える。

 傷を負ったのだから回復は必要だ。それは分かる。リダとてその行い自体を問い詰めるつもりはない。だがそれを、今ここで行うのは愚行としか言いようがない。敵の目の前で、まるで戦闘を継続するかのように振舞うのは。

「もうあんたに勝ち目はないって、分かってるでしょ……やめてよ……」

 今彼に必要なのは、リダとの交渉の筈なのだ。勝者に対する敗者としての。だというのに、男の目には未だ、暗い憎悪が燃え盛っている。この男はまだ、戦おうとしている。

 経口回復薬に即効性はない。飲んだ薬の性能差はあるかも知れないが、リダが彼に与えた左肩を修復するのには、相当な時間が必要な筈だ。間違っても今すぐ、彼女の攻撃をやり過ごせるだけの回復など望めない。

 だというのに、この男はまだリダへとナイフを突きつけている。

 リダの顔が悲痛に歪む。

 だというのに、この男は口端を上げて笑っている。

「何で……」

「お前への復讐だけが、俺の生きる意味だからさ」

 その答え。その意味が、リダの心に浸透した。つまり、やるしかないのだと。

「このっ……くそったれ!」

 地を蹴ってリダは突進した。

 二人の実力は間違いなくフランクの方が高いが、それは片腕を封じた上で尚覆らない差ではない。

 陽炎を織り交ぜたリダの左右からの連撃がフランクに襲い掛かり、そして……弾かれた。

「っ!」

 長い腕のしなりと、そして金属のぶつかり合う音。

 構えらしい構えのなかった先までと違い、半身で右手を前に出すその姿勢は確かに防御に適している。それでも、右腕一本で防がれるような攻撃をしたつもりもなかった。左手は構えるフランクの右手を、右手は脇腹を狙ったのに、それがいとも容易く片手でいなされてしまった。

 リダはすぐさま追撃を重ねる。方針は大きく変えず、手数を持って四肢を狙いつつ、胴体への一撃を少しずつ狙っていく。数分前までとは一転し、リダの猛攻をフランクが必死に凌ぐ形となる。

 しかしそのいずれもが当たらない。

 動かない左腕を体の向こうに隠し、右腕のみを動かすフランクは、異様な直観と反応でリダの攻撃を全て受け流していく。

 元々相手の動きをコントロール出来る程の俯瞰視点を持つこの男が、リダの行動を予測する事それ自体は理解出来る。出来るが、それは片腕というハンデを乗り越えられない筈なのだ。そこまでの実力差があったのなら、そもそももっと早い段階でリダは死んでいる。

 二人の間にそこまでの開きはない。結局の所、この男の防御を可能としているのは、

「……髪か」

 その呟きが一層リダの頭を沸騰させる。恥と後悔と屈辱に塗れて、叫び出したい程の怒りが湧いてくる。

 俯瞰視点を可能にするのは、秀でた空間認識。そしてそれに何より必要なのが、確かな観察眼。結局の所、この男がリダの攻撃を片腕で防ぎ切れているその理由は、彼が彼女を正しく観察した事にあった。

 フランクはリダの攻撃に対する防御の軌道を、完全に絞っている。

 対等の条件において、片腕一本で両腕の攻撃を捌き切れる訳がない。だからこそフランクは、最初から自身のある部分に対しては守りを捨てている。問題はその捨てている箇所が、あまりに的確で、そして屈辱的である事。

「くっ……このっ……!」

 いつまでも攻めきれず声が漏れるリダに、フランクの口角が尚上がる。時間が消費されていく。怒りと、そして情けなさで奥歯がぎしぎしと音を立てる。

 フランクは、急所への防御をことごとく捨てていた。

 首元も、胸も、脇下も、腹の肝臓周辺も、股間も、必殺となる箇所は全て攻撃がこないものとして割り切っている。だからこそ、本当にそこ以外を攻撃するリダに片腕で対応できているのだ。

 逆ならば分かる。急所のみを集中して守り、四肢を捨てるのであれば納得出来る。しかし自身の命に関わる部位を無視するというのは、彼が彼女の本質を看破しているが故の侮辱的な戦法だった。フランクは、これまでの戦闘でリダが急所を突けないと知っている。把握してしまっている。

 自身の明らかな欠陥を見抜かれ、その上先程の呟きまでが重なって、リダは身を焦がす程の羞恥心に苛まれる。

 彼女の攻撃は何一つ当たらない。刺せるものなら刺してみろとばかりに体の半分近くをノーガードで立ち回るフランクへ、唯の一撃も見舞う事が出来ない。

 悔しくて悔しくて、呻き声が漏れる。

 この男はやはり、リダよりもずっと高い技術を持っているのだ。だからこそこの短時間で、リダという女の半端さを正確に掴んだ。

 だからこそ、悔しくて仕方がない。

 そこまで分かってるんなら――

 その目に涙が浮かぶ。

 あたしの事、そこまで見抜いているなら、あともう少しだけ見抜いてくれたっていいじゃない。あんたの恋人を殺したのは、あたしじゃないんだって事――




「ねえ、頼みがあるんだけど」

 暗い雨の中だった。

 ドットガルとグレーゼンの国境線間際の森林地帯で、横転した荷車に上半身を預けて倒れ込む女兵士を、リダは見下ろしていた。彼女が頼みこまれて参加したドットガル特殊部隊による、グレーゼンの補給部隊への強襲戦だった。腹を裂く傷は見るからに深く、放っておいても助かるようには見えなかった。

「あーあ……」

 懐に力なく手を入れた女が、場にそぐわない、酷く間抜けな声を上げた。その手には血で汚れた藍色の巾着袋が握られていた。

 雨にぬかるむ土の感触が嫌で、リダはすぐにも引き上げたかった。だが、参加した特殊部隊の面々はまだ何か作業をしていて、リダがここを離れれば、彼女の代わりにこの荷車を調べに来るだろうと分かっていた。

 女は見るからに瀕死で助かりそうにも見えないから、わざわざ止めを刺さなくてもいいとリダは思っていた。少なくとも、そうすればこの女のその後は、この女次第だと。

「……この中に、来月のチケットが入ってるの……ヴェスティアの、結構レアな奴……」

 女は少し手を伸ばして、リダに巾着袋を向けた。

「楽しみにしてたのよ……花火が綺麗って、有名なの。折角だから……私の代わりに、見に行ってくれない……」

「……何よそれ、なんであたしが」

「供養だと思ってよ……楽しみに、してたんだから……」

 女がやけくそのように無理矢理に笑って見せる。差し出された手はぶるぶると震えて、今にも地に落ちそうだった。

「……だったら、自分で行きなさいよ。そうやって死んだふりしてれば――」

 後方からの風切り音に、リダは振り返った。

 彼女の左腕傍を通り過ぎた鉄の矢が、グレーゼンの女兵士の額を撃ち抜いた。

「はーっ、間に合っただろ!俺の手柄だな、そいつは!」

 十数メートル後方に、無邪気な笑顔で弓を番えた特殊部隊の男がいた。女の体が荷車から崩れ落ち、巾着袋が泥の轍に落ちた。

「……あたしの獲物だよ」

 ありったけの殺意を込めて男を睨み付けた後、リダは女へ振り返った。

 ほんの少し迷って、彼女は巾着袋を拾い上げた。

 過去になりゆく者の、最後の願いだと思って。




 それが、リダが今ここにいる理由だった。

 あまりに間抜けで笑い話にもならない。蓋を開けてみればあの女兵士、カーラ・ニーセットは、潔い女でもなければそんなに良い女でもなかったという事だ。少なくともリダにとっては。

 彼女は、自分の恋人がリダの存在に気付くと分かっていて、その目印を渡したのだ。それをフランク自身が復讐に使うとまで計算したのかは定かではないが、自分を殺した者達に匂いをつけておけば、辿る事は出来る。

 結局、心残りを遂げてやろう、などと思ってヴェスティアに来た時点で、リダはこの罠に嵌っていたのだ。つまり、最初から。

 悔しくて仕方がなかった。

 花火を見る筈だった。昼には少しカジノで楽しみ、夜には美味しい食事を食べながら花火を楽しみ、ホテルでぐっすり眠って次の日に少し街を見て回って、船で帰るつもりだった。ドレスは奮発したし、飼い猫は知人に少し多めに金を払って預かってもらったし、土産物だって沢山買うつもりだった。

 その全ては、その無邪気な期待は、純粋な弔意は、全てが最初から踏み躙られていた。

 そして今、まんまと騙された挙句に出会った男から、自分の弱さを見透かされてしまった。強味まで見抜かれてしまった。

 それがどうしようもなく、悔しい。

 息が上がる。連続して攻撃を続けるリダに対して、フランクは最低限の動きしか見せておらず、運動量の差から持久力の天秤が傾きだす。

 先程までは、持久戦を求めていたのはリダの方だった。勝ち目のない戦いを少しでも引き延ばし、傷の回復に期待しながら、第三者の登場に一縷の望みをかけてもいた。だが今となっては、フランクの左腕が動かせる程回復する前に勝たなくてはならなかった。

 しかもこの状況で、まだ自分は相手の死を望めず、更にはそれを知られてしまっている。惨めだった。あまりに情けなかった。もうどの感情から手を付けていいのか分からない程、様々な思いが頭の中を駆け巡った。

 死神の口元が笑っている。

 目はこちらを向いていないのに、攻撃が全て防御、回避される。もうどの位撃ち込んだのか分からない。視界の端々で瞬く火花は、或いは白熱するリダの意識が見せている幻覚かも知れない。攻めているのはリダの方なのに、追い詰められている気分はどんどん酷くなっていく。

 このまま時間を浪費すれば、今度こそ間違いなくリダは殺される。勝機は今しかない。なのに。

 右半身を向けて戦っていたフランクが、左足を動かす気配があった。それまで体の芯のをリダから隠していた男が、その体勢を捨てようとしている。血に濡れた左肩が一瞬動いたように見える。もう猶予はない。リダの瞳から涙が零れた。

 彼女が突き出した右の一撃は、がら空きのフランクの腹部に深々と刺さり、白いシャツに黒い血を滲ませた。

 それまでの攻防が嘘のように、決着はあっけなく着いた。フランクの瞳が、ほんの一瞬だけ大きく見開かれた。

「…………くそっ……」

 口の中で小さく男が毒吐く。リダがナイフを引き抜くと、フランクのシャツはますます黒く染まっていき、その体は風船が空気を抜かれたように力が抜け、膝が折れて前のめりに倒れた。

 うつ伏せに倒れ込んだフランクの腹部の下の青い絨毯が、少しずつ血に染まり不気味な紫色に変わっていく。助からない色。

「……舐めやがって」

 荒い息を収める事もせず、リダは顔を歪めてそれを見下ろす。血に濡れた右手が悔しさで震え、涙が絨毯に落ちる。

「馬鹿にしやがって!出来ないと思ったの?あたしが、刺せないとでも思ったの、このくそ野郎!出来るんだよ、あたしだって、その位は……ただこのっ……!」

 次々と頬を伝って溢れる涙を、リダは乱暴に左手で拭った。

「これさえ我慢すれば、この涙さえ気にしなけりゃ……!」

 一度強く目を閉じて、リダは水滴を眼球から追い出した。

 これこそが、彼女が老人の後を継げなかった理由だった。彼女は人を殺そうと決意する度、涙が出てきてしまう。命を奪うという事に、どうやっても恐れをなしてしまう。何度行おうと、心が慣れてくれない。その体の反応を無視する事は出来るが、視界はぼやけるし、何より毎度意識に大きなブレーキがかかっているのは間違いない。

 そういう仕事を生業としていながら……裏稼業で生きる道を選んでおきながら、リダは殺す事にいつも怯えるのだ。それが生死を分ける状況において致命的な弱点である事は、考えるまでもなかった。

 半端者。それが、理由だった。

 少しの間リダはそこで立ち尽くしていた。

 今日は楽しい日になる筈だった。笑顔で終われる日になる筈だった。

 両手はナイフを握って血で汚れ、ドレスはボロボロ、至る箇所が傷だらけで、涙のせいで目は赤く腫れている。

「……だから何よ。あたしは今日、花火を見に来たんだ」

 しゃくり上げて、リダはドレスの破れ爛れたスカートを切っていった。膝上がかなり見えてしまっているが、ミニスカートだと思う事だって出来る。フランクにつけられた手足の傷跡はその内回復薬の効果で薄まっていくだろう。見るも無残なストッキングは、もうどうしようもなかったので諦めた。

 切り開かれた胸元は、布地を内側のブラジャーに巻き込んで、何とかそれらしく見せる。ドレスは黒いので血が見えないし、肌についた分は化粧室で落とせばいい。

 まだ大丈夫だ、とリダは自分に言い聞かせる。

「あたしは、今日を楽しんで帰る。今日は楽しい日なんだから」

 それは子供じみた、幼稚な意地だった。

 買ってもらえないと分かっている玩具を、それでも駄々を捏ね続ければいつか買って貰えると自分を騙して首を振る幼子のような。台無しになってしまったものを、まだ平気だと強がるような。

 無理だと分かっている事を、ただ認めないだけの意地。

「花火を見ながら美味しいご飯を食べて……それで帰る。そういう日なんだから……」

 もう何に対してかも判然としない無念が、体中を暴れ回っている。

 未熟な自分自身、理不尽な世界、自分を嘲笑った者達。それらへの消化し切れない思いがいつまでもリダの中で渦巻いている。

 女の頼み事はただの罠だった。

 出会ったゴミ男は本当にゴミで、警備隊にも追われる事になってしまった。

 自分を殺す為にやってきた男に悉くを見抜かれ、見抜いて欲しい所からだけは目を逸らされ、心も体もボロボロにされた。

 それでも、今日はリダが選び取って進んだ日なのだと思いたかった。

 絨毯に落ちている銀のプレートを拾い上げ、リダはフランクの体の下に潜り込ませた。

「ほら、これでカーラの名誉は、守られるでしょ……」

 大衆は本当の事など気にしない。ならば、きっとフランク・ブランドンをこそ取引の運び屋だと思うだろう。死人に釈明の機会はないのだから。

 リダは立ち上がろうとして、通路の隅に転がる大小二つのサイコロを見付けた。胸元を切り裂かれた時か、その後か、どこかのタイミングで零れ落ちたようだ。拾おうと伸ばした手が一拍止まる。

 大の4と小の4。「絶対ヤバい」

「……だから何よ」

 リダはサイコロを拾って、腰のポケットに仕舞った。

「あたしのやる事はあたしが決める。花火を観てご飯を食べる。絶対に!」

 立ち上がり、リダはデッキへと歩き出した。

 それはもう、癇癪を起こした少女の取るに足らない意地だった。

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