気怠い午後が導く色は 2
北に「白の大国イズオライド」、東に「青の大国グレーゼン」、南に「黒の大国ドットガル」、西に「赤の大国サウイン」。
周囲の国々を征服して隆盛する四大国の野望は未だ収まる事なく、慢性的に大陸に戦火を落とし続けている。国境は日々塗り替わり、勢力図は混沌を極める。
大義ある侵略戦争、四国大戦。どの国もが自国の繁栄のみを求めるこの大戦は、今年で十五年目に突入した。
そんな四つの大国に、内海を挟んで囲まれた、商業都市ヴェスティア。
大陸に名を轟かせる伝説の大商人、ボルボンド・ゴルドンが統治するこの独立地帯は、戦乱の世にありながら四大国と相互不可侵を保ち続けており、地理的に一種の緩衝地帯として、そして国際流通の基点として、大いに栄えている。本島と周辺の群島の交通を整備した結果、近年では観光地としても人気が高まり、その賑わいは一年を通して途切れる事がない。
春には咲き乱れる百花、秋には燃え上がる万葉、冬には息を呑む雪化粧、そして夏には海と、花火。
特に、ここ数年で恒例となった八月の慰霊祭は、二時間に渡って夜空に打ち上がる十万発の花火と、それに合わせて中心部の人造湖を周回する遊覧船で絶大な人気を博している。
戦争の時代が心に落とす暗い影を、少しでも払おうと、毎年この日はヴェスティア中が旅行者で溢れかえる。
八月十七日。つまり本日が、そのピークの日だ。
ヴェスティア東港に到着した定期船のタラップを降りて、フランクは頭上を見上げた。
空は八月を剥き出しにしたような快晴で、紺碧の彼方には巨大な入道雲が漂っている。うみねこが騒がしく鳴き、馴染みのない、海岸沿い特有の乾燥した磯の香りが鼻を掠める。
僅かな眩暈。フランクは視線を地上に戻して、港を見渡した。
人の出入りの激しい波止場や、乗船所。次々に船から降ろされ、馬車の荷台へと積み込まれていく麻袋。立ち止まっているフランクを追い抜いて、笑顔の親子連れが入国管理ゲートへと向かっていく。
活気に溢れた情景。
「ここに着くとやっぱりわくわくするね」
誰も居ない左隣から、忘れられない声がする。幻聴だ。共に訪れる筈だった恋人の声を、フランクが勝手に再生してみせただけだ。
殆ど同時に、二つの強い感情がフランクの胸中で爆発した。結婚を考えていた恋人、カーラへの未だ薄れぬ愛情と、彼女を殺した犯人への殺意が。
ここへは、二人で来る筈だった。ここで、フランクが数ヶ月の奔走の末に手に入れた慰霊祭の特別遊覧船のディナー席で、彼は彼女にプロポーズする筈だった。
今はもう叶う事のない願い。空席となったその場所に代わって収まったのは、復讐だった。
最愛の人、カーラを殺した犯人を、殺す。それだけが、今のフランクの願いだ。
カーラはグレーゼン連邦国の陸軍所属だった。
背はフランクよりやや低かったが、筋力や動体視力は彼女の方が高く、喧嘩になった時は絶対に会話で解決する、というのが交際一年目からの約束になった。一度、激しい口論の末に殴り合いになり、カーラがフランクを打ちのめしてしまって以来だ。
口内を血で真っ赤に染め上げ、両頬を腫れ上がらせながらも引き下がる事なく応戦したフランクが遂に倒れこんだ時、我を取り戻したカーラは一晩中涙と共に彼を介抱し、謝罪の言葉を口にし続けた。
――軍人の私が一般人の貴方より強いのは当たり前なのに、暴力を振るうなんて。自分が恥ずかしい。
薄化粧の顔をぐしゃぐしゃにして謝るカーラを見上げて、こいつは俺が守ってやらなければ、とちぐはぐな使命感が沸いた事を覚えている。
それ以降、彼女は喧嘩の度に頬を膨らませてフランクを睨み付けた後、崩れるように眉尻を下げて涙目になる得意技を身に付けた。その卑怯な泣き顔をありありと覚えている。
――戦闘員じゃないから最前線には立たないし、今回は簡単な荷物運びだから。
そう言って先月の初めに、出立の挨拶で心配するフランクに見せた、困ったような笑顔を、焼印のように覚えている。
そして彼女は、死体となって彼の元へ帰ってきた。
グレーゼンが主張するドットガルとの国境地帯へ軍事物資を輸送する、防衛軍輸送部隊の護衛任務で、敵の襲撃を受けたのだと説明された。地方の小さなバーで働いているフランクに、それ以上の情報が明かされる事は無かった。
既に両親が他界し、半ば空き家となっていた彼女の家で、フランクはカーラの遺品と二人、朝まで過ごした。
礼拝堂の棺の中に横たわる彼女は、死体加工技術の向上によりまるで眠っているかのような穏やかな顔で、翌朝彼女が土に埋められていくその瞬間まで、フランクはその死を現実と受け止められなかった。
一日を置いて襲い掛かった喪失感は彼の精神を空洞化し、すぐに仕事に出られなくなった。仕事を辞めた後はただ只管に、カーラとの思い出を掘り起こし続けた。
何しろフランクにとっては、彼女との毎日こそが生き甲斐だったのだ。死という絶対線に阻まれた以上、フランクの側から出来る事はその位しかなかった。
二人で買ったイヤリングや、彼女のコロンの匂いが残る冬物のコートを一日中眺めて過ごした。自身の終わりの日まで、絶対に彼女を忘れないように。
親子連れの後ろを歩いて、フランクは入島管理ゲートをくぐった。
ヴェスティアへ入るのに苦労する人は殆どいない。観光業に力を入れ、実質戦争中の四国全てに定期船を走らせている国だ。外を歩ける程度の犯罪者など、審議にもかけられない。無論フランクが止められる理由は無い。
問題なくヴェスティアへ入島し、市内行きの馬車乗り場へ向かう。日の照り始めた砂利道を、音もなく、幽鬼のように。着古したシャツも相まって、傍目には無気力にすら見えるが、フランクの内側には確かに、地獄の炎熱が吹き荒れている。
衰弱死を待つだけだったフランクに、この狂気の熱が灯った原因は、彼の家に届いた一通の手紙だった。ヴェスティア特別観光委員会事務所からの封筒。カーラ宛のものだった。
彼女を驚かせる為に全てをギリギリまで隠して準備していたフランクは、遊覧船申し込み手続きの返信住所を二人分共自分の家にしていた。
手紙が届いた時点で既に手続きは完了しており、フランクは最初、この書簡を旅行に対する何等かの問題報告だと思っていた。
カーラはもういない。今更どんな問題や変更が起きていようと、フランクがヴェスティアへ行く事はない。
開ける必要のない手紙。その封を切る気になったのは、同時に申し込んだフランクには手紙が届いていないという事に気付いたからだ。微かな違和感を無視できず、フランクは手紙を開いた。
特別観光委員会からの内容は、彼の脳を揺さぶった。
事務的な文章の内容は、カーラが願い出たヴェスティア定期船乗船口の変更手続きが、無事完了した旨を報告するものだった。フランクとカーラの国グレーゼン連邦国から、戦争中の隣国ドットガル帝国へ。
そんな事が有り得るのかと、フランクは目を瞠った。
カーラが実は生きていて、ドットガルに捕まっているのか。彼女は敵国のスパイだったのか。軍部はフランクに彼女の生存を隠しているのか。彼女は、生きているのか。
疑念に願望が混ざり、栄養不足気味のフランクの頭は混乱した。だが最後の日に見たカーラは、確かに本人だった。彼女の顔をあれだけ間近で見続けて、その真贋を見抜けないなど、それこそ有り得ない。ではこの観光事務所からの通知書は何なのか。
手続きの変更には、本人確認の為、申し込み時の確認番号と送られてきたチケットに書かれている登録番号が必要になる。そこではたと思い至り、急いでカーラの遺品を隅々まで確認すれば、彼女が護衛任務へ出掛ける前に確かに渡した筈のチケットが、無い。
フランクはすぐに思い出した。カーラは任務に発つ際、必ず戻るという願掛けを込めてフランクの小物を一つ、藍色の小袋に入れて持って行っていた事を。最後に見た彼女の苦笑のすぐ横で、その小袋が指で摘まれて揺れ動いていたのを。
そして、ついにフランクはこの手紙が何を意味しているのかを理解した。
彼女は、カーラは恋人からのプレゼントを持って、任務へと向かったのだ。そして襲撃に会い、彼女を殺した者達が、それを奪い、自らのものとした。恥知らずにも殺した相手の名を名乗ってまで。カーラがチケットを封筒ごと持って行ったなら、同封された書類に確認番号も載っている。
ヴェスティア特別観光の申し込み倍率は非常に高い。観光業につてのある友人に頭を下げ、金を正規価格の倍近くも積んでチケットの当選確約を手に入れたフランクだったが、ペアチケットは取れなかった。フランクとカーラのチケットは、それぞれ一人分の旅券であり、唯一厳格な指定のある湖上遊覧船の座席を、友人の力で連番にしてもらっていた。
だからこそ、この愚か者はカーラに成りすます気になったのだ。これがソロチケットだからこそ。ペアチケットであれば、流石にその相方が自分達の作った死体の中にいない可能性を考慮しただろう。
チケットを奪った者が他人に売った、若しくは譲った、という可能性はほぼない。
観光協会は抽選式のチケットの譲渡を一切認めていない。協会の後ろ盾である伝説の大商人ボルボンド・ゴルドンが許さない商品は、表は勿論裏の市場にも絶対に流れない。彼の怒りを買えばヴェスティアには二度と入れないし、それ以外にも不味い事が多すぎる。何より流通しないので、チケットが本物かどうかすら正規購入者以外には分からない。
ではもし、そんな危険性を承知の上で、カーラに成りすましてこのチケットを使う者がいるとするならば、それは――――最低でも直接本人から奪い、チケット自体の真贋はついている者。
そこまで考えた時、不意に嘲笑が零れ出した。気が触れたように、フランクは声を出して笑っていた。
途端に、水しか通らなかった胃が盛大に音を鳴らした。体中が生を渇望していた。恋人への最後のプレゼントを手に入れる為に。
カーラは軍人だった。軍事行動中に命を落とす可能性など、受け入れていただろう。カーラを殺した相手もまた、誰かの大切な人であるかも知れない。この感情はただの逆恨みなのだろう。だが、そんな事はフランクには関係ない。
殺してやる。
立ち上がり、姿見の前に立った自分の顔を、二週間経った今もフランクは覚えている。その顔は、おぞましく歪んでいた。
砂利道を歩く。親子連れとの距離は5メートル程。フランクは体を揺らさずに深呼吸した。それから確認するように、少しずつ体を揺らし始める。懐かしさが甦る。有難味のない懐かしさ。
カーラは軍人だった。フランクはいつも、彼女に退役を求めていた。一度きりの殴り合いの原因も、その話題だった気がする。
引退する気のない彼女を、ならばせめて守ってやりたかった。だが、戦場で守ってやる事は出来ない。フランクは力勝負でカーラに勝てた事がなかった。殴り合いで普通に負けた程だ。
――軍人の私が一般人の貴方より強いのは当たり前なのに。
あの時のカーラの泣き顔をフランクは思い出す。宝石のような一時を。
だからこそフランクは、彼女に本当の事を言わなかった。だからこそ、守ってやりたかった。あんなに優しい彼女だからこそ。
恋人への、唯一つの嘘。フランクは一般人ではない。
体の揺れが馴染んでくる。試しに、一歩前へ出た。
「うわっ!」
両親に挟まれて前を歩いていた子供が、不意に肩を突かれて声を上げる。振り返って、子供はもう一度小さく驚いた。釣られて振り返った両親も、ぎょっと目を剥いた。音もなく前兆もなく真後ろにいたフランクが、子供にハンカチを差し出していた。
「落としたよ」
「えっ、あ、ありが……とう」
怪訝な顔つきで、しどろもどろに子供はハンカチを受け取る。
実際には落とした訳ではない。肩を突かれて振り返る子供のズボンのポケットから、フランクが素早く抜いただけだ。
子供の言葉を最後まで聞かずに、フランクは三人を追い越して馬車乗り場へと向かう。
二度と使う筈のなかった足取りを、男は取り戻しつつあった。
眼光は鈍く、虚ろで、しかし溶岩のように煮えたぎっている。復讐者は中央区へ向かう。恋人の名を騙る仇敵を葬る為に。