正義は復讐する 3
胸元へと迫る最初の一手を躱した後、リダは反撃の刺突を繰り出す。
狙うは左大腿、低身長のリダが身長差から無理なく攻撃が可能で、逆にフランクにとっては死角になる位置。彼等にとって特に重要な体の動きを制限するその一撃を、復讐者は目で追う事無く左手のナイフで内側にいなす。先制の不意打ちこそを本分とするにも関わらず、その特性から最初に仕掛けた方が圧倒的に不利となる陽炎使い同士の正面戦闘で、迷いなく先手を取るその実力は伊達では無い。
前のめりに右半身をずらされたリダは勢いのまま踏み出した右踵で身を翻し、フランクの薙ぎ払いをくぐりながら遠心力を乗せて左手の刃を振り上げる。左へ切り上げた刃先は当然のように右側へ回り込まれて避けられ、逆手に持ち替えた振り下ろしが首元に襲い来る。
一拍遅れて体についてくるスカートが暗幕のように両者の視界を遮り、手応えの無さからフランクはリダの回避を悟ると、即座に右足で絨毯を蹴って自分も追撃から逃れる。
二人の位置が入れ替わる。
スカートの壁の向こうから、今度はリダがフランクへ突撃する。深く突き出すのではなく咄嗟の防御も考慮に入れた引きの早い連突で、一撃決着より手傷を負わせる事を優先する。だが当たらない。リダの刃先はフランクの跳躍に届かない。両者のリーチの差が如実に、残酷に表れる。
小さな舌打ちを噛み殺してリダはもう一歩踏み込む。陽炎は初撃が最大効果。間断無く攻防を続ける限り影響は減じる事が出来るので、技術に劣るリダが手を休める訳にはいかない。
「なっ……!」
突然伸びてきたフランクの右手にリダは急遽、追走の前傾姿勢を仰け反らせてブレーキをかける。ほんの鼻先を鈍い光沢が掠め、うなじに鳥肌が立つ。
影響は減じられるが、封じられる訳では無い。
戦う間にもフランクは自身の動きを少しずつリダの認識からずらし続けている。それはリダが今も行い続けている同様の行為より洗練されており、彼女の踏み込みを淀ませる。
フランクは不安定に体を揺らめかせながら、唐突としか表現しようのない刺突をリダの急所へ向けて繰り出す。真正面から対峙しているというのに、常に背後から不意打ちを受け続けているような感覚にリダは苛まれる。長い腕が蛇のように伸び、鞭のようにしなる。攻撃全てが不気味で致命的。
全神経に極度の負荷をかけ、リダは際限なく集中力を高めていく。意識するのは常に俯瞰視点。瞬きを止め、呼吸すら意図的に抑え、敵を含めた周囲の一切を見落とさないように視界を広げつつも、自身へ走る凶刃を叩き、避けて、遠ざける。
夏物とはいえドレスでの戦闘は動き難いが、脱ぎ捨てる時間を貰えるとはとても思えない。相手の目を誤魔化す道具として上手く活用するしかない。歩き易い、踵の低いヒールを履いてきたのがせめもの救いだ。
突き出されたナイフが危うく体の芯を捉えかけ、堪らず左のナイフで弾く。一撃の重み自体にはそれほどの差はない。踏み込んで来るフランクに、満足に引き下がれるだけの体制がなく、リダは同じく前に出て応じる。
ナイフを躱し、突き出し、弾き、いなし、切り付け、潜り抜ける。互いが前に出続けながらの攻防は、くるくると二人の位置を入れ替え続け、傍目にはまるで円舞曲を踊っているようにも見える。
絶え間ない死の舞踏に限界がきたのはリダの方だった。集中力は持続している。時間は蜜が滴るが如く引き延ばされ、相手の行動一つひとつに、アクションを起こされてから対応できている。だがその為に酷使した機能、分けても呼吸の抑制がこれ以上続けられない。
大きく髪を振り乱し、舞い上げたスカートに隠れながら、リダは後ろへ跳んで離脱を試みる。お見通しとばかりに狙い澄ました追撃が腹部へ迫る。下半身を空中で捩ってスカートで巻き取り、ナイフを絡め取ろうとするが、察したフランクは手を振り戻して布地を切り裂く。
たたらを踏みながらも距離を空けてリダは着地する。魔術加工は勿論防刃耐性もない、お気に入りの黒絹のドレスは、右足の膝上から側部にかけて大きく爛れ開かれてしまった。酸欠を隠す事も出来ず肩で大きく息をしながら、リダは切り取られ損ねて絨毯に垂れる布端を自ら裂いた。
明らかな攻め時であったが、フランクもまた息を忍ばせて自身の呼吸を整える。長年のブランクとカーラを失ってからの体力低下は、本人が想定した通り全力の活動時間に制限をかけてくる。老いた、というにはまだ早いが、もう若者という歳でもない。
それに、とフランクは荒い息でこちらを見据える陽炎使いの女と、一瞬だけ目を合わせる。
名も知らぬ仇敵、リダの実力は、彼の予想を超えていた。ほんの二分程度の戦闘だったが、最初の内こそフランクの攻撃を勘に頼って大きく無駄に避けていた彼女は、最後の数秒になる頃には目測の修正を図ると共に、より的確な反撃を模索していた。フランクの陽炎に適応してきている。そして不利を承知の上でカウンターを狙っている。
急速に脅威に順応していくリダと、往年の技術を取り戻していくフランク。両者の実力差は、一方が一段上ればもう一方も同じだけ上るように、未だ埋まる事はない。ないが……
「……ムカつく目だ」
口を開けずにフランクは小さく呟く。自身へ向けられた彼女の双眸に、沸き上がる不快感を抑え切れない。立ち向かう事を覚悟した目。強い決意を宿した不屈の光。それが今のフランクにとっては何より我慢ならない。
「なんとかなると思っているのか?自分が助かると……お前みたいなゴミが、満足に人生を楽しめると?
俺を殺して、何事もなかったようにまた明日を迎えられると信じているのか?そう思い続ければ叶うと」
「…………?何……」
ブツブツと独り言を繰り返すフランクの声はリダまで届かない。花火は今、小休止のような小さく華やかな打ち上げが連発されており、音自体は小さいが、それでも距離からして聞こえる声量ではなかった。
「そんなのは無理だよ」
その一言だけははっきりと大きく、通路に響いた。
そう、そんな事は無理だ。他者の命を自分の都合で弄び、奪い、利を得てきた者が、しかし自分は生涯を全う出来るなど、有り得ないし有ってはならない。因果はあるのだ。フランクがそうであったように。彼が血みどろの過去に背を向けたが故に、そのツケを最愛の女性が受けてしまったように。
リダにとっての罰は、フランクなのだと。そう確信している。
だらりと両腕を下げて、もう揺らめく事もせずフランクはリダへと踏み出した。
無防備な前進にリダは困惑する。呼吸は既に落ち着いて、再戦闘は可能になっている。慣れきった不規則なリズムを刻み、思考を加速させていく。だが、その男の歩みが不気味に過ぎて、仕掛ける事が出来ない。正体は分からない。分からないが……男の気配がそれまでとは「何か」決定的に変わった事だけは分かる。
フランクがまたも、先手を取ってナイフを突き出してくる。言いようのない不安を覚えつつも、リダはそれに右手で応じ、左手で突き返す。それを更にフランクが右手でいなし、返す刀で切り付ける。刃は余計な懸念に気を回しながら対応するには危険過ぎる速さで、リダへと向かってくる。
ただただ攻防に集中し、リダはフランクに慣れていく。
自身の切り札がまるで通用していないように見えるのは遺憾だが、リダもフランクの陽炎を見切り始めている。首元へ向けられた切り払いを自信を持って、弾くのではなく避け、肩口を狙って突き出した左手を狙われ、途中で引く。胸への刺突をいなし、左腿への牽制をずらされ、頭部への振り下ろしを潜って右脇腹を狙い、膝を出されて躱す。
勝てる気はしないが、このままなら決定的に負ける事もないと、あくまで冷静にリダは状況を判断する。
お互いに決め手を欠いている。となれば持久力がものを言い、そうなると先程胃に収めてしまった前菜やドリンクが危ないかも知れない。そんな間抜けな心配を真面目に考えだした時――フランクの左手が突然リダの胴元へ伸びた。
「え」
沸騰した血液が猛烈な速度で体内を駆け巡り、時間の流れに逆らいながらリダはそれの防御に体を動かす。攻撃へ移ろうとしていた右手を寸前で折り曲げて、肘で軌道を逸らす。脇の下を死の感触がなぞっていく。逸らし切れなかった刃先がドレスに包まれた腹の皮を切り裂いた。
喰らった――!
把握していた筈の、フランクの左手を避け切れなかった原因を熟慮する暇はない。皮膚が訴える痛みから深手ではないと踏んで、リダは行動の全てを防御に徹する。右の振り下ろし、左への回り込み、足の重心移動、左の横薙ぎ、振り上げ、突進、反転からの裏拳、右の……
「っあぁあ!」
またも捉え切れなかったフランクの右手を、リダは体勢が崩れるのも構わず足で蹴り上げる。左足の踵を回し、よろめく体を独楽のように反転させるが、フランクはスカートの翻りを無視して攻撃を重ねる。右脹脛に痛みが走る。掠る程度だが、また一撃受けてしまった。若干空いた距離を、フランクが一つ深呼吸した後すぐ様詰めてくる。
落ち着いて。考えろ。落ち着け!
夏場のスコールよろしく相次ぐ刺突を捌きながら、リダは自身を叱咤する。
敵の陽炎は見切り始めている筈なのだ。動き自体には惑わされていない筈。ならば何故避け切れないのか。把握し切れないのか。
左を躱す。右をいなす。反撃、したい所だが自制して左の振り戻しを弾く。一歩下がる。右を躱す、右を躱す、左を弾く。
予想通り、見切れている。フランクは攻撃の最中にも微かに体や手足の速度を変えて、陽炎を仕掛けてきている。だがそれらは、舞い散る埃すら見逃すまいと全神経を最大限活性化させ、空間把握するリダには全て感知出来ている。
だというのに、
「な、んっ……」
なんで、という声を発する余裕すらない。避け切れなかったフランクの刺突が、剥き出しの右腕に線を引いた。攻撃を受け流しながら、リダは二歩、三歩と下がる。武器を握る腕を切られたのは、非常に不味い。吹き出る血の量は僅かだが、失血は少量でも思いの外行動を縛る枷となる。
視界の端に映った、高級品としか認識出来ない花瓶へ咄嗟に手を伸ばし、それを置いている小卓を薙ぎ倒す勢いで迫るフランクに投げつける。流石のフランクもこれには足を止め、逆手に持ち替えた左手のナイフの柄で叩いて逸らす。様々な防御加工がなされた窓ガラスに衝突した花瓶が、甲高い悲鳴を上げる。生けられていたアオカシバナが、自身の最期を呪うようにガラスに張り付いて、滴る水と共にゆっくりと落ちていく。
間断ない連撃の嵐から束の間抜け出したリダは、すかさず腰の裏に手を回して緑色の液体が詰まった小瓶を取り出し、親指で栓を跳ね飛ばして中身を一気に飲み下した。食道を通っていくぬめりが心地良い温かみとなって全身へ巡っていくのを感じる。
非常事態の為に常に一本携帯している、経口回復薬だ。傷付いた肉体へ、自然治癒の限界を吹き飛ばして自己再生を促す、軍隊御用達の薬物である。一本で一か月分の生活費が消失する密輸品だが、今が使い時なのは間違いない。手傷はまだ浅いものの、この薬はリダが船内医務室で足に塗ったものほどの即効性は無い。あくまで自然回復を薬効で異常に速めるだけなので、戦闘続行困難な状態に陥ってからでは遅い。
彼女が口にした薬の効果を知りながらも、フランクには些かの焦燥も動揺もない。リダもまた、これで形勢が好転するなどという期待は持っていなかった。なにしろ、何故自分が相手の攻撃を捌き切れていないのかが判明していない。ここが不明な限り、リダに勝ち目はない。
花瓶の水が飛散したジャケットを軽く払って、フランクが無言でリダへと迫る。
酷使を続ける眼球が訴える痛みを抑えて、リダは再びそれらを防いでいく。回復薬の効能は全身に対する回復促進だ。目に対してもいずれ効果は及ぶ。
左脇、右下、右切り上げ、反転、逆袈裟、首元、左膝。リダは限界を超えて集中する。防げなくなるのは、過去三回を踏まえればそろそろだ。
胸部を突く一撃を右手で弾き、長身を大きく回転させ足首を狩りにくる男の払いを、交互に飛び越えて躱す。反撃の機会だ。位置関係はリダが上を取っており、フランクは地を這う右手のスイングが空を切って前方への防御を失っている。だが、リダはフランクの左手を意識で追っていた。腰の後ろに隠したその腕が、攻撃に映るリダの右手を貫く為に引き絞られている事を。
視えている。ならば、とリダは右腕を防御の為に降ろそうとしたが――降ろせない。
愕然とする。何故腕が降ろせないのか。それは今、正に、当のリダ自身が右腕を振り上げている途中だからだ。だが何の為に。何故この右腕は意思とは正反対に振り上げられているのか。
理由は単純。足首への払いを跳躍で跨ぐ前、抉るような鳩尾への突きを、右手を振り上げて弾いたからだ。だから、そもそもこの右腕は降ろせない。いや、正確には力の流れに沿い、軌道を描いてフランクの頭上へ降ろすしかない。そこにカウンターがあるのを知りながらも。
限界まで高めた集中力が時間の感覚を遅延させる。だが感覚が引き延ばされても、実際に動いている体は時の流れに逆らえない。心中の抵抗虚しく振り下ろされたリダの右腕を、待ち構えたフランクの左手の刺突が切り刻む。
せめてもの救いは、それに気付いたが故の僅かな腕の捻りによって、串刺しや切り飛ばしのような決定打を回避出来た事だ。手首を内側に捻った動きのお陰で、フランクのナイフはリダの肘先を滑っていった。
既に治りかけていた先の傷跡の上を通って、鮮血が吹き出す。かろうじて動脈は無事だったが、ざっくりと深く切られた事に違いはない。痺れる手先を鼓舞するようにリダは柄への握力を込め直し、血液を撒き散らしてフランクを牽制する。
薬効が切り裂かれた腕を急速に治そうとしているのが、熱で分かる。血の量は無視出来ないが、それも時間さえあれば造り直す事は出来る。
しかし、果たしてリダにその時間があるのか。
フランクの攻撃を避け切れない理由。それがもし、今彼女の閃いた通りのものであるなら。
ちらと頭の片隅に沸いた馬鹿馬鹿しい可能性に、否定を許さない現実がある。フランクは手を休めず、攻撃を続ける。まさか、というリダの不安は、徐々に確信へと変わっていく。
左腿への突きを弾く。左肩への突き降ろしを避ける。右脇への突きを避ける。切り上げを刃で逸らす。首への切り付けを潜る。アッパーを弾く。一歩下がる。右足への追撃を払う。左足への横薙ぎを……避けられない。
切り付けられた太腿から血が吹き出る。
よろめいて崩れかける姿勢をリダは必死に立て起こし、彼女の負傷に何一つ感情を動かさず次を放つ男へ抵抗する。右腕、首、心臓、右足、左手首、左脇下、鳩尾。連撃を全て目で確認し、完璧に対処し、そして……その先にどうあっても避けられず、防ぐ事も出来ない一撃が待っている。
右足の脛から外側に激痛が走る。
少しずつ、けれど確実に五体を刻まれ、傷口からの失血量が増えてくる。今はまだ血を失う程度のダメージであるものの、このまま続けば遠からず四肢が動かせなくなる。
思いの外攻撃を防ぐリダに対して、フランクが一撃必殺の急所狙いから手傷を重ねる堅実な方針にシフトした事で、お気に入りのドレスはスカートが意味を成さない程破れ、全身から流れた血で濡れ滴っている。
だがリダが追い詰められているのは、彼が戦闘方針を転換したからというだけではない。
防ぎ、躱し、躱し、弾き、回り込み、防ぎ、弾き、防げない。
こうなってはもう疑う余地も無い。フランクの攻撃を、リダが避けられない理由。
余りに馬鹿げた回答。視えていながら対処出来ない理由。
その全てが
「……そんな……」
意識せず呟きが漏れる。
「……そんな事……っ」
その行動全てが、最初から決められている。フランクの動きも、そして敵対者であるリダの動きまでもが。彼が最初の一手を繰り出した時に、残りの攻防が既に順序づけられていて、リダは自覚なくその流れに沿って体を動かしてしまっている。いや、自覚した今となってもその通りに行動している。
動きを読まれている、などという生易しいものではない。
フランクの陽炎を見切り、その攻撃を防いだ時から、全てはコントロールされている。視野を広げ、偽りの距離情報を見破り、次の一手を察知してフランクと渡り合うリダだからこそ、それを逆に利用されて彼の思い通りに動くしかなくなっている。
詰みまでの手順が用意されているボードゲームのようなものだ。
正解通りに動けば、用意された通り最後には自分が負ける。では仮に、リダがフランクの流れに逆らって動いたなら――例えば途中で無理な攻撃に転じたなら――決められた敗北を回避出来るかと言えば、そうもならない。
リダは今も、その前も、最終的に防ぎ切れず傷を負った全てのやりとりで、最善の動きをしている。その上で負けている。最善の手順を踏み外した時、そこにあるのは、予定よりも早い敗北だ。
つまりどうやっても勝ち目はない。
残像を引きながら繰り出される鈍色の牙を撃ち返そうとする気力が、少しずつ失われていく。彼我の実力差が明確に過ぎて、覆し得る要素を見出せない。
思い出すのは、スラム街の果てで老人に戦闘術を教え込まれていた時の組手稽古だ。何をどうやってもリダは師から一本取る事が出来なかった。敗北の度に彼女は新たな正解を見つけ、次に生かしたが、それでもとうとう彼の下を去るまで、一度も勝つ事は出来なかった。
今ならば分かる。あれは勝てなかったのではなく、最初から勝ち筋がなかったのだ。勝ち筋がない。つまりこの場においては――死ぬしかない。
恐怖を抑え込む為噛み締めた奥歯が音を立てる。
自身がどれだけ優位かを理解しながらも表情一つ変えない長身の復讐者は、下がるリダへ更に苛烈に肉薄する。深い紺色のジャケットがはためいて、冬の冷気を思わせる銀閃がリダの心まで穿たんと襲い掛かる。
定められた終わりを引き延ばす為、リダは必死に応じるが、もう彼女にも、最初の一手を受けた時点で薄らとその後の流れが見え始めている。
逃げ道が無い。
全力で追い縋る彼女だからこそ、フランクの底なし沼のような恐ろしさが理解出来る。
勝てない。
往く事も退く事も、脇に逸れる事も出来ない。どこにも行けない鼠は導かれるままに走り続け、やがて終点へと辿り着いて圧し潰される。逃れられないその手に、握り潰される。
潮が満ちるように、やがて希望を沈める感情。絶望。
それは遠くない過去の怪談話。
戦場に出た兵士達が口々に噂する、その姿を確かめられた者は生きて帰れないと言われる存在。魔術兵器が剣と魔法の英雄達を駆逐する以前の、ほんの十年前までの大戦に出没した、英雄にはなり得ない虐殺者。
かつて数多の戦線で死体の山を築き、いくつもの勝敗を塗り替え、遂には死神と恐れられた男の指先が、リダの喉元へと食い込み始めていた。
「このテーブルに居た女はどこへ行った?」
四階のデッキ、食事途中の前菜をそのままにナプキンの放り出された空席のテーブル前で、ウォルターは給仕を呼び止めて詰問する。スープを両手に持ったまま立ち止まるウェイターは、困惑顔で短く首を振る。
「お食事途中のようですし、お待ちになってみては……?」
碌な返事が期待出来ないと悟り、ウォルターは通信石へ指を付ける。
「カーラがいない。逃げたかも知れん」
『私の部下からは何も連絡がないわ。最初から来ていないという事は?』
返すジリアンの声は事ここに至って冷静な音程を保っている。
「いや、テーブルに食べかけの料理が残っている。途中で席を立っている様子だ。こちらの動きに勘付いた可能性があるぞ」
視線を空席のテーブルから周囲へと巡らせるが、薄らと灯るだけのキャンドルライトと花火の光しかないデッキでは、条件が悪すぎる。
『勘付きようなんてないでしょう。偶然席を空けているだけ……』
花火の振動が連続して鼓膜を打ち、会話を途切れさせる。逸る思いをウォルターは抑える。彼女の言う通り、ただの離席の可能性はある。
カーラ・ニーセットがウォルター達の動きに反応するには、あまりに情報がない。ウォルターが乗船している事も、ジリアンと協力している事も、この女には知りようがない筈なのだ。どこかに何か、見落としがない限りは。
カーラは戻ってくる筈だ。逃げ場も情報もない鼠は、必ずまたここに戻ってくる。
「そうだな。少し近くで様子を見る。人員の配置はそのままだ」
デッキで立ち尽くすウォルターを、近くのテーブル客達が不審げに窺ってくる。注目を集めないように、ウォルターはデッキの端へと移動した。
闇雲に船内を捜索させて相手に気取られたり、まして各個撃破などされようものなら目も当てられない。今は待つ。その選択は正しい筈だ。だが――刻限は迫っている。
船首付近、ブリッジの真下に当たる横通路に、鋼のずれ合う耳障りな音色が充満する。
苛烈さを増していくフランクの攻撃に、リダは何とか追い縋って対抗する。共に礼服を纏った男女が、その両手に握る凶器を閃かせ踊るように互いへ切りかかる様は、一見すれば拮抗した死闘に見える。
両者譲る事無く突き、躱し、受けるその光景は、もし観客でもいようものなら、決着が予想出来ない程目まぐるしく攻守の入れ替わる二人をこう評価した知れない。実力伯仲、と。
しかし当の本人達からすれば、優劣は最早論議の余地なく明白。圧倒的な練度と精度によって戦局をコントロールするフランクに作られた手順は盤石で、リダは否応なく決められた道筋通りに動かされ、敗北へと一歩一歩近づいていく。
夢の世界と謳われた船に沿うべく用意された二人の衣装は、僅か数分足らずの殺し合いで修復不能な程切り裂かれているが、そこから血を滲ませているのはリダのみだ。
四肢を主とする幾筋もの切創は少しずつ、だが確実に彼女の行動力を奪っていく。這い上がる死の息吹に肌が泡立つ暇すら無い。皮膚が切り裂かれる度、薬効によって異常再生を繰り返す細胞が熱を放ち、汗が出る。
五体の至る所から立ち上る湯気と、肌を掠める度に吹きあがる血霧。身体から熱量が失われ、全身運動によって汗を流しているにも関わらず背筋に寒気が走る。回復薬の効果が追いつかない。
フランクの猛攻を完全に見切りながらも、それ故にじわじわと切り刻まれていくその感触には、まるで彫刻家が素材を少しずつ整えていくかのような理路整然とした計画性が見え、心までもが削られている錯覚を覚える。
いや、実際にリダの精神は秒を追う毎に削られていっている。約束された敗北へと背を押されるのは、絞首台への階段を一段ずつ踏み上がっていくのと何ら変わりない。足を止めず、呼吸の間すら惜しんでその結末に抵抗する彼女の意志を、死神の刃がゆっくりと削ぎ落していく。
恐怖が胸を満たしていく。溺れているかのような苦しさ。攻撃速度が上がっていく。ついて行けない速さではないが、行程が速まるという事は、結果が早まるという事。
上、左下、右、右上、首、左下、左脇、右切り上げ、足払い、鳩尾、右上腕、避けられない。
「うう……」
終わりの見えている道筋を抜け出すには、反撃しかない。だがリダの陽炎が相手に効いていなければ、そこにあるのは……
「ううう……ぁあああああ!」
怯えを吐き出すように吠えて、リダはフランクの刺突を半身の捻りで躱して、左手を突き出す。
当然の如く弾かれ、予定通りの反撃にあうも、構わずに姿勢を低めて次を繰り出す。正解から外れた選択。ついにその一歩をリダは踏み出す。冷めきった暗殺者の睥睨は、それが失敗である事を何より雄弁に語っていた。
足元へ飛び込んだリダを、絨毯を深く踏み込んでフランクが蹴り飛ばす。体の向きからして死角だった筈のその位置へ放たれた爪先蹴りは、真っ直ぐにリダの鳩尾へと吸い込まれる。最善を踏み外した時、そこにあるのは敗北。急所を点で蹴り上げられれば、戦闘続行は不可能――
「っ……」
フランクがピクリと眉を揺らす。
意識を刈り取るつもりで放った蹴撃の感触に違和感。芯を捉え損ねている。渾身の一撃を受けて大きく後方へ吹き飛ぶリダは、胃液を逆流させながら、それでもフランクを見据えている。僅かに、極僅かにだが、リダの陽炎によってフランクの認識はずらされていた。その極小の差異が、彼女に急所を守る最後の猶予を与えた。
だが、それでも結果が変わることは無い。フランクは既に支点としていた左脚で地を蹴り、距離を詰めてきている。鳩尾こそ避けられたものの、脚力の方向を一点に集約した彼の爪先は、弾丸を彷彿とさせる衝撃をリダの腹部に与えており、追撃に対応出来るだけの集中力は今の彼女にはない。
ないが――何もしなければ次こそ本当に殺されてしまう。
吹き飛ぶリダの視界の隅に、ドアノブが映る。時間の遅延。ほんの一握りの集中力。従業員通路だ。鍵がかけられているかも知れない。けれど、間違いなく敵の計算の外にある要素。
歯を噛み鳴らし、リダは右腕を伸ばしてドアノブを掴み、投げつけるようにドアを開いた。
勢い激しく進路へ立ち塞がる鉄製の壁を、フランクはナイフの柄で叩き返す。だが道は開かない。ノブを掴み直して蹴りの衝撃に抵抗したリダが、踵を地に付けて踏ん張り、肩からドアに突撃して反対側からドアを支える。
押し合う力が拮抗する。可動部から不気味な摩擦音を発しながら、扉が震える。
腹部へのダメージで咳き込む度に、少しずつ天秤がフランクへと傾いていく。ドア枠に足をかけてリダは踏ん張る。流石に魔術加工なしのナイフで鉄のドア越しに刺す事は出来ない。
この状況は可能な限り維持し、時間を稼がなければならない。戦闘が停滞するほど回復が進み、そして集中力を戻す猶予が生まれる。
撃ち合った印象通りフランクの筋力はそれ程強くないようで、全体重をかけてドアを押すリダを相手に、足が絨毯の上を滑り始める。リダは体重を乗せつつ、右手に伸びる幅の少し狭い通路へ目を走らせる。
と、その瞬間ドアの反対側から圧力が消失し、リダはドア毎前方へつんのめる。左手から、回り込んだフランクが現れる。悪寒が総身を駆け巡る。
「くっ……の……っ」
間一髪でが顔面へ突き込まれたナイフを避け、リダは従業員通路へ転がり込んだ。
同じく通路へ飛び込もうとしたフランクの足が、急ブレーキをかける。すぐさま反転したリダが、ドア枠の内側から牽制の連撃を放ち、侵入を防いだ。
そのまま通路の壁面に背をつけ、リダは数センチ先の乗客用通路に存在する相手の気配を窺う。決して穏やかでない呼吸音が、枠の向こうから聞こえている。双方壁に張り付いて、目と鼻の先にいる互いを意識して次の一手を模索する。
僅かながらも自身の陽炎が効果を発揮しており、その結果こうして時間が稼げた事はリダにとって僥倖としか言いようがない。しかしそれが現況の打開策と成り得なかったのは明らかだ。ほんの数センチ向こうで呼吸を整えつつある復讐者を退けるだけの力も方法も、彼女にはない。
フランクの力の正体を、リダはもう理解していた。結局師の教えの通りだったのだ。
俯瞰視点。
自らも敵も空間も、そして時の流れすらも第三者として外側から見下ろす空間認識力。それこそがこの男の強さの源だ。リダでは彼の視点まで届かない。そのビジョンに気付く事は出来ても、追い抜き塗り替える事にまでは及ばない。
お互いの息が落ち着きを取り戻し始めている。もうこのまま壁に背を預け続けては居られない。焦燥と恐怖が胸中で螺旋を描いて回り続けている。勝てないという焦り。死へと追いやられる恐怖。
けれど今、リダの中でもう一つ強い感情が主張を始めていた。
いや、それはきっと、もっとずっと以前から彼女の内に在り続けていたものだった。そこに逃げたくなくて、頼りたくなくて、だから封をして別の言葉を探し続けたその一言。
なんであたしが、こんな目に会わないといけないのよ。
彼女の世界を覆い尽くす理不尽への激憤。溜まり続けていたその怒りが、堪え切れずに溢れ始める。
花火を見に来ただけだった。ただ慰霊祭の夜を過ごしに来ただけだった。だというのに、彼女へ向けられる悪意はその程度の願いすら踏みにじっていく。
好きで選んできた人生とは言えなかった。それでも、自分の選んだ道だと胸を張っていたかった。それが、ただそれだけの事がどうしてこんなにも難しいのか。
過去を肯定し、今を歩き続ける事が、何故これほど苦しいのか。
奥歯が不快な軋みを上げる。悔しくて堪らない。自分を好き放題に侮蔑したこの男へ、何か言い返してやりたくて仕方がない。
フランクが逆手に握ったナイフを突き入れてくる。見えてなどいない筈の壁の向こうから、正確にリダの首元へと拳を振ってくる。しゃがんで回避し、リダはその腕へナイフを突き上げる。通路へと伸びてくる死神の腕は、その全てを刃で受け止め、次々に反撃を仕掛けてくる。
次の一手で本人が通路に乗り込んでくる、という所で、リダは彼の予定通りに地を蹴って大きく後退する。リダが離脱した瞬間にフランクが通路へ飛び込んできた。
これが足を止めて睨み合う最後の瞬間だ、という自覚があった。
だからこそ、言い返すなら今しかない。
「……確かに、あたしは殺されてもしょうがないんだろうけど」
リダはフランクと目を合わせ、その眼光を受けて立つ。この後に待ち受ける死の奈落が恐ろしい。これを言ったら、もう戻れない。それでも
「あんたの恋人だって、そんなに綺麗な人間って訳じゃなかったでしょ」
フランクの瞳孔が大きく開き、次の瞬間、音をも置き去りにして銀光が迫ってきた。
先程までより狭い通路の中で、再び繰り返される死の舞踏。恋人を侮辱された復讐者の怒りは唯々冷徹に燃え上がり、一切の隙を生じる事なくリダへと叩き付けられる。
躱し、躱され、避け、避けられ、受け流し、いなされ、避けられない。
鉛色の壁面に刃が掠り、不快な引っ掻き音と同時に火花が飛び散る。
助けは来ない。
真上に居る筈のクルー達は誰一人降りてこず、乗船客も当然通りがからない。空を彩る炸裂光の届かなくなった無機質な空間で、二人は小さな花火を散らし続けながら終幕へと踊り続ける。
十五手。
右腿が切り裂かれる。
十四手。
右腕が刺される。
少しずつ体の動きが鈍り、必要な手数が減っていく。
十三手。
左のこめかみから血が噴き出て視界が遮られる。
十二手。
左脚が刺される。
痛みを噛み締めた歯の奥に封じ込め、リダは無我夢中で死神に抵抗する。
勝ち目がない事などもう分かっている。嫌と言う程見せつけられている。心はもう、本当は負けを認めている。無駄に引き延ばす程、苦しみが増すだけだと分かっている。
十一手。
左手が切られ、ナイフを握る手が滑る。
十手。
死角となってしまった左の脇から胸をフランクの刃が滑る。それでもリダは最善手を返す。その先が行き止まりだと分かってはいても、走り続ける。
もう左手は血で滑って満足に打ち込めない。視界は半分が真っ赤に染まってよく見えない。俯瞰視点を意識してカバーしても、どうしても彼女の力量では防ぎ切れない。
それでも諦めきれない。納得し切れない。自分がここで死ぬ為に生きてきたのだと、認めたくない。
辛くとも苦しくとも、その姿がどれ程情けなくとも、みっともなくとも。生きる事を放棄する惨めさに比べたら。
九手。
切られる。
八手。
突かれる。
七手――
真っ赤な視界が揺らぐ。遂に弾かれた左手の短剣が宙を舞う。もう防げない。
フランクの右手が下から這い上がり、リダの中心へ、心臓へと迫る。大きく脇に振らされている右手の防御は間に合わない。
それでも、諦めきれない。
間に合わないのを承知の上で、それでもリダは自らの最善として、フランクの左肩へ逆手に握り替えたナイフを、叩き付けるように振り下ろす。
時間がどこまでも引き延ばされる。
自分へと向かう鈍色の切っ先が、ゆっくりと黒絹を裂いて下方から胸の谷間に入っていく。
死の瞬間。
それでもリダは腕を振る。この一撃は、それでも自分で選んだ道なのだと信じて。
フランクの刃が、リダの柔らかな胸のその一枚上で、硬質な音に阻まれて上方へと刃先を滑らせる。必殺の刺突はずれて、彼女の皮膚を切り裂いて右胸の上部に血を噴出させる。その光景を、二人の陽炎使いは驚愕と共に見詰める。
破れた彼女の胸元から僅かに覗く、傷付いた銀の長方形プレート。今はもう役に立たない、彼女の切り札。彼には通じる事のなかった、汚れた取引の割符。
間に合わない筈の一撃が、フランクの肩口へ突き込まれて鎖骨を砕いた。




