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陽炎の夜  作者: 戸坂
17/24

正義は復讐する 1

「あれ、ここでいいのかな」

 フランクは手に持つチケットと周囲を何度も見直しながら、自身のテーブル席の前に立つ。

 テーブルの向かいには彼の標的、恋人カーラに成りすましたリダがいる。鈍い金髪を二つに分けて結んで垂らした、黒いドレスの女。リダを見た瞬間、フランクは想像していたより遥かに冷静に、無害な旅行者を演じる事が出来た。

 花火の鑑賞が主目的なだけあって、デッキの光源は少ない。キャンドルライトが仄かに照らす彼女は、ドレスの輪郭が半ば闇に溶け込んでいる。くっきりと相手が見えない事が幸いしたのかも知れない。対してフランクの借りたスーツも、夜空さながらの深い紺色なので目立たない。

 フランクがリダの外見を、チャラ付いたクソガキと評している時、リダは前菜の途中で現れた相席の男に陰気で冴えない中年男という印象を抱いていた。

 二人は見事に、何もかもが周囲に適応していた。どこから見ても、今出会ったばかりで何の縁もない旅行者だった。

「チケットの番号がそこなら、そこの筈」

 形よくカットされたトマトを口に入れる前に、リダは返事をした。

「でも、俺のチケットはソロなんだけど……」

 狼狽えて見せるフランクにリダは微笑んだ。嫌な奴じゃないだろう、という呑気な予想を印象に加えて。

「あたしもだけど、一人の席はないみたい。ほら」

 リダが軽く振ったフォークに釣られてフランクは辺りを見回し、小さく頷いた。

「じゃあここで間違いないみたいだ」

「多分ね。貴方が来るまで誰も来なかったし。もう前菜が出てるのに」

 フランクは椅子を引いて座りながら苦笑した。まあ、俺は野菜が好きって訳じゃないしな、と声に出さず独りごちる。すぐにやってきた給仕に、フランクは適当なドリンクを注文して、前菜はもう要らないと告げる。

 リダは勿体ないと思いながらも余計な口出しをせず、酸味のソースで引き締められた野菜の甘みと食感を堪能しながら、時折手を止めて花火を仰いだ。

 話しかけられた気がして視線を降ろすと、遠慮がちにフランクがリダに笑いかけていた。

「今何か言った?」

 丁度大きな花火が炸裂した所だったので、聞こえていなかった。

「フランクって言います。一応、挨拶くらいはと思って」

 言いながらフランクはネームプレートをリダに向けた。フランク・ブランドンと書かれている。

「ああ……」

 一瞬虚を突かれて返事に詰まったリダだが、確かに同じ席で食事をするのに挨拶もないままと言うのは失礼に当たる。特にこのような席では。自分の手元のネームプレートを一瞥して、同じくフランクに向ける。

「カーラ・ニーセット」

 リダがその名前を口にした時、瞬間的に沸き上がった怒りを、フランクは全力で抑えつけた。まだ殺してはいけない。どうしてもやらなければならない事がある。

「てっきり一人席だと思っていたから緊張するよ」

 苦笑して見せると、リダも肩を竦めて笑った。

「あんまり気にしないで。つまり、あたしの事。お互い目的は別な訳だし」

 俺の目的はお前なんだよ、とフランクは胸中で呟く。

「ああ、そうだな。折角チケットが当たったんだ、楽しまなきゃな」

「その通り」

 その時給仕がやってきて、フランクの前に透明なドリンクと前菜を置いた。

「前菜は要らないって言ったのにな」

 薄明りの中でもはっきりと分かる葉菜の緑色を見て、フランクは諦め顔を作り、大雑把にフォークで突き刺して口に運んだ。カーラとの生活で身に着いた速攻戦術だ。どう見ても嫌いなものを無理やり詰め込んでいるとしか思えないそのさまに、流石のリダも気にしない振りが出来ず小さく吹き出してしまう。

「野菜嫌いなの」

「見ての通りさ、大好きだよ」

「そうなんだ」

 全く信じていないリダの言葉を花火の音が隠した。

「野菜を食えと四六時中言われていた時期があってね」

 黄金の時間だ。フランクにとって掛け替えのない。一瞬表情を隠すのに失敗したが、リダは打ち上げられた花火に目を向けていた。

「野菜は体に良いって言うし」

 食事を再開して軽口を返すリダはしかし、相席の男の血色の悪さが気になった。面長の顔はやけに頬がこけて見えるし、眼窩は落ち窪んでいる。元々そういう骨格なのかも知れないが、テーブルの小さな灯りと足元の安全の為に点在する床置きのランプに照らされるフランクの顔は、髑髏を思わせる寒々しさがある。薄明りのせいでそう感じるだけだ、とリダは自分を納得させた。

 フランクは早々に前菜を片付けてドリンクで流し込みつつ、空を見上げた。

「綺麗な眺めだ」

「ええ」

 こちらはきちんと味を確かめつつ、リダも見上げる。

「身の丈に合わないのは分かってたけど、大奮発してチケットを買ってよかったな」

 言ってからフランクは、しくじったとばかりに顔を顰めた。

「失礼。せこい話しちゃって」

「気にしないで。あたしだって普段はここにいるような人種じゃない」

「そうかい?俺なんて……」

 笑うリダに、フランクは少し躊躇う振りをして、辺りを見回しつつ身を乗り出して囁いた。

「正規の抽選じゃ買えなくて、周りに相当協力してもらったよ」

「ちょっと……」

 リダは、出会ったばかりの男が秘密を打ち明けてくる事に戸惑いを覚えた。

「よくそんな危ない橋渡る気になったわね。バレたら二度と入島出来ないわよ」

 ヴェスティア観光協会は非常に厳格なルールを持っている。リダ自身人の事を言える立場ではないが、それを誰かに話す気にはなれない。だからこそ、フランクの告白に相槌など打てない。

「手を回してもらって、当選権を買ったんだ。だからバレようがないよ。一人席は実際そういう枠があるって聞いた。君は違うのかい」

「違うわ」

「本当に?俺は白状したんだぜ」

「違う」

 リダが警戒し始めているのを感じ取ったフランクはすぐに身を引いた。

「悪かった。俺は今舞い上がってるんだな、多分。本当にごめん」

 フランクの素直な謝罪を受けて、リダは知らずに入っていた肩の力を抜いた。この船に乗って気分が高揚するのは仕方のない事だ。話の内容はともかく、この程度の勘違いなら目くじらを立てる事ではない。彼女自身、いつもより大分気が弾んでいる。勿論、彼の秘密を誰かに密告するつもりもない。

「気にしてないわ」

「良かった」

 フランクはほっと息をついた。

 その安堵は演技ではなく本心だった。フランクの聞きたかった言葉が、彼女の口から出たからだ。これ以上、演技であっても話を続けたくはない。何より、もうその必要はない。

 夏の夜の湖上はそれでも少し蒸し暑く、デッキはほんのりと薄暗かった。

 何度も何度も、色を変え趣向を変え続けざまに花火が打ち上がり、空の星々を嘲笑っていく。

 船が水を分けて進む穏やかな振動が心地良く体に響き、昼間の疲れを労わるような、最高の夜を演出する。

 ほっと息をつくのは誰にとっても至極当然の反応で、リダにとってもそうだった。目的を果たし、後はこの夜を楽しんだ後、逃げるだけ。

 だからこそ。

 だからこそ、目の前から突然向けられた殺意に、惜しげもなく反応した。

 地上に顔を戻すより先に、リダは首を傾けて前方から飛んできた物を避けた。

 それは。向かいの男が投げた肉料理用のナイフは、キャンドルライトの光で白く閃き、一条の余韻を残しながら彼女の左髪を揺らして、人造湖の闇に吸い込まれていった。

 驚愕に大きく目を見開いたリダの視界の中で、フランクもまた瞠目して彼女を見詰めていた。その両眼が、唯一つの決意によって細められていく。

 失敗の後悔が押し寄せたのはリダの方だった。もう遅い。取り返しはつかない。あからさまな殺意。気付くべきだった。

 普段のリダなら、この極一瞬の間に判断出来たかも知れない。左のテールを掠めたナイフの軌道。あの一投は最初から顔を逸れていた。

 避けてはいけなかったのだ。

 理由こそリダには知り様もないが、今の一撃には反応してはいけなかった。

 周囲の者達は、誰一人としてデッキを横切って飛んでいったナイフに気付いていない。それこそが、フランクが彼女をカーラの仇と見做す為の最後の確認だった。殺意に気付いて、突然顔に投げつけられたナイフを躱せる者は、間違いなく一般人ではないからだ。

 つまり、カーラの死と無関係な、ただの一般人ではない。

 今こそ、復讐者は隠す事無く仇敵へ本物の殺意を向ける。静かな、絶対的な殺意を。気温が一気に下がった錯覚がリダを襲い、剥き出しの腕に鳥肌が立つ。

 リダはナプキンを無造作にテーブルに投げ出して、席を立った。フランクの脇を通らぬよう大回りに、いくつものテーブルの間を早足で歩いて、船内への扉に向かう。逃げ場などない事は分かっていたが、あれ程の殺意を向けてくる男の目の前に居続ける事が正解だとはとても思えない。周囲の目をこれ幸いとデッキに留まり続ければ、即座に状況を無視して襲い掛かられる事が容易に想像出来る。

 そうなれば、逃がし屋の連絡が入るまで穏便に一般客という訳にはいかないし、無関係の乗船客達に被害が出る。そんな事態は絶対にごめんだ。

 フランクもすぐに席を立ち、大股でリダを追う。

 スープを運んできた給仕達と扉の近くですれ違い、彼等を盾にするようにリダは船内へと逃げ込む。リダの予想通り、フランクは給仕達と鉢合わせて僅かに足を止め、二人の距離が広がる。

 逃げ場はない。逃げ場がないのは分かっている。ここは湖に浮かんだ船の上で、服装からも体格からも、フランクの方が足が速い。

 悲鳴を上げてスタッフに保護を期待する事も出来ない。リダにとっては、今自分を狙っている者がフランク一人である保証がなく、警備隊にも追われているので極力問題を起こして人目につきたくない。何より、背後からリダを追ってくる男がそんな対処で諦める気がしなかった。

 花火の鑑賞会が目的の船だけあって乗船客はその殆どがデッキに出ており、船内は意外な程人がいない。スタッフ達も売店等のある下の階になら一定数残っているのだろうが、乗船客のプライベートルームや休憩所がスペースの多くを占めるこの四階では、今は人手が後方のデッキ方面に集中していて、前方へ進むにつれ数が減ってくる。

 足早にエントランスへ入り込んで、リダは上下階への大階段へ目を向ける。下へ行けばスタッフが多く残っている筈。保護は期待出来なくとも、盾には出来る。だがそれはスタッフを巻き込むという事だ。何の関係もないスタッフを。飛び込みたい気持ちを押さえてリダはエントランスを横断し、船体前方への通路へ足を向ける。

 フランクは大股でどんどんと距離を詰める。もしも彼女が誰かに助けを求めて速度を緩めたり、逃走以外の動作を取ったなら、即座に、今度こそ右手に隠し持つナイフの投擲で喉を刺し貫くつもりだった。

 通路を突っ切りながら、リダは少しずつ状況を整理し始める。突然の殺意と攻撃に動転していた心中をどうにか宥め、事態への対処を試みる。

 背後から追ってくる男をどうするか。魔術加工の施された絨毯に音を吸われているものの、フランクがリダとの距離を詰めてきているのは振り返らずとも分かる。ドレスとヒールで逃げ回るには限界がある。どこかでやるしかない。

 腰に隠し持っているナイフを意識する。遊覧船のチェックゲートを掻い潜る為何の加工もされていない装備だが、条件はフランクも同じ筈だった。ならばやれると、リダは覚悟を決める。

 どの道逃がし屋からの連絡が来るまで逃げ回り続けるのは現実的ではない。リダとしても、そんな不毛な追いかけっこで残り時間を潰したくはない。

 ならば、やるしかない。

 歩調を緩めずに、リダは少しずつ足取りを不規則に整えていく。全神経に負荷をかけて、集中していく。オレオに従って足の怪我を治したのは大正解だった。爪先と踵に痛みを抱えたまま今の状況になっていたらと思うと、彼には感謝しかない。

 せめて大事にはせずに。誰もが楽しむ船の上で、残念な事件は起きないように。

 ドレスを揺らし、大きく髪を波立たせながらリダは歩く。動きのせいでフランクが更に距離を詰めてくる。もう、直進以外の行動を取れば捕まってしまうような距離だ。

 だがそれこそがリダの狙いだった。

 周囲の風景が、花火を反射して輝く湖を映す大窓が、滴る蜂蜜のようにゆっくりと流れていく。世界から色がなくなり、打ち上がる花火の音さえ遠ざかっていく。老人の教えが頭の中で木霊する。

――勝機は一瞬しかない、分かるな。

 はい先生。

――容赦はならん、分かるな。

 ……っはい、先生。

 通路の角が見えてくる。もう真っ直ぐには進めない。それは、フランクにとっても、そしてリダにとっても行動を起こす絶好の場所だ。船首に近いこの場所には今、人気がまるでなかった。それは追う者追われる者双方にとって、都合の良い場所だった。

 角を曲がるその動きに、フランクが絨毯を蹴って一歩で詰め寄る。右手のナイフをしかと握り、突き出すその軌道は間違いなく獲物の首元へ。リダはそれを、目で追うことなく察知する。リダの思考感覚が最高潮に達する。記憶の中で、念を押すように老人が眉の奥から細目を開く。

――――容赦はならん、リダ。

「はい先生」

 呟いて、リダはフランクの一撃を避けながら振り返り、腰のナイフを抜いてカウンターを放った。狙うは顎下。背の低いリダが長身のフランクへ、懐へ入りながらナイフの柄で撃ち上げる。

 ……筈だった。

 その一撃が、フランクの皮膚をなぞるように空を切る。必殺必中の筈の一撃が、間抜けな風切り音を立てながら不発に終わる。

 リダの心臓が痛い程に脈打った。

 避けられる筈のない、避けられてはいけないその先手。それが――避けられている。

 予想だにしなかったその光景に、集中力が途切れかかる。

 何故避けられたのか、という疑問より後悔が先立つ。ギリギリで届かなかった、ナイフを逆手に握る右手。いつもリダが失敗する、老人の教え。容赦はするな。逆手でなければ、避けられるよりも早く顎を捉えていたのは明らかだ。

 血の気が引いていく。

 分かっていた事だ。あの老人は常に正しかった。やると覚悟したのなら、殺したくないなど、そもそも思ってはいけなかったのだ。

 大きく右腕を振り上げ、敵の前で体の硬直を曝した状態でリダは自らの愚かさに絶望する。距離感を見誤らせ、懐に潜り込んで放った一撃を避けられた今、そこに残るのは致命的な隙に他ならない。

 だが反撃の一撃はこない。引き延ばされる一瞬の中でリダはフランクの顔を見る。驚愕と戦慄で目を見開くリダの視界の中で、数分前と同じく、フランクもまたリダを愕然と見詰めていた。

 その僅かな空白が、離脱の猶予を作った。リダは踵で絨毯を押し蹴って、後ろへ跳ぶ。ドレスのスカートが二人の視界を遮るように舞い上がる。

 フランクにとっても、リダの一撃は間違いなく不意打ちであり、寸前で避けられこそしたものの、大きく背を逸らした体勢からでは追撃出来ず、同じく後ろへ引く。

 黒絹がゆっくりと地に降りた。

 無言。互いの間合いから二歩分以上空けて、両者は向かい合う。

 結ばれた視線からは敵意と疑念がぶつかり合い、動きが止まる。

 リダにとって、攻撃が避けられたのは思考が止まる程の衝撃だった。完璧な足取りをもって相手の目を誤魔化し、確かに距離感を錯覚させた状態でのアッパーが避けられた。ナイフを逆手で握っていたのはリダの心の弱さ故であるが、それ以外の行動は何一つ落ち度がなく、この攻撃の失敗が意味する本当の問題は、彼女の技が見切られていたという点にあった。

 そしてフランクもまた、リダに対する認識を改めざるを得ない。間一髪で顎をなぞっていった柄の感触がまだ残っている。油断をしたつもりなどなかったが、今のがもし順手であれば、ナイフの切っ先はフランクの顎を貫いていた。

 自身の動きの鈍りは計算に入れていたつもりだったが、気を抜いた訳でもなかった。その上で、目の前の女は完全にフランクの予想を超えた動きをした。彼女は獲物ではなく、敵だ。全力で挑まなければ、或いはフランクこそが狩られる側に回る事になる。

 殺意をより一層高め、フランクはリダへ最大限の警戒心を揺り起こす。そして、一方では納得もしていた。正規軍人であったカーラが殺された理由を、フランクは今体験した。

「成程な……陽炎か」

 花火の音が遠い。沈黙の通路で、その言葉ははっきりとリダの耳に届いた。

「まさか」という思いと、「やっぱり」という思いがリダの脳内を満たしていく。

――この技は、知っている者もいる。必ず最初の一撃で仕留めよ。

 老人の言葉。あの師は、いつも正しかった。背けばいつかはその反動が来ると、分かっていた事なのに。

 陽炎。彼女がドットガルのスラム街を生き抜く為に教わった、古ぼけた技術。フランクの一言は、リダの持つ必殺の武器を見破った事の証左だった。

 空調の効いた通路にありながら、リダは汗を滲ませ歯を噛みしめる。

 本当は今すぐにでも逃げ出したいが、フランクとの距離はもうそれが許される程開いてはいない。今身を翻して逃走を図れば、その動作の内に詰め寄られて刺されてしまう。リダの陽炎を初見で避けたフランクへの畏怖は、彼女の中で最大級の評価として機能している。

 動けない。誰かが通りがかって二人を見咎め、応援を呼んでくれる幸運には期待出来ない。リダはフランクから逃げて人気のない船首方面の通路へと来てしまっている。大声を出した所で、この花火の轟音の中では聞き分けられる者がいるかどうか。第一、その発声こそが隙となってしまう。

 だが、相手もまたリダを警戒して動けないのなら、このまま誰かが来るまで膠着が続くかも知れない……そんな小さな願いは、大きな溜め息で破られた。

 フランクの左手が無造作にスラックスのポケットに入り、ナイフを取り出す。

 もう何度目か分からない衝撃がリダを襲う。

 取り出したナイフ自体は何の変哲もない。船に隠して持ち込める装備は限られている。リダの持つナイフがそうであるように、間違いなく一切の魔術加工がされていない通常品だ。彼女が驚いたのは、短剣二刀というその戦闘スタイル、構えのないその構え方だった。

 不意にフランクの体が左右に揺れ出した。小さく、最初は見間違いかと思う程度に。

 しかし、それはやがて幽鬼が水辺で漂うかの如く不気味で不規則な揺れとなり、目に見えて大きく全身が傾く程になった。

「嘘でしょ……」

 リダもまた、慌てて左手を腰に回しもう一本のナイフを取り出す。

 フランクの揺れはどんどん酷くなり、気を張って見詰めているにも関わらず、少しづつその姿がブレて見え始めた。間合いはまだ二歩以上ある。フランクはその場で揺れているだけだ。だというのに、その男の長身は段々と芯がぼやけて、リダの目から霞んでいく。まるで陽炎のように。

 違う、違う、違う!見る所はそこじゃない!

 必要なのは俯瞰視点。リダは自身を叱咤し、視線をフランク本人から、周囲を含めた全体像に広げる。だがそれは遅すぎた。いや、フランクが早すぎたのか。リダは既に、眼前の男との間の空間認識を失っていた。

 フランクの頭が、大きく後ろ側へ振れた。半ばパニックに陥りながら、リダはただ逃げたいという一心で後ろへ跳んだ。瞬間、ドレスのスカートをフランクのナイフが突き破った。背後へ跳躍していなければ、リダの右脇腹があった場所。

 見えていた訳ではなかった。ただ恐怖心に屈して動いただけで、リダの目に今の一撃の瞬間は全く見えていない。

 命を刈り取る事に何の澱みもないその刺突に、慄く猶予はなかった。

 フランクは躱される事を前提としていたかのように、そのまま前進して着地前のリダへ追撃する。長い腕から繰り出された首元への一撃を、今度は確認して左手のナイフでいなす。鋼の交わる音が耳元で不快に響く。

 陽炎が最大の効果を発揮するのは最初の一撃に限る。二撃目は際どくも何とか目視を修正出来た。

「流石、やるじゃないか」

 それ以上の追撃を諦め、足を止めたフランクは死者さながらの枯れた声で囁く。それは間違いなく本心だった。敵と認識した者には、あくまで冷静に冷徹に判断を下す。自身の陽炎を見切る相手なのだと、分析するだけの事。実際には見切ったのではなくただの幸運なのだが、フランクにとってそれは関係のない事だ。

 一方リダからすれば、この事態は関係ないでは済まされない。

 その場を動かずに陽炎を仕込む事自体はリダにも出来なくはない。だがフランクのその技術力、攻撃に至るまでの早さは、明らかに彼女の力量を上回っている。早過ぎる。

 しかも、陽炎はその特性上、目測に幅が出来れば出来る程強力となる。長身のフランクは一歩の予想距離が大きく、相手が見誤る間合いも大きい。その点においても、低身長のリダは引けを取っている。

 この状態から唯一優位性を勝ち取れる状況と言えば、それは低身長を逆手に取ってより近いレンジで間断なく近接戦闘を続けるしかなく、それはフランクの陽炎を躱した上で懐に入り込むという、危険極まりない行為の先にしかない。

 何であたしが……

 意識して避けているその一言が脳裏を過ぎった時、ふとリダは我に返った。

「待って!」

 再び小さく揺れ始めたフランクに、リダは声を張った。

「待ってよ、ねえ」

 呼びかけに、フランクは体の動きを止める。

 互いに武器をだらりと両手に垂らして向き合うが、これが構えである事は両者共に理解している。

「違うのよ。あたしは関係ないの」

 リダの言葉に、フランクの瞼がピクリと痙攣する。

「何だと」

「勘違いなのよ。いや、手違いっていうか……あたしは関わるつもりなんてなかったの」

「そんな言い訳が通じると思ってるとはな」

「信じられないかも知れないけど本当なのよ。あたしはあんた達の仕事を邪魔する気なんてないの」

「……何?」

 何か、齟齬を感じ取ったフランクは訝しげにリダを見詰めるが、当の本人はそんな相手の様子にはまるで気付かずに、ありのまま言葉を継ぎ足していく。

「あのきったないゴミ野郎をやったのはあたしじゃない。あたしが話しかけた時にはもう死んでたのよ!」

「汚い、ゴミ野郎……だと……」

 只管に鋭利で寒々しかったフランクの殺意が、その一言で急激に熱を帯びた。充血した眼が歴然とした憤怒に燃え、粗暴な圧力がリダの全身へ注がれる。

「いや、待って。今のは無し」

 フランクの怒る理由がまるで分からないリダだが、今の言葉がタブーだった事だけは理解出来た。

「ごめん。大切な人だったんだね」

「当たり前だ」

 カーラを侮辱されたと思っているフランクの怒りは収まるどころか、自身でもコントロールが出来ない程に膨れ上がっていく。今にも戦闘を再開しそうな様子に、慌ててリダは話を続ける。

「でもあたしじゃないの。本当に。あたしはただ……嫌な事を言われたから、ちょっと仕返しに金目の物を盗んでやれって思っただけで」

 リダの言葉をフランクは殆ど全く信じていない。他人の遊覧船チケットを使うリスクを彼女は理解していたし、フランクの最後の確認であるディナーナイフも避けた。

 それに彼女は、フランクに自分をカーラだと自己紹介した。最愛の女性の名を騙ってこの船に乗っているというだけでもフランクにとっては十分報復の対象になり得るし、実際の所、この復讐がただの自己満足である事は最初から承知している。そう、復讐に正義は必要ない。

 だが……それでも今フランクに一抹のブレーキがかかっているのは、カーラとの日々が胸に残っているからだ。カーラなら、彼女なら八つ当たりの報復など、決して許しはしまい。その思いだけが、フランクに芥子粒程の歯止めをかけていた。

「盗んだだけだと?」

「そう。あたしが盗んだ時にはもう死んでた」

「お前じゃないなら誰だ」

「知らないのよ。あたしはホントにたまたまその場に居ただけで」

「そんな都合の良い言い訳を信じる奴がいるか?」

「本当よ!誓って!だから、こうなった以上もう未練もないの。それで見逃してもらえるなら。元々あれを盗むつもりじゃなかったんだし」

「何?」

 意味が分からず、フランクが眉を歪める。

 カーラを殺した当人を知らないと言う彼女が、何を材料にフランクと交渉しようとしているのか、見当がつかない。

「本当はルーレットの賞品交換プレートを盗む気だったのよ。でも……だって形が似てるんだもん……警備隊にも追われてるし……皆勘違いしてる。勿論、あたしが悪いんだけどさ」

「警備隊?」

 遂にフランクが、ちぐはぐに噛み合っていた会話を踏み外した。

「そう。でもそっちはまあ仕方ないわよね……だから、つまりあたしはあんた達の邪魔をする気はないの。見逃してくれるって約束するなら、プレートを返すわ」

 それはリダの最後の交渉カードだった。

 胸元のポケットに入れてある事は教えない。伝えれば、殺して取り返すという選択肢を与える事になるだからだ。逃がし屋からの連絡を待って、逃げ出す寸前でプレートを渡す。これがリダの考えた穏便な収束手段だった。

 だがその切り札は、フランクにとってはまるで意味を成さない。

「何の話をしている。警備隊が何故関係あるんだ」

 怪訝な表情が増々深まっていくフランクを見て、リダも遅れて二人の認識の差異が根本的なものである事に気付き始めた。

「だから……あんた達の取り引きの話でしょ?あんたの大切な友人が運んでた鍵の関係する……」

 フランクは暫し沈黙し、その言葉を反芻した。警備隊という言葉が出ている時点でカーラの件の話でないと断言出来る。カーラは軍事行動中に殺されたのであり、場所がヴェスティアでない事だけは確かだからだ。

 では目の前の女は、一体何の話をしているのか。

 昼間に自身が体験した出来事と、リダの話を照らし合わせると、符合する箇所がある。カフェで警備隊長と女が交わしていた密談の内容と、それを元に辿り着いた倉庫街で監禁されていたエルフの少女。逃がし屋、もとい万屋が言っていた、人では無い方の探し物。

 今ようやくフランクは、リダの言葉の意味を理解する。それはフランクが助け出そうとした少女の囚われている檻の鍵を、彼女が盗んで持っている、という事だった。

「成程な……」

 あまりの滑稽さに、笑いを堪える事が出来なかった。カーラを思いながら起こした行動が、いずれも同じ人物に辿り着くとは。信仰心の欠片も持ち合わせていないフランクだが、この因果には何か特別な引力を感じてしまう。

 唖然と様子を見守るリダの前で、フランクは咳き込むように口端を引き延ばして失笑する。

「ゴミのような女だ」

 その嘲笑は自嘲でもあった。裏家業に手を染める陽炎使い。それは即ち過去のフランク自身だ。

 結局の所、フランク・ブランドンという男はカーラ・ニーセットに相応しくなかったという事なのだろう。だからこそ、彼女の存在は尊かった。

「そりゃ、盗みはしたけど……そこまでいう」

 警戒の中にほんの少しの不満を込めて、リダが小さく呟く。勘違いしているままの彼女からすれば、盗み一つでゴミ呼ばわりは正当な審判とは思えない。

 そんな彼女の戸惑いを一蹴するように、フランクは憎悪を込めて笑い続ける。

「ゴミだ。ゴミだよお前は。人体売買の裏取り引きに使う鍵を盗んで、彼女の名前で警備隊に追われるなんてな」

 人体売買、という言葉にリダは息を呑む。意図せず関わってしまった違法取り引きの陰惨な実態は、彼女の想像を超えていた。声にこそ出さないが、やはりあのボサボサ髪の男はゴミ野郎だったという訳だ。

 我が事ながら辟易とする。それこそがトラブルを呼び込む原因だと自覚していながら、毎度自制に失敗してはそのツケを払う羽目になる。結果、国際法で第一級相当の犯罪に関与してしまった。自身の置かれている立場、そして成長のなさを振り返り、リダは今心底後悔していた。

 それ故に、危うくフランクの真意を逃しかける。

「……彼女の、名前……?」

 少しの間を置いて、リダはそれに気付く。フランクの糾弾の中で消化し切れない部分に。

 不規則な笑い声がゆっくりと引いていく。

「そうだ。カーラ・ニーセット……よくもその名前で、そんな腐れ取り引きに関わってくれたな」

 今や男の笑顔は狂気に歪み、枯れ果てた荒野を思わせる生気のない皮膚が歯を剥き出して引き攣っている。あまりに不気味なその表情は、質の悪い仮面かと見紛う程現実離れしていた。

「お前が捕まれば、彼女の名前が裏取り引きの運び屋として報道される。よりにもよって小さな子供を切り刻む為の取り引きの関係者として!お前の本当の名前など、大衆は気にしない。カーラ・ニーセットが、その汚名を被る事になる。どこまでもあいつを貶めやがって」

「待ってよ……じゃあ、あんた……あんたがあたしを狙う理由は」

 リダとフランクの意識に、同じ女が浮かぶ。乗り気のしなかった軍事集団戦闘のヘルプ。

 フランクが愛した恋人。グレーゼン連邦正規軍人の女。忘れようもない。

「カーラは俺の恋人だ。俺の狙いはお前自身なんだよ、クソ女」

「……っ……!」

 フランクの顔面の中で唯一生気に満ちた双眸が、爛々と輝いてリダを見据える。

 最早間違いようもない二人の立場関係。

 両手に短剣を携え、一見隙だらけに見える棒立ちで相対する二人だが、すぐにでも攻撃を再開しそうな程戦意を高めるフランクに対し、リダは力なく項垂れ悔しげに歯を噛み合わせる。

 全てを理解したからこその倦怠感が全身に蔓延した。つまり、今回の面倒事の根本は、リダが思う最初より最初にあった。どうあっても、例えリダがカジノで自制していても、ここに辿り着いたのだろう。

「そう……じゃあ、最初のナイフはあたしを試したって訳」

「ああ。それに今の陽炎で確信したよ。お前だろう?」

 リダの顎に力が入る。

 ここで否定の言葉を口にした所で、何の意味があるというのか。この男がもう結論を出してしまい、言葉で止まる段階をとうに超えているのは見れば分かる。自分ではないと言った所で、僅かな手順こそ踏まえど、最終的に殺すつもりだろう。

 だが。だがもし保身を最優先に考えるなら、この問いへの否定は絶対前提だ。望みのない可能性に奇跡が起きるとしたら、彼に慈悲の心が働くとしたら、それはリダが彼の恋人を殺していない、という道筋の先にしかない。

 どちらにせよ戦うしかないのなら、少しでも逃げ道の有り得る答えを返す方がいい。無意味に近くとも、保険をかけるに越した事はない。それは分かっている。分かっている――それでも

「……ええ、そう」

 それは出来ない。自分の過去を、その行いを偽る事は、言い繕う事は、彼女の信条において断じて許されない。

「カーラ・ニーセットはあたしがやった」

 咽喉の奥から熱い息を静かに吐き、決然とリダは顔を上げる。

 過去は、これまでの人生は良い事ばかりではなかった。むしろ嫌な事の方が多かった。貧しかった幼少期。弟を置いて逃げたあの日。物乞いでは生きられず盗みを繰り返した日々。年上の少年達に犯された記憶。拾われた先で教え込まれた殺人術。どれもこれも、出来れば無かった事にしたいもの揃いで、心の傷にこそなれど拠り所になどなった試しがない。

 それでも、無かった事には出来ない。抱えて生きて行かなければならない。

 そうでなければ、弟の数少ない笑顔も、川沿いで食べたアイスキャンディの味も、穏やかに夜闇を照らした蝋燭の灯りも、老人の皺だらけの手の平の感触も、何もかもが無かった事になってしまう。

 リダが生きてきた今までの全てを、リダ自身が下らないと吐き捨てる事になってしまう。それだけは出来ない。

 何もかもを理解した上で、リダは眼前の敵と視線を結ぶ。

 フランクの顔から全ての感情が霧散した。開き直りとも言えるリダの自白とその態度に、もう言葉を返す必要はない。何の心置きもなく、後は殺すだけだ。

 髑髏めいたその顔が再び、少しずつ揺らぎ出す。同時に、リダも微かにスカートを波立たせ、小さなリズムで長い二房の金髪を震わせる。

 二人の陽炎使いは、睨み合いながらその身を世界からずらしていく。

 互いの体がいよいよ相手の目を欺きだした時、花火が連続して打ち上げられ、一際大きく音を響かせた。

 それが、合図となった。

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