夢と決意と逃走と花火 4
午後六時半を回り、緊急指名手配した男女の画像が全区に行き届いた後も、捜査は遅々として進まなかった。
ドレスの女の情報はちらほらと入りだしたが、目撃情報にはバラつきがあり、隊員による発見確保は未だ出来ていない。馬車に乗った所を部下が見ていたので馬車協会に問い合わせた所、女を乗せた御者はサンルダン広場を指定されたそうだ。恋人との待ち合わせ場所、との事だったが、気が付けば車内はもぬけの殻だったという。
その情報から考えれば女は西港区へ向かっており、真っ先に警戒するべきはサウイン方面行の鉄道だが、目撃証言のいくつかは、そこからむしろ中央区へ戻る方向から発生している。目撃時間を並べると、足取りは中央区へ向かっている事になる。
男の方に至っては予想通りまともな情報が集まらなかった。特徴を皆殺しにしたような写真の男は、謂わばどこにでもいる一般客Aであって、それは一人を探し出す作業においてどこにも存在しないのと同義だった。案の定目撃証言は全区に散らばっていて、どう考えても足取りを追うのは不可能だった。
全ての情報をウォルターはジリアンへ流し続けたが、最初の数回以降彼女から返事が来る事はなくなった。
ワインの事については何も話していないし何もしていない。何といってもウォルターは今、過去最高に忙しい。時々眩暈がする位だ。
六年前に大型窃盗団が複数個所で一斉に店を襲った時でも、これ程のプレッシャーはなかった。メリッサが現在療養入院中なのは結果的に幸運だった。今夜は間違いなく自宅に戻れない。
他区からも、被疑者確保の報は入ってこなかった。出口だけは固めておいてくれと切に願うウォルターだが、ロッディを殺したと思わしき男の方は、見逃してしまう可能性が極めて高い。
確かな情報が少なすぎた。そして時間があまりにも少なすぎた。事態を整理し熟考する余裕など、この一時間弱のどの瞬間にもありはしなかった。捜査の方向を間違えている、という感触すらない。完全に行き詰っている。
かろうじて足取りを予想出来る女の目撃情報から、地道に周辺を洗っているものの、辺りはじりじりと暗くなり、目視での情報収集の限界が近付いてきた。ヴェスティア市民はまだしも、街中に溢れる観光客達は警備隊への協力に決して積極的ではない。彼等にとって警備隊は、無条件に自分達を守ってくれるのが当然の存在であって、わざわざ旅行のひと時を費やしてまで相手をする必要は無いと考えている。
各報道紙にも指名手配写真を渡して協力を要請したが、果たして彼等が情報提供と記事作成、どちらを優先するのか。
一応本部へと戻りながら、ウォルターは徒労感に足が重くなるのを感じた。何度目かの眩暈が起きて、ウォルターは立ち止まり苛立たしさのままに頭を振った。
例の告発状が届いた三日前から、殆ど満足に眠っていない。捜査にだけでなく、ジリアンとのやり取りや対応策の検討などに時間を取られた結果だ。思えば、まともな食事を取ったのも昨日の夕方が最後だ。
上手く頭が回っていない感覚がある。ウォルターは通りに並ぶ露店を一瞥した。糖分が必要だ。匂いを元に店に当たりを付けて近付いていく。三人の若い女性に笑顔で商品を渡す屋台主が、ウォルターの姿を見て
頬を強張らせた。疚しい事がなければ警備隊を恐れる理由はない。おそらく調べれば不都合な何かが出てくるのだろうが、今はそんなつもりも時間もなかった。
「これはどうも。何か御用でしょうか」
屋台主の問い掛けに、ウォルターは手に持った手配書を一枚配り、並ぶ商品に目を落とした。林檎飴にチョコバナナに蜜柑の砂糖漬け。間違いなく糖分だらけの食べ物だ。背後では、今し方ここで買い物をした三人組が、カラフルなチップが降りかけられたチョコバナナに噛り付いている。
甘い焼き菓子の匂いに胸焼けを起こしそうになるが、何とか蜜柑の砂糖漬けを注文した。
「見かけたらすぐに連絡をくれ」
カップを受け取りながら銀貨を払い、期待はせずに言い足しておく。
蜜柑の実は予想より遥かに甘ったるく、ウォルターは半ばやけくそのようにスプーンで口に一気に流し込んだ。メリッサなら喜んで食べただろう。臓器への負担を減らす為に甘い物も辛い物も殆ど許す事が出来ないあの子なら。
通信石に連絡が入った。先程からひっきりなしに飛び込んで来る役に立たないだろう情報を、それでも部下達が一縷の望みをかけて報告し、ウォルターもまた同じ思いで受け取る作業だ。エメラルドの通信は常に受信状態にしているので、指をつけずとも聞く事が出来る。輝きと振動の後に、興奮したラットの声が耳に響いた。
『管理局から連絡っす!女の入港記録が見つかりました』
ウォルターの疲労が一気に吹き飛ぶ。手に持っていたカップを握り潰して捨て、周囲の喧騒を避けられる場所を探して歩く。
「それで!」
『名前はカーラ・ニーセット。ドットガル方面の船便で昨日ヴェスティアに来てます。目的は観光で、今夜の湖上遊覧船のチケットを提示したそうっす』
その瞬間、ウォルターの脳裏にジリアンの顔が浮かんだ。彼女はロッディが死に、彼との取り引きが不可能になって尚、遊覧船への乗船に拘っている。そしてロッディの死に関連している女は、その遊覧船に乗る為に入島していた。
一時間前に生まれた払拭しがたい疑念が、再びウォルターの中で存在を増した。イズオライドの研究者。全てはあの女が、取り引きを失敗させる為に仕組んだ事ではないのか。
ウォルターを切り捨てる為に、大事な取り引きを台無しにする事は有り得ないと彼女は言った。だが自分の手の者に鍵を奪わせて失敗を装い、後に商品を回収すれば、取り引き自体は破綻しない。むしろ今回の取り引きの本当の日時も、今日ではなかった可能性すらある。そうであれば、少なくともジリアンにとっては時間に焦る必要はどこにもない。この状況で夕食のワインを気に出来る位に。
「女の……カーラの宿泊先は分かるか」
『問い合わせてますよ。ロッディの時に一度問い合わせたから、すぐに対応させられると……』
「分かり次第押さえろ。何でもいいから情報が出たら回せ」
ラットが喋り終えるより先にウォルターは指示した。
『了解、遊覧船はどうします』
ウォルターは少し黙り込んで考えた。
「俺が行く。他の者はまず女の宿泊先や慰霊祭の治安維持を優先しろ。船はどの道人造湖を一周した後戻ってくる。その時までに発着場を固めておけばいい」
『遊覧船は観光協会の管轄っすよ』
ラットが言いにくそうに反論してくる。
『あそこはうち等の言う事まるで聞かないっすから。警備隊でも乗せないって言いだすかも知れないですよ』
有り得ない話ではない。ヴェスティア創始者ボルボンド・ゴルドン勅命の機関である観光協会は、毎年都税から首を傾げる程の支援金が出されるし、その成り立ちから何かと立場が強い。究極的には警備隊の緊急事態措置の方が彼等の権限を上回るが、抵抗はされるだろう。
しかも湖上遊覧船の乗船客は、各国からやってくる旅行者の中でも上流層の割合が多い。所謂上客相手に気分を害するような行動は、出来るだけ避けて欲しいと都議会員達は考えている。それらの理由を盾に遊覧船スタッフが抗議してくる可能性は高い。
そんな余計な配慮は必要ない、という本心と、今後の警備隊活動を思う打算が心中で鬩ぎ合っている。そこでふとウォルターは思い出した。
「何か、遊覧船当ての荷物で税関で止められているものはないか」
ワインだ。
『問い合わせますけど……どうするつもりっすか』
「受取人への尋問を理由に乗り込む、そういう品はないか」
聞きながらもウォルターはその「何か」が存在することを知っていた。
『理由を誤魔化すって事っすか』
「止めてしまっていた荷物を届けに行くだけだ。その際に丁度お前達から連絡が入り、船に指名手配人が乗っている可能性が浮上して、ついでに協力を願う」
『別件逮捕の要領っすね!』
ラットの声が浮き浮きと弾んだ。状況を理解しているのか不安になる声だ。
「まあそんなものだな」
『隊長以外にも何名か行きますか』
別の声が訪ねてくる。
「いや、大勢で乗り込めばその分抵抗も激しくなるだろう。お前達は今言った通り、市内での警戒活動を続行しろ。男の方はまだ見つかっていないしな」
ジリアンへの怒りを押し殺し平静を装いながらウォルターは指示を出す。もしもこの一件が彼女の茶番であったなら、どの道ウォルターとの関係は切るつもりという事である。向こうのシナリオ通りに動く位なら、先んじて始末するしかない。その時に、近くに部下がいては邪魔だ。
時間は四十分へ差し掛かろうとしている。出航の七時までに現在地から発着場へはかなり厳しい。ギリギリだ。
「荷物を今すぐに発着場へ届けさせろ」
返事を確認せずにウォルターはレーンへ走り込み、馬車を捕まえた。
『ちょっ、待ってくださいよ。まだ荷物があるとは限んないですよ』
御者に発着場へ七時までに到着するよう伝えている途中で、ラットから指摘が入る。
「なかったらそのまま乗り込む」
『うわっ強行突破っすか。でも隊長の言う通りならこの女、ラグステップってやつを使うんでしょ。一人で大丈夫なんすか?』
中々理に適った指摘だ。この新米は妙な所で気が利いたり目敏かったりする上に遠慮がない。普通隊長にそれを聞くか?と思うような事も平気で言ってくるので質が悪い。
「正面からお前を捕まえに来ました、と言う訳でもないしな。制服を脱いで近付くさ」
『大丈夫っすか~……』
お前後でぶん殴るからな、とウォルターは声に出さずに誓った。緊急という事で御者には速度制限を解除して急がせる。すぐさまラットから、小包サイズの白い木箱が止められていたので遊覧船へ送らせた、と連絡が入った。
街並みが商店街から広い工業用地の混ざる開発地帯へと変わり、やがて開けた視界の先に発着場が見えた時、今まさに出航を迎えようとしている白い豪華客船の姿もそこにあった。時間は七時丁度。予定であればもう離岸している筈だが、トラブルがあったのか船はまだ動き出していない。
「急げ。急げ急げ急げ!」
ウォルターの声で御者が更に馬に鞭を入れ、免許取り消し確定の速度で車内が左右に揺れる。手綱を持っていない左手で御者台にしがみ付き、前方の人影を絶対に見逃すまいと必死に目を動かす御者が、車輪と蹄と風の音に負けないよう大声でウォルターに確認する。
「お咎めはないんですよね!?警備隊の指示なんですから!緊急だって言ったから飛ばしたんです!」
「当然だ!処罰はない!このまま人を轢かなければな!」
同じく大声で怒鳴り返して、ウォルターは発着場の周囲を見渡す。乗船口のタラップはもう外されているのに、その前方にある物資搬入口がまだ切り離されていない。積み込みが遅れているのだ。
「あっちに直接つけろ!」
ウォルターは指差して御者に指示する。馬車が速度を保ったまま左へ緩くカーブし、車体が大きく傾くのを反対側へ体重をかけて堪える。カ-ブしつつ止まった車体から弾き出るように飛び降りて、ウォルターは搬入口へと走った。
タラップの上で船内スタッフと思わしき数名の者達が、眼下の海へロープを降ろしたり大声で呼び掛けたりしている。誰かが落ちたらしい。出航が遅れている理由はこれだ。スタッフの一人が、近付いてくるウォルターに気付いてぎょっと体を仰け反らせた。
「誰か落ちたのか」
言いながらウォルターは下を見る。ロープに結ばれた救命胴衣をつけてぐったりと頭を垂れたスタッフが、少しずつ引き上げられていた。頭からは出血が見られ、意識がないように見える。海には税関をパスした事を証明する印の付けられたチェスト大の木箱と、気性の粗そうな顔でこちらを見上げる男が浮かんでいる。どうやらスタッフは木箱で頭を打ったらしい。
「ええ、そうなんですが……」
言い淀むスタッフを押しのけてウォルターはロープを引き上げる者達に割って入り、作業を手伝った。意識を失ったスタッフはすぐさま担架で船内へと運ばれていき、次いで海に落ちたままの男がロープに繋いだ木箱が二つ引き上げられ、最後に男が自分の力でロープを上ってきた。
「くっそあの野郎、絶対に許さねえ。ぶっ殺してやる」
警備隊の制服を着ているウォルターの目の前で、男が青筋を立てて憤慨する。
「どこ行きやがった、あのくそったれ!」
差し出されるタオルを手で振り払って、男は船内へ進もうとしてスタッフに慌てて止められる。
「中に入ってったのを見たんだよ!あの野郎絶対中にいるんだ」
取り囲むスタッフの制止に腕力でノーを突きつけ歩を進める男を、ウォルターは自分も同じくその後ろをついて行きながら見守る。
搬入口を通過する際に、ウォルターの腰に下げた氷結ロッドが危険物検知に引っかかり、耳障りなブザーが鳴るも、誰も警備隊のウォルターを止めようとはしない。その少し前を歩くずぶ濡れの男を止めるのが先だからだ。スタッフがいよいよ本気で男を止めようとした動きに、ウォルターは潮時とみて声をかけた。
「おい」
「あぁ!?」
振り向いた男の顎をウォルターの拳が掠めると、男は糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。
「気絶させただけだ、連れ出すなら早くしろ」
事態に呆然とするスタッフ達へ呼び掛けると、彼等は二人がかりで男の肩を支えて下船し、残ったスタッフが船を降りないウォルターへ遠慮がちに聞いてきた。
「それで、その……まだ何か御用でしょうか」
普段なら流せたのだろうが、今のウォルターにとってその聞き方は癇に障った。
「あの男を殴る為に馬車でここまで来たと思うのか?用はまだあるに決まっている。税関をパスしていない荷物が届いている筈だ」
スタッフの一人がはっと表情を変え、急いでウォルターから顔を逸らすが、それは何の意味もなかった。
「警備隊が通したんだ。荷物の受け取り主に聞く事がある」
「どういう事ですか」
明らかに動揺しているスタッフの声はどもり気味だ。背後では、発着場に残る者達がタラップを外す作業にかかった音が聞こえる。
「一般人にはまだ話せない内容だ。荷物を届けた先は分かるな」
船内スタッフの視線がウォルターと、搬入口の間を何度も行き来した。自分の判断が警備隊に主張するべきものか迷っている。だがそうこうする内にも時間は過ぎていく。既に出航時間は過ぎているのだ。一番後ろで成り行きを見守っているスタッフの腰に下げた通信石が光り、ウォルターに聞こえないよう小さな声でそれに応えているのが見える。
恐る恐る、スタッフの一人が口を開いた。
「ですが、当船はチケットをお持ちでない方は、お乗せする訳には……」
「認可の下りていない荷物を、特別に通したんだぞ。お前達の事情も考慮して。遊びで言っている訳じゃないんだ。どうしても乗せられないと言うのなら、俺がその受け取り客と話を終えるまで出航を待たせておけ。せいぜい一時間か、長引いて二時間から三時間という所だ」
後ろのスタッフが焦りながら早口で通信している。ウォルターの相手をしているスタッフも後ろを振り返って、上からの判断を求めて指示を待った。通信を終えたスタッフが、小声と同時に小さく頷く。
「分かりました……まずは船長室までご案内します。船長とお話して下さい。船はもう出航させますが、よろしいですね?」
「ああ、構わん」
「それと、乗船客の皆様に見られた際に威圧感を与えないよう、制服は脱いで頂くようお願いします。船長からです」
船内に警備隊がいると知られたくないのはウォルターもまた同じだ。頷いてウォルターは上着を脱いだ。
スタッフが搬入口の方へ手を上げて合図し、タラップが外された。作業を最後まで見届ける事無く、スタッフの一人がウォルターを先導して通路へ案内する。狭い通路を歩きながら、ウォルターは一度大きな揺れを感じた。汽笛の音がする。通路はやや薄暗く、二人の他には誰も通っていない。早足のまま、スタッフが振り返らずに声をかけてくる。
「船長は今はまだブリッジにおります。船長が降りてこられるまでは、船長室でお待ち下さい」
「こちらも遊びで乗っている訳ではない。長すぎると感じたら自分で会いにいくぞ」
スタッフが立ち止まり、右手のドアを開けて入室を促した。
「例え外へ出られても、ブリッジには絶対にお通しできません。ここで船長をお待ち下さい」
ウォルターは部屋に入る前に、スタッフを睨み付けた。
「お前達がヴェスティアで働く以上、警備隊に対して絶対のノーはない。鍵をかけられたら、こちらのやり方で開けさせてもらう」
閉められた扉に鍵のかかる音が聞こえなかったのを確認して、ウォルターは部屋を見渡す。白壁の室内にはベッドも机も椅子もある。が、逆に言えばその程度しかない。
「船長室だと……」
これが船長室でない事は、頭の中に適切な物質が詰まっている者なら一目瞭然だ。ここは明らかに、問題のある人物や迷惑客を閉じ込めておく隔離空間――つまりこれが遊覧船スタッフから警備隊への返答である。
発足から現在に至るまでの、ヴェスティアにおける警備隊の評価、扱いはウォルターの望まぬ方向へ変化してきたが、中でも特に敵対的なのが観光協会だ。彼等は自分達こそがこの中立都市の経済を成立させているという、ある種の特権意識を持っている。
実際には、四大国の中継点に当たるヴェスティアは流通の要所であり、税収のメインは最初からずっと物流業であったし、それに伴って他国からの職人も流れてきているので限定的ながら製造業も発達してきている。だが、都営の大型カジノを始めとする、創始者ボルボンド・ゴルドンの強烈なバックアップによる観光産業の事業拡大が、彼等に間違った認識を持たせた。
ヴェスティア観光協会は自身の立場と、警備隊の役割を見誤っている。
椅子に座ってウォルターは目を閉じた。体内の怒りを鎮める為には深呼吸と瞑目が一番有効だ。
湖上を進む遊覧船の振動音が体に響く。目を開ける気になった時に船長が来ていなかったら部屋を出る、と決めて、ウォルターは深呼吸を続けた。
繋ぎっぱなしの通信石から流れてくる部下達の連絡に耳を傾ける。時折雑音が混ざるのは距離の為ではなく、階上の乗船客達の使用する物と混線が起きているのだろう。
『ドレスの女の宿泊先へ踏み込みましたが……取り引きに関連しそうなものはありません。一応、ここにあるものは全て押収しますが……』
予想通りの結果にウォルターは小さく息を吐く。
「いつも通りにやれ」
『はい』
いつも通りに、部下達は仕事をやり遂げるだろう。毛髪や指紋を探し出し、データベースに照会する。だが、その結果はすぐには出ないし、個人を特定出来た所でウォルターの目的が……鍵の行方が分かるとは思えない。
その後もいくつかの報告に指示を出していると、通路を歩く足音が微かに聞こえてきた。ウォルターは目を開けて、開かれた扉へ向き直った。
「どうも、お待たせしました」
女性スタッフを従えて入ってきた年嵩の男は、帽子に手を当てて挨拶するも、その態度に悪びれた様子はない。ウォルターは無言で立ち上がる。怒りは鎮めようとも、それを伝える必要はある。
「当船を任されております、デンバーです。まず、当船における厳格な規則の一つとして、当船には我々観光協会スタッフが招待しましたお客様以外に……」
「現在市内で発生中の事案について、捜査の協力を要請する」
デンバー船長の言葉を遮ってウォルターは切り出した。非礼ではあるが、名を名乗るつもりはなかった。
船長は鼻白んで口を噤み、斜め後ろに控える女性スタッフと目を合わせた。女の方はきょとんとした後、口元に手を当てた。口端が上がっているのが見える。そもそも何故ここにいるのか分からない存在だが、化粧の具合や豊満な体付きを見るに、船長と男女の関係なのかも知れない。
「税関の認可を得ていない荷物が当船に運ばれた、というお話でしたかな」
「正確に言えばそれの受け取り主を探している。それと先程追加の情報が入って、この船の乗船客に我々の指名手配している者がいる可能性がある。乗客名簿を開示して頂きたい」
「後半のお話は聞かされておりませんでした」
「先程追加された情報だと言っただろう」
「ええ、つまりそちらを了承して乗船を許可した訳ではないと言う事です」
「成程な」
ウォルターは一度下を向いて嘆息した後に、怒気を込めて再度船長を見詰め直した。
「これは要請ではあるが拒否権のない要請だ。警備隊は現在緊急事態として行動している。管理局から通達が届いている筈だが?」
女が息を呑んで一歩後ずさった。
「遊覧船の上で何をするというんです」
船長は相変わらずの態度のままだが、声が強張ったのが分かる。
「穏便に済ませる為にそちらの協力が必要だ。そうだろう」
「乗船されているお客様の中には様々な方がいますからな。さて、どうしたものやら」
デンバー船長が言わんとする事を翻訳すると、お前が探している相手はVIPだぞ、だ。
勿論そんな事はウォルターとて承知している。何しろ税関をパスしていないワインの受け取り主の名前も素性も分かっている。ウォルターが本当に探しているのはジリアンではなく、カーラ・ニーセットなのだ。
そして先に告げた通り、この件において彼等に拒否権はない。
「受け取り主の情報と、乗船名簿の開示を」
「ヴェスティアが他国との中立関係を築けている理由を一つ、失う事になるかも知れませんぞ」
「それは我々の関知する所ではない」
不快げに息を吐いて、船長は壁に備え付けられた受話器を取り上げた。使用されている石は船内という限られた空間を考えればアンバー辺りか。
「乗船名簿を船長室まで」
ウォルターの前で部屋の名前を言い間違えない辺りは流石船長というべきか、まだその程度の余裕が残っているという事だ。
「不許可物の受け取り主の方は、今確認を取っておりますので、もう暫く時間がかかります」
出来るだけ時間を稼ぎ、ジリアンに警備隊の存在を教えるつもりだろう。もしも彼女が、ウォルターの懸念通り今回の黒幕であった場合、船内にウォルターがいる事を知られたくはない。
「まさかとは思うが、今受け取り主に俺の事を伝えてやしないだろうな」
「船内にて荷物の受け取りをされる方は多いもので。荷物の確認には時間がかかりますよ」
「出航前に税関から送られてきた荷物がそれ程多いとは思えんな。時間稼ぎはやめろ。捜査妨害になるぞ」
「勿論協力しますよ。今している通りに」
室内の空気が張り詰めていく。蓄積した疲労による苛立ちと闘いながら、ウォルターは目の前の観光協会員を観察した。
彼等に警備隊と対決する覚悟はあるのだろうか。緊急事態において、ヴェスティア警備隊がどこまでの権限を得ているのか、それを知った上でこの態度なのだろうか。本当に理解した上で、この女性乗組員はすまし顔を浮かべているのだろうか。
ウォルターがその段階の思案を始めた事に、同室する二人は気付いていない。警備隊長が一切言葉を発しなくなった事で、彼等が船長室と主張する空間から声は消えた。そこにはただ遊覧船の振動音だけが遠く響き、時間が経つにつれ、その居心地の悪さから徐々に女が小さく身じろぎを始める。
廊下から急ぎ足の靴音が聞こえだした時、彼女の緊張の糸が緩んだのをウォルターは確かに感じた。ノックの音にデンバーが応えると、年若い女性スタッフが書類を持って入室してきた。
「こちらが乗船名簿です」
部下から受け取った書類をそのままウォルターに渡し、デンバー船長は軽く制服の襟元を正した。
「それでは、私は失礼します。後は彼女が対応を」
そのまま、来たばかりの女性スタッフを置いて退室しようとするのを、ウォルターは止めた。
「荷物を届けた先の部屋番号は」
「確認しておりますのでお待ちくださいと、お願いした筈ですが」
「いや待てないな。そういう態度なら直接探しにいかせてもらう」
ジリアンが敵なのか味方なのかを見極めるのは最重要だ。場合によっては、イズオライドの魔術装備で防御を固めたあの女を制圧しなければならない。
ウォルターは船長達を抜いてドアへと歩いて行く。その腕をデンバーの右手が掴んだ。
「困ります」
ウォルターの右腕を掴むその力は、触っただけ、とも言える軽いものだが、前進を許さずとばかりにドアの反対側へ押している。
「貴方を乗船させただけでも十分な協力です。こちらも仕事でやっていますので、
上階を歩き回られると困ります」
「緊急事態だと言っただろう。制服は脱いでいる。歩き回られたくなければ受け取り主の部屋を確認するんだ、今」
「まずはその資料からもう一人の参考人を確認したらどうです。そちらから当たれば、終わった頃には受け取り主も見つかっているでしょう」
「手を離した方がいいぞ」
「歩き回ってどうするんです。一部屋ずつノックしてワインが届いたか聞くんですか?」
デンバーの指摘は尤もだ。ウォルターが、受け取り主の顔と名前を知っていなければ、確かにジリアンには辿り着けないだろう。それはデンバーには知りえない情報だ。そう、ウォルターとジリアンが実は通じていて、彼女が彼に税関で止まっている可能性のあるワインを通すように要請した事は、知りえない情報だ。
「……荷物がワインだと何故知っている」
ウォルターを止めるデンバーの手が、一瞬逃げるように引きかけ、なんとかそれを堪えた。
「荷物の報告自体は入っておりましたから」
「木箱に入ったワインを、開けずにワインだと分かったのか」
デンバーが呆れたように笑った。
「荷物として届いたのですよ。中身が何かくらい、配達表に書いてあります」
嘘だ。
仮に、出航間際に届いた税関の認可が下りていない荷物を、搬入スタッフが船長へ配達表で中身を確認して報告したのだとしたら、間違いなくその受け取り主の名前も報告している。つまり、いずれにせよ嘘だ。デンバーが受け取り主を把握しておらず確認中というのが嘘か、或いは――
「デンバー船長、本当の事を言うんだ」
感情を漂白したウォルターの声が、空間に響く船の振動と混ざって沈む。
その場の誰一人、彼の言葉の意味を理解していなかった。警備隊に所属していなくとも、戦場や修羅場を経験した者であれば、その言葉の意味……声の意味を察したであろう。例え従う気がなくとも、何等かの対処はした筈だ。だがこの場には、それを理解出来る者はいなかった。
デンバーは明らかにウォルターをジリアンから遠ざけている。いくら観光協会が警備隊に非協力的と言っても、それは頼んだコーヒーを数十分届け忘れるだとか、提供する場所を渋ると言った程度だ。捜査に対して虚偽の報告をすれば、後々それが暴かれた時のペナルティは組織による小競り合いの火傷どころの話では済まない。
それでも今この男がジリアンを庇う理由。ジリアンがこの遊覧船を取り引き場所に選んだ理由。ここが安全な取り引き場所だと考えた理由。
ウォルターはデンバーの目を観察する。この男はヴェスティア観光協会が誇る慰霊祭の、湖上遊覧船を預かる身であり、乗船客に対して責任を持つのも、彼等に最高のひと時を提供する為尽力するのも、当然の立場にある。だがその責任感はあくまでヴェスティアの法の範囲を超えてはならず、警備隊が追う人物までも保護隠蔽し兼ねない対応は、船長としての責任とは別の次元にある。
単純な話だ。昨今のヴェスティアではよくある話で、娘の命を秤にかけられた父親が頷くような話。
買収されている。何を引き換えにかは分からずとも、警備隊長として数多くの犯罪者やその協力者達と相対してきたウォルターには、この男がその同類である事が臭いで分かる。
ならばこの男はウォルターにとって、守るべき市民ではない。駆除すべき溝鼠だ。メリッサの命に噛り付いて糞を撒き散らす溝鼠。
極限の憤怒がウォルターから表情を奪う。今、追い詰められた父親が遊覧船船長を警備隊の庇護対象から外した事を、この場の誰も気付いていない。だからこそ、デンバーは最後の警告を無視した。
「先程から本当の事を言っていますよ。全く、そういった態度が市民の警備隊に対する不審――」
デンバーの言葉は、上顎に減り込むウォルターの拳で物理的に封殺された。力加減を完全にコントロールした一撃を受けて、デンバーは頭部に引っ張られる形で吹き飛んで側面の壁に激突した。
室内に鈍い衝突音が響き、その後全ての音が消えた。
二人の女性スタッフはビクリと体を震わせて硬直するも、何をするでもなく吹き飛んだ船長とウォルターを見比べて唖然としている。悲鳴を上げるべきか、船長を助けるべきか、逃げ出すべきか、或いは抗議すべきか――自身が最初に取るべき行動を判断し兼ねて、間の抜けた表情で佇むその様は、まるで目の前の光景を疑っているようでもある。突然の、剥き出しの暴力は、彼女達にとってあまりに馴染みがなく、現実味がない。
息を呑んで小さく断片的な戸惑いの吐息を漏らすばかりの二人を気にも留めず、ウォルターは両手に戦闘用グローブを着用しながら、背中を引き摺って崩れ落ちるデンバーへと近付いた。襟首を掴んで上半身を引き上げ、顔を正面に向けさせる。気を失っていない事は分かっている。そう調節して殴ったからだ。
「あの女について知っている事を全て話せ」
なんら感情の籠もっていない無機質な声で、ウォルターは問いかける。激痛と驚愕でせわしなく動いていた眼球が、眼前の警備隊長に固定された。
「なっ……なんの……っ……私は、何も知らな……」
「話す気になったら右手を上げろ」
ウォルターの拳がデンバーの左目を潰し、眼窩を砕いた。血塗れの口から空気が押し出されて音を出した。二人の女が今度こそ同時に悲鳴を上げた。
「あ、貴方何をしているか分かっているんですかっ」
船長に付き従って来ていた方のスタッフが悲鳴のついでにウォルターに叫ぶ。もう一人の方は脚が力を失い床にへたり込んでいた。
下品な声。アイリーンやメリッサとは比べるべくもない、淫猥で耳障りな。
何故彼女達が不治の病で苦しみ、こんな女が何不自由なく生を謳歌しているのか。胸中に渦巻く理不尽への不満、この世界に対する不信は、摩耗し切ったウォルターを更に狂気の淵へと追い詰める。
ウォルターの殴打で、デンバーの顔面は見る間に原型を失っていく。血が飛び、歯が飛び、嗚咽が零れる。
遂に女の一人が震える足を動かし、転がるように扉へと走り出す。ウォルターは一歩足を踏み出して腕を伸ばし、逃げようとする彼女の柔らかな脇腹を掴んで放り投げた。尻餅をついた女が、掴まれた自身の腹部辺りについた血液を見てまた悲鳴を上げた。
ウォルターは無言でデンバーの顔面を殴り続ける。意識を失わないよう力と位置を調節していたつもりだったが、いつの間にかデンバーは完全に沈黙し、顔は何処を殴ればいいのか分からない程無残に壊れていた。右手は結局一度も上げられる事なく、今は脳障害を思わせる痙攣を繰り返すのみだが、実の所ウォルターもこの右手が上がる事など期待していなかった。
もしかしたらデンバーは何処かのタイミングで右手を上げたつもりだったかも知れない。ウォルターにはどちらでも良い事だった。
拳にこびり付いた何処かの神経を振り落として、ウォルターは残りへ振り返った。
あの女達はどちらなのだろう。デンバーと同じ溝鼠なのか、それとも遺憾な態度を取る市民なのか。市民であるのなら……警備隊は彼女達を守らなければならない。
二人の女性スタッフは腰が抜けて立てず、べたりと血の付着したグローブを嵌めてこちらを見詰めるウォルターに、力なく後ずさりする事しか出来なかった。
ゆっくりと立ち上がり、恐怖に震える二人へ足を向ける。怯える瞳が向けられる。その眼差しを俯瞰視点のような他人事で眺めるウォルターの頭の片隅に、疑問が過ぎった。
正義とは何なのだろう。
その答えは嘗て、確かにウォルターの中にあった。言葉にこそ出来ないものの、ジリアンと出会う以前の彼の中には、その概念がはっきりと全ての行動の中にあり、ウォルターは何の疑念もなく自分の判断を信じる事が出来た。
サウインで防衛軍に従軍していた時も、侵略を繰り返す四大国の有り様をよしとせず祖国を捨てた時も、ヴェスティアで警備隊に入った時も。自分の信じるものの為に誇りをもって前に進めた。
淡く色付いた美しくも儚い春の桜を思わせたアイリーン。彼女もまた、清く正しく生きる事を信条とし、そんな彼女をこそウォルターは愛した。自らの良心に偽らざる事。その日々はいつまでも胸の中に残っている。
けれどアイリーンは、ごめんなさいと謝りながらジグラルで死んだ。彼女は何故謝る必要があったのか。共に生きられない事を何故謝罪しなければならなかったのか。思えば、あの時から既にウォルターは正義を見失っていたのではないか。
ジリアンとの出会いはきっと、それを自覚させる要因となっただけで、彼の人生をずっと支えてきた行動原理はアイリーンの死によって崩壊したのだ。
そして今、ウォルターを支える行動原理は唯一つ。
メリッサを絶対に守る。あの子が人としてごく普通の生活を送れるように。他の子と同じく、陽の下を駆け、健やかに成長し、やがて恋をして子供を産み、家族に囲まれて笑う、その何の変哲もない生涯の為に。
父親として、それ以外に何を望めと言うのか。
ならば最早是非を問う意味はない。今のウォルターにとってはメリッサこそが正義なのだ。それが、いつかの彼が悪と呼んでいたものであったとしても。
ウォルターは投げ飛ばした方の女へと近寄り、感情の存在しない双眸で見下ろした。
「船長は重大な犯罪行為に加担し、警備隊の捜査を妨害した為制圧した。船員達に船長の状態を知らせる必要はない。お前が、船長の言葉として警備隊へ協力する旨を全員に伝えろ」
女の解れた長い前髪の間に見える瞳から涙が零れ、哀れな程大きく震える顎へと流れ落ちる。
「こ、こんな事をして、貴方、どうなるか、貴方、正気じゃ、正気じゃないっ、貴方」
ウォルターは女の頭へロッドを振り下ろした。全く受け身を取れず床へ衝突した頭部が、絨毯と氷結して流血する事無く固まる。そのまま動かなくなった同僚を見て、もう一人の女性乗組員は再度悲鳴を上げ、ウォルターから少しでも距離を取ろうと足をばたつかせて後ずさりした。
ウォルターは一歩で彼女の前に詰め寄り、ロッドを腰のホルダーに仕舞った。
「お前がやるんだ」
恐怖で全身を震わせ嗚咽を漏らす女は、過呼吸気味に口を何度も開閉した後にようやく言葉を絞り出した。
「お願い……こ、ころ、殺さないで……」
「この後、場合によっては上の乗客を避難させる必要がある。この帳簿の中にあるカーラ・ニーセットを捕まえなければならないが、抵抗されれば周囲を危険に巻き込む恐れがあるからだ。それと、船長が言っていたワインの件で俺が乗り込んでいる事は、まだ受け取り主に知られない方がいい。知らせに言っている者がいるなら、今すぐ連絡して、船長の言葉として止めるんだ」
「出来ない……」
見下ろすウォルターに、乗組員はか細い泣き声で首を振った。幼子が縋るかのように顔をくしゃくしゃにして涙を流すその姿に、ほんの刹那罪の痛みが走るが、それは一度瞬きをした時には、もう意識から消失していた。
ウォルターは壁際の受話器を取ってきて、座り込んで動く気配のない女に突き付ける。
「やるんだ」
「権限が、ないんです……私はまだ、ここで働き、だして、一年しか経ってなくて……私が言っても、誰も、認めてなんてっ……」
「なら船長が、警備隊の追う容疑者に襲われたと伝えろ。そして警備隊に協力するよう船長に頼まれたというんだ。容疑者は非常に凶悪で、このまま放置すれば死者が出る、と」
実際にはもう出ているが、ウォルターはあえて指摘しない。
「私の職級ではっ……信じて、もらえな……」
「やるんだ。最善を尽くせ。VIPの厚かましい要求にそうするように、出来るだけの事をしろ。どうしてもやらないというのなら」
ウォルターは船長と、殴り倒した女を交互に見比べた後、船長を指差した。
「お前はあっちになる」
若い女性乗組員は悲鳴を押し殺しながら、震える右腕を上げて受話器を手に取った。




