夢と決意と逃走と花火 3
「乗船チケットを」
にこやかな笑みで手を出す遊覧船スタッフに、リダは同じく完璧な笑顔で応えてチケットを手渡す。
長距離をドレスとヒールで歩き続けた事でショーツは汗まみれ、脹脛はパンパンで爪先と踵に痛みが出ているが、決して顔には出さない。
見上げればパンフレット通りの大型客船が、下からのライトに照らされ白く輝いている。時間は午後六時四十分過ぎ。見渡した限り追手の気配はない。船に乗るまでは何とかなったという訳だ。
だが乗れば逃げ場はない。袋の鼠だぞ、という頭の中の警告を無視してリダはタラップを上った。
船内に入ると蒸し暑さが消え、涼感が体中の熱を洗い流していく。一歩踏み出す毎に淡い波紋を生み出す絨毯の通路を渡り、エントランスへ進むと、多くの人と豪華な設備が目に飛び込んでくる。
まるでドットガル貴族の社交場のようだ、とリダは感嘆し、でも貴族の社交場なんて一度も言った事ないな、と首を捻った。きっと、いつか想像していた貴族の世界がこんな感じだったのだろう。楽し気にお喋りをする紳士淑女と、その周囲の品のある調度品の数々。いつかの自分が夢見ていた場所に迷い込んだ気分なのだ。
リダは体中の痛みや倦怠感を暫し忘れて、その雰囲気に浸った。
「お一人ですか、お嬢さん」
脇からの呼び声が、自分に対してのものだと気付いて振り向く。グレーのスーツを上品に着崩した若い男が、洗練された微笑をリダに向けていた。見知らぬ女に話しかける時に微塵も緊張していないし、自分を曝してもいない。きっと慣れているのだ、とリダは思った。
つまり女たらしだな、と。けれど
「そう見える?」
手順を踏んだ誘いなら、別に嫌ではない。もし、この男に手順を踏む気があるのなら。
「どなたかとご一緒でしたら、申し訳ありません。どうぞ私にはお気遣いなく……」
同じく隙のない微笑みを返したリダに、紳士は目を伏せて心持ち体を引く。全くそうは思っていない素振りだ。比べるのも失礼な話だが、数時間前の誰かとでは、林檎の蜂蜜パイと酔っ払いの吐瀉物程の差がある。
「ええ、まあ、一人。見えた通りに」
「良かった。お連れの方に怯える心配は要らないのですね」
ごく自然に小さく息を吹き出してリダは紳士に体を向き直らせ、その足の動きで爪先と踵に痛みが走り顔を僅かに顰める。
「大丈夫ですか」
「ええ」
「どこか具合が悪いのでしたらスタッフを呼びましょうか」
顔を覗き込んでくる青年に、リダは諦めたような笑顔を返す。
「ちょっと歩きすぎて。足が抗議してきたみたい」
馬車で移動するべき距離をヒールで歩き続ければ、どんなに忠誠心の高い足でも悲鳴を上げたくなるだろう。脱いで歩くことも考えたが、人目も気になるし、屋外をストッキングで歩くのは流石に惨めで嫌だったのだ。
「医務室がある筈です。我慢をせずに利用しましょう。私が付き添いますから」
紳士が素早く足元に目を走らせ、先程とは変わって真面目な顔で提案してくる。断ろうかと思ったリダだが、意外な事にこの青年は彼女の足を本当に心配しているようだった。それが何となく本心に感じられてしまい、リダは開きかけた口を閉じて拒絶の言葉を飲み込んだ。
「じゃあ、もし頼めるなら」
「お手をどうぞ」
差し出された腕に遠慮なく体重を預けて、リダは紳士の隣を歩く。一瞬、汗をかきすぎた事を思い出し、匂いを気にして顔を上げたが、目が合うと彼は「どうかしましたか」というように首を傾げた。リダは小さく首を振って、エスコートに従った。
周囲の乗船客達にはどう見えているだろう。きっと、何の違和感もなく溶け込んでいて、誰もが二人をこの場の風景として捉えている。そう思う位二人は自然に並んで歩いた。
「オリオハイムと言います。オレオと友人は呼びます」
高そうな名前だな、とリダは思った。きっと良い所の出自に違いない。名前の響きから西方面ではないな、とも。
「よろしくオレオ。あたしはリダ。友人はリダと呼ぶわ」
リダのちょっとした冗談にオレオが小さく吹き出して、誤魔化すように空咳をした。
「呼びやすくて良い響きですね」
オレオが立ち止まり、通路前の案内表示を見た。アメジストとクリアトパーズを複合して作られた液晶表示の画面だ。
「これかな」
遊覧船を横から見た船内見取り図の下にいくつか並んでいる小さなマークの内、ハートのマークをオレオが指で押すと、船内の一か所が赤く光り、現在地から医務室までの最短経路を赤い線が伸びて示した。
「三階のようですね。そこの階段から降りて少し歩いた先のようだ」
オレオが最短経路を指でなぞって覚える間、リダは通路壁面に浮かぶ液晶案内板に見とれ、隅々にまで目を走らせた。ドットガルのスラム街ではまずお目にかかれない半透明の流動体が描く地図は、指で触れる度に小さな波紋を広げ、様々な反応を返してくる。オレオは道を覚えた後も、リダの表情が落ち着くまで暫く、何度か道を復習した。
隣の男の気遣う気配を感じ取り、リダは自分が画面に夢中になっていたのだと気付いて視線を階段へ逸らした。
「階段くらい大丈夫。行きましょう」
好奇心に負けて子供っぽい態度を取ってしまうのは、リダにとって痛恨の弱みだった。興味を引かれている間は他の事を疎かにしてしまいがちだし、正常とは言えない判断をする時もある。仕事中にそんな事にでもなれば、致命的なヘマをやらかし兼ねない。かつての保護者である老人からも、何度も注意を受けた。観察はしても、深入りはするな、と。でも治らなかった。
現在の仲間内でもよくからかわれるが、気になるものは気になる。仕方がないのだ。
もっと年を取って、あらゆる事に飽きてしまえば自然と治るのかも知れないが、世界には未知が多すぎる。なにしろ飼い猫が何故一言も鳴かないのか、その理由すらリダには分かっていない。
階段を降りて、医務室に連れ添って入る。薬品の匂いが鼻を掠めた。真っ白な部屋にベッドが三台設置されており、それぞれ白いカーテンで仕切られている。一番奥には誰か寝ているようだ。入り口により近い空間に椅子と机と薬品棚があり、数名のスタッフが船内クルーの制服に白衣を羽織って先客の子供連れの応対をしていた。リダ達を見て、スタッフの一人がこちらに向かってくる。
「こちらのレディが足を痛めていて、治療をお願いしたい」
オレオが説明すると、医療スタッフは一つ奥のベッドを指差してリダを促した。
「ありがとう」
リダはオレオに礼を言い、ベッドの方へ歩いていく。ベッドに腰掛け、薬品棚から一式を持ってきたスタッフにヒールを脱いで見せた。
「ちょっと歩き過ぎちゃって、大した事はないんだけど」
彼の持ってきた医療箱の大きさに気圧されつつも足を上げてストッキング越しに足を見せる。危惧していた足底は破れておらず、親指と小指の外側が赤く腫れているのが布越しにも分かった。スタッフが床にかがみ込んで両手で足を掴み、爪先の状態を確認する。
「ごめん、今掴まれてる踵も実は痛いの」
「あ、これは失礼」
スタッフは足を放し、医療箱からジェルと薄い肌色の紙を二枚取り出した。
「痛む個所にこれを塗り込んで下さい。脱いでもそのままでも構いませんが、こちらの保護シールは」
スタッフが肌色の紙を見せる。
「踵に直接貼った方がいいです。ジェルを塗って乾いた後に。薄いので気になりませんし、すぐに痛みが引きますよ」
セルフサービスなの、と言いかけて、シールを張る為にストッキングを脱ぐ必要があるのだ、とリダは気付いた。
「分かった。ありがとう」
「何か問題がありましたら声をかけて下さい」
スタッフが立ち上がり、カーテンを引いて影だけになると、リダは教わった通りに足に処置をした。ジェルは塗り込んだ時に微かに沁みたが、その後急速に痛みを取り払い、まるで新たな皮膚として傷を庇うように肌に馴染んだ。保護シールには安らかな熱があり、ストッキングを履き直す時には足の痛みは全く感じられなくなっていた。
その余りの即効性に、経験則から不安が募る。絶対に、間違いなくイズオライド製の新薬だ。これが傷を癒した結果の無痛なのか、神経を麻痺させてのものなのかリダには判断がつかない。少なくとも麻酔を打たれた時のような感覚を失った状態ではないのだが、効き過ぎている。とっても不安だ。
医師が使用を認めているのだから、と言い聞かせて、リダは立ち上がりカーテンを開いた。診察を受けている子供客に目を向けていたオレオが、リダを見て具合を窺うように頷いた。
「どうです。少しは良くなりました?」
「大分……凄く良くなった。来て良かったわ、多分……」
問い掛けに、語尾を滲ませながらもリダは答えた。効き過ぎて怖いとは流石に言えない。
不意に廊下の方から幾人もの足音が聞こえ、雪崩れ込むようにスタッフ達がドアを開けて入ってきた。
「すみません、怪我人です!空けてください」
スタッフの只ならぬ気配に押されて、リダは壁際に寄ってベッドへの道を空ける。ドアの枠をギリギリで通った担架に乗せられて、ずぶ濡れの男が運ばれてきた。救命具の脇から覗く服装は遊覧船スタッフのそれで、頭部に巻かれた白いタオルは一部が真っ赤に染まっている。場所が頭である事や、タオルの厚みに対する色合いの濃さを考えると、出血量はかなり多い。
過去の経験から判断し、リダは目を眇める。危険な状態ではある。が、自身の足への治療を鑑みるに、この医務室の設備なら案外乗り切れそうな気もする。
オレオが後ろ手にそっと、リダの肩を引き寄せる。
「私達は行きましょう」
血を見た事でショックを受けていると思って、気遣ってくれているのだと気付き、リダはこそばゆくなった。
「大丈夫。ありがとう」
実際の事情はともかく、レディとして扱われる事に悪い気はしない。それどころか、思った以上に自分がこの青年を心地よく感じている事を、リダは驚きながらも受け入れていた。
スタッフに礼を言って医務室を出て、二人は来た道を戻った。寄り掛かる必要はもうなかったが、リダは差し出された腕に手を置いて歩いた。足の痛みは取れたし、オレオは今の所完全な紳士なので、リダの気分は段々と浮いてきた。警備隊達に追われている事は取り合えず棚に上げて、楽しむべきなのかも知れない。逃走の手配は済ませて連絡待ちであるし、悩んでも仕方がない。
階段の辺りへ戻った時に汽笛の音が聞こえ、船内が一度だけ、落ちるように揺れた。
体重を預けていた為自身を支えきれず、リダの体がしがみつくようにオレオに抱き着く形になった。細身ではあるが、オレオの体は船の揺れにも動じる事無くリダをしかと受け止める。
「ごめんなさい」
謝りつつ見上げる。見下ろすオレオの顔は近く、穏やかだった。
思わずリダは息を止めた。青みがかった黒髪の奥に見える、黒い瞳が唯一人、自分だけを見詰めている。大きな音が聞こえた。船の音とは違う、体に響く音。自分の鼓動だと気付いた時、首の辺りが火照るのを感じた。
「出航したようですね」
「ええ」
目が離せなかった。目だけではない。体も離す事が出来なかった。誰もが羨む夢の船の中で、紳士に抱き留められ、見詰め合っている。これまでの人生を全部ひっくるめて、悪くないなと評価出来る程のイベントだ。オレオがリダの前髪をそっとかき分けた。
「チラ猫の様な方だ、と思っていたのですが……失礼、意味は……」
「分かってる」
チラ猫の様な女。孤高で甘え下手、という諺だ。どの国が発祥なのかは知らないが、リダが知っている程度には有名な。
「でも、猫は実は甘えたがり。知ってた?」
「一か月の出張で飼い猫に顔を忘れられた友人がいるので、触れ合いを求めない生き物かと思っていました」
リダは小さく、頬を擦り付けるように首を振った。二房の長い髪が波打ちながら揺れた。
「寂しがりなだけ。一月も自分を放って平気な人の事なんて、悲しくて覚えていられない位に」
「初めて聞く解釈ですね」
階上から人が降りてくる音を聞いて、リダは体を離した。
「ま、多分猫によるけど」
火照りがちな顔を誤魔化す為、リダは階段から降りてくる客を見上げた。降りてきた男は二人を気に留める事無く通路へ歩いて行った。
「上へ戻りましょうか」
笑う口元を手で隠しながら提案するオレオに、恨めし気な半眼を作りながらもリダは従った。
四階のホールへ戻り、二人は窓際のソファに向かい合って座り、暮れ行く市内を見ながら街の事を話した。残念ながら普段の生活や職業、今日の出来事そのものは話せないが、ヴェスティアの街並みやクリスタル技術品、土産屋で見た奇怪なアクセサリなど、話題はいくらでもあった。
オレオは聞き役に徹するでもなく、話が途切れないよう自然に話題を提供した。
群島経由の鉄道が思いの外揺れた事や、昼間に通過する内海の上が、暑さを忘れる程真っ青な景観だった事。停車の際に飛び乗ってきた鳶が発車して降りられず、コンパートメントの間を逃げ回っていた事などは、船で入島したリダには興味をそそられる内容だった。時間を忘れて、という言葉そのままにリダは会話を楽しんだ。
「それで、私が食べようとしていたベーコンを――」
言いさして、オレオは上着の内ポケットから通信石を取り出した。内ポケットと鎖で繋がれたルビーは、応答を呼び掛けて瞬いている。紳士は小さく溜息をついた後、諦めと苛立ちの混じった瞳で輝きを見詰め、立ち上がった。
「失礼、仕事の相手から連絡が」
「気にしないで。一か月以内なら覚えていられる」
呆れ気味の苦笑で応して、オレオが通路の方へ歩いていく。トイレか、人気のない通路か、それとも脇から甲板に出るか。一人になれそうな場所はそんなところだろう。仕事の話はお互いしなかったが、疚しくなくとも部外者に聞かせられない内容などいくらでもある。
後ろ姿を見送ったリダは、特に気にする事無く、通りかかったスタッフにノンアルコールの飲み物を注文した。この後八時からディナーが待っているし、花火を観たら逃がし屋と共に逃げなくてはならないので、
酒はよろしくない。
そういえば逃がし屋は群島経由の鉄道で逃がすと言っていた。確かサウイン方面行きは半日かかる筈なので、昼は無理でも朝方の内海は見られるかも知れない。オレオの話を聞いて、鉄道からの景色も是非見てみたい。
そこまで考えてリダは、自分がこの船を途中下船しなければならない事の意味を思い出した。オレオと共にこの船を降りる事は出来ないし、彼女が降りる時に近くに居られても困る、という事を。その事実を意識した瞬間、ちくりと胸に痛みが走った。
まあ、仕方ないわよね。
一緒に船を降りて、待ち受けているであろう警備隊に囲まれるのも悪くないが、その時オレオが自分に向ける表情を想像するとあまり気が乗らない。
リダは胸元からダイスを取り出し、窓の縁に転がした。大の2と小の4。意味は「かなりヤバイ」だ。
「そうよね」
くすりと笑ってリダはダイスを仕舞った。
リダを狙っているのは警備隊だけではない。制服でそれと分かる警備隊と違い、逃がし屋に彼女を追わせていた誰かはいつどこから襲ってくるか分からない。この船の中は厳格なチケット制なので大丈夫だと思うが、降りれば絶対にその誰かがいる。警備隊に捕まり散々尋問を受けた後に、解放された所を更に出待ちで捕まるなど、こういう業種ではオーソドックス過ぎるコースで欠伸が出そうだ。
届けられたアイスレモンティにストローを刺し、口を付けながらリダは窓の外へ目を向けた。静かな湖面を進むタービンの振動が、鈍い唸り声となって遠くに聞こえる。
今日の目的を思い出さなきゃ。花火でしょ。
太陽は沈み、濃密な青が空も水面も呑み込んでいく。
本来の目的のついでにしては、オレオとの出会いは上等過ぎるオプションだった。きっと彼だってリダを特別な相手とは思っていないし、リダにとってもそうでなければならない。
目を戻すと、通路の向こうからオレオが早足で戻ってくるのが見えた。良い連絡ではなかったのか、表情は少し硬い。
「本当に申し訳ありません。トラブルがあったようで、部屋に戻らなくてはいけなくなりました」
言葉通り本当に申し訳なさそうにオレオに、リダはとっておきの寂しげな笑顔をプレゼントした。
「仕方ないわ」
「どうかお気を悪くしないで下さい……ああ、本当になんて間の悪い……」
「あたしも少し用事があって、この後は一緒に居られなかったの」
夢は夢であるが故に美しく、押し寄せる現実に対して脆く儚い。美しいままに終わった方が良い関係だってある、とリダは胸の痛みを抑えつけた。
「それは……どちらにせよ残念です」
オレオも若干の未練を混ぜながら、表情を緩める。どちらにせよ、という言葉が、リダには「嘘でも本当でも」という意味に聞こえた。
「美味しい夕食の前に悲しい気分はやめましょう」
憂鬱な感情を強引に振り払い、おどけてストローでグラスの氷を弄ると、一拍置いてオレオも出会った時の穏やかな、そして少し軽薄な紳士の振る舞いを取り戻した。
「そうですね。今日の出会いに感謝を。この船には素敵なレディが沢山いるのでしょうが、貴女に選んでもらえた事は幸運でした」
「貴方があたしを選んだ気がするんだけど」
「困っている女性を助けたかったのは本心です」
リダはストローを咥える前に忍び笑いを零した。
「ええ、そうね。とっても助かった」
「ええ……白状するなら、困っている男性は助けません」
「口に物を含んでいる時に笑わせようとしないでったら」
落ち着いた、耳心地の良い木琴のような音が一度響き、天井の方から女性の声で、ディナーの用意が出来た事が告げられた。船内放送だ。
「それでは」
「ええ、それじゃあ……楽しかった」
二人は立ち上がって、手を握り合った。
「また合えたら、後で」
「ええ、そうね。会えたら後で」
後、はリダにはない。最後の挨拶を交わして、リダは後方デッキへと向かった。
開け放たれた扉をくぐると、微かに蒸し暑い風がゆっくりとリダを包んだ。
まず目に飛び込んだのは満天の星空だった。太陽の下で真っ青だった夏の天上は、月の制御下で尚鮮やかに色を深め、様々な色で輝く幾千の星が、宝石のように煌めいていた。白と黒と赤と青、四つの大陸それぞれから流れ来る大気が混ざり合う中心地でしか見る事の出来ない、ヴェスティアだけの星天模様。気候の関係から、これ程様々に色が混ざるのはこの季節しかない。街灯に火が灯る市街地からでは霞んでしまう色や小さな星まで全てが、湖上でははっきりと見える。
くるりと一回転するまでリダは空を見渡し、はっと思い直して地上に視線を戻した。板張りのデッキ上にはキャンドルライトの置かれたテーブルが効率良く配置され、既に多くの乗船客が席に着いていた。
給仕達が各テーブルを渡り歩いて、客のいる席へ食前酒を注いでいる。席はチケットで決められている。個室の付いていない番号は一番広く、一番下の四階デッキの筈。つまりこの階で間違いない。
リダはチケットを取り出して番号を確認し、立てられている案内札を読んでテーブルに向かった。オレオは個室付のチケットだそうなので、上の五階か、もしや六階のプライベートデッキかも知れない。
自分の席と思わしきテーブルを見つけて、リダは卓上に置かれたネームカードを見る。カーラ・ニーセット、ここだ。ここなのは間違いないが、ソロチケットの筈のリダの席の前には、明らかにもう一人分の配膳がある。周囲を見渡すと、一人用に見えるサイズのテーブルはなかった。きっと一人客の為のチケットはあるものの、一人用のテーブルはないのだろう。
つまり、目の前には見知らぬ誰かが座るという事。僅かに躊躇ったリダだが、ここまで来て食事を取らないというのも虚しい。ドレスコードのあるディナーで、しかも高額の観覧チケットを買えるのだから、同席する相手を不快にさせるような残念な人物ではないだろう。つい先程、別れを惜しむ程の出会いがあったばかりだ。
席に着いてリダは給仕を待った。
アミューズを持って滑るようにやってきた給仕に、酒に弱いと言って食前酒のチョイスを任せる。透き通るような緑ワインが注がれた。口を付けると、柑橘系を思わせる爽やかな風味が鼻腔に広がった。非常に飲みやすく、リダのオーダー通りアルコールは薄い。
アミューズは深い藍色の皿に、色とりどりのチーズがソースと共に散りばめられている。少し離れたテーブルから、お空みたいでキレイだね、と喜ぶ子供の声が聞こえた。
残念ながら空の方が綺麗だが、こちらには味がある。頭の悪い感想を抱きながら、リダは甘く赤いソースのついたチーズを飲み込んだ。
リダがアミューズを食べ終わっても、向かいの席は空いたままだった。
キャンセルでもされたのだろうか。ネームプレートは置かれているが、本当に急なキャンセルなら譲る時間すらない、という事もある。それに、リダが言えた話ではないが、そもそも譲渡は規約違反である。
席に着くまでは初対面の誰かとのディナーはむしろ抵抗があったのに、来ないなら来ないで何となく居心地が悪い。きっと食器が並んでいるせいだ、とリダは思う。連れにすっぽかされたような構図になっているのが落ち着かないのだ、と。
そう結論づけてこれ以上気にするのは止めた。
やがて前菜である夏野菜のマリネが運ばれてきた頃、湖の中心にある制御塔付近から一条の光が空へ上り、炸裂音と共に真っ白な爆発が起きて周囲を照らした。花火大会の開幕宣言だ。
デッキのあちこちから拍手が上がり、リダも小さくそれに倣った。
白い爆発はやがて色を変えて、少しずつ夜空に染まっていった。それを皮切りに、次々と花火が打ち上げられ、七色の花火がヴェスティアの頭上を飾り始めた。
リダは少しの間背もたれに身を預け、花火を眺めた。
「……これで――」
小さな呟きは、花火の轟音でどこにも届かなかった。
「あれ、ここでいいのかな」
気が付くと、向かいに長身の男が立っていた。




