夢と決意と逃走と花火 2
デルトメルク号は富裕層をターゲットにした、ヴェスティア群島周遊客船として建造された。
耐熱、耐食に優れた純白の船体が全長142メートル、幅25メートルに及ぶ大型客船の内装は豪華絢爛の一言。六階建ての最上階にプライベートデッキ付きのスイートルームを用意し、四階後方のデッキは敢えて木材の板張りで、ともすれば興を削ぐ鉄船の硬質感を緩和して情感を演出。
船内は乗船口から船尾の避難通路に至るまで魔術加工された合成繊維の絨毯が敷き詰められ、食堂は四大国から集めたシェフ達が各国の人気料理をフルコースで提供し、乗船客全員分の一等クラスに相当する船室を確保する為、想定された旅客定員はこれだけの大型船に対して僅か二百名。
波揺れの自動制御、風当りの調節などを盛り込んだ当時最新鋭のシステムと高効率魔力変換の発動機を搭載し、船体にヴェスティアの都市紋章を描いたこの客船は、ボルボンド・ゴルドンの予想通り就航と共に大人気を博した。
予想外だったのは、四大国の戦線が拡大の一途を辿り、遂に周辺諸国を駆逐して直接対決の兆しを見せ始めた事。それにより、ターゲット層の多くが様々な思惑の元、財布の紐を締めてしまった事だった。
斯くして夢世界の船と名を轟かせたヴェスティア群島周遊航路便は、一年半という短期間の内にヴェスティア観光業の超新星から、稼働の度に赤字を生み出す為内海に浮かべて見せるだけのシンボルとなった。
その問題児をなんとか有効利用しようと四年前に企画されたのが、慰霊祭における人造湖の周遊だ。
少なすぎた定員数を増やし、各国の人間が来訪し易い環境の下で年に一度だけ運用する事により、デルトメルク号は本来のスペックを生かして嘗ての威厳を取り戻した。
回を重ねる毎に乗船チケットの転売相場は跳ね上がり、協会が本人以外のチケットを無効とする数々の対処を行った事で、その希少性は暫く落ちる気配がない。
いい大人であれば誰もが一度は体験したいと思う一夜だ。旅行や観光にまるで興味のなかった男ですら、プロポーズの場所にしたいと思う程に。
それはもう彼にとっては無意味なものであったが、感情だけは、有り得た筈の未来を想って今も――
フランクが発着場に辿り着いたのは、遊覧船出航の正にその瞬間だった。
「待ってくれ!乗るんだ!」
確実に人を殺せる速度でレーンの石畳を踏み鳴らし猛然と乗り場へ駆け込む馬車から、身を乗り出してスタッフに叫ぶ。二人のスタッフは乗船口のタラップを外そうかという姿勢で止まり、一人が小走りでタラップ前まで降りてくる。
フランクはまだ止まってもいない馬車から飛び降りると、勢いによろけながらも上着のポケットに手を入れて、乗船チケットを手渡した。
「もう少し早くきて頂かないと……あれを外したらもう出航扱いですから、ご乗船は出来なかったんですよ」
チケットに専用のライトを通して本物である事を確認しながら、スタッフが控え目な困り顔でフランクを見る。
「悪い、道が混んでいて……」
「ああ、街中で事件があったみたいですね」
チケットを返しながら、スタッフの視線はフランクの顔から下へ降りていった。その意味にフランクが気付くより先に、スタッフは体を引いて道を開け、乗船口に手を向けて示した。
「もう時間ですので、どうぞお足元にお気を付けて。それと、ディナーには一応ドレスコードを設けさせて頂いておりますので、それまでには御着替えください」
想定外の指摘を受けて、フランクは早足でタラップを上りながら一歩後ろをついてくるスタッフに振り返る。
「この服装では駄目って事か」
「申し訳ありませんが……」
頷くスタッフを見て、フランクは言葉に詰まる。手痛いミスだった。カーラにチケットを渡した時点ではこの花火鑑賞会の詳細を確認していなかったので、その後彼女を失った事でそれらはフランクにとって必要のない事項になってしまっていた。
「見ての通り、着替えなんて持ってきていないんだが……」
「貸衣装をいくつかご用意しておりますので」
「良かった。支払いは後でも?」
「結構です」
安堵の息をついてフランクは遊覧船に乗り込んだ。
二人のスタッフの手により、今度こそタラップが乗船口から離される。乗船口内部で切り離しの確認の為待っている乗務員に促されて、フランクは船内へと入った。
天井からの柔らかな照明がフランクを照らす。先程までさして気にもしていなかったが、窓から外を覗くともうだいぶ暗くなっている。足元の青い絨毯は一歩踏み出す度に淡く色を変え、適度に冷やされた風が舞い上がる。やがてエントランスに到着すると、多くの着飾った男女と豪奢な調度品がフランクを迎えた。
成程、ドレスコードは必要だ、と軽く首を回してフランクは納得する。中央に飾られている生け花は、滑らかに光を反射する花瓶もまた花々に負けず劣らず美しく、その花瓶を置く小卓すらも黒く艶が出ており高級品と分かる。受付案内所の壁には名画であろう斬新な色遣いの大きな抽象画が掛けられており、窓際には綿のたっぷりと詰まった革張りのソファが窓の数だけ並べられている。どれもがフランクにとって壊滅的な金額の品であると予想できる。
よれたシャツにくたびれたズボンと、土で汚れた薄い革靴を履く男に適合する空間ではない。他の客達は誰もこの風景を乱すような恰好をしていないので、フランクの場違い感は一層際立っている。今更見栄えに気を遣う羞恥心もないが、ここまで周囲との齟齬が大きいと悪目立ちして、本命の目的である復讐の相手に、近付く前から警戒されてしまう。最低限の調和は必要だ。
笑顔で歓談する男女をいくつか避けて、フランクは船内受付へ進んだ。スタッフが気付きこちらに笑いかけたが、その笑顔が一瞬ぎこちなく強張ったのをフランクは見逃さなかった。
「貸衣装を頼みたいんだが……」
居心地の悪さに耐え切れず、視線が下がってしまう。汚れ一つない受付カウンターの上に置かれている上質なメモ用紙と万年筆が目に入り、胸の内の場違い感が増々膨らむ。
「チケットを確認させて頂いてもよろしいでしょうか」
女性スタッフの柔らかな声は非の打ち所がなかったが、その言葉が意味するものはフランクという乗船客への不信に他ならない。多少の苛立ちと共にフランクはポケットから判の押されたチケットを取り出して、スタッフへ見せた。スタッフはチケットを見てカウンターの内側に置かれている何かを操作し、フランクへ顔を戻した。
「お客様のチケットは個室付ではありませんね。そうなりますと御着替えの場所がこちらの指定したスペースに限定されますが構いませんでしょうか」
「ああ、大丈夫だ」
彼女は疑ってる訳じゃないぞ……仕事をこなしているだけだ。
フランクは小さく息を吐いて自信を落ち着かせた。雰囲気に呑まれて正常な判断を逃してはならない。
「では、そちら正面の階段を一階分下って頂いて、船首の方へお進み下さい。案内表示が出ておりますので、道なりに進めばお分かりになると思います」
「分かった、有難う」
「どうぞ、本日は心行くまで当船をお楽しみ下さいませ」
言って、スタッフは恭しく頭を下げる。その頭はフランクが階段へと振り返るまで上がる事はなかった。その振る舞いには、少なくとも最初に感じたような違和感は全くなかった。
絨毯に吸われて音の立たない階段を降り、船首方向への通路を進むと、言われた通り案内表示に、貸衣装や理髪店の並ぶ区画への最短経路が表示されており、フランクはその通りに歩いた。
フランクが男性用衣裳店のドアへ近付いた時に、肥満気味の紳士が丁度ドラを開けて内側から出てきた。
「じゃあ、時間になったら部屋まで頼むよ。四十分頃だね?」
ドアの内側から、女性の声がそれに応えた。
「他のお客様のご予定で多少のずれが生じるかと思いますが、その辺りにはお伺いします」
紳士は鷹揚に頷いてフランクのいる正面へ振り向き、ぎょっと身を引いて視線を上下に走らせた。
「失礼」
さも失礼なのはフランクの方だと言いたげな、心外そうな顔で断り、紳士は部屋から出て道を開ける。返事をせずにフランクは部屋へと入った。多分この手の反応は、着替えない限りずっと続くだろうし、それはこの船内においてはごく常識的な反応なのだと理解するだけの冷静さは取り戻していた。
店内には他に二人程男性客がいて、一人は足の採寸についてちょっとした抗議をしている所だった。スラックスの裾をもう少し残しても、自分の脚には適応すると言いたいようだ。
今し方の紳士を見送って手の空いた店員と目が合った。
「貸衣装を頼みたい。支払いは後で」
店員は頷いて、手振りでスーツの森へフランクを誘導した。
「色や素材に指定は御座いますか」
言いながら、店員はさっとフランクの全身に目を走らせる。
「いや、特にないな。はっきり言うと、出来るだけ値の張らないやつがいい」
「お客様は背が高くていらっしゃいますので、どの服でも良くお似合いになると思います。そうですね……魔術加工は必要ありませんね?」
「ああ。そうだ、色は落ち着いたのがいいな。黒とか」
「それでしたらこちらなどはどうでしょう」
店員が取ったのは夏の夜空のような、黒に近い紺色だった。
「黒よりもこちらの方がリーズナブルです」
「それで頼むよ」
フランクが即決すると店員はすぐさま採寸に入り、その理想的な体型比率にぴったりの上下はすぐに見つかった。
「髪型を整えられるのでしたら、ここを出て左手に進まれますと……」
「いや、髪はいい」
言った後、フランクは店員の顔を窺った。
「髪もなんとかしたほうがいいかな?」
服装すら碌に選ばなかったフランクは当然、髪型にも全く気を配っていなかった。一か月以上前から伸び放題のそれを、邪魔な前髪だけ自分で適当に切り落としただけだ。がさついているし、耳が隠れる程の横髪は肩にかかって毛先が情けなくくたびれている。
「そうですね。簡単に整える程度なら時間もかかりませんよ」
「ああ……じゃあそうするよ」
ハンガーに下がったスーツを手に店を出て、フランクはその通りに行動した。理髪店の店員には「簡単に整える程度」とだけ言い、彼がやや不満げに前髪や揉み上げを揃えて髭を剃り、肩にかかる髪を数センチ切るのを待った。
その後、個室付でない乗船客達の更衣室で着替えて再びエントランスホールへ戻った時、時刻は午後七時五十分になっていた。
周囲の客達はもうフランクを異物扱いはしていない。とりあえずは熔け込めたようだ。首元のタイを弄りながらフランクは、安物のスーツを指定した事に今更ながら疑問を抱いた。
フランクの生きる意味は最早復讐にしかなく、それが済んだ後の事は考えていない。要するに死ぬつもりである。だとすればこの貸衣装の代金を払う機会などある筈もなく、踏み倒しはほぼ確定だ。どうせなら上等な服でも良かったのではないか。踏み倒される店側を思えば安いに越した事はないだろうも思うが。
「でも、似合ってるよ」
声に振り返る。その光景に目を見開く。
金糸で縁取られた真っ赤なパーティドレスを纏ったカーラが、フランクに悪戯っぽく微笑んでいる。髪を結いあげ、いつもより化粧に力を入れた彼女の、その唇が赤く伸ばされ、チークの引かれた目元が嬉しそうに細められてフランクを見詰める。フランクは息を止める。
それはある筈だった現在だ。現実になり損ねた幻想だ。
シャンデリアのクリスタル光に照らされるホールで、煌びやかな世界と共にフランクに手を伸ばすカーラ。これまでの人生の全てがこの日の為だった。そしてここから新しい人生が始まる筈だった。
面白くもない常連達の冗談を聞き流しながらバーテンダーとして働き、家に戻ればベジタリアンへの修行に溜息をつき、ソファに座って仕事の愚痴を言い合い、彼女が非番の日には昼まで二人、ベッドにくるまってカーテンの光に逆らう――
今はもう、手に入れようがない宝石のような未来。
立ち眩みのような眩暈によろめき、頭を振る。目を開けた時、彼女はいなかった。当然の事。カーラがもういない事は分かっている。それがフランクの見たい幻想だという事は分かっている。
現実じゃないんだ!現実を見ろ。
フランクは自分に念を押す。これはフランクが強く望むあまり、自分で自分に見せている幻だ。
では今、カーラの代わりに目の前に現れた彼女は一体なんなのか。
みすぼらしい布切れで痩せた体を隠した、耳の長い少女が、何一つ期待していない瞳でフランクを見据える。フランクが置いてきたエルフの少女。彼が助けなければ、やがて体を切り刻まれて死ぬまで苦しむ未来を約束されている名も知らぬ少女。その小さな体が、フランクの前に立ちはだかっている。
今すぐ助ける事が出来ないと言った時の彼女の絶望した眼差しが、眼前で再現されている。これは一体、フランクの何を反映した幻覚なのか。
自らが生み出した少女の視線に耐え切れず顔を逸らす。原因は後悔か、それとも義務感か。間違っても正義感ではない。
助けたいのか?あの子を。助けられなかった彼女の代わりに?
フランクは強く目を瞑って、大きく深呼吸し、ゆっくりと目を開いた。視界にはもう、現実以外は見えない。
「でも、似合ってるよ」
ああ、けれど彼の中には、まだ彼女の声が残っている。その声音も抑揚も全て、隣にいるかのように。
「そうでもないだろ」
自嘲気味に呟いて、フランクはタイを緩める。例え死後の世界があったとしても、フランクは彼女に会う事は出来ないだろう。自分がどれ程真っ黒な人間なのかは理解している。
それでもカーラと過ごした日々は偽りではない。そしてこの復讐心も。
そうだ、俺は正義のヒーローじゃない。
気品溢れる人々の間を、フランクは静かに船尾へと歩いていく。結局の所復讐とは自己満足だ。理由は必要だが、正統性は必要ではない。復讐に正しさは必要ない。
彼女の声はもう聞こえない。カーラは復讐を望むような人ではなかった。正しさを信じ、子供を愛し、明日の平穏を願っていた恋人は、きっとフランクの怒りに頷いてはくれない。
それでも。
それでもやらなくてはならない。彼女の命を奪った者が目の前に現れるというのなら、その代償は支払わせなければ。
間もなく午後八時。慰霊祭の佳境である花火が始まる。すべての乗船客は各階層のデッキで、空に描かれる色とりどりの光彩を眺めながら食事を取る。席はチケットで決められており、変更は出来ない。フランクとカーラのチケットは現在の四階後方に設けられた、一番大きなデッキが指定されている。つまり、そこに必ず現れる。
火花の炸裂する大きな音が一発だけ響き、窓の外が一瞬白く輝いた。開始を告げる大花火が打ち上げられた。船内からまばらな拍手が起き、ついで花火の音が連続して聞こえ始めた。
フランクは窓際のソファに座って、ほんの少しの間花火を眺めた。他の乗客が食事と花火の為にデッキに移動し、船内から完全にいなくなる程の時間が経った頃、自分も席を立つ。
給仕達が次々と皿を運び出すのに先を譲り、フランクはデッキへと出る。
席番号を確認し、その先へ。向かい合わせの個人席で一人食事をする女の所へ。




