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陽炎の夜  作者: 戸坂
13/24

夢と決意と逃走と花火 1

 午後六時を回り、夏の終わりを予感させる陽の傾きは徐々に加速して地平線へと落ちていく。空はまだ明るく、気温も高いままだが、真っ青だった空は絵の具を薄めたように白く濁り、やがて埋め合わせるかの如く赤に染まり始める。まだ必要ではないが市の規則により、街灯に白い光が灯る。

 この後慰霊祭は佳境に入り、市内の大通りを練り歩く音楽隊と十万発の花火が夜を彩る。

 四大国によって今なお積み重なる戦禍への弔いとして、ヴェスティア創始者ボルボンド・ゴルドン主催で開催される慰霊祭は、市民の誇りにかけて、決して中断される事無くその全ての行程を完遂する。

 うだるような太陽熱が節度を弁えた蒸し暑さになり、通り一帯に広まっていた殺人事件の不安が少しずつ溶けていく。観光客達はやがてそれを忘れたかのように、夜を待ち、花火を待つ。それで全て解決するとでもいうかのように。茜色に向かいかけた空が再び青く青く、どこまでも塗りつぶされて月が輪郭を取り戻せば。

 しかし、夜は本来彼等の時間なのだ。溝鼠達の。


 遊覧船発着場を見下ろす飲食店二階の窓際席から、アドレイは観光委員会の係員がタラップ前で乗船客へ対応する様を眺めていた。

 花火を観るのに良い条件ではない為、店内の客入りはまばらで警戒はし易い。客は誰一人アドレイの事を気にしていないし、店員も注文のフルーツジュースを届けた後は見えなくなったかのようにアドレイに注意を向けなくなった。有り難いやら悲しいやら、相変わらず複雑な心境だが、大通りの時のように突然ナイフを突き出されるよりは遥かにマシだ。

 一応周囲へ目を走らせながら、アドレイは眼下の乗船口を観察する。ブラックドレスの彼女、カーラはまだ来ていない。今はまだ乗船開始時間ではないようで、係員がチケットを見せて乗り込もうとする客に、もう少し待つようにと丁寧に応対している。

 問題はいくつもあった。

 アドレイが遊覧船のチケットを持っていない事はまだ軽いジャブのようなもので、アドレイの目的であるカーラが本当に船に乗りにやってくるのかが分からない事、アドレイも彼女も、厄介な連中に目を付けられ追われている事、この後ヴェスティアを出る算段がない事、とどれもこれもうまい解決策の見当たらない大問題だ。

 追手から逃げ隠れ、乗り場まで来たのはいいものの、逃がし屋とのコンタクトに失敗したのも痛い。

 噂に聞いた話を頼りに街角の樽の上を覗き、麻袋に入った質の悪そうなエメラルドの原石を見つけるまでは良かった。しかし指を付けてみれば、相手は自らをピットニィ用品店と名乗り、アドレイの要請に応える事はなかった。

「あんたら逃がし屋なんだろう?依頼したいんだ」

『うちは用品店なんで。すみませんけど』

「街角の樽の上に通信石の欠片を置いといて、ただの用品店な訳ないよ。大変な状態なんだ、頼むから」

『そうは言われましても、うちは用品店なんでね。申し訳ないけど』

 恐らくは合言葉のような何かが足りなかったのだ。ヒラリーの言っていた通り、アドレイでは依頼すらままならなかった。そういった部分は全てヒラリィに任せていた……というよりお互いがそういう役割だったので、交渉面や他の同業者とのやり取りがアドレイに出来ないのは、これはもう仕方がない。

 二人はパートナーだったのだから。

――諦めなさいよ!

 パートナーの怒声が頭の中に響く。あれから何度も呼び掛けたが、ルビーは反応を返さない。ヒラリーはいつになくご立腹だ。今回はもう、これ以上のサポートは受けられないと考えた方がいい。

――その女は、本当に今すぐ捜さないといけないの?

 熱意だとか激情だとかいうものに突き動かされた結果、大変な事になってしまったのは分かっている。ヒラリーの指摘が実際正しい事も。

 けれど、彼女はきっと知らないのだ。挫折を繰り返してきた男が、どれ程成功を求めているのかを。いつもいつも欲しいものを諦めて育ってきた者が、どれ程その状態を苦痛に感じているのか。何があったから、こういう理由だったから仕方がない、と諦めるのは余りに簡単で、その度に本気で頑張れなかった自分を惨めに思う。

 無抵抗の敗北は痛みが少なく、言い訳の麻酔で容易く誤魔化せてしまうが、決して癒える事はない。ふとした瞬間、例えば馴染みの通りを歩いていて、商店のショーウィンドウに映った自分の姿を見た時に、一斉に傷口が開いて苦々しい鈍痛を放つのだ。それをまた仕方がないと言い聞かせる悪循環から抜け出したいと切に願うアドレイの気持ちは、きっと彼女には分からない。

 仕事にもプライベートにもそれなりに満足して、料理を覚える代わりにお気に入りの店を探す事をオフの楽しみにするヒラリーには。

 ブラックドレスの彼女は、あの時捜さなければならなかったのだ。そうでなければきっと、どうせまた会えると思っている内にカジノを離れ、仕事を完了して戻った時には彼女の手がかりの一切は消え、恐らくそんなに気の合う女性じゃなかった、とアドレイは自分を納得させる羽目になっていた。諦めの代償が薄い膜の様に全身に纏わりつき、アドレイの肌をじわじわと焼いていただろう。そんな思いはもうしたくなかったのだ。

 その結果がこの尋常ならざる危機だが、この現状こそまさに仕方がない。どうせ言い訳するのなら、前向きにしたい。ならばカーラには絶対に会わなければならない。彼女は予定通りこの船に乗るのだろうか。

 ご機嫌を損ねたパートナー、ヒラリーの仕事は信頼性が高く、カーラがこの船に乗るという理由でヴェスティアに入島したのは間違いない。真偽を確認された時の為、乗船に必要なチケットも当然持っているだろうし、そうなると乗る予定ではあった筈だ。別の目的のカモフラージュであれば、高額のチケットが必要にならない口実を考えた方がいい。

 となると、警備隊に追われている今、彼女は予定を完遂するつもりなのか否か。彼女が本当にアドレイとバッティングした同目的の同業者なら、この船の中が取り引き場所なのかも知れないが、どうもそうとは思えない。

 ロッディを始末したのは予定に二時間も遅れたアドレイの方が先だった訳で、彼女が鍵とやらを手に入れられたのはアドレイが持ち去る物を間違えたからだ。矛盾している訳ではないが、しっくりこない。

 それともアドレイがカーラの事を勝手に美化しているだけだろうか。自分のような汚れ仕事の世界の者ではないと思いたいが為に、無意識にバイアスがかかっているのだろうか。

 ジュースを一口啜りながら乗船口を横目で見るが、まだ時間ではないようだ。

 仮に彼女が乗船時間ギリギリで船に乗った場合、ここから動き出したのでは遅い。彼女が乗るという仮定の元に準備が必要だ。遊覧船を観察すると、乗客の乗船口とは別に、船の前方にもう一つ大きな搬入口があり、そこから観光協会スタッフと思わしき者達が物資を運んでいる。紛れ込むならあそこがいいだろう、が向こうも当然警戒している筈。物資の積み込みが終わる前に行動しなければならない。ここで見ているだけでは、諦めるのと同じだ。

 席を立って、アドレイは会計カウンターへと向かった。

 客の入りはまばらで、厨房内からは女性店員の笑い声が聞こえているが、カウンター前に立つアドレイの元へは誰も現れず、その気配もない。少しだけそこに佇んだ後、アドレイは呼び鈴を鳴らした。出てきた女性店員は待たせた事に対する謝罪をすっきりと忘れて、アドレイの伝票に書かれている値段だけを読み上げた。店を出る時にドアベルが鳴らなかった気がしたが、振り返ったり耳を澄ませるのは止めておいた。

 外は店内より僅かに暗く、それはアドレイの存在感を更に薄めたような気がする。

「好都合じゃないか、そうだよ……」

 言い聞かせて通りに面した店の階段を降り、遊覧船発着場へと歩いていく。少しずつ乗船客の乗りつけた馬車が増えてきて、馬車レーンのスペースが混み始める。

 客達は乗船時間まで、二階建ての受付所で待つようだ。あの中にカーラがいれば良いが、警備隊に追われている事を考えれば、いるとは思えない。

 アドレイは周囲に気を遣いながら、運送業者と船内スタッフが積み込みをしている搬入口へ遠巻きに近付いた。それなりに人の出入りはあるが、業者もスタッフも自分の仕事に忙しく、離れた場所から観察するアドレイに気付かない。

 運送業者の服装は各々バラバラで、ただ動き易いという理由しかない恰好をしているが、船内スタッフは皆薄青色の制服を着ており、搬入口から船内へ乗り込んでいるのはスタッフだけだった。搬入口は馬車が直接入り込める程には広いが、運送業者達は全員自分で荷台を引いて入り口につけ、荷物の運び込みはスタッフに任せていて、そのせいで作業は中々進まずに積み込み待ちの荷台で列が出来上がっている。

 業者が楽をしたくて手伝っていないという事は有り得ないので、間違いなく遊覧船側の指定によるものだ。客以外は誰も乗せるつもりはないらしい。うっかり紛れ込むのはさしものアドレイにも無理がある。

 少し考えた後、アドレイはとりあえず行動することにした。四角い箱の積み重なった大きな荷台に寄り掛かって最後尾で順番を待つ男に近付いていき、相手がこちらに気付くと精一杯社交的な笑顔を作って手を上げる。

「やあ、調子はどう」

「見ての通りさ、もう三十分は待ってるぜ」

 業者の男は搬入口を見やって肩を竦めた後、何の用だとばかりにアドレイを見た。アドレイは視線を避けるように荷台の荷物を見て尋ねる。

「結構重そうだね、何が入ってるの?馬車で運んだ方がいいように見えるけど」

「馬車で運べるのは向こうの仕切り線までなんだよ。混むからだと。一時間早く来てれば大丈夫だったんだけどな。こっちは傷みやすい生もの運んでんだ。そうもいかねえよ」

「そりゃ大変だ……」

 アドレイは積まれた四角い箱を良く観察した。蒸し暑い周囲の熱気に抵抗するように、箱の周りから冷気が薄っすらと立ち上っている。紙箱は汗ばむように表面に水滴が浮かんでいて、中身が氷結石で保冷されている事が伺えた。

「これは肉か何か?」

「だな。ドットガルのクイン地方産の牛肉だよ」

「最高だね」

 クイン地方産と言えば超が付く高級肉だ。アドレイは一度も食べた事がない。

 祖国である黒の帝国ドットガルは、旧態依然とした貴族政治がその強固な利権による国民の格差を今も生み出し続けており、柔らかい牛肉など買う金があるのならその分を生活日用品に回す、というのが大半の者達の共通認識である。

 そもそも食にあまり拘りのない方だという事もあり、アドレイの普段の食生活は雑としか言いようがない。ヒラリーを何等かの謝罪を込めて食事に誘う時以外は、いつもの店で安物のパンを買い、日替わりでジャムの味を変える程度だ。最高だとは言ってみたが、金を出して食べたいとは思っていない。

「あんたはここで何してるんだ」

 クイン地方産に気を取られている内に、今度は男の方が問いかけてきて、アドレイは慌てて本来の目的を思い出した。

「乗船時間まで暇で」

 乗客の振りをして遊覧船の要塞のような白い板面を指差すと、男は「いいねぇ」と冗談半分の半眼でアドレイを睨みつけた。

「じゃあ後でこいつを食べるって事だな。花火を観ながら。いいねぇ……俺等なんてそんな金も時間もないよ。あんた、そんな風に見えないが結構なご身分なのかい」

「いや、単に抽選に当たっただけだよ、運よく……」

 アドレイは視線を再び荷台へ逸らす。あまり突っ込まれるとボロが出かねない。さっさと本題に入る事にした。

「あれ、その箱、蓋がちょっとずれてないか?」

「なに?」

「そこのやつ、冷気の立ち上り方が激しいような」

「んなわけあるか……どれだい」

 アドレイが指差す箱を確かめる為に、男が荷台の後ろに回り込む。

「ほら、それ」

 指差しながら、アドレイは場所を譲るように男の後ろに回り込む。

「どれだよ……」

 かがみ込んで覗き込む男の首元へ、アドレイは手刀を落とした。途端に男の足から力が抜ける。

「おっと」

 地面へ倒れ込む哀れな運送業者の体を、寸前で支えて周囲を軽く見渡す。荷台の陰に誘い込んだので、前列の業者達に気付いた素振りはない。

「よし……どうしよう」

 悩むより先に行動、したはいいものの、この先を深く考えていた訳ではない。

 荷物に紛れ込むのは不可能だ。クイン牛の箱はアドレイが隠れられる大きさではないし、この荷台にアドレイがこっそりと隠れるスペースを作るのも無理そうだ。それに運送業者不在の荷物を、遊覧船スタッフがよく調べもせずに船内に運び込むとも思えない。

 とりあえず業者の上着を漁って、ヴェスティアでの活動許可証を見つける。大手企業の末端構成員のようだ。この男に成りすますとしても、行けるのはあの搬入口の入り口辺りまで。中に入り込むにはもう一工夫必要だ。

 また、男をこのまま放置しておく事も出来ない。辺りは段々と暗くなっているが、本来馬車で待機する筈のこの場所は大きく開けていて、人を一人寝かせておくのには適していない。

 アドレイは男の脇に体を入れて、まるで泥酔者を支えるように肩で担いで建物の方へ歩き出した。中年男の脇から漂う汗の匂いが辛い。今日のような夏日に運送業に勤しめば、当然の事ではある。アドレイ自身走り回って下着も上着も汗だくだ。彼は何も悪くない、という事を一歩踏み出す度にアドレイは思い出した。

 人気の少ない船舶倉庫のような建物の狭間まで来ると、精神修行は終わった。

 アドレイは男の体を地面に降ろし、少し考えて上着を脱がせる。ベルトも外し、両手足を汚れ仕事でお馴染みの海老反り型で拘束して、上着は猿轡にすると、男がぼんやりと目を覚ました。殺すつもりではなかったので手加減したし、かなり無理な体制なので覚醒が早いのは仕方がない。

「ごめん。本当に悪いんだけど、こういう事なんだ」

 アドレイは誠心誠意をもって男に頭を下げた。

 男はアドレイの言葉の意味が理解出来なかったようで、まず喋ろうとし、それから動こうとした後に首を限界まで巡らせて自身の状況を確認し、最後にバタバタと打ち上げられた魚のような反復運動をし始めた。

 アドレイは男がエビごっこを終えるのをじっと待った。男は逸らされた肥満気味の腹に、自重で小石が減り込んだ痛みで呻き声を上げ、動きを止めた。

「あんまり時間がないんだ。あんたの荷台を放りっぱなしって訳にもいかないし……あれは俺が運んでおくよ。本当にごめん。どうしても遊覧船に乗らなきゃいけないんだ」

 アドレイはしゃがみ込んで、出来る限り目線の高さを合わせた。

「それだけが目的なんだ。だからあんたの運んでるものを取ろうとか、殺して金を奪うってつもりじゃ……」

 男がまた無駄な運動を再開した。口からはくぐもった呻き声が何度も発せられて、目は血走っている。アドレイは男が落ち着くのを辛抱強く待った。

「そういうつもりじゃないんだ。だからあんたはここで、少しじっとしておいて欲しい。きっとすぐに助けてもらえるし、多分あんたの上司や取引先だってあんたを責めたりしないよ……荷物は間違いなく、船に届けられるから」

 男は額から流れ落ちる汗にも構わずアドレイを睨みつけている。鬼気迫る表情だ。

「だから、その」

 耐え切れずアドレイは視線を逸らし

「本当にごめん」

 そっと男の首元に手を当て、頸動脈を押さえて気絶させた。ぐったりと男の体から力が抜けたのを確認すると、アドレイは急いで荷台へ戻った。

 荷台の後ろには新たに一台別の業者の荷台が追加されており、誰もいない荷台へ最後尾の男が近づいてきていた。

「俺のだ!俺のだよそれ」

 アドレイが声を張ると、荷台に近付こうとしていた男が足を止めて振り向いた。

「離れるなよな。ルール違反だろ」

 いかにも気の強そうな、筋肉質な若者だった。街のチンピラに堕ちるのを片足の爪先でどうにかギリギリ耐えているような、アドレイの苦手なタイプだ。

「トイレ我慢出来なくて。もう大丈夫だから」

 言ってから、アドレイははっと思いつく。

「今何時かな」

「何でお前時計持ってねーんだよ」

「落としちゃったんだ」

 男は右手の腕時計を見た。

「六時半になったとこだな。ったく、出航に間に合うのかよ……」

「良かったら、順番先にどうぞ。良かったらだけど」

「はあ?」

 男が大きな声を出して、アドレイは一瞬威嚇されたような錯覚に陥る。いや、実際威嚇されているのかも知れない。動揺を悟られないように笑顔を作りながら、アドレイは付け加えた。

「俺は荷台離れちゃったし、それに……急がないとだろ」

「急いでるのは急いでるけどよ、そりゃお前だってそうだろ」

「俺はまあ大丈夫だよ、多分」

「意味わかんねーよ」

「だから……またトイレに行きたくなりそうなんだ。だから今の内に譲っておくよ。そっちだって俺がまた荷台を離れたらイラっとするだろ?」

「まあ、するな」男は素直に認めた。「じゃあ交代してやるよ」

 提案した方こそ自分だが、何故この男は順番を譲ってもらうのにこんなに偉そうなのか、アドレイにはさっぱり理解出来なかった。

「うん、じゃあ」

 だが指摘はせずにすごすごと荷台を引っ張って順番を交代する。思惑通りに事が進んでいるにも関わらず、アドレイの胸の内に屈辱感が広がった。

 気を紛らわせる意味も込めて、アドレイは乗船を開始した客達の方へ目をやった。かなり距離があるので、良く見えない。だが服の色や凡その輪郭程度は見えるので、カーラが通れば分かるかも知れない。

 無駄な努力だという事は始めて五分程で理解したが、他に特に出来る事もないのでアドレイは続けた。

 ヒラリーがいれば、という思いが何度も浮かんでは消える。彼女なら、きっと逃がし屋との交渉も可能だったろうし、カーラの現在地も分かった筈だ。少なくとも、今のアドレイよりは。ルビーへの呼びかけに反応はない。

 彼女は今や、どちらかというとアドレイの敵側に属していると考えて良い。彼女がアドレイに関する全ての情報を、彼を追う組織に伝えるというのは、実際この上なく深刻な事態だ。つまりアドレイがカーラを追って遊覧船乗り場へ向かった事も知られているし、例えヴェスティアを脱出出来てもドットガルの自宅には戻れないという事だ。

 背景を考慮せずに言ってしまえば裏切りと呼べる行為だが、それでもアドレイはヒラリーを憎む気にはなれなかった。彼女には今まで、そして今も迷惑をかけてきたし、

 それを抜きにしても、彼女の時折見せる余計なお節介や間抜けな気配りに、困惑しつつも温かみを感じていた。それはアドレイが一度も家族から与えられた事のない苦悩で、求めていたものに限りなく近い偽物だった。

 彼女とデートをする気にはなれないし、付き合いたいとも思った事はないが、困った事があれば力になりたいと思うし、彼女を傷付ける者には殺意を抱くだろうとも思う。それはきっと、家族と呼ぶには偽りに過ぎて、恋人と呼ぶにはあまりに遠く、友人と呼べば気負ってしまう。仕事相手としてしか収まる所のない関係であり、そしてそれこそが最高の適正であるような関係だ。

 残念ながら、今の所困った事を助けてもらったのはアドレイの方だけだし、ヒラリーを危険に曝しているのはアドレイ自身なのだが。

 俺だって他人事じゃないぞ。

 自分も今危険な状態だ、という事を思い出して、アドレイは周囲に気を配りながら乗船客を見続けた。やがて荷台の列は搬入口の前へと近付き、アドレイが先を譲った男の番になった。

「遅ぇんだよ」

 苛立ちを露わに男が荷台を引いて搬入口で待つ船内スタッフ達へと向かう。

「時間間に合わねえんじゃねえのか。ちんたらお前等だけで運んでるからだよ。俺も中まで運んでやる」

「いや、それはちょっと。こういう決まりですので」

「んな事やってっからこんな待たせる事になるんだよ。いいから、あっちまで俺も運ぶぞ。あっちからはてめぇ等で運べや」

 男とスタッフが揉めているのを傍で聞きながら、アドレイは乗船口の方を見続ける。好都合な展開だ。時計を持っていない為アドレイには今が何分かは分からないが、横にいる連中が言い争っている所から察するに相当時間が迫っている筈だ。船内への持ち込み協力は、前の男が言い出さなければアドレイが提案するつもりだった。見るからに粗暴で強引な彼が言ってくれた方が、アドレイより成功率も上がるというものだ。

 遊覧船スタッフと運送業者の言い合いは、アドレイの予想通り業者男に軍配が上がりかけている。

 珍しく思い通りに話が進んでいる事に気を良くするアドレイの目に、衝撃が走った。

 全ての音が遠ざかる。言い争う男達の声も、出航を間近に控えて低く唸る遊覧船のエンジン音も、乗船客が乗りつけた馬車達を誘導整理する遊覧船スタッフの警笛も、何もかもが消えて無音になる。視界が狭まり、心臓の鼓動以外に知覚出来なくなる。呼吸を忘れてしまう。

 数十メートル先のその一人だけが、ゆっくりと無音の世界を動いていく。たった二人しか存在しない世界の中を。何度経験しても馴染む事の出来ない例の衝動だ。きっと恋だ、と判断しているもの。

 薄暗い筈の周囲の中で、しかし影絵のように輪郭を主張するブラックドレスと、輝くように揺れる二房の長い金髪。ゆっくりと、どこまでも緩慢に、髪を揺らしながら少しずつ、それでも確実にアドレイの視界から消えていくあどけない横顔。永遠のような一瞬で他の乗船客に紛れて見失ってしまったその姿が、網膜に残り続けている。

 彼女だ。

 一瞬の出来事だったが、アドレイは確かに見た。彼女は、カーラは遊覧船に乗船した。感覚がまだ戻らない。指が震えている。彼女に会える。この遊覧船に乗りさえすれば!

 落ち着け!ゆっくりと呼吸をしろって!

 アドレイは自分に言い聞かせる。胸の辺りが苦しい。つまり、物理的に。異常な心拍数である事は、内側から嫌という程伝わってくる振動で分かる。深呼吸を強く意識して、アドレイは復調を試みる。周囲の音が戻ってくる。視界が広がって元に戻る。

 この状態になる度に、アドレイは自分を裏切る体が不安になる。いつかこの状態から戻れずに死んでしまうのではないか。食生活にでも気を付ける必要があるのかも知れない。その食事をカーラに作ってもらえるのなら、きっと毎食野菜スープ一皿でも耐えられる気がする。

 幸せな未来、幸せな今後だけを思い描いて、アドレイは大きく息を吐いた。肩を上下させて何度も。指はもう震えていない。脚の感覚も戻っている。今アドレイの中には希望と決意がある。手の平を握りしめ、体を起こして前を向く。

 何としても、遊覧船に乗る。やれる筈だ。

 何しろもう時間がない。船内スタッフだけでアドレイの荷物を穏便に運び込むには、明らかに時間が足りない。これは食材なのだ。すぐに調理場に持っていけとごねれば、スタッフにアドレイを説得する時間はない。

 前の業者男が荷物を運び終えて荷台を動かした。アドレイの番だ。重い荷台を引いてアドレイは搬入口のスタッフへ近付く。

「許可証を」

 本来の持ち主から拝借した活動許可証を見せて、アドレイは後ろの荷台へ半身で視線を送る。

「これ、高級食材なんだ。すぐに調理場へ持っていってくれ。ちゃんと冷気保存はしてるけど、この暑さだろ」

「分かったから」

 スタッフが煩そうに言葉を遮る。

「時間がないんだろう?俺も運ぶのを手伝うよ」

「いや、それは規則で……」

「さっきの彼だってそうしてたじゃないか」

「よう。俺の事か」

 後ろからの声にアドレイはぎょっと振り返る。つい今自分の荷物を運び終えた業者男が、何故か戻ってきていた。

「あと十五分しかないぜ。俺も手伝ってやるよ」

「えっ?」

 頭の中が一瞬真っ白になる。言葉の意味は理解出来ているが、このチンピラ男が何故そんな事を言い出すのかが分からなかった。

「だから、手伝ってやるって言ってんだよ」

 男が少し苛立ちを込めてアドレイの荷物を持ち上げた。

「え?いや、でも俺の仕事だし……」

 勝手に荷物を運び始められてしどろもどろのアドレイに、男は少しバツが悪そうに顔を顰めた後で、にやりと笑って見せた。

「先を譲られてお前が間に合わなかったらよ、後味悪いだろ」

「いやっそんな事……」

 戸惑うアドレイを無視して、業者男は大きな木箱を二箱重ねて肩に担ぐとさっさと船内に歩き出した。

「冷てえな、冷蔵ものか。おら保管場所どこだよ」

 船内スタッフももう諦めて、保冷庫の場所を口頭で説明し出した。

 全くの想定外だ。アドレイには、この見るからに協調性に欠ける運送業者が、自分の為に無償で力を貸す可能性などちらとも考えていなかった。

 しかもその理由が、自分が順番待ちの列を譲ったからだとは。アドレイとしても先を譲ったのだから感謝位はされてもいいと思ってはいたが、その行為自体は完全に自分の目的の為であり、他人の為という発想がそもそもなかった。

 しかも出航まではあと十五分程あるという。荷台に残っている荷物は、あの男が手伝えば普通に間に合ってしまうような量だ。

 なんとかしなければ。

 冷気の漏れる木箱を自分は一箱だけ体の前で持ちながら、アドレイはタラップを踏み進む。高級肉の詰まった木箱はそれなりに重いが、間違っても足元がふらついたり歩みが遅れるような重量ではない。

 なんで上手くいかないんだよ……

 打開策を必死で考えながら心中で毒づく。ヒラリーと言いこの男と言い、何故嬉しくないお節介を焼こうとするのだろう。貴方は価値観がずれている、と言われた事をアドレイは思い出し、胸に鈍痛が走った。

 前を進むスタッフの案内で、保冷庫と思わしき部屋に到着する。搬入口からそれ程距離がない。

「ここに入れてもらえば後はこちらで持っていきます」

「いや、これクイン地方産の牛肉だよ。すぐに調理室に持って行ってくれないと品質がさ」

「ここに短時間置いておいても、問題はないでしょう……?」

「や、高級だからさ、出来るだけすぐにさ」

 他に言い訳が思いつかず、理由にならない理由を繰り返すアドレイに、スタッフが不審げに眉を寄せる。

「おい、ここまでで良いだろうが。味が少し落ちたってそりゃこいつらの責任だろ。積み込めなかったらお前の責任になんぜ。いいじゃねえか、残りを運ぼうや」

 業者男がアドレイの主張を遮って来た道を戻り始めて、スタッフもそれに習うものだから、アドレイもついていくしかなくなる。

 とてもまずい。視線を方々へ巡らせながら、しかしアドレイの思考は纏まらない。あと二往復もすれば積み込みは終わってしまう。強引にでも時間を稼がなければ。

 搬入口へ戻り、全員でタラップを渡って荷台へ戻る。橋は人が二人優に歩ける程の幅があり、両端に腰下までの柵がついている。かなり強引だが、もう他に考え付かない。やるしかない。

 先程と同じように業者男が肩に二箱、アドレイと船内スタッフが体の前で一箱ずつ持って緩い傾斜のタラップを上る。二人の後ろについて、アドレイは脇を見やって覚悟を決める。

「う、うわぁ~!」

 渾身の棒演技と共に、アドレイは足元をよろよろとふら付かせながら上半身を揺らし、前を歩く船内スタッフを木箱で柵の方へと押し込んだ。

「うわっちょっと、何を……」

「うわああああ~」

 自身も木箱を抱えながら、後ろからどんどんと柵際へ押されてスタッフがバランスを崩して慌てる。だがアドレイは手を緩めない、覚悟を決めてスタッフの上半身を柵の向こうへと押しやる。

「足が縺れて……やばいっ」

「そんな感じじゃないですよ!」

「倒れるっ……!」

「いやあんた押しっ……」

 最後の一押しでスタッフの上半身が完全に柵の外へはみ出す。いける、と確信しアドレイはついでに手に持つ木箱を海へ押し出した。

「ちょっ――」

 スタッフが完全に体を柵の外へと投げ出され、帽子が宙を舞う。

 ごめん、とアドレイは声に出さずに謝罪した。海までの落下距離はせいぜい5,6メートルといった所だ。木箱があるとはいえ、落ちた衝撃で死ぬことはない筈。

 だがその時、またも予想外の事が起きた。

「おい馬鹿、何してんだ!」

 急に脇からぬっと出てきた日焼け気味の太い腕が、海へ落ちようとするスタッフに伸びていく。担いでいた木箱を素早く降ろし、歯を剥き出してアドレイとスタッフの間に割り込んでくる業者男が視界の端に見えた。

 海へ投げ出されようとしている木箱を、投げ出そうとしているアドレイごと力づくでタラップの中央へ突き戻して、男は更にスタッフの腰を掴んで引き戻そうとするが、既に海側へ乗り出しているスタッフの持つ木箱の重みのせいで、柵を支点に体がバネの如く曲がっていく。

「踏ん張れ!」

 男がスタッフに怒鳴りつける。

 アドレイはすぐさま立ち上がって駆け寄り、もう一度自分の木箱で、落下に耐える二人の男を押した。

「おまっ!」

 驚愕に目を見開いて業者男が首だけで振り返る。だがもう手遅れだ。二人は既に重心を柵の向こうへ押しやられ、どうやっても海へ落ちるしかない。

 アドレイはもう一度心の中で謝罪する。仕方ないんだ、と。

 だが業者男は落ち行く体を最後の抵抗とばかりに捩ってスタッフの腕から木箱をもぎ取り、アドレイに向けてスイングするように押し付けた。

 その瞬間アドレイは、陳腐な謝罪が吹き飛んで、自身の内側をこのチンピラ男に対する尊敬の念が駆け巡るのを感じた。

 この木箱は彼の荷物ではなく、その行く末に彼は何一つ責任を負う必要がない。だというのに、この男は自分が海に落下するという場面で、最後の力を荷物の為に使ったのだ。それだけ動く力があれば、体を捻って自分だけでもタラップを掴む事は出来たかも知れないのに、彼はその素振りすら見せずに木箱の落下阻止を優先した。

 彼の事を落伍者寸前のチンピラと心中で嘲っていた自分を、アドレイは恥じた。彼は立派な配達人、正にプロだった。他業者の荷物であっても守ろうとするその気概は、普段の彼の仕事に対する姿勢の現れであり、職種は全く違えど、その意識の高さには敬服せざるを得ない。

 一瞬のやり取りの中で、感じられる事、出来る事は多くない。振り寄越された木箱が、アドレイの両手で持つ木箱の上に勢いをつけたまま重ねられる。

 彼は配達のプロだった。そしてアドレイはそうではなかった。

 アドレイは重みに耐えられず、木箱を押し返して自分の持つそれと一緒に海へ落とした。

 業者男は目を点にして、そのまま落ちていった。

 眼下で大きな水飛沫が連続して上がり、波がその回数分音を立てた。

 アドレイは船内で別作業をしているスタッフ達に大声で呼び掛けた。

「人が落ちた!誰か、助けてくれ!」

「ふざけんな!お前が落としたんだろうが!」

 と、下の方から怒号が聞こえる。アドレイはそちらを見ないようにして、船内へと乗り込んでいった。

「誰か!早く!荷物も落ちてしまった!クイン地方産の高級牛肉なんだ!」

「このっボケ!戻ってこいやこら!」

 アドレイの背中に男の怒号が追い縋る。申し訳ない気持ちで胸の内は一杯だ。

「おい!……おい?お前、大丈夫か?」

 男の声が不意に、焦りを帯びたものになった。

 船内からスタッフがロープのついた浮き輪やら救命具を持って搬入口の方へ走ってくる。

「おい!?くそ、頭にぶつかったのか、血が凄えぞ、誰か!」

 その言葉の意味をアドレイは深く考えないようにした。船内のスタッフ達は作業を中断して全員で落ちた者達の救助に当たっている。チャンスは今しかなかった。

 通用口と思わしき通路へ入り込み、拾っておいたスタッフの帽子を被って早足で進んでいく。帽子以外は遊覧船スタッフの制服とは似ても似つかない格好なので、近くにかけてあった救命具を上から羽織って誤魔化す。どこかでちゃんと着替えなければならない。そして出航までなんとか隠れてやり過ごす必要がある。

 普段自分に自信のないアドレイだが、その点にだけは全く不安がなかった。

 いくつかの通路を曲がり、ロッカールームと思わしき部屋のドアノブを捻った時、出航を意味する低い汽笛の音が聞こえ、足元が一度大きく揺れた。アドレイはほっと息をついて、ドアを開いた。

 中に入って鍵を閉め、ドアに寄り掛かって深呼吸する。

 ある意味でもう逃げ場はなくなった。遊覧船からの脱出方法など見当もつかない。海に落とした二人の内、船内スタッフの方は重症の可能性がある。或いは、死んでいるかも知れない。何の罪もない人間だ。アドレイ達とは関係のない表の世界の人間を巻き込み、傷付けてしまった。そんなつもりはなかったが、結果としてそうなったのなら同じ事だ。仕方がない、では済まないレベルだという事は自覚している。最早言い訳のしようもない。

 完全にどん詰まりだ。

 だが、カーラは間違いなく船内にいる。あれは見間違いでは決してなかった。告白をしなければ。こうなったらもう、絶対に。それだけがアドレイの今の目的であり、希望だった。

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