夕暮れに向かう街 4
レノックス遊技場へと戻る馬車の中で、矢継ぎ早に入る部下達の惨憺たる報告にウォルターは顔を顰める。左右の手に一つずつ持った大粒のエメラルドは瞬き続け、事態が一向に収束する気配無く進行中である事を警備隊長に意識させる。
二つの大型通信石の魔力波が接触し不快な耳鳴りを起こして、堪らず左手の親指を石から離す。
遊技場内で監視していた事案被疑者が殺されたのを皮切りに、参考人の取り逃し、中央区内の通り魔が四件、更にはその追跡劇。どれも頭痛を引き起こすレベルの失態だ。
何よりまず、カジノ内にいた参考人の女を部下達が確保出来なかった事が衝撃だった。報告によれば、玄関を固めた二人が正面から突破されたと言う。その後の逃亡も含めて、周囲にいたカジノ客達や通行人に多数目撃されているだろう。警備隊の威信を揺るがす大失態だ。
娘の治療の為の協力関係者、ジリアンから無能呼ばわりされた事を思い出し、苛立ちに拍車がかかる。部下達への信頼と落胆が胸中で鬩ぎ合っていた。
更には連続通り魔だ。確かにジリアンには区内で事件を起こせと言ったが、殺人を起こせとは言っていない。通りはじわじわと混乱の渦が出来始めており、動揺する観光客や市民への説明、交通整理が必要になっていた。
逃亡者の情報を聞き込める状態ではない。カジノ内の監視映像から被疑者達の面が割れたとして、指名手配の許可が治安管理局から降りるかどうか。
五件目の通り魔殺人の報告が飛び込んできた時、ウォルターはエメラルドを手放して、ルビーを取った。相手側が応答し、周波が繋がり赤光が瞬く。
「やれば出来るじゃないか。だがやりすぎだ」
2メートルも距離がない御者台を気にしながら、ウォルターは殆ど口を動かさず小声で呟いた。
『何の事』
棘のある、短い返事。
「分かっているだろう」
『分かる訳ないでしょう。情報を流すと言われて待っていたのに、何なの』
ウォルターは御者を一瞥する。中央区を走る馬車の車外は祭りの喧騒と不穏などよめきで騒がしく、レーンにはみ出る観光客へ鳴らす御者達の鈴の音がそこら中で鳴り響いていた。ウォルターは声を更に低くして呟く。
「中央区内は連続通り魔で混乱している。警備隊員が対応できなくなるのも時間の問題だ」
『あら、良かったじゃない。都合が良い、でしょう?』
「ふざけるな」
この小声で凄む事にどれ程意味があるのか、ウォルターは訝しむ。そもそもこの女にそんな意味はない。
『何をふざけろって言うの。お仲間の目がない方が動き易いって、そう言ったのは貴方よ。無茶な要求を突き付けて……図らずもそうなったんだから喜ぶべきではないのかしら』
ジリアンの声にはさもどうでも良さげな響きがあり、その奥には苛立ちすら感じられる。カフェでの会話の意趣返しでもしているつもりなのか。
「図らずも、だと」
『貴方まさか』
ウォルターに先んじて、ジリアンが問いかけてくる。
『私がやったと思ってるんじゃないでしょうね。貴方の要求通り、人員を集めて騒動を起こしているんだと。だとしたらとんでもない勘違いよ』
「何?」
『いきなり人員を二十名も増やすなんて、出来る訳がないってさっき言ったわ。ヴェスティアへ同行された者達に呼び掛けてはいるけれど、十人もいないし、貴方達に逮捕させるつもりもない。彼等はそんな事の為にいる訳ではないのよ』
「お前ではないというのか?」
『少しは考えてものを言いなさい』
高性能なルビーの魔力受信が、馬鹿にしたような鼻息を拾う。
『三十分かそこらしか経っていないのよ。何の作戦もなしに私の手駒を通り魔にする訳がないでしょう。大体、ロッディはもう殺されて、鍵は奪われているんでしょう。なら事件を起こす必要はないじゃない』
尤もな指摘にウォルターは返す言葉を失った。正確に言えば、ジリアン達が警備隊より先に鍵を持って逃亡している鼠を捕まえる為、ある程度の攪乱は必要なのだが。しかし重要なのは、彼女が通り魔に関係していないのが本当らしいという事だ。
『それより、鍵を持って逃げている者の情報は』
「まだ馬車の中だ。何か分かったら連絡する」
言ってウォルターは通信を一方的に終えた。外に目をやると、先程と殆ど光景が変わっていない。前方では、何台もの馬車がレーン上で立ち往生しており、レーンを気にせず行動する観光客に鈴を鳴らすばかりで、遅々として進んでいなかった。この先には通り魔事件の発生現場の一つがある。
レノックスまでの距離を考え、歩いた方が速いと判断したウォルターは御者に支払いを済ませ、馬車を降りた。石畳からの熱が肌を舐めるように上がってくる。丸めて片手で持っていた制服に腕を通しながら、ウォルターは現場へ歩き出した。余所見をしていてぶつかりかけた対向からの子供を、手の平でいなし躱す。
並んで歩いていた親が促し、ごめんなさい、と子供が振り向いて謝る。少年の顔には恐怖が浮かんでいた。ウォルターに対してではない。周囲の大人達の困惑が伝播した結果の不安の表情だった。
手を上げて親子に気にしていない事を伝える。
改めて、ウォルターの内部に怒りが沸き上がった。自分の目の前で、子供が街の平穏に疑問を抱いている現状が許せなかった。こんな顔をさせない為の警備隊ではないのか。
志願した理由は、間違いなく正義と呼べるものの為だった。今でも、メリッサの健康の為の取り引きを除けば、職務に忠実でいる。しかし一方で、メリッサの為ならばと、汚職に手を染めている事も事実だった。ジリアンとのこれまでの取り引きも、そして今日行おうとしている事も、市民への裏切りに違いない。
それでも。
初めてこの制服に袖を通した時の高揚感と使命感。あの時確かに存在した誇りが、今の自分にはまだ残っている。
何が何でもメリッサを守ると決めた。アイリーンがごめんなさい、と残して息を引き取った時に感じた絶望。何一つ謝る必要のない彼女が発したあの一言を、娘にこそは口にさせない。その為になら、何をしてでも。それでも、悪を憎む思いが消え失せた訳ではない。
通り魔がジリアンと無関係の事案であるなら、それはメリッサを守る為に必要のない「悪」だ。
溝鼠は、叩き潰す。
何が起こってるんだ、と誰かが大声を上げた。人波の向こう側で尋常ではないざわめきがあり、馬車が悉く停滞しているこの通りには、まだ事情を呑み込めていない者も大勢いる。
「通してくれ」
進路上の人々に低く声をかけながらウォルターは、白壁と石畳の通りを進んでいく。脇の売店の幾人かは、ウォルターの顔を見て慌てて何かを屋台の下に隠したり、目を合わせないように俯いたりしている。
警備隊だ、と誰かが叫んだ。通りに漂っていた不気味な緊張が、僅かに弛緩したのをウォルターは感じる。都合の良い時にだけ頼る……その小さくない憤りを、市民を守るという圧倒的な使命感で洗い流す。
ウォルターはエメラルドの一つに親指をつけ、市内に配置した人員からの報告を聞く。
連続して発生した殺人には僅かな時間差があり、目撃者の証言から分かるのは、通り魔の犯人は同一人物である事、時間差を追うに、市内から南東方面へと移動している事。また、被害者は全員ヴェスティア市民ではなく、武器を所持していた事。被害者達が同じ通信石を持っていた事。それらの情報から、被害者は偶然選ばれたのではなく、犯行は何等かの抗争の結果である可能性が極めて高い事。つまり、ほぼ間違いなく通り魔ではない。
報告を聞きながらウォルターは、闇取引との関連性を感じていた。
ジリアンの手によるものでなくとも、その可能性は十分ある。そして、そうであれば市民が犠牲になる確率は低い。溝鼠達が共食いをする分ならそれ程問題はない。
が、それでも市民の安全が担保されているとは限らないし、治安の乱れを見過ごす事は出来ない。ならば、これ以上の殺傷事件を未然に防ぐ為、そして慰霊祭の安全を確保する為に、警備隊員を中央区の各所に配置するのは当然の対処だ。被疑者を捜索する人数を減らすのは、仕方のない判断だ。
そして、被疑者の捜索より治安の回復を優先する事で、結果的にジリアンが先に鍵を捕まえやすくなる。
「市内配置の者達は中央区の警備を優先しろ。被疑者の捜索はカジノにいた組でやる」
静かな声に怒気を含んだウォルターの指示に、反論する者はいなかった。
通り魔事案の発生現場に近付くにつれ、通りの喧騒が大きくなっていく。多少強引に歩を進めるウォルターの体は何度も通行人とぶつかり、その度に迷惑そうな顔を一瞬向けられるが、文句を言われることはなかった。
現場に着くと、行き交う人々の整理をしていた警備隊員がウォルターに気付き、瞬間戸惑いを見せた後、帽子に手をかけて会釈をした。頷きながら、ウォルターは帽子を持ってカジノを出なかった事を今更ながらに後悔した。ハンカチで額を拭うと、汗が大量に染み込んだ。
現場は裏通りへの脇道のすぐ傍で、白い石畳に乾いた赤色がべったりとぶち撒けられていた。その血液の所有者は、脇道の陰に緑の保存用シートで包まれて寝かされている。
「腹を刺されて倒れていました。肝臓辺りを破かれたんだと思います」
現場を検証していた隊員の一人がウォルターに近付いてきて説明する。この場の班長だ。彼等は何一つ失態を犯していない、とウォルターは感情を抑制する。現場は早急に保存され、検証されていた。
「止血が早ければ……いや、あの色では難しかったでしょうね」
班長は石畳の血液へ目を移しながら少し肩を竦めた。完走し固まったその色は黒に近い。
「所持品は?」
「財布に大型通信石、煙草という所です。通信石はもう周波が切られています。当然ですが」
「血液はもう採ったな」
「はい。指紋も、写真も撮りました。ですが、データベースには引っかからないでしょう」
小さく顎を引いて同意し、ウォルターは保存シートに包まれた遺体を見やった。
「顔写真はすぐカジノの方へ回してくれ。万が一、こいつが逃げた被疑者という事も有り得る」
「分かりました。先程の通信の指示では、通りの警備に人数を割けという事でしたが……」
「お前達はここでの検証が終わり次第、遺体を詰め所まで運んでくれ。ここには一人残せ」
「了解」
「俺は一旦カジノへ戻り、向こうの情報も併せてまた指示を出す。それまでは観光客達の安全確保を優先だ」
了解、という返事を聞きながらウォルターは通りへと歩き出し、班長が、野次馬を抑えつつ交通整理を行う他の隊員へ声を張った。
「馬車を通す為にレーンの整理をしろ」
ウォルターは班長に振り返らず
「いや、いい。仕事を続けろ」
班長が声を詰まらせ
「ですが、隊長はカジノに……」
「この状態なら、自分で走った方がまだましだろう」
「マジですか」
ウォルターは振り返った。
はっと目を見開いて動揺し、班長は口に手を当てた。しまった、と顔に書いてある。
「すみません」
険しくなった視線を剥がし、ウォルターは止めていた足を再び動かし始めた。
へらへらと笑う新米隊員の顔が脳裏に浮かび、ウォルターの血流を加速させる。間違いなくラットの影響だ。あの若造の異常なコミュニケーション能力ときたら、まるで病原菌のように意識を蝕む。
今日のカジノ組の失敗も、それが原因ではないのか。気の緩みが。
強く目を閉じてウォルターは自身を戒める。それは責任転嫁だ。ラットの言葉遣いと、他の隊員の行動を結び付けようとするのは、そう考えた方が気が楽だからに過ぎない。それに、ラットはあれで、他の隊員達にはない才覚を見せている。
目を開けてウォルターは更に足を加速させ、人混みの中を走り始めた。事件現場へ向かっていたのだろう、記者の数名がウォルターに気付いて駆け寄ろうとしている。呼び声を無視してウォルターは走った。報道陣への対応などやっている暇はない。
日々の警邏で慣れ親しんだ中央区を、ウォルターは走り続けた。
そういえば、と思い出す。こうやって通りを走るのは、もう何時振りだろうかと。隊長職に就いたのはもう七年も前の話で、それからは部下へ指示を出すのが主な仕事となり、捕り物に自身の足で直接参加する機会はめっきりと減った。
魔学が急速に発展し、その技術進歩が治安維持に大きく貢献した事も関係している。
人気の少ない脇道へ入り、カジノまでの最短経路を駆け抜けながら、ウォルターは等間隔で道端に設置されている街灯を見る。中央区の街灯は去年、全てクリスタル製になった。区内の建物も、今や八割以上の照明がクリスタル製だ。暗い夜道はヴェスティアから消えた。犯罪者達にとって、夜闇が街の隅に追いやられた事は歓迎出来なかっただろう。区内を走る機会が減るのも当然だ。
昔よりも早く息が上がるのは、年のせいだけではない。ウォルターは自らを奮い立たせて、地面を強く蹴った。
レノックス遊技場の前へ辿り着いた時、制服下のシャツはぐっしょりと汗に濡れ、顎からは雫が滴っていた。一時、余分な事を考えずに体を動かした事で、感情は幾分かリセットされていた。
大理石のなだらかな大階段を上って玄関ホールへ入ると、日射に曝され自らもまた熱を放つ体が空調の冷風で冷やされ、寒気が走った。
そのままエントランスを抜け、赤い絨毯を踏みしめて中央ホールへ入る。
カジノ内は外の騒ぎなどまるで無頓着に、客達が歓声を上げていた。中央で行われている特大のルーレットは、まだベット時間になっていないようで、弛緩した空気が人々の合間に流れている。グラスを片手に雑談に興じる者。テーブルに座り込んで戦果を見せ合う者。スカートの裾を踏まれて顔を顰める女性客。玄関ホールでの、客と警備隊員の一悶着は少なくない人数に目撃された筈だが、それは彼等カジノ客にとっては、賭博の合間に交わす話題の一つとして消化されたようだった。
二階で男が一人殺された事は、カジノ組の隊員達が上手く処理したようで、殺人による不安はホールに感じられなかった。
ウォルターは受付口を通す事なくホール奥のスタッフ専用通路へ足を向け、扉前に立つ従業員を無視して中へ入った。ウォルターが意識して作った、有無を言わせぬ雰囲気を察したのか、従業員は声をかけてこなかった。
絨毯の色が赤から青に変わった通路奥の階段を上り、朝から籠っていた従業員用休憩室へと戻る。扉を開けた瞬間、中にいたラットが声を上げた。
「遅いっすよ~!」
ウォルターは無言でラットの脳天に拳を見舞った。決して広くない室内に、ラットの大袈裟な呻き声が響いた。
ウォルターは構わず部屋の真ん中に置かれたテーブルへ向かう。ガラス製のテーブルを囲むソファには二名の隊員が座っていて、テーブル上の資料から顔を上げウォルターを見ると、立ち上がった。
「分かった事は」
隊員の一人、ミゲルが緊張しつつ口を開いた。
「いくつか。分からない事も含めて報告を」
頷いてウォルターはソファに座った。自分でも意外な程、脚に開放感を覚えた。
ミゲルは立ったまま、テーブル上の資料を纏めて端にやりつつ、内一枚を滑らせて中央に戻した。
「カジノの監視装置に映っていたものです」
手振りで座るように指示しながら、ウォルターはB5サイズのそれを見る。引き延ばされた目の粗い映像が印刷されている。カジノ二階の階段傍を、ホール中央の欄干側から撮影したもののようだ。位置的に、この映像は吹き抜けのホール最上階から下がる、クリスタル製のシャンデリア内部に仕込まれた監視装置からの撮影のようだ。
写真にはテーブル席と、その背後の通路と階段に多くのカジノ客が写されており、その内の一人に赤丸でチェックが入っている。身長は高くもなく低くもなく、服装はどこにでもあるような薄茶色の夏物の上着とシャツにジーンズ。一見何の変哲もない、特徴らしきものが見当たらない男だった。
「デイジーが一瞬気になった男というのはこいつです。ロッディの後ろで立ち止まったように見えたっていう」
脇からテーブルの端に、アイスコーヒーの入った紙コップが置かれた。紙コップに自然に手を伸ばし口をつけようとして、ウォルターは顔を顰める。これがラットの毒だ。思いながらも、喉の渇きに従ってそれを飲み、また顔を顰めた。甘い。
「こいつの顔が分かるような角度のものは……ないんだな」
ミゲルが頷く。
「調べようにも、背格好は在り来たり過ぎますし、服にも特徴はなし。こいつの入港記録を調べるのはかなり難しいです。少なくとも聞き込みを重ねてもう少し、例えば顔の特徴などを掴まないと、指名手配にもしようがない。その位どこにでもいそうな奴です」
「計算してやってるんだろうが見事だな。だがこいつがロッディ殺しと決まった訳じゃないんだろう。もう一人は」
ミゲルがもう一枚写真を滑らせて寄越した。同じような構図の中で、やはり赤丸で囲まれている者が一人。黒いパーティドレスに身を包んだ金髪の女がチェックされていた。
「こいつが、ロッディの席に座った女です。座ったのは精々二十秒程度。ただこいつは、席を離れる際に一瞬ロッディに触れています」
「見たのか」
「デイジーが、確かにと」
「デイジーは?」
ウォルターが写真から顔を上げた。ミゲルはきまり悪そうにウォルターから目を逸らした。
「隣の部屋で寝ています」
ウォルターは再び写真に目を落とした。男の写真と違い、横顔が見えている。粗い写真の為印象でしか判断できないが、見るからに年若く、警戒に乏しい表情だ。ドレスも、比較的シンプルなタイプとはいえ、動き易いようには見えない。
「こいつを逃したのか」
声に押し殺した怒りが混ざるのは止められなかった。ミゲルが表情を強張らせた。
「本人達には言わないでやって下さいよ。クーさんはもう起きてますけど、病気なんじゃないかって位落ち込んでますから」
横からラットが口を挟んでくる。そちらを一瞥し、ウォルターは深呼吸のつもりで大きく溜息をついた。
「……他にはロッディに接触した者はいないんだな?」
ミゲルが硬い表情のまま頷いた。
「バーの店員やウェイトレス、ルーレットのバニーガールの接触はありましたが、そっちは全員任意で取り調べ済みです」
もしカジノ関係者の中に殺害犯もしくはその仲間がいた場合、事態は更に複雑になる。警備隊にとって重要なのはロッディ殺しの犯人の確保と、そしてロッディが関与している今夜の取り引きの発見と阻止、そしてその証拠品の確保だ。そしてウォルターにとっては、その証拠品……鍵を、ジリアンに確保させる事が。
カジノ関係者にロッディ殺しの仲間がいて、鍵が持ち去られていたなら、彼等が更に別の人員に鍵を渡すのは非常に容易で、しかも対象者が多すぎる。そうなった場合、鍵の確保は絶望的だ。
「カジノ関係者が関与している線は一旦保留だな。そっちが正解なら今夜の確保は無理だろう」
「ロッディの飲食物から毒物は検出されていません。死因は見た目通り首外しでしょう。その点からも、カジノ関係者の関与は低いです」
ウォルターは頷き
「今はこの写真の二人の確保を急げ。もう既に、こいつらの手にもないかも知れん。早急に捕まえて、吐かせるんだ」
「人数的に、可能とは……」
ミゲルの反論を手を上げて制す。
「緊急指名手配を出す。管理局と連携して情報を集めろ。市内の監視装置も調べるよう要請しろ」
「了解っす」
テーブル脇で話を聞いていたラットが、少し離れた小卓に纏めて置いてある通信石に目をやり、そちらに向かった。ラットが治安管理局の通信本部へ連絡を入れ始めるのを聞きながら、ウォルターは資料に目を通していった。
「分かった事は他には?」
「市内配備組の連絡を纏めると、通り魔の方の容姿がこの男に似ているかも知れない、という事です。ただ、目撃者もはっきりと印象には残っていないようで」
ウォルターは一枚目の写真をもう一度見た。
「特徴のない奴だからな。何とも言えんだろう……」
「それと、女の方は馬車に乗って西港区の方面へ向かったと。協会に情報開示を要請した所、恋人との待ち合わせ場所、という目的でサンルダン広場に向かっていたそうです。ただ、着いた時にはもう車内にはいなかったと」
「なら陽動だな」
「おそらくは。分からない事はそれ以外の全部ですが、気になる点としては、まずこの二人の関連性です。仲間なのか、そうでないのか」
それはウォルターも気になっていた。この男女はジリアンとも関係がない。どちらかが警備隊への陽動、という協力関係かも知れない。だとすればそれは女の方の役割の筈だ。
だが一方で、通り魔の目撃証言では、男の方に似ているらしい。
「それからこいつらの目的です。どっちがやったにせよ運び屋のロッディを殺して、持っていたであろう今夜の取り引きの証拠品を持ち去って、何がしたいのか。取り引き品を掠め取ろうという魂胆なら、ロッディを今やるより、泳がせて取り引きの寸前でやった方がいい。現に我々は今、取り引きの場所も分かっていません。ロッディの所持品にそれが分かる物があったのかも知れませんが、なかったなら困ったことになる筈です」
「取り引きを失敗させる事自体が目的、なら分かるな」
ウォルターの意識には、差出人不明の告発状があった。
「そうかも知れません。もしそうなら、我々としては幾分か気も楽になりますが」
警備隊の職務は犯罪行為の取り締まりだ。犯罪者達で潰し合いをしているのなら、一般人に被害が及ばないのであればむしろ都合の良い事態ではある。だが、取り引きが失敗しては困るウォルターとしては、やはり大問題だ。
「勿論、捕まえなければいけません」
目元が険しくなったウォルターを見て、ミゲルは慌てて付け足した。
「女の方は、陽動以外には考えられません……言い換えれば、それ以外の意味があった場合には裏をかかれる可能性が高いという事です」
共犯と考えるのが妥当だった。男の方が殺し、女が追跡の目を引く。警備隊はその方向で動かなければならない。つまり、証拠品は男が持っているという方向で。
ウォルターも、鍵は男の方が持っている、と考えている。だからこそ警備隊には女を主に追わせ、ジリアンに男の方を捕まえて欲しかったのだが、この状況では同時に追っても男を捕まえられるか分からない。
「男の方を更に調べろ。入港記録が分かれば一番いいが……」
「隊長!」
ラットが通信石を手に、テーブルへ振り返った。
「何だ」
「港区の隊長達から中央区の捜査協力の申し出っす」
室内の空気が張り詰めた。今回のような事案はヴェスティア全域の警備隊で捜査するが、基本として、各区がそれぞれの管轄区域内を操作し、他の区域へ人員は送らないし、他からも送らせない。それは明確に、隊員達の沽券に関わるからだ。担当区域を自分達で管理出来なかった、と。
「断れ」
ウォルターは即答する。ウォルター自身の事情としても、他の区の人員が中央区に入ってくるのはまずい。今夜の裏取り引きは、最終的には成功しなくてはならないのだ。
「でも、隊長。人手が足りないのは確かっすよ」
ラットの指摘に、ミゲルも複雑な顔を見せている。入って一年目の新人には、面子や意地といった概念は薄いのだろう。
「中央はうちだけでやる。そっちはそっちを固めるように言え。溝鼠が逃げるとしたら、それは間違いなく何処かの港区からなんだからな」
怒気を強めたウォルターを見て、ラットは少し考えるように口を窄めて、了解、と返事をした。新人が断りの返事を入れるその手元の小卓には、いくつもの通信石に紛れてアメジストがある。
アメジスト、つまり映像記録石だ。
「それは」
指で示すと、ミゲルが気付いて「ああ」と声を出した。
「カジノの監視映像記録です。玄関ホールでの……ドレスの女のやつです、見ますか?」
つまり、信頼していた部下の失態の瞬間だ。
言い辛そうに尋ねるミゲルへ頷く。ラットが普段通りの馴れ馴れしい口調で港区の隊長達へ返答しつつも、アメジストを指で弾いてミゲルへ飛ばす。ソファに着いていたもう一人の隊員グラッグが、部屋奥の衝立の向きをウォルターの正面に調節し、ミゲルがそちらに向けて映写を起動して石をテーブルに置く。
アメジストからの七色の輝きが衝立の表面に展開され、一時間前のカジノ玄関ホールが映し出された。真っ赤な絨毯が画面下の方で途切れ、大理石の床が白く反射している。八面ある開け放たれたガラス扉と、その前に陣取って構える男女の警備隊員はやや小さめに映っており、映像はかなり遠目に見える。
映像は写真と同じくかなり粗く、時々ノイズも入っている。テーブル上のアメジストの性能自体は良さそうだが、恐らくは監視装置の方の問題だ。まだまだ発展途上の分野であり、録画技術が石本来の性能に追いついていないのだろう。
唐突に、赤い絨毯の側から黒と金の色が画面の上へと流れてきた。金髪のツインテールにブラックドレス。ドレスは録画映像の表現可能色の限界で、墨を塗ったように真黒く平面的に見える。
例の女だ。女は足早に玄関を塞ぐ隊員達に近付き、いとも容易く二人を気絶させ、確認する素振りもなく玄関を出ていく。
映像の問題部分は、女が歩いてくる時間を含めても十秒に満たない。女はまるでこれが最短とでも言うかのように、正面から隊員に歩み寄り、男女共に一撃ずつで気絶させていた。
怒りよりもまず先に、単純な疑問が湧いた。警備隊は決してお飾りの役立たずの集まりではない。「お役所仕事」と市民に諦められる、市民、入港、税務管理局と違い、即効対処を信条とする警備隊は、ヴェスティアの治安を揺るがす脅威に十全に立ち向かえるよう、生え抜きを揃えているのだ。だというのに、映像を見る限りこの二人の隊員は無防備に女の接近を許し、見事に敗北している。
そう、あまりに無防備だ。不自然な程に。
自動で冒頭から繰り返し流される映像を前に、不可解な疑問が膨らんでいく。まるで簡単な算数を前にして、どうしても書かれている文字が頭に入ってこずに解けないような。
何故二人は、自分達の持つ警棒のレンジで行動に出なかったのか。
何度も同じタイミングで大理石の床が光を反射する。ミゲルが声をかけようか迷っている雰囲気を感じる。この映像を見続ける事に、この違和感に答えを出す事にどれ程の意味があるのかをウォルターは頭の隅で考える。さっさと休憩室の三人の隊員を市内に開放し、女を追わせた方がいいとは、分かっている。
「拡大出来るか」
映像に目をやりながら聞くと、はい、という返事と共にホールの床がズームになる。画面下に見えていた赤い絨毯は完全に見切れ、所々に置かれていた葉の長い観葉植物もフレームアウトする。
女が画面下から真っ直ぐに、画面上へと歩いていく。澱みなく、真っ直ぐに……いや、澱みは、ある。思わず上体を前に乗り出して画面を見詰めた。早足に真っ直ぐ、と思っていたドレスの女は、極僅かに足を縺れさせて速度を落としたり、戻したりしていた。いや、縺れさせているようなつんのめる動きでもない。足元はドレスのスカートで隠れていて見えないが、少なくともスカート自体は滑らかに動いている。
何度も映像を見る。
「俺達にも訳が分かりません。もしかしたらこの女は何か未知の魔術具を持っていたのかも知れません」
黙り込むウォルターの醸し出す気配に耐えられなくなったのか、ミゲルが声をかけてくる。だが今ウォルターの頭の中を駆け巡るのは、過去の記憶だった。
かつての祖国サウインの国境線防衛部隊に配属されていた時の記憶。もう二十年近く前に教わり、体験した記憶。南部国境線から不法侵入を試みたならず者達との交戦。あの時代には映像記録装置などは、今より遥かに稚拙なものしかなかった。だからそれは記録はされていない。
あるのは人々の記憶のみだ。不確かな記憶のみ。だがウォルターは覚えている。
「……ラグステップだ」
「ただ、クォールが言うには……えっ?」
画面を睨み付けたまま、ウォルターはもう一度それを口にした。
「これはラグステップだ」
ソファの後ろの小卓で他区の隊長とやり取りをしていたラットが、一瞬言葉を止めてこちらを振り向いた気配があった。
「ラグステップ、とは……」
向かいのソファでは、ミゲルとグラッグが困惑顔でウォルターを窺っている。この二人は新米ではないが、あの記憶の頃にはまだ子供だった筈だ。知らないのも無理はない。
「古い時代の技術だ。戦闘法と呼べるものなのかは分からんが、一昔以上前の名のある暗殺者には、これを使う奴が少なからずいた」
ウォルターはテーブルの上のアメジストに指を乗せて映像を操作し、ドレスの女が歩いてきたシーンで止めた。
「ここからよく見ていろ」
それから、映像をスローで流す。ゆっくりと、水中を進むかのように女の金髪とスカートが上下に揺れ、肘が交互に後ろに引かれる。ラットが通信を終えたのか、ウォルターのソファの後ろにやってきて、映像を覗き込むように首を前に突き出した。
「何すか。よく分かんないんですけど」
それは目の前の二人の隊員の心情を代弁したかのようだった。巻き戻して、ウォルターは画面を指差して説明する。
「ここを見ろ。ここから一歩の距離を」
スロー再生。ゆっくりと女が動き、前に進む為に腕を振った際、剥き出しの肩甲骨が動く。黒いスカートが荒い映像の中で少しだけ上下に動き、足が前に出されている事を伝えてくる。ウォルターは女が一歩動いた所で映像を止めて、もう一度言う。
「ここからの距離を」
そしてまた一歩分をスロー再生して止めた。
「どうだ」
ソファの二人は画面を食い入るように見詰めるが、返事は来ない。あっと声を出したのは、後ろにいたラットだった。
「長いですよ。後の一歩の方が少し長くなってます」
ミゲル達が、それがどうした、とばかりに、怪訝な顔でラットに視線を移した。そんな事は分かっているとばかりに。だがウォルターはそんなラットの言葉に頷いた。
「そうだ、距離が少し伸びている。だが次の一歩は」
停止が解かれ画面の女がまた一歩進む。
「短くなってる……や、元に戻ってますよ。最初の一歩の距離に」
ラットの興奮した様子と、映像を見ながら頷くウォルターを見て、他の二人もその意味するところを真剣に再検討する為、画面へ目を戻した。
「これが……戦闘法、ですか?」
「この女はこの歩き方を少しずつ、ずっと繰り返している」
言って、ウォルターは拡大していた映像を元のサイズに戻し、再び最初から再生する。映像の中で下から上へ歩いていく女を、室内の全員が無言で見守った。
「分かりません……いや、歩く幅にズレがあるのは分かりますが……」
「こいつはこれを意図的に行っている。歩幅は変わっているが体全体の動きは全くと言っていい程変わっていない。ここを見ろ。歩く仕草もドレスの舞い上がり方も変わらず一定なのに、一歩の距離だけが違う」
隊員達は説明を聞きながら画面を凝視するも、やはりその表情には釈然としない内心が滲み出ている。そんな事をした所で、その動きは今、全員の目に明らかで、何の効果もあるようには見えない。
しかし、それはウォルターも予想済みだった。この技術は遠目に見る分には脅威が伝わらない。
「距離や位置を錯覚させるんだ。クォール達は何もせずに突っ立ってやられたんじゃない、警棒を振ろうとした時にはもう懐に入られていたんだ。これは同じ状況にならないと分からないだろうな……こうやって見ている俺達には、この女が歩幅を変えている事がすぐに分かったが、仕掛けられている者にはまるで同じ歩幅で近付いてきたように見える」
「隊長はその、ラグステップ……てのを使う奴とやり合った事があるんすか?」
「何度かな。俺はかつてサウインの防衛部隊にいたが、地方で強盗を繰り返す山賊共を討伐した時に、奴等の雇った刺客が使ってきた。ほんの一歩程度の誤認識だが、近接戦闘でそのズレは致命的だ。仲間がすぐに駆け付けてくれなければ殺されていただろう」
「隊長がっすか」
ラットが大袈裟に驚いて見せるが、黙り込む他の二人はより動揺しているように見えた。ヴェスティア警備隊中央区隊長の実力を知っている彼等だからこそ、その言葉は重く響く。年齢による体力の衰えは徐々に出だしたものの、ウォルター相手の組手で勝ち越せる隊員はまだいない。
「クォール達も知らなかっただろうな。知っていても慣れていなければ対処は難しい。特に初撃は、自分の目の情報が騙されている事を知るチャンスが殆どない。逃がすのも無理はないな」
「そんなにですか」
深刻に映像を睨みつけるウォルターを見て、流石にミゲルも顔色が悪くなってくる。
「今でこそ骨董品のような扱いだが、以前は戦場ですら使っている奴がいた。まだ雷撃銃がなかった頃、剣や槍や斧で敵の鎧を砕いていた時代だ。ラグステップは言ってみればただの体捌きだが、遠距離戦が主流になるまでは猛威を振るった。特に強力な使い手の中には、いくつもの戦場を渡り歩き、死神と呼ばれる程敵を殺した者もいたらしい。聞いた話では、十年前のガドミオ戦役でドットガルが勝てたのはそいつのおかげだとか」
ガドミオ戦役と言えば、今でも多くの軍事研究家が度々物議を醸す、大逆転劇で有名だ。地理的不利から圧倒的劣勢だったドットガル侵攻軍が、敵軍本陣夜襲を成功させた事が決定的な勝因だ、と主張する声が多いが、その奇襲部隊に死神がいた、という話は当時の軍部でよく噂されていた。
「なんか話を聞いてると、この女を捕まえられる気がしなくなってくるんすけど」
弱気になるラットへ、ウォルターはいや、と首を振る。
「確かに厄介だが、対処法はいくらもある。ラグステップは近接戦で絶大な効果がある反面、この映像のように離れた場所から周囲を広く見れる状態では効果がない。俯瞰視点には特に弱い。雷撃銃の撃ち合いが増えた現代戦から姿を消したのがその証拠だ」
「んな事言ったって、街中でぶっ放す訳にもいかない俺等にその対処法は使えないっすよ」
「そうだ。だからこそ、今となってはこの技は街中で活動する極一部のごろつきや暗殺者しか使っていない。だが弱点は他にもある。多方向からの視点にも弱い。この技はある一方向に対しての感覚を惑わせる為に動きを調節しているが、他の方向から見る者には通じない。この女も」
ウォルターは顎で映像を指す。
「正面から見る者達には完全に、ただ真っ直ぐ歩いているように見えている筈だが、こうやって監視映像として遠目の、後ろから見れば歩幅を変えている事はすぐに分かる。この映像が良くないせいでドレスの動きが分かりづらいがな。それでも歩幅の違いは皆すぐに気付いただろう。横からの映像ならもっと露骨に動きが不自然だった筈だ」
「じゃあこいつを捕まえたければ、数人で取り囲めばいいって事ですか?女一人をぐるっと取り囲むのはあんまりカッコいい絵じゃないっすけど」
「捕縛銃で離れた位置から狙えばそれが一番だろうがな。今日の街中でそれは出来んだろう。こいつが人のいない方へ逃げていればいいが……」
「うーん」
呑気な声を出すラットに代わって、ミゲルがウォルターの方へ振り返った。
「しかしそんな技の使い手となると、この女がただの囮というのは怪しくないですか」
「戦闘技術の高い方を囮として、俺達を長く引き付けるのが目的かも知れん。それにラグステップはそこまで難しいものではないと聞く。必要なのは才能よりも時間の方で、強力だが限定的な事、しかも時代遅れな事から使い手の数は減る一方で、だから珍しくはあってもその筋の奴等に重宝されている人材とは限らない」
「でも隊長さっき死神がどうとかって言ってたじゃないっすか」
「あれは特例の話だ、噂レベルだしな……お前、それより港区の連中達との話はどうなった」
「向こうの返事待ちですよ。港区の隊長だって自分らの担当で忙しいでしょうし、管理局の方はお役所仕事。俺みたいなペーペーが急かせないっしょ」
言いつつラットはちらりと小卓に目をやり、おっ、と呟いた。
「来たみたいです」
小卓へ向かう新米を肩越しに一瞥して、ウォルターはミゲル達へ振り返った。
「どちらにせよやる事は変わらんがな。男の方もこの女も捕まえて、全部吐かせる。女の方は接近戦に特に注意する。不意を突かれる事を予め意識しておけば、反応もし易いだろう」
「取り引きは今晩らしいですが、厳戒態勢は……」
「当然捕まえるまで継続だ。或いはブツを押収するまで」
二人の隊員が硬い表情で頷き立ち上がる。
「では俺達も行ってきます」
二人の退出と同時にラットが通信を終えた。
「局の方から、市内の監視装置に張り付いてくれるそうっす。指名手配も許可が出ましたよ。写真を持ってかなきゃですね。それから港区の警備隊も、出口を固める事に集中してくれるそうです」
「よし」
「ただ、明日以降もこの事案が片付かない場合は再度申し入れるとも言ってました。向こうもこっちの言う事聞いて駅や港の見張りだけ続けるのは嫌でしょうからね。今日中にこいつを捕まえなきゃ、明日は向こうの言い分聞かざる負えませんよ」
「……分かっている」
何か、言葉のイントネーションに微かな違和感を覚えたウォルターだったが、指摘はせずに頷いておいた。この新米の言葉遣いは元々大したレベルではないし、口頭で聞く分には彼は何も間違えていなかったし、今はそんな事をいちいち気にしている場合ではないからだ。
「んじゃ、写真をコピーして局に持って行かなきゃですね。あ~、映像記録が通信出来たらな~」
ウォルターのポケットの中で一つ大きな振動が起きた。使用者にしか響かない魔力波の振動、ジリアンからの通信だ。ウォルターは部屋を出ようとするラットに呼び掛けた。
「写真をコピーしたらここに持ってこい」
「へ?そのまま持っていくんじゃダメなんすか」
「俺が持っていく。お前はここに残れ」
「えぇ~!俺お留守番っすか~!?」
「一人はここで連絡員になった方がいいし、カジノの従業員が何か思い出すかも知れんからな。ここの連中はお前の方が扱いに慣れているだろう。いいじゃないか。涼しい部屋で寛げるぞ」
「いやっ、だって俺もやっぱり現場に出たいっていうか」
「さっさと行け」ウォルターはラットの言葉を封じた。「命令だ」
「……あ~い」
「顔のよく写ってる部分を焼いてこいよ」
「あいあい……」
肩を落として出ていくラットを見届けた後、ウォルターはポケットのルビーに親指を付けた。
「なんだ」
『出ないつもりかと思ったわ』
「忙しいんだ、分かるだろう。さっさと要件を言え」
『そっちの進捗を聞こうと思ったのだけど』
情報が入り次第流す、と言っておいたのにこの催促だ。こうやって通信を入れられる度に人目を気にして手を止めなければならず、その分捜査が遅れるという事は考えれば分かりそうなものだが、この女の傲慢さの前にそういった理屈は関係ないらしい。
ウォルターは少しの間黙り込んで情報を整理した。鍵を持っているのはどちらなのか。二人は共犯なのか。警備隊が二人を見失っている以上、鍵は既に他の人手に渡っているかも知れないが、だとしても持っていた方を捕まえて行方を吐かせなければならない。イズオライドの技術省に勤める彼女なら、秘密を聞き出す方法は持っている事だろう。
ならば彼女にはどちらを追わせるべきなのか。
「まだ有力な情報はない。だが鍵を持って逃げたと思われる男女の内、男の方は本当に情報らしいものがない。どちらも間もなく指名手配されるが、捕まえられるとしたら女の方だろう」
『指名手配?警備隊の皆さんと競争をしろという事』
「人が何人も死んでいる上に逃亡しているんだ。しない訳にいかんだろう」
『じゃあ通り魔は鍵を持ち逃げた者の仕業なのね?』
「目撃者の証言から、風貌が男の方に似ているとな。どちらにせよ、つまりそいつが別人だろうと捕まえる必要はある。それが警備隊の仕事だからな」
『待って。警備隊は誰を指名手配するの。男?女?男に似ている通り魔?』
ウォルターは苛立ちのままに声を荒げた。
「全部だ。入港管理局に問い合わせてロッディに関わった男女の情報を調べているし、市内に警備隊を配置して通り魔の再発を抑止しつつ、犯人を追っている。俺達は全部を捕まえなければならん。だからお前はその前に女を捕まえろ。勿論男の方を捕まえられるなら捕まえてもいいが、そっちには似顔絵すらない。女の方は間もなく街中に写真が貼られる」
『それは情報を流すって言うのかしら?街中に写真をばら撒く事を、私への情報提供と言い張るつもり?』
「捜査状況は進展があり次第教えてやる。指名手配で市民の目撃情報が集まるだろう」
『それはまず警備隊に流れる情報でしょう?』
ウォルターは嘲笑に鼻を鳴らした。
「無能な警備隊が相手なら、先んじる事くらい簡単だろう?」
『余裕があるわね。自分の立場を忘れたみたいに』
氷のような声が周波を伝わって耳を打つが、ウォルターの体内では再び怒りの熱が沸き始めていた。
「それ以上は言わん方がいいぞ。俺の娘と、そしてお前の為に」
『どの道、取り引きが失敗すれば後悔するのは貴方よ』
その通りだ。鍵を持っているのが男だろうが女だろうが、既に見知らぬ誰かに渡っていようが、ジリアンに渡せなければメリッサの命は守れない。
「だったら邪魔をするな。情報を流したらすぐに動けるように人員を待機させておけ」
言ってルビーから親指を離す。部屋は空調が効いているが、焦燥で額から汗が滴る。大混乱の市内から誰かが持って逃げている鍵を探し出すなど、考えれば考える程不可能に思えてくる。
一番妥当なのは取り引きの延期だ。だが鍵を運んでいたロッディは殺され、ジリアンは商品を諦めていない。彼女の取引相手が事態をどの程度把握しているのかも分からない。せめて取引場所が分かればと思うが、商品が保管されているのはまず間違いなく港区の倉庫のどこかであり、中央区の隊長であるウォルターには手出しが出来ないし、出来たとしても人を隠せる倉庫群は百近くあるし、万が一手入れで場所を突き止めたとしても、警備隊が商品を押さえてしまえばジリアンの手に渡すのは無理だ。
情報が少なすぎる。
焦るウォルターのポケットの中でまたも赤い振動が起きた。大きく深呼吸して、ウォルターはまた指を付けた。
「なんだ」
『一つお願いがあったの』
さよならを言い忘れた、とばかりの軽い口調。
「なんだ」
ウォルターは扉の方に目を向ける。ラットはまだ戻ってこないだろうが、この会話は例えカジノ関係者だろうと聞かれる訳にはいかない。一刻も早く切り上げたかった。
『私の荷物が今日ヴェスティアに届く筈なのだけど、もしかしてこの一連の騒ぎで検閲にでもかかっていないかと思って。大事なものなの、今晩に必要な。もし引っかかっていたら通してくれないかしら』
「何?そんな話は聞いていないぞ。取り引きは一つだけの筈だろう」
『ワインが届くの。今晩、花火を観ながら飲もうと思っていた特上品が。多分この都市への持ち込み許可がまだ降りていない品種の』
怒鳴りつけたくなるのを渾身の忍耐で堪えて、ウォルタ-は息を吐いた。
「ふざけてるのか。この事態でワインを持ってこいだと?鍵を見つけられるかどうかも怪しいんだぞ。そんなものの為に時間を割けというのか?それに税関は警備隊とは局が違う」
『警備隊にはそれを覆す権限があるのではなかった?』
「緊急事態にはな」
『なら大丈夫じゃない。今日は絶対に緊急事態だわ』
「お前のワインの為に時間を無駄にする事が問題なんだ!」
遂にウォルターは大声を上げ、急いで口に手を当てて扉に目を向け耳を澄ます。人の気配はない。
「大体遊覧船に乗るのは取り引きの為だろう。ロッディはもう死んだんだぞ」
うんざりしたような女の吐息が伝わってきて、ウォルターは突然にその可能性に気付いた。
「……情報を漏らしたのはお前じゃないのか」
『何ですって?』
「俺を体よく切り捨てる為に、わざと情報を流して取り引きを失敗させようとしてるんじゃないのか。今日の取り引きが本当に大事だというのなら、この事態にワインの心配なんて出来るか?」
ジリアンは暫く言葉を発しなかった。ウォルターの心臓が、先程までとは打って変わって静かに波打ちだした。
もしもそうであるのなら。今回の事態の全てがこの女の茶番だというのであれば。
握りしめた拳が軋みを上げる音が聞こえる。
そうであれば、こいつは生かして帰さない。
メリッサの為を思えばこそ、誇りを捨て、仲間を裏切り溝鼠共に与した。愛娘を生かすという、今や唯一つウォルターに残された生きる目的。その行動原理の根本を裏切られるのであれば、この女にウォルターが運び得る結果は一つ。
少しの沈黙の後、またも溜息の音が聞こえたが、今度のそれはどこかこちらを慮るような、憐憫に似た響きがあった。
『貴方を切り捨てる為だけに、大型の取り引きを一つ丸々ふいにするなんて、有り得ないわ。そのワインは本当に特別物で値が張ったから是非今晩飲みたいというだけよ。何しろ金貨を使ったんですから。紙幣ではなくて。遊覧船に乗るのも、そういう予定だったからよ。機関の者達に余計な疑いを持たれたくないの。私も盤石の地位を築いている訳ではないのだからね』
諭すような口調に苛立ちは収まるどころか益々募るが、今彼女と言い争う事の無意味さを自分に言い聞かせてウォルターは目を閉じる。落ち着かなければならない。
「……そんな暇はない。諦めろ」
『そう、なら仕方がないわね』
言いつつも、ウォルターは今から自分が各管理局へ指名手配写真を持っていく事を考えた。
税務局へいく際に、品物を見かける事が出来れば、それを通す位は出来る。今晩の取り引きは破綻必死だ。そうなった時、まだこの女との取り引きを続ける為には業腹ながらご機嫌取りはしておくに越した事はない。媚を売るという打算に舌打ちが漏れた。
「ワインの外見は」
『白い一本用の木箱にイズオライドの国旗が刻印されているわ。国旗の下に産地が書かれていて、ル・ゴ・ドープ。紫の紐で横に結んで箱を閉じている』
まるでウォルターが聞いてくるのを承知していたかのように流暢に簡潔に、ジリアンは特徴を答えた。
「約束は出来ないぞ」
『そのようね。遊覧船の出航は七時だから、通せるのなら早めに頼むわ』
今度こそ通信を終えたウォルターの口から、大きな嘆息が吐き出された。
今日が終わるまではあと七時間を切っている。ジリアンが当初ロッディと取り引きする筈だった遊覧船の出航までは二時間を切っていて、ロッディはもういないのに彼女は乗る気の様だ。
危機感が足りないのかもしれない。血生臭い部門に携わってはいるが、所詮彼女は研究者であり、ウォルターとは人種が違う。ジリアンには、今晩の取り引きが破綻するという事態に現実味が持てないのではないか。だがその物見遊山のツケが回ってくる相手はウォルターだ。
ジリアンに、ロッディに、二人の容疑者。そのいずれもがウォルターを苦しめている。
ラットはまだコピーを持ってこない。一連の事案を巡るこの数日の蓄積疲労で体は休息を必要としているのに、音のない空間に一人、ただ座り込んでいるのが今は苦痛ですらある。
目の前の衝立には、今も監視映像が繰り返し流れ続けている。黒いドレスの女が何度も何度も、画面の下から上へと歩いていく。
捕えなければならない。この女も、そしてもう一人の男も。この街を荒らし、メリッサの命を蝕む害獣。
「……溝鼠め……」
怒りを湛えた暗い眼差しを、男は画面に向け続けた。




