夕暮れに向かう街 3
ヴェスティア・レノックス中央ホールに大輪の黒花が花開く。
赤い絨毯の上で大きくはためいたブラックドレスが、まるで吸い込むようにカジノ客の目を集める。ほんの一瞬の、音のない世界。
着地の瞬間、左足が僅かに絨毯の上で滑った感触に、リダは背筋を冷やす。体制を崩して転んでいたら、立ち上がれない程の衝撃を背中に受けていただろう。
周囲では、未だ何が起きたのかを把握出来ない一般客が小さなどよめきを上げる。スカートがまだ大きく浮き上がっているうちに、リダは視線を巡らせて一階の状況を確認する。追手は近くにはいない。素早くヒールを履きながら、リダは飛び降りた欄干を見上げる。男二人組が遥か頭上の二階から身を乗り出し、険しい目付きでリダを見下ろしてきた。
リダは迷わず玄関ホールへ早足で歩き出した。
相手はもう人目を気にせずリダを捕まえようとしている。カジノの中にいては、いずれ捕まってしまう。出来るだけ注目を集めないように、ごく自然な振る舞いで、しかし速度は緩めずにリダは中央ホールを突っ切る。周囲の騒音を振り切って、向かいからの客をすり抜けて。
ちびちびとやっていたアルコールのせいなのか、つい先程食べたカツサンドの熱量なのか、うっすらと首から上が汗ばんでいくのが分かる。
そうよ、これはお酒のせい。絶対にそう。絶対に。だからあたしは落ち着いてる。
鼻呼吸を繰り返してリダは自分に言い聞かせる。これは絶対に緊張の汗ではないと。だが胸の内には、誤魔化し切れない後悔の念が広がっていた。
関わるべきではなかった。薄汚れたジャケットの汚れ男。あいつは本当にヤバい奴だったのだ。そいつ自身が命を失う程に。
ホールを突っ切り正面エントランスへ出る。大きく開かれた玄関の向こうに広がる、未だに下がらない太陽に照らされた中央大通り。その開かれた扉の前に立ちはだかる二人の男女。薄緑の制服。
嘘でしょ。
リダの両眼が驚愕に見開かれる。金の刺繍で彩られた腕章と、どう見ても戦闘経験豊富なその出で立ち。見間違えようなく、ヴェスティア警備隊だ。つまりあのボサボサ髪の下品なヤバい奴は、ヴェスティア警備隊からも見張られていたという事だ。いや、もしかすると二階でリダに迫った二人も、私服ではあったが警備隊なのかも知れない。
躊躇いから歩行速度が落ちる。この玄関の突破を試みる事のリスクが、リダの足を重くする。素直に足を止めた方がいいのではないか。そんな考えが頭を過ぎる。
ボサボサのゴミ男を殺したのはリダではない。自分を尾行していたのが警備隊にせよ、別のヤバい奴等だったにせよ、このまま警備隊に捕まって事情を説明した方がいいのではないか。窃盗自体は言い逃れが出来ないので逮捕はされるだろうが、それだけだ。
リダは小さく歯噛みする。その、それだけで困る理由が彼女にはある。
逮捕されれば、ボサゴミ野郎の死との関連を疑われて尋問が長引くのは目に見えている。絶対に午後七時の遊覧船には間に合わない。そうなれば、リダのヴェスティア旅行の目的が達成出来なくなる。遊覧船には絶対に乗らないといけないのだ。そして花火を見る。これは絶対だ。
となれば、突破するしかない。
警備隊から逃げ回れば、捕まった時にどうなるか、想像もしたくない。それでもやるしかない。遊覧船で花火を見るには。だが、相手は泣く子も黙るヴェスティア警備隊。そもそも突破など可能なのか。
やるしかないって事でしょ……
リダは歩調を整え始める。集中力。全神経に極度のストレスを与えながら、リダは大きく深呼吸する。周囲の色と音が褪せていく。一歩一歩の足音が心臓に響く。見開いた瞳は猫の様に瞳孔が開いている。
玄関前を塞ぐ二人がこちらを確認して表情を更に引き締める。
ドレススカートを波立たせ、二房の金髪を大きく揺らしてリダは歩き続ける。
――集中力、そして観察力だ、分かるな。
はい先生。
――勝機は一瞬しかない、分かるな。
はい先生。
何度も何度も繰り返し叩き込まれた老人の教えを、リダはその場面ごと反芻する。
警備隊の男の方が手に持つ警棒をこちらに向けて、声を上げる。警告。リダは止まらない。
ヒールを履いた足で玄関ホールを叩く。歪なリズム。周囲が異状を察知し、リダと警備隊の間を避けるように空ける。
男の方がリダへと向かってくる。ドレスに隠した愛用のナイフを右手で素早く取り出す。距離が危険域まで縮まる。
――容赦はならん、分かるな。
……っはい、先生。
警棒が肩口を狙って振り下ろされる。リダはホールの床を蹴った。
警備隊の顔が戦慄で凍り付く。振り下ろされる警棒を悠々とすり抜けてリダは男の懐に潜り込み、ナイフの柄で鳩尾を抉った。男の目がぐるりと上へ滑る。リダは男の体が倒れ始めるより先にその脇を抜け、後ろで様子見の為待機していた女へ向かう。
女性警備隊員は、動揺で一瞬行動が遅れるも、リダの手に持たれたナイフへ視線が動き、その目が獰猛な光を帯びる。
だが遅い。予備動作の全くない左手の掌底が女の下顎へ突きこまれた。女が意識を失う。玄関を抜けて、陽の元をリダは走り出した。
皺だらけの顔を更に皺くちゃにし、額に手を当てて天を仰ぐ老人の姿がリダの網膜に映った。
ごめんなさい先生。でも、殺したらもっと面倒な事になっちゃう訳だし。
ナイフを仕舞い人通り激しい大通りに飛び込みながら、リダは師の教えに逆らった事の言い訳をした。
自制せよ、我慢を覚えよ。やるのであれば決して手心は加えるな。
どれもリダは、今一歩の所で破ってしまう。老人に育てられた期間があまり長くなかったのが原因かも知れない。
世界の色と音が急速に戻ってきた。背後から大声が聞こえる。警備隊が追ってきている。リダは一瞬だけ後ろを振り返って、再び走り出した。
十分分かっていた事だが、ドレスは動き辛い。しかも色合いのせいもあって、非常に暑い。その上通りは混雑していて、前に進むのも一苦労だ。最早緊張とは全く別の汗が、全身からじわりと沸き上がっている。
「嫌よ、汗で汚すなんて……」
買っておいた冷気の結晶体をいくつか腰の内ポケットから取り出し、発動させて脇の下や胸元、太もも部分に作られた専用の空間に放り込む。放たれた冷気が日中の熱気を幾分か相殺し始めた。時刻はまだ午後四時過ぎ。このまま遊覧船の乗船時間まで市内を逃げ続けるのは辛すぎる。
「どこかに身を潜めるのが一番よね。でも」
警備隊が相手では、最悪指名手配されてしまう。そうなったら、一か所にじっとしているのは危険だ。市民が善意の協力を始め兼ねないからだ。それどころか、もし身元が割れて入港の際の記録が調べられたら、リダの目的が遊覧船にある事が発覚してしまう。
そうなれば、それこそ手の打ちようがない。先回りされて発着場で網を張られるだろうし、七時までには間に合わずとも、遊覧船が発着場に戻る十二時までに気付かれれば結局袋の鼠だ。
リダの頭の、冷静な部分が叫んでいる。今すぐヴェスティアを出るべきだと。
いや、今からですら怪しい。ヴェスティアを出るのに陸路は鉄道が三本あるが、内二本はここから遠く、辿り着くまでに警備隊が先回りしてしまう可能性が高い。そうなると実質的に逃げられそうなのは西港区から出ているサウイン方面への群島経由線だけで、警備隊もそれは把握している筈だ。海路については便の本数が鉄道より遥かに少なく、先回りの危険性が更に高い。
つまり今すぐでも現実的な逃走ルートは一つしかない。
いや、とリダは思い直す。一番の問題は遊覧船に乗れるかどうかだ。乗って、花火を見たなら、その後は捕まってもいい。
事実としてリダはあのゴミ男を殺していない。そして今持っているどこかの、何かの鍵とも関係ない。それは警備隊が入念な捜査をすればする程明らかになる事だ。
罪としては窃盗と、つい今し方の警備隊への暴行。身も蓋もないが、その程度の犯罪歴はリダにとって大した事ではない。取り調べの際の報復が多少心配だが、そこまで酷い扱いは受けないだろう。
あくまで冷静に検討した結果、リダは遊覧船への乗船を再度決意する。となると、出来るだけ発着場の近くで身を潜める必要がある。警備隊はまだリダの目的を把握していないだろうし、乗船時間前に把握されたとしても、近くにいた方が対策が打ち易い。
「なら、南区ね」
甘い焼き菓子の匂いに若干惹かれつつも、リダは通りを駆け抜けていく。喉の渇きを意識する。
背後から甲高い笛の音が鳴り響いた。警備隊。先程は不意打ちの要領で切り抜けたが、この人だかりの中で囲まれればリダに勝ち目はない。既に二人を伸された彼等は、もうリダに一切の手加減を考えない。警棒は氷結ロッドの筈で、先程のように寸前ですり抜けようとすれば触れている空気毎固められてしまう。捕縛縄には電撃機能が標準装備されている。これもまた、かすればその時点で終わりだ。
リダは通り過ぎざま、どぎつい蛍光色のテントを張る露店が並べるジュース瓶を抜き取って、銀貨を一枚店主に放ると、脇道へと折れる。そのまま思いつくままに何度も脇道へと飛び込み、追手との距離を稼いでいく。土地勘がないので、もう自分がどこにいるのかよく分からない。だが、今どこかの店に潜伏を試みるのは危険だ。
そうして何度目かの脇道に入った所で、他に道のない曲がり角に出くわした。
「うわっ不味いじゃない」
リダはスカートを更に持ち上げ、ペースを捨てて全速力で曲がり角へ走る。曲がった先には、大通りがあった。
戻ってきたって訳ね。
視線を巡らせ、右へ走り出す。恐らくだが、ここまで走ってきたのは左方向からだ。
視界の先に、のんびりと馬車レーンを移動する馬車があった。あの速度は客を乗せている時のそれではない。全力疾走を続けたせいで息が完全に上がっている。馬車を呼び止める声を出す余裕すらない。
頑張りなさいよ、捕まるわよ。
リダは歯を食いしばって足を動かす。小さい頃、パン屋のおこぼれを貰ってねぐらに帰る途中で悪ガキ集団に追いかけられた時の事を思い出した。その時は捕まってしまったのだが。
残念な過去を振り切るように、リダは石畳を蹴り付ける。馬車に追いつき、有無を言わさず窓に手をかけてぶら下がり、そのまま車内へ乗り込んだ。
「うわっ、何ですかあんた!」
御者が慌ててリダへ振り返る。
「ごめん、でも、急いでるの……飛ばしてくれない」
息も絶え絶えに、何度も喘ぎながらリダは言葉を絞り出す。ドレスが吸収した太陽熱は冷結晶で緩和し切れずにリダを包み込み、しかも限界まで酷使した両脚がそれとはまた別に熱くなっている。
「お願い……」
ぐったりと座席に寄りかかりつつ、リダはなんとか落とさずに持ち続けていたジュース瓶に口を付けた。甘味料を混ぜられたオレンジの味が口内に広がる。咽て危うく鼻に逆流しかけるのを何とか堪えて大きく息を吐くと、御者と目が合う。馬車はまだ走り出していなかった。
「飛ばすってどちらへ?お嬢さん、急いでる様子ですけど、面倒事なら勘弁ですよ」
急がなければ、やがて警備隊が脇道から出てきてしまう。リダは汗で額に張り付いた前髪を払いながら座りを直した。
「彼との待ち合わせに遅れそうなの。ちょっと短気な所があって……遅れると、ひどいのよ。叩かれたり……」
眉を下げてリダは御者を見詰める。何度も練習した、庇護欲を掻き立てる表情だ。御者の顔に、同情の色が浮かぶ。
「どちらまで?」
遊覧船乗り場まで、と言おうとしてリダは止めた。
「サンルダン広場まで」
西港区に近い、観光ブックにも乗る名所だった。これで、もしリダの降車後に御者が警備隊に問い質されても、サウイン方面への鉄道を利用しようとしているように偽装出来る。肝心の遊覧船発着場も、馬車を拾い直して三十分とかからない距離だ。
御者が手綱を振って馬を走らせた。車輪の回る音が速く、大きくなっていく。
「別れちまいなさいよ、そんな奴」
御者が腑に落ちないような、心配そうな声で話しかけてくる。
「……無理よ」
言って、リダはもう一口オレンジジュースを飲んだ。
厄介事と縁を切りたいとは常々思っている。けれど、向こうはリダの事をいつも狙っている。今日なんて、花火を見に旅行に来ただけなのに。確かに自分のせいと思える部分もあるが、そもそもはあのボサゴミ男がリダに絡んできたのが原因だ。いや、そもそもで言うならもっと前に遡るべきかも知れない。
リダはうんざりと首を振った。根本の原因なんて、考えだしたらキリがない。長いツインテールがぐったりと両肩に垂れた。
「無理なもんですか。あんたまだ若いんだ」
馬車レーンに侵入している観光客に鈴を鳴らしながら、御者がちらりとリダへ振り返った。
「やろうと思えばなんだって出来る。くたびれるのは俺のような中年になってからで良いんですよ」
「そうかも」
御者の励ましに返事をしたものの、くたびれるのに若いも年寄りもない気がした。何しろリダは今くたびれている。御者の言葉から顔を背けるように首を後ろに捻る。遠い後方の脇道から出てきた警備隊と、ちょうど目が合ってしまった。
あ、やば……
警備隊の一人がこちらを指差して、首に下げた呼子笛を鳴らそうとしている。リダは御者台へ身を乗り出した。
「ねえ!歌ってもいいかしら」
「は!?」
「歌いたいの、凄く!ああ~お前の~背中に~ゆび~を~!」
「ちょ、ちょっと何してんです!?うるさっ……声が大き過ぎますよ!」
「蛇のように~あつ~い~目で~俺を~!」
御者が思わず耳を塞ぐ。遠い後方から微かに届いた甲高い笛の音を掻き消すように、リダは喉を酷使して歌い続けた。
「さあ~!お前の~世界さ~自由に~生きろよ~!」
馬車から身を乗り出して大声で歌うリダに、車外の目が集まる。
「なんだって出来るとは言ったけど、そういう意味じゃないですよ!ちょっと本当に……止めなさいって!ぶん殴りますよ!」
「えっ、殴るの!?」
大袈裟に、大声で怯えた眼差しを御者に向ける。
「殴りませんよ!でもとても五月蠅いんでね、周りの人らにも見られてますし……」
「好きに~生きろ~よ~!上を向いても~下~を向いても~いい~!」
「ぐあっ……く、殴りてえ……!」
自分達を見上げる人々の視線が耐え難いのか、御者が鞭を入れて速度を上げる。
「だけど~恋~もしら~ずに~死ぬ~~~のかい~~」
笛の音がリダの耳に聞こえなくなった。ほんの一瞬後ろを振り返る。往来の視線と、オレンジより小さくなった警備隊の姿。
「いい加減にしろ!降ろしますよ!降りろ!」
「ごめんなさい、もうやめるわ」
リダは首を引っ込めて座席に行儀よく座った。
「もう歌わない、だから殴らないで」
「な……ぐりませんよ。何なんだ、まったく……」
「ちょっと気が動転しちゃったの、もう落ち着いたから」
とりあえず警備隊は振り切った。だが馬車に乗っている事はバレている。ほっと一息ついて、喉を癒す為にリダはジュースをもう一口飲んだ。ジュースは既に温くなり始めていて甘味料が喉に残る感触があった。
車内に身を戻すと、先まで感じていた疾風の涼感が消えて、むわりとした熱気が体を包み出す。大声で歌った事も手伝って、とても暑い。
リダは窓際に顔をやって、出来るだけ風に当たるよう試みる。恐る恐る目だけでこちらの様子を窺った御者が、ああ、と呟いて御者台からランプを取り出し、車内に取り付けた。青白い発光がランプから漏れ、冷風が車内を冷やし始める。魔学技術の賜、冷風機だ。
「摘まみで調整出来ますから」声は若干ぶっきらぼうで「あとはご自分で」
「ありがと」
テクノロジーに意地を張るのを止めて、リダは窓を閉めた。何といっても夏のヴェスティアは暑いし、涼しいのは気持ちいいからだ。
十年以上前の、ドットガルで過ごした夏の日々を思い出す。祖国の気候はこの観光都市に比べて湿度が低かったので、何度も通りに水を撒いて涼んでいた。
朝方の飲み屋街を駆け回って小銭を探し集め、昼になったら甘味料の強いアイスキャンディを買って、アパートの屋上やドブ川沿いの縁で出来るだけゆっくりと食べていた。
あの頃の自分は、何を思って生きていたのだろう。何を夢見て。
リダは胸の内ポケットに仕舞っていた何かの鍵らしいプレートを取り出して見る。七桁の番号が右下に彫り込まれていて、三角屋根の建物が描かれている。ゴミ野郎から盗んだもの。あの頃の自分は、少なくとも今よりは無垢だった。
もし違う生き方があったのだとしたら、どうなっていただろう?差し込む日光で鈍く輝くそれを見ながらリダは考える。その可能性を。
母が連れ込む男達の中に一人でも、良識を持った男がいたなら。
リダが耐え兼ね、小さな弟を置いて家から飛び出す前に、食事をと安らかなベッドを与えてくれたなら。
あの秋口の日、彼女の手足を押さえて衣服を剥ぎ取る悪ガキ共を、誰かが薙ぎ倒してくれたなら。
選択肢などないのだという現実を突きつけられる前に、怒りと怯えが体を満たす前に、誰かがその手を取ってくれていたなら。
ただ一度見に行った凱旋パレードで、衛兵が彼女を追い払う前に、馬上で手を振る男がリダに笑いかけてくれていたなら。
その後リダを拾って面倒を見てくれた老人の期待通りに、彼の後継者として有れたなら。
逃げ出した後、スラム街の酒場ではなく、徴募兵舎のドアを叩いていたなら。
その可能性を。
そうであれば、少なくともクズ男の懐から盗んだモノのせいで警備隊に追われてはいないだろう。そして、それはリダが歩まなかった道の話だ。最早意味のない仮定。未来ではなく、過去に対するもしもの話。
今だって。
リダはもう半分も残っていないジュース瓶に目を落とす。
この人生だって、それなりに良い事はあった。そんなに悪いものじゃなかったわ。
嬉しい事も楽しい事も、面白い事もあった。鳴き声を上げないブチ猫と暮らす事にもなったし、そんなに悲観するようなものでもない。だから、時々過去に焦がれるのは、やり直したいからではないのだろう。それはきっと、リダの弱さ故なのだ。
視線をプレートに戻してリダは現実に向き合う。この厄介ものをいつまで持っておくべきか。
窓の外を見る。中心部を抜けた市内は少しずつ建造物の間隔が広くなっていっている。商店より、民家の割合が増えてきた。石造りの白壁の合間に、柑橘類の樹木が植えられていたりする。実が大きく育ち、枝がしなっている。
窓から、この辺りに投げ捨てればいいのではないか。このプレートはリダの求めるものではなかったのだから。いっそその方が、気が楽になりそうではある。
「……ダメよね」
そんな誘惑を、小さく首を振ってリダは堪える。警備隊に捕まった時、このプレートの事を聞かれる可能性は高い。そうなったら、馬車から外へ捨てた、では納得してもらえない。気は進まないが、持って置いた方がいい。
それに、と視線を前方の御者台に向ける。馬車に乗っている事は警備隊に見られてしまった。もうすぐ市内の馬車運営協会から、御者達へ情報提供が求められる。そうなれば、彼はリダを庇ってくれないだろう。耳を塞いでこちらを睨むその顔は、本当に殴りかかってきそうだった。
ちょっと強引だったって事ね、仕方ないけど。
リダは馬車の速度を確かめながら、ヒールを脱いで手に持った。ストッキングの足裏が少し心配だが、言ってられない。
「ねえ、さっきはごめんなさい」
腰ポケットの財布から紙幣を取り出しながら、リダは御者に声をかける。
「え、ああ……いいですよ、もう。こっちも殴るとか言ってすみませんね」
御者が僅かに振り返って応える。
「ううん。いいの、それは」
言いながらリダは、御者台の仕事用品入れをそっと盗み見る。茶色い布袋の中で、仄かな緑色の輝きが見える。協会の通信石から、連絡が入っている。
「彼とは別れる事にするわ」
「そうですか、それがいいですよ」
御者も一旦そちらに目を移したが、リダとの会話を優先した。
「先に料金を渡しとく。これくらいでいい?」
リダが紙幣を御者に向けると
「着いてからでいいですよ。多分そんなにかからないだろうし」
御者はメーターを指差して
「いいの。ちょっと暫く考え事したいし」
リダはそのまま紙幣を畳んでメーター台に挟んだ。
「そうですか……良い旅行になるといいですね」
「どうかな……」
リダは苦笑いした。既に良い旅行とは言い難い。
「愛ですよ」
「え?」
突然の言葉に意味が分からず聞き返す。御者はメーター台から紙幣を抜き取って、肩を竦めて見せた。
「愛も知らずに死ぬのかい。恋も知らずに、じゃなくて」
先程大声で歌った歌の事だと、リダは理解した。
「ああ……そうだっけ。ジャンド、知ってたの?」
「ええ、知ってますよ」
「二番の歌詞は恋じゃなかった?」
「いえ、二番でもないですね」
「そうだったかも」
リダは少し首を傾げた。
「彼、有名だったっけ?その、国際的に」
リダの記憶では、あのミュージシャンはもう少しローカルな存在の筈だった。
「ここはヴェスティアですからね」
口端をニヤリと上げる御者を見て、リダは何となく、庇ってもらえたかも知れないな、と思った。四大国の中継点ヴェスティア。集まる人も、そこに生活する人も、過去は様々だ。
「そうだね」
リダは本心から微笑んだ。
御者が意識を運転に戻しながら脇の通信石に手を伸ばす。そっと扉を開いて、滑るようにリダは馬車を飛び降りた。
リダが飛び降りるのを見ていた子供が、仰天してこちらを見ている。今度は意識して子供に微笑んで、リダは石壁の脇道へと入っていった。
ヒールを履いて、この後の事を考える。馬車に網が張られた以上、馬車を使って折り返す作戦はもう使えない。腕時計を見ると、時間は四時四十五分過ぎ。発着場まで歩いていけない距離ではない。
「まあ、じゃあ仕方ないわね」
諦めてリダは歩き出した。地図は持っていないが、観光客の為にそこら中に標識があるので問題ない。出来るだけ建物の陰を進むことにした。そしてすぐに気付いた。尾けられている。
歩調を変えずにリダは追跡者の事を考えた。
警備隊、ではない筈だ。警備隊なら、もう実力行使でリダを追いかける筈だし、何より彼等ならこんなに遠くから気付かれるような下手な真似はしない。カジノでの繊細な尾行と比べれば明らかだ。今リダを追ってきているのはもっと雑で、しかし警備隊より広範囲な目を持っている連中。
心当たりはなかった。だが尾けられている以上、対処しない訳にはいかない。現実の世知辛さにうんざりしながら、リダは脇道を折れる。
そのまま角の柱の陰に息を潜め、追手を待つ。尾行者が角を曲がった瞬間に、相手の顔を確認するより早く鳩尾を殴り、前のめりになるその体をすり抜けて背後に回り、手刀を首に当てた。
男が意識を失って倒れる。風貌は現地人にしか見えず、リダは一瞬勘違いを疑ってしまうが、男の手の平から零れたペリドットを見て尾行を確信する。
石を拾い、辺りに目を配る。人目のない曲がり角を選んだ甲斐あって、目撃者はいないようだ。リダは男を引き摺って上半身を壁に寄りかからせ、ペリドットに親指をつけた。
『それを持っていた男をどうした』
受信した瞬間、抑揚のない男の声が鼓膜に届いた。心中で舌打ちして、リダは多人数型広域通信石を睨む。指紋認証。
「気を失ってるよ。どうしてあたしを尾けてるの」
どうせバレているなら、と開き直る事にした。
『商売上の理由でね。あんたを探してる奴がいるんだ。気付くなんて、流石だな』
「あんなバレバレの尾行見破ったって流石でもなんでもない」
意識して声を澄み渡らせ、リダは静かな殺気を匂わせる。
『流石、警備隊をのすだけあるね。恐ろしいよ』
警備隊とやり合った事も知っている。油断出来ない相手だと、リダは再認識する。警備隊が見失った彼女を、ずっと尾行していた。それだけ大きなネットワークを持っている相手だ。
「あんたは誰。商売って事は、誰かに頼まれてるのね。誰に頼まれてあたしを尾けてたの」
『後半は答えられない。守秘義務ってあるだろ。でも最初の質問なら答えるよ。俺達はピットニィ用品店だ』
リダは眉を寄せた。ピットニィ用品店、その名は――
「あたしをナメてるの?それは逃がし屋が使ってる表向きの名前だ。次に嘘吐いたら」
リダはぐっと下顎に力を入れる。
「この男を殺す」
『それは止めた方がいい』
平坦な男の声が、一瞬ことさらに温度を下げた。
『俺達は中立なんだ。依頼に応えるだけ。金を貰えばその分の仕事をするだけ。だが仲間を殺されたら反撃する。お前の敵になる』
「まるで今は敵じゃないみたいな言い方じゃない」
『その通り、敵じゃない……そこにいる男は、死んでないんだよな?』
ぞくりとする程冷たい声に、リダはたじろいだ。そして、たじろぐ必要などない、と怒りを思い出して自らを奮い立たせた。
「気を失ってるだけ。今の所はね。でもお前の返答次第じゃ、本当に殺す。もう一度聞くわ、お前達は誰」
『あんた等が逃がし屋と呼んでる者達だよ。ご存知ないようだが、俺達は元々逃亡の手助けをするだけの団体じゃない。暴力的な事以外は大体なんだってするんだ。考えてみろ』
リダは聞きつつ、目の前の男を物色する。財布、時計、地元バーの割引券。財布の中身にはヴェスティアのクラブの会員証。どう見ても現地人だ。
『このヴェスティアに、大きな組織がいくつある?警備隊が取り逃す奴を尾行し続けられるような』
リダは言葉を詰まらせて下唇を噛む。リダが知る限り、この中立都市に根付く裏の組織は唯一つ。逃がし屋しかない。
「なんで逃がし屋があたしを追ってるのよ」
『繰り返しになるが俺達は元々誰かを逃がすだけの団体じゃない。その手の依頼が圧倒的に多いからいつの間にか勘違いされただけで、しかるべき方法で依頼されれば別の事もする。荒事以外はね』
「あたしを……どうしてあたしを追ってるの」
『あんたを探してる奴がいるからだよな、そりゃ』
リダは少し考えて
「あたしの事どこまで知ってるの」
『それは答え辛いね』
「言いなさいよ。こっちは結構切羽詰まってるんだから。やけを起こしそうよ」
一瞬の沈黙。
『カーラ・ニーセットという名前で、遊覧船に乗る為にドットガル方面からやってきたって事らへんまで』
絶望的な回答に、リダは強く目を閉じた。
「あたしが遊覧船に乗るって事、その依頼主には……」
『まあ、そりゃ報告はしたよ』
叫び出したい気持ちを何とか堪えて、息を吐いた。
分かった事は、リダを追っているのが警備隊だけではないという事。そしてそれはほぼ間違いなく、リダが持つ銀のプレートを必要としている者だという事……つまりヤバい奴だという事。
「ああもうっ……この言葉は出来るだけ使いたくないんだけど……なんであたしがこんな目に!」
親指を石から離して毒づくリダだが、正直に言えば原因は分かっている。自制が足りなかったせいだ。
でも、とリダは事実に反発する。
それにしたって、やった事とその反動が釣り合わないでしょ。
馬車からプレートを投げ捨てなくて本当に良かったと思う。これはリダの最後のライフラインだ。
ペリドットに親指をつけた。
「中立だって言ったわよね」
『あんたが俺達の仲間を殺してないならな』
「気を失ってるだけ、殺してない。だから中立なんでしょ?依頼するわ。あたしを逃がして」
『成程ね。別にあんたを探す依頼を裏切る訳じゃないな、探してるだけだし』
男が少し笑った。
『依頼の手順を踏んでないけど……まあいいよ。じゃあ金を振り込んでくれ。その石を連絡に使っていい』
リダは腕時計を見た。五時前。
「国際銀行は五時まででしょ。位置的に間に合わない」
それに、今の状態で銀行に近付きたくはない。
『振り込みだけなら八時までいけるよ』
「手持ちはあんまりないの。口座番号と暗証番号を教えるから、そっちでとって」
『おいおい、他人の口座から勝手に引き抜くなんて出来るわけ……』
「出来るでしょ、あんた達なら」
『まあ、出来るね。でもいいのかい?俺達に取らせて』
「ああ、いいよ。信じてるから」
信じている。必要分だけを取っていく事を。つまりそれは、全部とってもいいよ、という事だ。先月やりたくもない仕事で稼いだ分も、今までコツコツと貯めていた分も、全部。
『切羽詰まってるみたいだね。分かったよ』
リダは番号を口頭で教えた。男が確認の為に復唱する。
「それで、逃げるタイミングなんだけど、あたしは遊覧船に乗らなきゃいけない」
『そりゃ厳しいだろ。あんた、警備隊にも追われてるし、俺の依頼主はあんたが遊覧船に乗る予定だって知ってるぜ』
「でも乗らなきゃいけないのよ」
反骨心がリダの中で燃え上がってきた。障害が多い程燃える、というのは一理あるなと思った。
「出航が七時で、帰航が十二時。花火を見たいの、絶対に。だから、そうね、九時以降なら、もういい」
『船から飛び降りるってか?オススメ出来ないよ。いろいろ危険だ』
「でも絶対に花火を見たいの。口座の中身は好きなだけ取っていいから、何とかならない?」
『なんとかするとしたら……こっちで船を出して、途中でそっちに移ってもらって、内海の方まで送って、
群島で降ろして鉄道かね』
ヴェスティアの中央に作られた人造湖からは、市内を通って内海へと続く水路や河川が、あみだくじのように作られている。
「それでお願い」
これで、乗船後の目途は何とか立った。最大の問題は乗船出来るかどうかだ。
リダが了承すると、逃がし屋が軽く吹き出した。
『口座を確認したが……結構貯めこんでるじゃないか。本当にいいのか?』
「しょうがないでしょ……ああでも」
言い淀んで、リダは少し考え込んだ。
『なんだ?止めるなら今だぞ』
「違う、止めないんだけど。出来たら……ほんの少しだけ残してくれない。猫を飼ってるの。餌に気を遣ってて、雑なご飯だと食べないし。だから、一月分の餌代くらいを」
『猫か、いいね。可愛いよな』
「まあ、そう。可愛いわ」
白と黒の、何故か鳴かないブチ猫を思い浮かべながらリダは応える。まあ可愛いと思えなくもない。少なくとも餌を気にしてやる程度には。
『分かった、その位は残せるよ。名前はなんて言うんだ』
リダは一瞬、嘘を吐こうか迷ったが止めた。
「……ケルベロス」
『ふざけんな』
「本当なのよ。あたしだって馬鹿だなって思ったけど、でもあいつを見た時その名前が浮かんじゃったのよ。しょうがないでしょ」
『本気かよ……まあ、猫に罪はないからな、残しとくよ。じゃあ連絡用にその石を持っときな、船のタイミングが詳しく詰められたら連絡する』
「分かった」
親指を石から離して、リダは気絶している逃がし屋の仲間を見た。ここで寝かせておいても風邪を引く気候ではないし、死ぬ目にあう事もないだろう。
逃がし屋に頼んだのは、遊覧船乗船後の逃亡だけ。警備隊は今もリダを探しているし、逃がし屋にリダを探させていたヤバい奴は、リダが遊覧船に乗ろうとしている事を知っている。
「何であたしが……」
言いかけて口を噤む。この言葉は好きではないのだ。
ここから発着場までは、中々距離がある。真っ黒な上に歩き辛いこの姿でとなると、中々堪える距離だ。
一応胸元からダイスを取り出して、振ってみる。
大の6と小の4。オススメ出来ない。
そういうのは最初に言っといてよ……
奮発して買ったドレスに後悔しながら、リダは日陰を歩き始めた。




