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陽炎の夜  作者: 戸坂
10/24

夕暮れに向かう街 2

 ヴェスティア国際銀行のロビーの椅子に座って、フランクは手続きが完了するのを待っている。

 高い天井のガラス部分から差し込む光を反射して輝く大理石の床が、視界を遮る。周囲を歩く人々は、真夏の祭り日にも関わらず大半がスーツ姿で、漂う雑音の半分は口ではなく靴から出ている。

 時折、前を通る人々がこちらを一瞥する気配を、フランクは努めて無視した。くたびれた夏物のシャツに安物のジーンズという衣装は、大通りならともかくここでは目立ってしまうのも仕方ない。

 フランクのこれまでの人生には馴染みのない空間だった。居心地が悪い。体が深く沈み込む上等な腰掛も、咄嗟の動きを阻害される気がしてどうにも落ち着かない。

 天井からの光はそれなりに傾いている。何をやっているんだろう、という疑問が頭の中に浮かんでは消えた。

 大理石に反射する日光の向こう側から、足音が真っ直ぐにフランクに向かってきた。

「お待たせしました、ニーセット様。振り込み作業が完了しました」

 フランクの身なりに何ら頓着しない、好感以外に抱きようのない完璧な営業スマイルだった。浅く朗らかに微笑む女性行員に、フランクは立ち上がって応えた。

「ああ、ありがとう」

 行員は手に持つ小箱を開けて、中身をフランクに見せた。

「振込先の企業から、こちらをお渡しするように、と仰せつかっております」

 ルビーの指輪だ。フランクは一瞬だけ行員の顔を観察し、すぐにそれを取った。この女は彼等の仲間ではない。本当に、ただ言われただけの仕事をしているだけだろう。銀行の正規のサービスではないので金を握らされているのだろうが、内容はただ、振り込んできた相手に指輪を渡すだけだ。彼女はこのほんの軽い小遣い稼ぎに、罪悪感など欠片も感じていない筈だ。

「どうも」

 一言短く礼を言って、フランクは空調の効いたロビーから未だ蒸し暑い大通りへ出た。左手に指輪を嵌めると、早速ルビーが周波と接続して瞬いた。

『あんたの気持ちは伝わったよ。結構な額だ』

 なんでも屋からの通信だ。依頼料には満足したらしい。カーラとの結婚の為にコツコツと貯めた金を使い切ったのだから満足してもらわなければ困る。

「それで?」

『ああ、依頼の方だが……確認するが探し物の方は人でいいんだな?』

「おい、この通信は……」

『安全だ。最高級の盗聴防止機能が付いてる専用回線だよ。それで、人の方でいいんだな?』

 瞬間、フランクは返答に窮してしまう。カフェテラスでの男女の暗号会話では、彼等は商品をニンジンと呼んでいた。対象は人の筈だが、なんでも屋の口ぶりからは、別の何かも見つかっているようだ。

 保険のつもりでフランクは確認した。

「ああ、ニンジンと言っていたからな。その筈だが……」

『なら人の方だな』

 通信相手の男は即答した。一応フランクは聞いてみた。

「人じゃない方も教えてもらう事は出来ないのか」

『それは辞めといた方がいい。二つの物に目移りしてるとどっちも逃がしちまうぜ。第一、こっちはあんたに関係のないものだろう。余計な事は知らない方がいいのさ』

「そうか」

 フランクは早々にもう一つの方を諦めた。彼等が関係ないと言っているのなら関係ないのだろう。

「じゃあ人の方を頼む」

『ああ』

 仕切り直しとばかりに、なんでも屋は軽い咳ばらいを一つ挟んだ。

『あんたの探し物の候補は七つあった。順に言っていくから――』

「おいおい待ってくれ。七つ?それ全部そうなのか?」

『候補って言っただろ。この中のどれか一つが正解だよ』

「クイズのつもりか?なんで正解まで突き止めてないんだ」

『そいつは無理だよ、ニーセットさん』

 男はフランクが振り込みに使った名前で呼んだ。自分の名前を使っても別段問題はなかったが、昔の職業柄、癖で隠してしまったのだ。

『あんたの話から推測して、可能性のある荷物を絞れるだけ絞ったんだ。この一時間足らずの間でね。隠された荷物を探すんだから、真っ当な探し方で見つかる訳がない。こういった取引の際にはどの位前から運び込まれて、どういう管理をされるか、運んでくる奴の特徴、共通点、そういった過去の統計から、今の状況に当て嵌まる物を篩い分けた。誓っていいが、あんたが俺達に払った分の仕事はやったぜ。つまり全力だよ。それとも調査に二日かけてもいいのか?』

 フランクは開きかけた口を閉じた。彼等が全力だといったらそれは本当に全力だ。文句を言った所でそれ以上情報が手に入る事はない。諦めて七か所から探すしかない。

「分かった。じゃあちょっと待ってくれ」フランクは銀行の受付で拝借しておいた紙とペンを取り出した。「いいぞ」

『じゃあ、市内を中心として時計回りに。まずは――』

 男の挙げた候補場所は東西南北、ヴェスティアの四つの港に満遍なく散っていた。土地勘のないフランクには全く分からないが、恐らくこのどれもが相応に怪しいのだろう。効率よく回る必要がある。

「どう回ったら一番早いかな」

 フランクのヴェスティアにおける本来の目的は、復讐であって人助けでも正義の執行でもない。七時出航の湖上遊覧船に乗船出来なければ本末転倒もいいところだ。

『俺が今言った順だな。馬車を捕まえて一つずつ回りなよ』

「そうしたいが、あんたらへの依頼料に全財産注ぎ込んじまってね」

『そりゃあぶっ飛んでるね。金はもう少し計画的に使ったほうがいい。まあでも、そこはオプションサービスに入ってる。その指輪、通信石の。それを見せれば市内の馬車は今日一日タダで乗れるよ。絞り切れなかったお詫びにってやつだ』

 ヴェスティアに根を張る彼等の影響力は大きい。馬車の御者は、街の情報収集に打ってつけなのだろう。つまり良い提携先という訳だ。

「そりゃ有り難い」

『でも荒事には巻き込まないでやってくれよ。運ちゃん達は俺等の仲間じゃないんだ。話を通してるだけの一般人なんだからな』

「ああ、分かってるよ」

『それじゃ、今日一日はその指輪で俺と連絡が取れるから、何か追加の注文でもあれば言ってくれ。でもそれはタダじゃないから、今の話聞いた限りじゃ受けられないけどね』

「金を拾ったら連絡するよ」

 指輪のルビーから親指を離すと、フランクは通りの待機所に停まっている黒馬車に手を上げ、自分もそちらに近づいて行った。馬車と対照的な半袖の白シャツを着た御者が、麦わら帽子の下から人懐っこい笑顔を向けてくる。

「はい、どうぞぉ」

 御者がスイッチの操作で開いた扉から馬車に乗り込むと、冷やりと心地よい風がフランクを包んだ。

「冷房寒くないですか?調節出来ますよぉ」

「いや、大丈夫だ」

 車内へ振り返る御者に、左手の指輪を見せる。御者は「ああ」と頷くと、胸の内ポケットから筒状の器具を取り出してスイッチを押し、指輪のルビーへ淡碧色の光を当てた。確認作業なのだろう。

「あらぁ、お客さんいいの持ってますねぇ」

 御者の笑顔に苦笑が混ざるも、フランクは構わずメモの行き先を告げた。まずは北の港区から。

「ちょっと遠いですねぇ」

「急いでるんだ。出来るだけ早く頼む」

「そう言われましても、今日はこの通りの祭り日ですからね。これから花火鑑賞の客でどんどん人が増えますよ」

「だから急いで頼むよ。中央市内を出れば少しはましになるだろ」

「まあ、そうですねえ……」

 言葉を濁して御者は鞭を入れる。動き出した馬車の中で、フランクは自分がどんどん目的から遠ざかっていく感覚に陥っていた。そしてそれは事実だった。

 カーラの復讐を遂げる為には、湖上遊覧船への乗船が絶対前提だ。遊覧船はヴェスティア中央区の南側に位置する発着場から乗船する。だというのに、その中央区を円環上にぐるりと囲む港区を、フランクは今から北へ南へ走り回るのだ。遊覧船の乗船締め切り午後七時に対して現在午後四時半前。乗り遅れては元も子もない。

 車外の喧騒から逃れるように座席に背中を預け、フランクは目を閉じる。

 この行為には何の意味があるのだろうか?助けられるかも定かではない人体売買の商品を探しに、カーラを殺した犯人から遠ざかる。商品には間違いなく監視が付いており、少し近づいただけでも揉め事になるかも知れない。つまり、デメリットしかない。

 今からでも予定を元に戻すべきではないか。車輪の音と意外に規則正しい振動に身を委ねて、フランクはその至極当然な疑問を反芻する。

 自分が所謂真っ当な人間でない事をフランクはきちんと自覚している。恋人を殺された恨みを晴らそうとしているフランク自身が、顔も知らぬ多くの他者に恨まれているだろう。裏家業に手を染めていた期間に、何度も人を殺めた。戦乱の時代と言える世界情勢故、金の為に戦地へ赴いた事だってある。

 そんな人間に、誰かを救いたいと願う心はあるのだろうか?

 これは言い訳なのではないか。今まで碌な人生を歩んでこなかった自分が、カーラへの愛情と、その殺害者への憎悪を正当化する為の。或いは、これから行う復讐への、前払いの償いのつもりか。

――フランク、物事を悪い方へ考え過ぎよ。

 カーラによく言われていた言葉を思い出す。微笑みながら、あやすように覗き込むその仕草を。一瞬、彼女の匂いがした。

 大きく深呼吸して、フランクは首を振る。カフェで例の二人組へ抱いた激情は、偽りのものではなかった。人体売買の対象は、ほぼ間違いなく子供だ。絶望しかない未来へ進む筈の子供を、救えるかも知れないのであれば、この行為が間違いの筈がない。例えその行いが何を起点としていようとも、行いの正しさ自体が失われる訳ではない。

 ならば悩む必要はない。問題はやはり一つだけ。時間だ。

 フランクは目を開く。

「ありゃあ、なんだか人の流れがおかしいですねぇ。すごく混んでる」

 御者の言葉で車外に顔を向ける。

「確かに、いやに人が流れないな」

 足を止めている通りの人々の顔には、祭りの高揚感とは別に困惑しているような気配があった。祭日の中心日なので馬車レーンにまで観光客が溢れるのは珍しくないが、人々が馬車を避けるより他の事に関心を向けている気がする。

 返事がくるとは思っていなかった御者は、意外そうに一瞬車内へ振り返り、脇に置いていた仕事道具入れから通信石を取り出して小声で状況確認を始めた。

「どうも、人死にの事件があったみたいですねぇ。大通りで通り魔!しかもまだ捕まってないみたいですよぉ」

 それで、とフランクは納得する。通りに微かに漂っている気配は恐怖だ。通り魔なら無理もない。

「ヴェスティアの警備隊は優秀で有名だが、白昼堂々通り魔とはな。舐められてるじゃないか」

 カフェで見た警備隊の隊長格の男を思い出しながら、フランクは意地悪く鼻を鳴らした。

「警備隊も最近はねぇ。ちょっと横暴って言いますか、いやぁ、悪く言うつもりはないんですけどねぇ」

 言い訳を挟みながらも御者は言葉を続ける。

「私共も、よく仕事中に止められるんですよぉ。乗せている客が怪しいとかって。それで大抵は問題ないんですけど、その後お客さんに怒られるのは私達でしょう?時間に遅れたとか、気分が悪くなったとか言って、料金を踏み倒そうとするお客さんもいるんですよぉ。でも、それで警備隊を呼ぶって訳にもねぇ」

「そうだよな」

「勿論、警備隊には日頃感謝してるんですよ。ここは悪い連中が沢山来ますからねぇ」

 そうだよな、とフランクはもう一度相槌を打った。

 結局は安全に慣れてしまったのだろう。今日のように治安を揺るがす事件が頻発すれば、また警備隊は市民の理解を取り戻す筈だ。ヴェスティアから凶悪犯罪が消え去る事はないのだから。

 馬車の脇を、新聞の配達と思わしき小僧が駆け抜けていく。

「今の話の流れで言いにくいんだが、出来ればもう少し急いでくれないか。本当に時間が厳しくて」

「無茶言いますよぉ。お客さん」

 言いながらも、御者は手綱で馬の向きを変えつつ軽く鞭を入れ、馬車がレーンを逸れて、裏通りの小道へと入った。人通りの少ない裏道で、車輪が速度を回復させる。

「本当はここ通るのは違反なんですよぉ。でも警備隊は今他の事で忙しそうですし……」

「助かるよ」

 舗装の甘い裏道の振動を感じながら、フランクは再び目を閉じた。

 最初の目的地についたのは、それから十五分程しての事だった。

 北港区の倉庫施設から少し離れた道路で馬車を降りたフランクは、御者台に振り返った。

「ここで少し待っててくれ」

「えぇっ、待つんですかぁ?」

「待ってる間の分も料金を請求出来るだろう」

 御者は大袈裟に首を振った。

「出来ませんよぉ。その指輪の払いは元々……ちゃんとした行政の手続きなんて踏んでないんですから。不正を防ぐ為に待機時間の分は含められないんです。なんで待つならその分は別料金でもらいませんとぉ」

 フランクは返事に詰まる。手持ちの金は満足な夕食一回分程度しかない。この場はそれで足りても、探している場所のハズレが続いた場合、最後まで足りるとは思えない。

「頼むよ。すぐ済む。ほんの五分か十分そこらなんだ。今から中央区に戻ったって、あんな様子じゃ次の客を捕まえられるか分からないだろう?ここで待てば、俺がまた乗る。その間の休憩と思って……」

 今度は御者が返答に詰まった。フランクの指摘はあながち的外れという訳でもない。束の間視線を胸元に落とした後、御者は首を竦めてフランクへ手の平を向けた。

「分かりましたよぉ。急いで下さいねぇ」

「ありがとうよ」

 安堵の目礼と共に、フランクは倉庫施設へと歩き出した。目的の倉庫は3メートル程の高さの、仮設住宅を思わせるコンテナが規則正しく並ぶ波止場の中ほどにあった。やはり日は徐々に傾いており、コンテナの影が長く伸びて地面の殆どを塗りつぶしていた。

 二度目的の倉庫の前を素通りした後、フランクはすぐに馬車へと引き返した。ここではない。判断の根拠は、重要な裏取引には絶対についている筈の見張りがいないからだ。フランクが気付けない程気配を隠しきっている監視員がいたならそれまでだが、可能性はかなり低い。時間の限界は近い。アタリを引いた場合の対処の事も考えて、ハズレは出来るだけスピーディにパスする。

 早歩きで馬車に戻り、フランクは次の目的地を告げる。何でも屋から教わった候補場所を時計回りに。御者は二回目からはフランクを待つ事に抗議しなくなった。フランクが本当に十分もせずに戻ってくる事や、

或いは彼が通信石で御者仲間から受け取っている情報が関係しているのかも知れない。

 五か所目に着いた時、太陽の位置は不安を覚える程下がっていた。時間は六時十二分。

 この場所は南港区に位置しているので、遊覧船が出航する中央区の発着場からは近い方だが、ここがハズレれば残りの二か所は発着場から遠ざかっていく。港区の馬車レーンは空いていたので、御者もかなりの速度を出してくれていたのだが、やはり候補の場所が多すぎる。ここが限界かも知れない。

 ここ一時間ですっかり見慣れた倉庫街を、早足で目的地へと抜けていく。その足が、緊張にビクリと震えた。目的の倉庫よりまだ距離があるその場所で、フランクはこの先に漂う違和感を察知した。汚れ仕事に浸かっていた時の独特の嗅覚、または直感としかいいようがない。

 この先は、見張られている。

 粘り付くような視線が道の先に注がれているのが、肌で分かる。それは夕暮れへと近付いていく倉庫街の赤茶けた反射光と入り混じって、まるで垂れ落ちる血液のような粘度になっていた。

 フランクは歩みを緩め、左手の、別の倉庫に近づいた。この一帯の倉庫は海の傍にあるとは思えない、白い板壁の掘っ建て小屋のような造りをしている。中からはトランペットを暴発させたような鳴き声が漏れている。

 この位置はまだ見張られていないと感じるフランクだが、一応道に迷っている演技をしつつ、目的の倉庫を観察する。南港区の、236番地の2。生物用貸し倉庫の、Jの5。斜め右の視界にある板壁とトタン屋根の倉庫で間違いない。そして、恐らくはここがアタリだ。

 ならばどうするか。フランクは、馬車の中でいくつか考えていた方法を現在の場所に当て嵌めてみる。

 まずは正面突破。見張りの正確な数が分からないので、これは避けたい。

 狙撃の怖いロケーションではないので、絶対に無理とまでは言わないのだが、その後商品である被害者を連れて脱出する事を考えると、やるなら短時間で皆殺しにする必要がある。でなければ仲間を呼ばれたり、追われるからだ。

 次に、完全な隠密行動。これは不可能だ。

 見張りの感触は明らかに倉庫の外から漂っており、例えば近くでボヤ騒ぎを起こした所で、倉庫内の見張りは出てきても、外の監視員は目を離さない。離したとしてせいぜい最初の数十秒程度で、その間にどこかから侵入出来ても、出る時に見つかってしまう。しかも中の設備が分からないので、すぐに商品を連れだせない場合がある。

 となると、彼等の仲間に成りすまして入り込み、必要な分だけ排除して脱出する、スパイ方式がベストだ。だがこの方法だと、成り代われる誰かが通りがかるまで待つしかない。つまり時間がかかる。

 日暮れ前の倉庫街だけあって、人通りはほぼない。焦りから額に汗が浮かぶ。ここで時間をかけ過ぎれば、遊覧船の出航に間に合わない。待たせている御者が痺れを切らして帰ってしまうだけでもかなり不味い。まだ十分も経っていない筈だが、急いでいる時にじっと待つしかないという状況は、加速度的に焦燥を高めていく。

 ならばもう、正面突破――とフランクが見切りを付けかけた時、目的の倉庫から人が出てきた。くすんだ緑の帽子に、同じ緑と白のストライプ柄の半袖シャツと長ズボン。一見、商品の事情を知らない、この倉庫街の関係者のように見える。だが実際の所は分からない。

 男がこちら側に歩いてきたので、フランクは目の前の倉庫の番号を確認して自分の目的地と照らし合わせている演技を再開した。背中越しに、じっと観察されている気配を感じたが、半袖シャツの男はフランクに話しかける事なく、通り過ぎて行った。

 フランクはその後を、音を消して早足で追いかける。腰の後ろに隠していたナイフをそっと取り出し、どんどんと男に近付く。遂に男がフランクの気配に気付き振り返るが、既に遅く、ナイフの柄が無防備な腹にめり込んだ。空気を絞り出すような呻き声を上げて、男が意識を失う。

 フランクは倒れ込む男の体を手際良く支えて倉庫の影に移動し、物色を始める。護身用の氷結ガン。電熱ナイフ。それに煙草と財布と倉庫の鍵一つと通信石。ただの倉庫番がこんな武装をしているとは思えないし、鍵束ではなく鍵一つというのもおかしい。この男は取引関係者で間違いない。万が一を考えて柄で殴ったのだが、その必要はなかったようだ。

 シャツとズボンを脱がせて着替えた後、男を始末しようとしたフランクは、少し考えて氷結ガンで両手足を氷結させ、それらを背中側でもう一度結合させた。真夏ではあるが、魔術具の威力は凄まじく、自然解凍は望めない。つまり誰かに発見されるまで、この男は自由になれないだろう。手足が壊死するかも知れないが、フランクには関係ない。

 仕上げに、男の肌着のシャツを絞って猿轡にして結び目を氷結させ、木材の積み上げてある一角に運んで、その裏に寝かせて隠した。もしかしたらこの男は死ぬまで見つけてもらえないかも知れない……がフランクには関係ない。今この場で殺されないだけでも、この男には十分な幸運だという判断だった。

 フランクは男の財布の中から三枚の紙幣をすべて取り出し、鍵と通信石と電熱ナイフを持って、目的の倉庫へ向かった。外からの監視が自分へ目を向けている事を肌で感じつつ、倉庫へ近づく。

 すぐに通信石が瞬いて受信を促した。内心で舌打ちして、親指を付ける。

『おいどうした?何かあったのか』

 恐らくはフランクを監視している者からだ。フランクは囁くような小さな声で返事をした。

「財布を忘れた」

『あっそ』

 通信が途切れる。すんなりと騙せたのか、それとも嘘がばれて既に排除行動に移られているのか。悪い方に考え過ぎよ、というカーラの言葉を信じて、フランクは倉庫の鍵を開けて中に入った。

 倉庫の中はやや埃っぽく、壁の造りは杜撰で所々から西日が差しこんでいた。輪っか状に巻いた縄や、空き缶が無造作に地面に放置されている。その室内の中央に、周囲に不釣り合いな黒い大きな鉄製の檻が置かれており、その中に二頭のライオンがいた。雌雄一体ずつだ。雄ライオンの前には弁当箱のような銀色のトレイが置かれている。

 フランクは努めて何気ない足取りで檻に近付いていく。室内へ素早く視線を回すが、中に見張りは立てていないようだ。目の前の一人以外には。

 雄ライオンがむくりと立ち上がり、フランクへ顔を向けた。

 そして喋った。

「おい、なんだ。今出てったばっかだろ」

 これが、生き物を闇取引する際の常套手段だ。商品の世話や監視と、取引相手への受け渡しの人員を

現場に配置する最も簡単な方法。商品と一緒に自分達も獣の皮を被って運ばれる。勿論、獣の皮と言っても本当に剥いだ皮を被っている訳ではない。周囲の光彩を歪め、任意の姿に見せる特殊な着ぐるみだ。

 着ぐるみの中には間違いなく生物が入っている為、入港時の検査に引っかかる事もない。触ったり特殊な光を当てたりと見破る方法はいくらもあるが、今の所このやり方が露呈したという話は聞かない。

 尤も、とフランクは後ろ足で直立するライオンを見ながら思う。触って確かめたいと思う者はいないだろう。それ程にこの着ぐるみは精巧だ。恐らく魔力線の色彩発光に強いアメジストの中でも、最高品質の物が使われているのだろう。

 ちらりと檻の奥を一瞥すると、雌ライオンの方はこちらに興味なしとばかりにぐったりと寝そべっている。あれが商品で間違いなさそうだ。着ぐるみの中では拘束されて身動きが取れないか、或いは薬による麻痺や、より直接的に手足を傷付けられている可能性もある。そうであれば、救出は更に難しくなる。

「おい!」

 雄ライオンが吠える。フランクは左手を挙げて応えた。

「問題が起きたみたいだ」

「問題?」

 続けて口を開きかけた雄ライオンが、ピクリと体を硬直させた。

「お前誰だ」

 流石にこの距離で顔は誤魔化せない。フランクは歩調を変えずに檻へと近付いていく。

「おい、止まれ!」

「交代だよ。問題が起きたって言っただろ。ここは警備隊にバレかけてる。移動しないと」

「マジか?……聞いてねえぞ」

 ライオンが前足をもぞもぞと動かし始めた。通信石で連絡を取られたら嘘だとバレてしまう。フランクは足を速めて檻に近付いた。

「その石はもう使うな!周波が押さえられてる可能性がある。こっちを使え」

 言って、先程の男から取り上げた通信石を見せて檻に放りこんだ。見た目も実際も恐らくライオンの男の持っている物と全く一緒だが、見た目が同じ通信石など山程ある。触らなければ分からない。

 ライオンは前足の指を動かすのを止めて、フランクが投げ込んだ石へと手を伸ばした。

 フランクはライオンの顔が石を拾おうと下へ向いた瞬間に、右手の中に隠していた電熱ナイフを向けて、最長設定の刀身を射出した。

 サクリ、という小気味の良い音と共に、ライオンの後頭部付近から鬣にかけて、焼き印のような真っ黒な焦げ跡がついた。次いでその全身から力が抜け、倒れ込む。実際の姿が見えていないので不安があったが、狙い通りの場所に刺さったようだ。

 見張りのライオンがピクリとも動かないのを確認して、フランクは檻の奥でうずくまる雌ライオンに声をかけた。

「おい、そっちの。お前こいつらに連れてこられたんだろう」

 雌ライオンがビクリと、全身を竦ませた。こちらを窺う気配はあるが、顔を向けない。焦りから若干の苛立ちが生まれるが、態度から敵でない事は確実だ、と自分に言い聞かせる。

「助けに来た、動けるか」

 その言葉で、ようやく雌ライオンがこちらを向いた。生まれたてのように四肢を震わせながら立ち上がろうとする。

「その……ライオンの恰好、脱げるか」

 言葉が通じていない可能性に気付いて、服を脱ぐような手振りも交える。雌ライオンが震える前足でのっそりと、自身の背中のほうを引っ掻く仕草を繰り返した。動きは非常に遅く、時間のないフランクは否応なく焦燥が高まっていく。

 わざとあんな動きをしている訳じゃない。

 フランクは自分に強く言い聞かせる。

「取れないのか。俺の方まで来れば手伝って……」

 その時、ずるりとライオンの顔が前にずれて、地面に落ちた。背中の部分から新たな体が出てくるその光景は、脱皮というよりは茹でた蟹の脚から中身を引き抜いたような、より残酷な生々しさが感じられた。出てきた体が、それまでの外見よりかなり小さかったせいもある。それに肌の色もだ。

 半袖の肌着から露出している肌は病的なまでに白く、薄暗い倉庫の中ではまるで死体のそれに見え、着ぐるみを脱いでパラパラと解れながら揺れ動く頭髪は、透明なのか室内の色に染まっている。そしてその、肩にかかる髪の両脇から飛び出ている、下へと伏せられた長い耳――

「お前……エルフか」

 フランクの呟きに、伏せられた耳がピクリと一瞬反応する。

 既に国家単位では存在していない彼等エルフは、猿から正統進化したフランク達とは様々な差異があり、それ故に人気が高い。勿論、商品としてだ。

 人間よりも比較的長命であり、魔力の扱いに長けるエルフには、色々な噂もついて回っている。心臓を食べれば不死へと近付けるだとか、血液には癒しの力がある、など。そんな噂が出回る位だから、めっきり姿を見なくなる程数が減ってしまうのは当然だ。

 疑うような、恐怖に満ちた薄緑の瞳が檻の内からフランクを見上げてくる。言葉をかけようと口を開いたフランクの目線が、下へと降りていく。病的な白い肌。その喉元が赤黒く変色している。

 喉を潰されている……

 激しい怒りがフランクの総身を駆け巡った。それは一瞬の事で、フランク自身、一過性の物であると自覚していた。喉元の下には、粗末な布のシャツの上に僅かな膨らみがある。どうやら女のようだ。年は人間の成長で判断するなら、十代の前半か、せいぜい中頃といった辺りか。適切に飼育すれば、長く材料に出来るという訳だ。

 そのまま体をざっと観察するも、喉以外に傷を負ったように見える箇所はない。であれば、この少女が緩慢な動きを見せる理由は恐らく

「薬か……何か飲まされて、体が上手く動かないんだな?」

 確認を取ると、少女は悲し気に瞳を伏せた。それは肯定のようにも否定のようにも見えた。フランクは小さく舌打ちをして、考え込む。この少女を助ける方法を。

 外には見張りがいる。満足に体の動かない少女を抱えて逃げ切れるとは到底思えない。何よりまず、この檻だ。フランクは少女との間を区切る黒鉄の檻を睨む。直径5センチはあろう黒鉄の棒が、10センチ程の間隔で並んでいる。それだけでも十分問題だが、ほぼ間違いなく、この檻には魔術加工が施されている。

「これ、この檻触っても大丈夫か」

 フランクが問いかけると、少女は目を見開いて訴えるように微かに首を振り、右手の平を見せてきた。火傷跡。

 小さく頷いて、フランクは溜息をつく。

「それだけならまだ良いがな……」

 この檻は触れれば傷を負う程の熱なり電流が流れるのだろうが、勿論それだけではない筈だ。恐らく、然るべき場所に通報が入る。最近では標準になりつつある性能だ。ヴェスティアの貸倉庫の檻なら、まず間違いなく搭載されている。となれば、力づくで彼女を救い出すのは厳しい。

 檻の中の死体がこの檻の鍵を持っていればいいが、そんな事はまず有り得ない。

 本来ならば、ヴェスティア警備隊に通報して終わりだ。だがこの少女の場合に限りそれは出来ない。通報先の警備隊の隊長格がこの取引に関わっているのだ。仮に警備隊に保護させたとして、その後彼女が再び秘密裏に出荷される事は十分あり得る。警備隊は今、信用できない。

 どうする……

 フランクは少女を見る。未だフランクの事を怯えた眼差しで見つめる幼いエルフを。

 力づく。出来ない、とは限らない。この子を助ける為だけに全力を尽くせば、或いは可能かも知れない。一旦出直して街でスリを繰り返し、何でも屋に逃亡の手配を頼んだ後、再びここへ戻って電熱ナイフで檻を傷付け、敵を呼ぶ。

 少女が通れる程檻が開けばそれで良し、駄目なら駆け付けてくる者達を皆殺しにして、鍵を探すなり再び檻のこじ開けを再開するなりして助け出す。完遂し切る確かな自信はないが、だが不可能とも思えない。

だが――だが、

 フランクは奥歯を強く噛み合わせる。

 それはフランクの本来の目的では、ない。時間はもう、今でさえギリギリだ。一旦戻って、などと悠長な事はやってられない。

 分かっていた事だ。簡単に助ける事など出来ないと。最初から分かっていた事だった。だというのに。

 強く目を閉じる。カーラの笑顔が瞼の裏一杯に映る。彼女なら、闇取引の犠牲になろうとしている子供を見捨てたりはしない。決して。街角で俯く迷子一人、彼女は見過ごした事がなかった。

――助けなきゃ、フランク。

 隣で何度も聞いたその言葉が、今またフランクに呼びかける。

 胸が潰れるような感覚がフランクを襲った。

 俺はやはり、君といてはいけない男だったのか。

 何よりも苦しいのは、フランクが今目の前の少女を助けようとする意志が、自分の物とは思えない事だった。それはあくまでカーラが望むだろうという思いから派生したもので、どうしても、自分の願いだとは思えなかった。その証拠に、フランクは今彼女を見捨てようとしている。自分の目的の為に。

 自分が決して善人でない事は分かっていた。かつて金稼ぎの為に多くの命を奪っておきながら、償いようもないその罪に背を向けて自分の幸せを求めた。そんな男が善人である筈がない。

 ならば何故、今こんなにも胸が苦しいのか。痛む心があるといわんばかりに、体の内が軋みを上げているのか。

――助けなきゃ、フランク。

「駄目なんだ……それを選べば、俺は」

 今生きている意味を失ってしまう。今この身を動かすただ一つの動力源、復讐の灯を、その機会を永遠に失ってしまう。それが他の誰でもない自分の為である事は分かっている。それでも、カーラを殺した者が生きている事は許せない。フランクは、そう、善人ではないのだ。

 カーラの切なげな微笑みがフランクを見詰める。振り切るようにフランクは目を開いた。瞼から零れているものは涙なのか、それとも額から流れ落ちている汗なのか。

 今から目の前の少女に告げようとしている言葉の残酷さに、喉が鳴る。

「すまない……」

 せめてその瞳から目を逸らす事無く、フランクは絞り出す。

「お前を今すぐ助ける事は……出来ない」

 精彩を失っていく大きな瞳。一旦希望をちらつかされた後に叩き落される絶望の底は、より寒い。みるみる枯れていく花を見ているようだった。その時になって、フランクはこの少女がどれだけ自分に期待していたのかを理解した。

「だが……だが、また助けに来る」

 フランクは自分が何を言っているのか、一瞬分からなくなった。少女が顔を上げた。

「約束する……必ずまた助けにくる、今日の内に。やらなきゃならない事を済ませたら、必ず。行かなきゃいけないんだ、どうしても。だからそれまで耐えてくれ」

 その言葉がどれだけ無責任な一言か、フランクには十分自覚があった。だが言わずには居られなかった。脂汗を流しながら、自身の言葉に困惑しながらもフランクは少女を見詰める。

「待っていてくれ」

 エルフの少女は、少しの間フランクと目を合わせ続けた。

 元よりこの少女に選択肢などない。それでも彼女は、フランクの目を見て小さく、確かに頷いた。

 フランクの胸に、理解出来ない安堵感が広がった。頷き返して、フランクは少女にいくつかの指示を出した。

 フランクが投げ入れた通信石をこちらに投げ返す事、監視役の男の死体は触らずそのままにしておく事――その指示を聞いて初めて、少女は倒れている男が死んでいると気付いて肩を震わせた――着ぐるみを着直して、フランク以外の誰かが来た時には何も知らないふりをする事。フランクが来る前にフランク以外の者が来る、という状況はかなりまずいのだが、その事は黙っておいた。

 死体となった見張り役の傍にあった銀のトレイの中身は、人間用の食事だった。つまりフランクが倉庫の外に転がした者は食事を届けにきたのであって、時間から考えてそれは夕食の筈だ。であれば、今日はもう中の様子を見に来る者はいないかも知れない。そうであってくれ、とフランクは切に願う。

 最後に、少女にトレイの中の食事を食べておくように言って、フランクは倉庫から出た。

 鍵を閉め、外からの監視員に見られている間ゆったりと歩き、監視が確実に外れたと感じると、上着を着替えながら待たせてある馬車へと全力で走った。

 御者はフランクの姿を見ると、予想通りの不満顔で予想通りの不満をぶつけてきた。

「困りますよぉ、お客さん。こんなに待たされるなんてねぇ。もう、何度帰ろうかと思ったか……もう次は待てませんよぉ」

「ああ、悪かった。もう次が最後だ。中央区の遊覧船発着場へ行ってくれ、そこで最後だ。それから」

 フランクはポケットから紙幣を三枚取り出して御者に差し出した。転がした男の財布から抜いたものだった。

「待たせた分だ。悪いけど本当にこれだけしかなくて」

 御者はほんの少し迷った後、それを受け取った。

「まあ、頂けるのでしたら、待つのは別に構いませんからねぇ。これだけ頂ければ、この位の時間なら……」

「そうだ、今何時だ」

 馬車に乗り込み、座席に座りながらフランクが聞くと、御者はちらりと自身の手元を見た。

「もうすぐ六時四十分ですねぇ」

 フランクは一瞬言葉を失う。

「すまん、本当に無理言って悪いんだが……」

「ええ、ええ、何でしょう」

「七時までに着いて欲しいんだ」

「えぇ!?それは無茶ですよぉお客さん!」

 さも仰天とばかりに御者が振り返った。

「中央区の発着場でしょう?中央区が今どれだけ混んでるかご存知じゃないですかぁ」

「そう、分かってるんだ……」

 フランクは身を乗り出した。

「でもあんたならいけるだろう?あんたは裏道を知ってる。頼むよ、遊覧船にどうしても乗らなきゃいけないんだ」

「遊覧船に乗るんですか?でもあれはチケットがないと……」

「あるんだ、持ってる」

「ははぁ……」

 御者の目に、何か決意めいたものが浮かんだ。

「仕方ないですねぇ。そりゃ、折角のお祭りですから、楽しんで帰ってもらうのが我々の仕事ですよねぇ……分かりましたよぉ。じゃあ飛ばしますから、乗り心地は言わないでくださいねぇ」

「助かるよ……」

 ほっと息をついて、フランクはシートに座る。乗船の目的が、彼の心に火をつけたヴェスティア観光を楽しむ、という概念からほど遠い事に胸中で謝罪しながら。

「ありがとう」

 ズボンも履き替え、剥ぎ取った衣服を丸めて縛り、フランクは到着を信じて待った。

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