気怠い午後が導く色は 1
何時だって静寂は、喧騒の合間を縫って滑るように訪れる。
現実の消失。引き伸ばされる秒速。彼にとってそれは既に、過去に何度か体験した事のある衝撃だ。それでも、未だに慣れるということは無い。
全ての雑音が吹き飛ぶのも、全ての生物が背景と共に消えゆくのも、全ての触覚を喪失して、世界からずれた自身が独り、時間に置き去りにされるのも、その現象は偏に、極限の集中状態から生まれるものだと、アドレイは自覚していた。
煌びやかなホール、深紅の絨毯の上を行き交う男女の中で、同じく世界から切り離された彼女を、アドレイは見つめ続ける。
腰に届きそうな程の艶やかなロングツインテール。鮮やかな黒絹のドレスから覗く、女性特有のしなやかな四肢。生まれたばかりの子供のように輝く、場違いなまでに希望と期待に満ちた瞳。引かれたルージュは赤く、チークはやや濃い印象を受けるにも関わらず、十代前半の少女にも見える容貌。
ここに居る以上、商都ヴェスティア中央、都営レノックス大遊技場にいる以上、そんな事は有り得ないのだが、語彙に乏しいアドレイが精一杯の言葉で言い表すならば彼女は、穢れ無き乙女だ。
亜麻色の髪が、ブラックドレスに映えて流れる。彼女が周囲に興味を惹かれて顔を向ける度、不規則に宙を舞う。
コントラストだ。ファーバート朝を思わせる優美なドレスと、それが包み込むやや未発達な体格も。そのドレスの黒色と淡い金髪も、濃い目の化粧に反してそれでも滲み出る幼い顔立ちも、それに、この欲望渦巻くカジノホールで彼女が浮かべるあどけない笑顔も。全ては対比によって際立っている。
少し大きめ程度では決して声の届かない距離を、彼女はゆっくりと歩き去っていく。ゆっくりと、アドレイから遠ざかっていく。
何秒か忘れていた鼓動を心臓が思い出した。突然の発作が胸を突く。苦しさに一瞬視界が歪むが、アドレイの両眼は彼女を追い続けた。すぐにでも追いかけて声をかけたかった。しかし体が動かない。硬直している。麻痺というべきか。
完全に恋だ。
自分が惚れやすい男である事を、アドレイは自覚している。しかしその事実は、この感情が間違いである理由にはならない。
今こそが、戦うときだ。
アドレイは決意する。今度こそ、この思いを遂げて、自分は幸福な未来を手に入れるのだと。
席を立とうとした時、耳元に金切り声が響いた。
『聞いてるの!』
馴染みのある声だった。つい先程まで、仕事の話をしていた相手。
自分が周囲と同じ時間に戻りつつある事に、アドレイは気付いた。急速に雑音が押し寄せてくる。色褪せて流れていただけの人々が、確かな質感を取り戻して彼女をアドレイから隠し始めた。
『返事をしなさいよ、アドレイ!』
左手の親指と人差し指で摘んでいるルビーから、光が瞬いた。仕事の話をする為だけに使う、二人用の通信石だ。ここ数年で爆発的に普及したこの携帯用品は、空気中の魔力元素を利用する事で遠く離れた相手との会話を可能にする便利な代物だが、ことプライバシーの保護に関しては大きな問題を抱えている。どこにいても連絡が付いてしまう、というのは、決して良い事ばかりではない、とアドレイは常々思う。
指を開いてルビーを放したかったが、体が完全に自由を取り戻すまでは、まだ幾分か時間がある。その間にも視界の彼女は、無情なまでに淡々とアドレイから遠ざかっていく。
喉がひくりと上下した。額から汗を流しつつ、アドレイはようやく口を開いた。
「……聞いてなかった」
『はぁ? あのね、ちょっともう、今回は本気でやってくれないと困るんだから』
「俺はいつも本気だよ」
言いながらアドレイは、自分がここにいる理由を頭の片隅で思い出した。仕事だ。
『そういう意味じゃなくて……分かってるでしょ』
分かっているよ。解っている。俺は彼女には相応しくないんだ。
アドレイは呆然と、遠ざかる後姿を眺め続けた。もう彼女は人混みの大河の向こうに消えてしまいかけていて、走って追いかけても無駄かも知れない。
何時もそうだ。アドレイは何時も、手にするべきものを逃してしまう。彼の人生は常に、欲しいものを取り上げられるという前提がある。彼女の事も、きっと追いついた所で意味はないのかも知れない。ここで諦めるのが、正しいのかも知れない。
しかしアドレイは、自分がそれを選択できないと知っていた。悲劇に酔いしれて人生を諦めるような情けない真似だけはするものかと、決めている。いずれの結果が待ち受けているにせよ、この想いは伝えなくてはならないのだ。前に進むために。燃え上がるこの感情は、それ以外に収まる事はない。
瞼を下ろして、アドレイは彼女の横顔を思い浮かべる。脳裏に焼き付ける為に。何時でも克明に思い出せるように。そして両足に渾身の力を込めて、席を立った。仕事の為に必要な場所だったが、仕方がない。
「悪い、少し外すよ」
『はぁ!?』
抗議の光を放つ紅玉を胸のポケットへ放り込んで、足早に人々の波をすり抜ける。運命の相手を探して、アドレイは今再び航海に出る。幸せを掴む為に。くすんでいる己の人生を輝かせる為に。正解は分からない。だがそれでも、彼女こそが心の空白を埋めてくれるピースなのだと信じて。
それを手にする事が許されるようにと願って。
だが、アドレイは知らない。
彼の心を一瞬で浚った彼女が、実は生粋のトラブルメーカーである事を。
清廉な乙女どころか裏家業を生業とする傭兵である事を。
そして……現在進行形でその命を狙われていると言う事を。
運命の糸と呼べるものかどうかは別として、彼の決意は彼と、彼女を確かに繋いでいた。滅茶苦茶に絡まって、解き方が分からない位に。