07.一方的な取引
眩しい光の世界から解放され、閉じていた目蓋を開けた翔真は白一面から一転して、豪華な洋館の一室に立っていた。
まだぼやける視界に、壁際に置かれた本棚と重厚な扉が入り込む。
先程まで居た理子の部屋から、無事に異世界へと辿り着けたのか。
パタンッ
分厚い本を閉じる音が聞こえ、翔真は後ろに居る人物に気付いた。
男のものだろう深い溜め息と、ギシリと椅子が軋む音が聞こえる。
気配を全く感じさせなかったということは、背後の人物は自分以上の力を持つ者だろう。
背後から強い圧力を感じ、翔真は体を強張らせて振り向いた。
「……何で僕の所へ落ちてくるわけ?勇者ショーマ?」
背後に居た相手は、執務机に書きかけの書類とペンを置いて、面倒臭そうに言う。
椅子に座って話し掛けてきたのは、貴族が好みそうな上品な黒の燕尾服を着た、整った顔立ちをした若い男。
青銅色の肩より長い髪を黒いリボンで括って、少し垂れ気味の目元が柔和な印象を与える優男だった。
だが、その茶色い瞳に宿る鋭い光と発せられていらる圧力が、彼がただの優男ではないことを語っていた。
「あの、此処は?」
「此処は魔国の城にある、僕の執務室だよ。因みに僕は魔国の宰相、キルビス・モルガン。君とは初めましてだよね。あぁ宰相よりベアトリクスの伯父、と言った方が分かりやすいかな」
ベアトリクスの名に、翔真はハッとして目を見開く。
そういえば以前、彼女は宰相をしている伯父がいると話していた。
宰相にしては見た目が若すぎるが、ベアトリクスの伯父なら納得出来る。
「ベアトリクスの伯父さん? あれ? じゃあ理子さんは何処に? 無事なのか?」
ぐるっと室内を見渡すが、一緒に居た筈の理子の姿は無い。
「んー、お嬢さんは無事、とは言えないかもね」
キルビスは含み笑いを浮かべて、くつり、喉を鳴らす。
「あの魔王は嫉妬深いからねぇ。メロメロに惚れている寵妃が男を連れてきたら、お仕置きするだろうな。命に関わる真似はしないだろうけど、今頃お嬢さんは魔王に好き勝手なことをされて啼かされてるかもね」
「お、お仕置きっ」
エロい事を色々想像してしまった翔真の顔は真っ赤になる。
くくくっと肩を震わしたキルビスは一頻り笑ってから、「さて」と口を開いた。
茶色の瞳が細められて鋭い光が宿る。
「で、二度この世界へ戻って来た君の目的を、教えてもらおうか?」
「俺は……」
穏やかな外見とはかけ離れた、刃を彷彿させるキルビスの視線に戸惑いながら、翔真は何と答えようかと迷いつつ口を開いた。
***
“此方の世界で自分の力を試したい”と話す翔真を、キルビスはじっと見詰めていた。
キルビスが抑えていた魔力を解放したのも圧力をかけられているのに気付いていても、屈しないどころか強い眼差しを向ける年端もいかない少年に僅かに口角を上げる。
まだまだ未熟で甘い考えの少年だが、現魔王と他の王子達が王座を争い国が内乱状態となった時代を知らず甘やかされて育ったような、見ているだけで腹が立つ魔貴族のお坊っちゃん達よりはずっといい。
「安寧な世界より此方を選ぶとは、流石、魔王に挑んだ勇者だけあるな」
くくくっと声を出して笑いだしたキルビスに、翔真は驚き身を固くした。
「安心して欲しい。勇者だからといって君を放り出したり処罰したりはしないから。むしろ、ムカつく魔王に一撃を食らわしてくれてスッキリさせてもらった、礼を言いたいくらいだ。実はさっき君が落ちて来た時、魔王からの伝達がきてね。勇者ショーマの後見になれ、だってさ。くそ魔王が色ボケしてるせいでこっちは忙しいのに、君を僕に押し付けてきやがったんだよ」
にこやかな笑みを顔に貼り付けているのに、キルビスのこめかみはピクピクと痙攣していた。
穏やかな顔をしても、裏ではどす黒い感情をもっているだろう彼には、逆らわないのが賢明だと翔真の第六感が告げる。
「そこで提案なんだが、僕と取引をしないか?」
「取引?」
口元だけは笑みを形作ってはいるが、キルビスの目を全く笑っていない。
嫌な予感がして、翔真は一歩後退る。
「この世界での立場と居場所を与えてやろう。その代わり、君には僕の役に立ってもらいたい」
「や、役にって、俺は何をするんだ……?」
作り笑いを浮かべたキルビスが椅子から立ち上がる。
優男風の外見なのに、キルビスは立ち上がると翔真よりも背が高く、妙な迫力を感じて逃げ出したくなった。
そんな彼から持ちかける取引に応じろと言われて、嫌だと断っても捕らわれてしまい逃げられないと、悪魔に魂を喰われる直前のような、自分に与えられたのはyesのみで逃げ道が無いということだけは分かった。
「そんなに怯えなくても取って喰うような真似はしない。ショーマを動かしやすいように、君には僕の義弟という立場になってもらう。我がモルガン侯爵家の養子となれば、魔国での、魔貴族内での地位を得られる。僕の義弟になれば、魔王からも認められた者となる。そうすれば、人を気に入らない魔族も易々とは手は出せまい」
「はぁ? 義弟? 養子?」
想定外の取引内容に、翔真の口からすっとんきょうな声が出た。
「モルガン家の者となり僕の策略の駒になってもらいたいんだ。了承してくれるなら、騎士団へ入団出来るように手配しよう」
自分の力を試すためには騎士団への入団はとても魅力的だと思う。が、
「騎士団には入団したいけど、すぐは無理だ。俺はまだ高校生だからあと半年は学校があるんだよ。せめて高校は卒業したい。それに、養子って俺は未成年だから親の承諾とか必要だろ? 俺一人じゃ決められないってか、急すぎて今すぐには答えられないって」
現実的な問題と困惑している思いを正直伝えたのに、キルビスは「はぁー」と息を吐いた。
執務机と椅子の間に立っていたキルビスが、ゆっくりと翔真の目前まで歩み寄る。
「チッ面倒だな」
「なっ!?」
ガシッ
舌打ちをしたキルビスは、片手で翔真の顎を鷲掴みにした。
両手で顎を掴むキルビスの手を外そうともがくが、外せないくらいの強い力で掴まれて翔真の顎がミシリと嫌な音をたてる。
キルビスの表情から笑みが消えて、視線だけで凍ってしまいそうなくらい冷たい瞳で翔真を見下ろした。
「面倒臭えな。僕は面倒臭いのが嫌いでね。もうあっちの世界で、お前は死んだってことにするか」
和やかな声色が冷たいものへと変わり、無慈悲な瞳が翔真を見下ろす。
優男の仮面で取り繕っているこの男の本性が垣間見え、ゾクゾクと翔真の背筋が冷たくなる。
「いやっ死人にされるのは困るって! 約束があるし」
「約束?」
「俺の母親が持ってる漫画を貸すって、ベアトリクスと約束したんだ」
ベアトリクスの名前を聞いてキルビスの表情が変化する。
目を細めて翔真を見下ろすと、顎を掴んでいた手を離した。
「くくくっ漫画ね、ベアトリクスらしいな。死ぬのが駄目ならしょうがないな。面倒だがお前の親に養子に出すのを承諾させるか。名誉と金を渡せば、後継息子じゃないなら問題無いだろ」
「俺の親はそう簡単には承諾しないと思うぞ」
強い力で掴まれてズキズキ痛む顎を翔真は撫でる。
昔から町の名家として讃えられていた家長の父親と、その夫人として並み居るご婦人方の相手をしている母親は、得たいの知れない相手の言うことをはいそうですかと聞くような親ではない。
「案じなくとも動かせる駒は色々ある」
口元に手を置いてキルビスはニヤリと笑った。
「じゃ、お前はもう戻れ。戻ったら僕の手の者が接触する手筈にしておくから、後はその者の指示に従え」
もう用は済んだとばかりに、キルビスは右の手のひらに魔力を集中させる。
一瞬、呆けてしまった翔真が口を開く前に足元の床へ、転移魔方陣が展開された。
「ちょっと待てよ! 俺は養子になるのは了承してないって!」
足元の魔方陣が輝き出し、中心から伸びた白い光の帯が翔真の体に絡み付く。
絡み付いた光の帯に引き摺り込まれて、抵抗むなしく転移魔方陣の中心へと足の先から頭の先まで一気に沈んで行った。
「急展開過ぎるだろ~!!」
魔方陣から朱金の光が輝き異界へと転移する瞬間、翔真の叫び声が執務室中に響き渡った。
キルビス宰相は、魔王様の次に強い魔力を持っています。
性格はどす黒い、鬼畜宰相。