五月二日--放課後の旋律--
ここはどこ? 私は……桂つららです。別に記憶喪失というわけではありません。気が付いたら教室は夕暮れに赤く染まり、残っている生徒は私だけ。この状況に少しばかり吃驚仰天驚天動地したというわけです。先日の熟考がこんなところにも影響を及ぼしましたか。筆舌にしがたい思いと口元の涎を残していくとは露知らず。机にまで涎が広がっていなかったのは不幸中の幸いといったやつでしょうか。
さて帰るとしよう、こう考えたその刹那、私の耳にピアノの音が響いたのです。音楽室からでしょうか。探究心か求知心か好奇心か、私の足は自然とその音源へ向かいます。
近づくにつれて段々と曲がはっきりとしてきました。そう、これはショパンです。ショパンの、なにか。それくらいはわかります。べーとーべんではありません、たぶん。
気が付けばドアの前、見上げれば音楽室のプレートがあります。取っ手を握る。
その時、あるワードが私の頭をよぎるのです。私は動きを止めました。その言葉は。
――学校の七不思議。『無人の音楽室からピアノの音』
しかし、問題も一つ。そのような七不思議がこの学校にあるかどうかを私は一切知らないということです。そりゃあ知りませんよ七不思議なんて、怖いもの。調べたくなんてありませんし、興味もありません。
ただ、噂に疎い私が存じぬだけで、この怪奇現象が有名なもので犠牲者が出ているような恐ろしいものだったら。
私はこのメロディーの旋律に戦慄を覚えました。ひざはガクガク。恐怖をかみ殺し、精一杯の一目散。背中越しのショパンは私の脳に直接響くようでした。
全速力の全力疾走。今の私ならセリヌンティウスくらいちょちょいと助けられそうです。嘘です。無理です。三十メートルくらい走ったでしょうか、もう限界なのです。こんな様では邪知暴虐の王様に笑われてしまうでしょう。私の両膝さえもが大爆笑しているのだから。
私は早くも息を切らして小休止。膝に手を付き、息を整え、顔を上げ、目の前に佇む一人の男に絶叫を浴びせながら尻餅をついてしまいました。
「みぎゃあああああああああああああああああああ!」
ああ! なんということでしょう! 幽霊か魔物か妖怪か動き出した人体模型(二つ目の七不思議でしょうか)かはわかりませんが恐怖体験から逃げ出したその刹那に登場した正体不明で謎の人物が、スリルの世界観に招待をかけてきます!
確かに私は物語の主人公のようなエキサイティングな体験に恋い焦がれております。しかし! しかしですよ! 私は華の女子高生なのです。華奢ですよ、貧弱ですよ、戦闘力なんて皆無に等しいはずです。だからいわゆる『バトルもの』のようなストーリーはごめんこうむります。
前方の男や後方の怪異ピアノ引きが襲い掛かってきたら一瞬で蹴散らされてしまうでしょう。どうすれこの場を切り抜けられるのでしょうか。こしゃくな頭で考え抜かなければいけません。
その一。ピンチに呼応して体のどこかに伝説的な紋章が浮かび上がり、伝説的な強さを発揮し、伝説的に危機を乗り越えるというのはどうでしょうか。こんな学校に突然現れた最初の敵なんてしょせん雑魚でしょうからこの場は簡単に乗り越えられる確率が高いと思われます。ただ、力を使いこなせずに暴走してしまい苦戦するパターンもありえるでしょう、この場合は私より先に力に目覚めた戦士、もしくは敵の発生を既に予測していた秘密組織のいずれかが助けに来てくれるのが理想です。伝説の紋章、秘密組織、なんと心躍るフレーズ……。でも提起するべき問題があります。いくら強大な力に目覚めようが戦って怪我をするのは遠慮したいものです。
その二。目前の男性の正体は、音楽室の幽霊を退治しに来たゴーストバスターというのはどうでしょう。校長先生が依頼主で……いえ、この場合ゴーストバスターは異常に権力を持った生徒会長の古い友人という設定の方がベタではあるけれど物語は盛り上がりをみせられそうな気がします。そいて仕事の現場に偶然居合わせた私と奇妙な縁ができてしまい、お仕事を度々手伝うことになってしまうのです。お手伝い程度なら危険な目には会うことも少ないでしょうが、お化けはちょっと苦手なのでこれも却下としておきましょう。
その三。奇跡的に逃げられる。これがいいです。
さてどうしたものかと私が熟考していると、爆発音が、そして音楽室手前の教室の窓が砕け散ったのです。男もその音に反応して首を後ろに向けました。
これはチャンスです! なぜ窓が割れたのか、疑問は残りますがこれは僥倖というやつでしょう。私は男の下半身に飛び掛り、彼の姿勢を崩すことに成功し、ダウンを奪いました。
そして、再びの全力疾走です。私は振り向きません。腕を振り、足を上げ、限界を超えて走るのです。心肺に心配を覚えるほどの高負荷がかかりますが、かまってなどいられず、疾走し逃走します。
校舎の外へ――呪われた学校の敷地から脱出をはかるのです――。
校門までたどり着きました。心拍数も息も上がりに上がっています。
私は、勝ったのです。
手強い敵でした。ショパンの演奏が私の心を狂わせ、謎の男性(今思えば同じクラスで出席番号九番の小宮山武人君と同一人物なのではないか、と思うくらいに瓜二つでした)が背後から「ちょっと……桂さん、いきなりなにを……」「後頭部を打った……」などとまるで小宮山武人君の声でまるで小宮山武人君のようなことを語りかけてきていたのですから。
「……」
次に会ったときにでも謝ろうと思います。
今日はもう家に帰りましょう。日は沈みました、カラスすらもう鳴いていません。