序章 終わりと始まり?
ほんの数分前まで池本綾人の目の前にはいつものホームから見る風景が広がっていたはずだった。
それが、気がつくと映画やゲームでしか見たことのないような中世の街並みの中にいた。
「っんだ、これ……?」
ベンチに座りながらぼーっと眺めていたはずのライザップやブックオフの看板が消え、現れたのは雑踏。だがそれも彼が見たことのないような光景だった。行き交っているのは人間だけではない。中には全身
毛や鱗で覆われた半妖のような存在も紛れていた。
座っていた噴水の中央にはよくわからない動物と頭のない龍をモチーフにしたオブジェが設置されていて、自販機や電光掲示板の見る影はない。
「ガチの異世界じゃねぇか」
言葉に確認すると、遅れてきた現実感が少しずつ追いついてくる。
見ると、脇に置いていた紺のスクールバッグは消失していた。
原理もなにもわからない。
自分を襲った境遇をありのまま受け入れるだけでも精一杯だ。
でも、どうやら自分が現代日本からどこかわからない場所に移動してしまったらしいことはわかった。
そこまで考えてから彼はふとかぶりを振った。
一番大事なことを確認していなかった。
そう、真っ先に疑うべきは、これが自分の作り出した夢の世界であること。
綾人は両手を肩幅くらいに広げると、目をつむり、自分の頬を勢いよく叩いた。
小気味よい炸裂音とともにやってきた痛みで彼はこれが夢でないことを確信する。
念のためもう一発。
やはり痛い。
これは、十中八九夢ではない。
……いや、夢でもいいか。
あのクソみたいに退屈で息の詰まりそうな日常を抜け出せたのなら……せめて一秒でも長くこの世界を堪能したい。
ひとまず、もっとこの世界における現状を知りたい。
これが実在の世界だろうが彼の大脳が見せているものだろうが、ある種の法や法則が存在しているはずだ。
目を開けるとさっきのビンタで多くの人が立ち止まり、彼を見ていた。
どうしようかな……
一番近くにいた少女に声をかける。
「あの……」
声をかけようと手を伸ばすと、少女はおびえた表情で身構えた。
「あっ、ごめん。そうだよね。いきなり見ず知らずのやつに声をかけられたら、そりゃそんなに反応するよな」
元いた世界なら事案だよな、と呟く。
半ば夢心地なのか、これまでの人生で本当に必要な時にはまったく役に立たなかった舌がフル回転していた。
「…………」
女の子は周囲に助けを求めるような視線を向けた。
周りの人々はそれを避けるかのように彼女から距離をとった。
彼ら、彼女らはまるで話しかけられた少女にすら恐れるような視線を投げ、よくわからない言語でしきりになにかを話し合っていた。
そうだ。この世界は異世界なんだ。
日本語なんて通じるはずがない。
状況分析をしていた綾人はそう結論付け、そして客観的に見て誰にでも明白な事実にいたる。
……もしかして、俺、歓迎されてない?
少女は今にも泣きそうだった。
違う。
俺は君たちの思うような人間ではない。
危害とか加えるつもりとかないから。
これは誤解だよ。
そう釈明しようと立ちあがったときだった。
「ト、まれ!」
片言だったが間違いない。
彼は日本語で呼びかけられた。
声の発生源を見ると、自分とそう年齢も変わらぬであろう女子が群衆をかき分けてきた。
彼女はショートの栗毛をなびかせ、陽光を受けて輝く装備を鳴らしながら、綾人と少女の間に入った。
そして、仁王立ちし、自分を見下ろす彼女を見て、綾人は思った。
まごうことなき、女騎士。
そして次に彼女が発した言葉に彼は驚いた。
「ニホンジン?」
「わかるの!?」
女騎士ははにかんで、少し誇らしげに、
「言語、似てる。だから、少し、わかる」
女騎士は身振り手振りで補足しながら話をする。
「あなた、は、保護した……する。この世界のもの、触る、禁止。わかる?」
この世界のものに触れないように警告を受ける。
綾人は自分がどうやらこの世界にとっての異物であることを痛感した。
だが、彼が不安を顔に浮かべると、女騎士は微笑んだ。
「大丈夫。私、どうにかする」
「あり、がとうございます……」
言葉が通じたことと、なにより相手が親身になってくれていることに安堵した。
「案内。ついてくる」
手で払いのけるような仕草で人だかりをちらす。人々は黙ってそれに従った。
その一連の所作から、どうやらかなり位の高い人であるようだった。
殻を破ったばかりの雛のように、綾人は女騎士の後を追った。
「あの……もしよければ名前を……」
「ごめん。それ、まだ教える、できない」
申し訳なさそうに、彼女は言った。
その誠意のこもった表情に、偽りの色はない。
心強い。
彼女のまとう装備も、携える剣も。
人々はまるで彼女の威光にひれ伏すかのように道を開けた。
……だが、その中で一人、動物の皮でできたローブを頭からかぶった男が、彼らの正面から見据えていた。
「リーナン!」
女騎士は立ち止まって叫んだ。
そして続けざまに喚くように言葉を浴びせたが、男はそれを蚊柱を避けるように右腕で払った。
見ると、そいつの背後には先ほどの少女が身を隠していた。
なにか、よくない予感がした。
男の右手には見たこともないような淡く、黒い光沢を放つ剣が握られていた。
名も知らぬ金属で打たれたその刃だが、少なくともこと人を殺す性能においては元いた世界と変わらないように見えた。もしくはそれ以上かもしれない。
歓迎されていないどころの話ではないと、綾人にもわかった。
ローブを下から押し上げるような敵意。殺気。
少しだけ見えた顔から二十歳前後だろうと推測できた。
が、一人の人間がたった二十年でどうしたらこれほどの憎悪をその瞳に映すことができるのだろうか。綾人には見当がつかなかった。
そして、男はズカズカと歩み寄ってきた。
民衆は促されるまでもなく彼に道を開けた。忌みものに触れるのを怖がるように。
殺される。
日本という国で平和な日常を過ごしていた彼に残っていた最後の一分の本能がそう告げていた。
「リーナン!」
彼をかばうかのように、女騎士は男の前に立ちはだかった。
どうやら彼女は自分を守ってくれるらしい。
胸をなでおろしたのもつかの間だった。
「え?」
気がつくと、女騎士の脇をすり抜けた剣が綾人の心臓に突き立てられていた。
胸に剣が突き刺さった瞬間、腕で押しのけられたような衝撃しか感じなかった。
幸か不幸か脳が痛覚をシャットダウンしたおかげで、痛みを感じることはなかった。
剣が抜かれ、割れた水風船のように心臓からは血液が噴き出した。
なにが……どうして……?
綾人は理解の追いつかない頭で必死に考えていた。
血を……そうだ、血を止めないと。
両手を胸に当てて止血を試みたが、流れ出る液体は指の間を縫って止めどなく溢れでる。
ふと、目の前に女騎士の顔があった。
綾人の血に塗れた彼女は、なにか取り返しのつかないことをしてしまったかのように悲しげな表情をしていた。
そんな彼女を見て綾人は、彼女着ている銀の装具を汚してしまったことが、とても悪いことのように思えた。
それが、彼の心に最後に浮かんだことだった。
広場は絹を裂いたような悲鳴に包まれた。
民衆は我先にと近くの家屋の中へと避難し、一部が共倒れして下敷きになった男が悲鳴を上げた。
「静まれ! ……落ち着け!」
綾人の身体を抱え、その血を浴びた女騎士の呼びかけは、混乱する人の群れの前には意味をなさなかった。それどころか、彼女を見た人々を逆に恐怖させる始末だった。
砕けんばかりに奥歯を噛み締めた彼女は、綾人を見下ろすように立っている男をにらみつける。
「上官代理! どうして! どうして私の制止を聞いて下さらなかったのですか!」
そして、彼女は憐れみの視線を綾人に向けると、
「……どうして彼を【処理】したのですか?」
男は静かに口を開くと吐き捨てるように言った。
「《異世界より出ずる外来生物は須く此れ処理すべし》」
男は小さく息をついてから、
「自分の仕事の規定を忘れたわけでもないだろうが、”名誉騎士”殿」
「この場に置いてまでそんなに私を嘲弄したいのですか! いや……」
それよりも、と彼女は碧い瞳に炎を灯した。
「彼は無抵抗でした! しかも言葉を介したコミュニケーションも成立していました!」
男は興味薄そうに、
「騎士殿らしい。勉学の賜物だな」
「ええ、それも徒労でしたが! こうなることを免れるために寝る間も惜しんで文献を漁ったというのに! 無意味な行いでした! そもそも母国語が通じない上官がいるのでは――」
「そろそろくどいぞ、ブラン」
その名を口にされた女騎士はひるんだ。
「……お前、そいつに汚染されているかもしれないな。早く処置を受けてこい」
男の迫力になど気圧されてはいない。そう言うかのように彼女は挑戦的な言葉を向けた。
「汚染されているのは、無抵抗の少年をいとも容易く斬り伏せたあなたの精神ではないかと」
男は再び息をつくと、
「そらみろ、上官を侮辱するなど、すでに精神に重度の損傷が疑われる。精神科に紹介状を書いてやる。速やかに診察を受けてくるといい」
そして、もはや話すことはないとばかりに男は踵を返した。
その背中をブランは唇を噛んでじっとにらんだ。
異界外来生物処理班上官代理、シーニー。
通称、異界殺し。
男の生業は、異世界からの転移者を屠ることだった。