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不死神の差し金でないとされても、ジョウはこの一神教のご時世に、古き神の呼び名を耳にしたことが引っかかった。
宿の一室でジョウは寝台の上に足を投げ出し、腕飾りをかたわらに置いて、古い記憶を呼び起こそうとした。
(泉で禊をするとき、スワンダミリアの名を唱えたものね。泉も川も、あらゆる水は女神の恵みだった……女神の怒りで村が押し流されそうになったこともあったわね)
長雨による増水だった。雨に打たれながら、川岸に作られた女神廟におもむき、怒りを沈めてくれるよう祈らねばならなかった。
(あの時、廟に着いたと思ったとき、アタシは……)
廟は石を積み上げた上に建っていたが、そこに行きつくには膝まで水に浸かり、足元は不安定だった。
遠い記憶だが、ジョウは額に張り付いた髪から伝う水に目を何度も閉じかけたこと、からげて帯に挟んだ衣の裾が落ちると、あっという間に溢れる水の流れに絡め捕られ、体が重くなったこと、梢から引きちぎられた木の葉が、暗い空を背景に黒い影となって吹き流されていた様を鮮明に思い出すことができた。
(あの時……)
小さな体を押し流そうとする暴れ水と、絡みつく衣の裾のせいで体の均衡を崩した。転倒に供えて前に出した手が、濁流に呑まれた。
(…………あの時は……)
ジョウはふとカステのほうに目をやった。
窓には透明度の低いガラスがはめ込まれており、外の景色はぼんやりと白っぽい。カステは窓のほうに顔を向けていたが、その横顔は熱心なようにも何にも興味がないようにも見えた。
彼はふっと手を伸ばして窓を開けた。そっと開いた窓の隙間から雨音とともに湿った風が部屋に這い込み、前髪が目にかかるとうっとうしげに目を細めた。
(ああ、雨が……)
先ほどからサアサアと音がすると思っていたが、それはジョウの記憶の中だけのことではなかった。この雨音がジョウの記憶を刺激したに違い。
カステはやおら立ち上がると、手もとに大鎌を呼び出した。横に薙ぎ払うような素振りを数回した後、大鎌を握る手を見て首を傾げる。何度かその流れを繰り返す。肉のある手で柄を握るのは、白骨のときにはない感触があるのだろう。
「女神自身が関与していないといしても……アナタはスワンダミリアの名前が出たことにきな臭さを感じたりしなかったので?」
「今は一神教の時代だから、不死神の名が出るのはおかしいんだろう? でも異教は存在するし、護教官とやらがそいつらを潰すのに躍起になっているのがその証拠……なら不死神信仰者がいても変じゃないだろう」
ジョウは不死神の象徴を摘まみあげる。
雨の音が強くなった。ジョウの脳裏に川が増水した様子が浮かんだ。この街のすぐ近くを流れる川ではなく、ここからは遠く、昔に流れていた川だった。ジョウはふるふると頭を振って、その像を消し去った。
「そう……それはそうなんですけれど……死んでいない人間を追っている身である以上、不死神信仰が存在するなら気になるでしょう。雨があがったらあの娼婦について調べてみましょう。それと、雨が入ってくるから窓を閉めていただけます? って、ちょっと……」
真面目に話すジョウをよそに、カステはほんの少しだけだが口角を上げていた。その笑顔らしきものはジョウに向けられたものではなかった。
「なぜ笑っていますの」
横顔にそう問いかけると、カステは自身の顔に手を添え、首を傾げながらジョウを見た。
「笑う……?」
まだ彼は表情が作れるということに慣れていない。そのため、彼は知らず上がった自身の口角に不思議そうに触れた。
強い風が窓を揺らし、侵入してきた雨が床板に斑点を作った。カステは気にすることなく、窓を全開にした。彼は雨降る街を見下ろす。
「一体何なのよ」
大雨がそんなに気になるのか。ジョウは彼が雨の中の何に興味を引かれているのか知ろうと、彼の隣に立って風雨に身を晒して息を呑んだ。
「……死神が……!」
街の上空に、水が滑り降りる屋根に、雨に打たれる街路に死神たちの姿が見える。
死神はカステ一柱だけではない。数はわからないが彼らは複数いて、一様に白骨で黒衣を身にまとい鎌で魂を狩る。彼らの名はすべて死である。
「もうすぐこの街で大勢の人間が死ぬ」
カステは窓枠に片足をかけると、勢いよく外へ飛び出した。ここは三階だ。
「カステ!!」
飛び出した死神にジョウは叫んだ。彼が落下し地面に叩きつけられることを危惧したのではない。大鎌を持ったまま街の上空に浮かぶという行為を咎めたのだ。ジョウの声が聞こえていないのか、聞こえていても無視したのか、カステは止まらなかった。彼は人の目を避けることのできる黒衣を身にまとうこともせずに、街を足もとに空を行く。
「もうっ!」
ジョウは駆け足で宿の階段を降りて外へ飛び出した。雨に身をさらした瞬間に一気に服の布が水を吸って重さを増す。カステが気がかりで布や髪が肌に張り付く不快を感じる余裕はない。
窓から見えた光景を思い出しながら走った。死神たちは、カステはどの方向へ向かっていたか。
(山の方に向かっていたような……)
窓から見えた山、それに向かって行ったはずだ。
広い街ではない、すぐに死神たちを見つけることができた。彼らの多くは上空に待機し、それ以外は屋根や石畳の上に立っている。激しい雨は彼らを打つことなく、その体を通り抜けて地面を打ちつける。
街の様子におかしなところはない。ただ外を歩く人は少なく、商店は大雨のせいで客足はさっぱりに違いない。閉店の看板がかかっている。
このあたりで戦争をしているわけではないし、大勢が死ぬという惨事は予想できない。一体これから何が起こるというのか。
「カステ! どこにいまして!?」
雨音にかき消されないように大声を張り上げた。だが返ってくる声はない。
不意に肌が粟立った。一呼吸する間もなく異変は起こり、足もとがおぼつかなくなる。
(な、何!?)
地面が揺れていることに気付いたときには、ジョウは立っていられなくなり石畳に膝をついた。揺れは実際には五つ数え終わるほどの時間が続いたが、ジョウにはもっと長い時間に感じられた。
家屋が倒壊するほどではなかったが、それでも商店の店先の鉢植えが倒れ、荷馬車に積み上げられた荷が転がり落ちるなどの被害があった。地震に驚いた人々が雨具も用意せずに家屋から飛び出してきた。中には怪我をしているものもいる。上から物が落ちてきて、それで怪我をしたのだろう。
打ち所が悪くて死ぬという人間がいるかもしれないが、この地震が原因でカステが言うように大勢が死ぬとは思われない。
「ちゃんと説明してきなさいよ……」
今更になって雨具を持ってこなかったことに気付いて後悔する。
民家の軒下に逃げ込み、いつ大勢の人々の死因となるようなことが起きるのかと左右を見回すと、慌てて屋内から出てきた人々が困惑した表情を作っていた。皆、さきほどの地震について囁きあっている。
その中の一人が山を指差し叫んだ。ジョウもその他の人々も指し示すほうに目を向けた。
「なっ……」
街に肉迫した山が緑の衣を乱暴なに脱ぎ捨てていた。
「土砂崩れだ!!」
誰かが叫んだ。木の伐採と大雨で地盤が緩んでいたところに地震が加わり、土砂崩れが発生したのだ。
ジョウは山に背を向け逃げ出した。しかし人の足の速さと、崩れ流れる土砂の速さは比べるまでもない。おまけに逃げ惑う人々にぶつかる。倒れる彼女を支える手などあろうはずがない。
ジョウは不死人である。だが死なぬとわかっていても、迫り来る土砂からもたらされるのであろう苦痛を考えれば必死になって逃げることも、悲鳴をあげることも自然な行為といえた。
ジョウは慌てて上半身を起こしたが、そのまま立ち上がって逃げ出す前に、つい背後を見てしまった。
その時彼女は見た。今まさに土砂に呑まれんとする家の屋根にカステが立っているのを。濡れそぼった青年が大鎌の柄を肩に担いで、こちらに背を向けていた。
「……あ……ッ……」
名を呼ぼうと開きかけた口は、迫り来る土砂の恐怖に言葉を忘れる。
「――――!」
土砂は彼女の悲鳴を呑み込んだ。
その頃カステはといえば、足場が土砂に呑まれる前に屋根から飛び上がっていた。そのまま上空にとどまり土砂が街を襲う様を見物していた。土砂は街の四分の一ほどを覆いつくした。街の中心部には、山に背を向けるかたちで、煉瓦造りの庁舎が建っている。それが向かいの教会まで土砂が到達するのを阻んでいた。教会からは僧侶や信徒たちがわらわらと出てきて呆然とその状況を見上げていた。
カステは土砂がすっかりと覆い尽くしたあたりに向かってゆっくりと下降した。彼は自身の肉の付いた体のせいで、いつものようにして物理的な障壁をすり抜け人間の魂に近づくことができないことを理解していた。
彼は土砂の上に降り立つと、足もとの死臭のするあたりに大鎌を振り下ろした。検討をつけた場所に二三回ほど大鎌を振り降ろせば、黒い刃が淡い光を刈り取った。
三つの魂を狩った後、カステが次に目をつけたのは、救助されたばかりの男だった。なかなか上物の衣装を着ているようだが、それはすっかり泥で汚れ裂けている。衣服の裂け目あたりは赤く染まっていた。それもそのはず、裂け目からのぞくのは男の体ではなく、太い丸木の杭だった。人々はその男を土砂から出したものの、彼がもう助からないことを悟り、息を引き取る様を静かに見守ってやろうとしている。
カステは自分が今は人間に見えてしまう身であることも忘れ、濃厚な死臭に誘われるままにその男に近づいた。幸い人々は死にゆく男に気を取られ、カステの存在に気付いていない。
カステは大鎌を構えた。
(視界が変だ)
男の首に狙いをつけようとするのだが、段々と片目の視界が霞んできた。それを異変ととらえたのは最初だけで、カステはそれが通常であることに思い至った。
視力が弱くなり、臭いも感じなくなる。ただ冴えわたるのは死すべき魂の気配たち。
彼はなぜ急にもとに戻ったかを深く考えずに、先ほど狩ろうとした魂を探した。すぐそばに感じられるはずの死にゆく魂の気配を探せばよい。
だが、彼の近くには死すべき魂の気配はしなかった。弱い視力で見える眼前の景色の中には、確かに先ほどの男が横たわっている。その男から死すべき魂の気配はしない。ぼやけた視界でもそれとわかる肉体に宿る魂の輝きも見えない。
他の死神に先を越されたか。しかし周囲には仲間の気配はない。
(どういうことだ?)
土砂に埋もれた死を待つ魂たちのもとへ行けと、死神の本能が急かしたが、この疑問は本能に勝った。
(さっきまでは確かに狩るべき魂を認識できていた。あの死臭は間違いだったのか……? こうしてもとの姿に戻って、死の気配を感じるのに…………ん?)
カステは鎌を持つ手を見る。黒い柄に真っ白な手が映える。骨と柄の間に弾力ある肉の感触はもちろんない。
(なぜ突然もとに戻ったんだ?)
完璧に戻ったわけではなかった。見え方もどうも不自然だ。眼球の入るべき場所を片側だけ隠すと視界は完全にぼやけた。別の側だけ隠すと、今度ははっきりと見えた。まだ一方には眼球が残っているのだ。臭いを感じないのは鼻を失っているからだし、耳も削げている。声を出そうとしてもただ下顎を上顎に打ち付けることしかできない。ズボンは腰骨にひっかかっている状態で、今にもずり落ちそうだった。
カステは彼に肉体形成の術をかけた少女の存在をようやく思い出した。彼女が急に術を解いたのだろうか。しかしそれなら何のためだろうか。それとも術が解けざるを得ない状態になったのか。すなわち、術者の死亡。
(いや、どの死神があれを狩ろうなんて思うものか)
彼女が死ぬことはないだろうが、死に近いものがジョウを襲った可能性は考えられる。
カステは街を襲った土砂の上を低空飛行した。彼は同族たちが魂を狩り続ける間をすり抜けていった。