1
二人は人間世界に戻って来た。
「ネエ、なぜこんなところに出るのでして?」
背後で地下世界と繋がった裂け目が閉じていく。裂け目の向こうの静寂や乏しい色味と対比するように、二人の目の前には鮮やかな色彩が広がり、音に溢れていた。青空、赤い屋根瓦、露店に並ぶ果実の鮮やかな色、ここは街中だった。しかも昼日中の市場である。
誰かに空間の割れ目から出てくるところを見られたかもしれない。その不安にジョウは身を固くしたが、すぐに力を抜いて、前を向いて歩いた。何事もなかったかのように振舞えば、この人ごみだ、見た人間も見間違いとでも思うだろう。そう期待してのことだ。
「自分の思い通りの場所に出ることはできないので? 神様」
喧嘩を売るつもりはないのだが、先ほど冥界で言い合ったなごりで、ジョウはつい小馬鹿にしたような物言いになる。鎌も黒衣もなく肉のある体で人の世に立つカステはただの人にしか見えない。
「本来ならどこに出ようとも関係ない身なんでね」
死神は本来は人に見えないのでどこに出没しようが支障はない。それを知りつつも、ジョウはなおも不満を述べようとしたが、カステが続ける。
「もといた街に出られただけでも褒められて然るべきだと思うぞ。俺たちが人間世界に行くとき、どこに行きたいかといえば狩るべき魂のもとだ。初めからどこか特定の場所に出る必要なんてないんだ」
彼にとって場所に意味はない。ジョウはそのことは理解しているつもりだ。
不法な生者は死神の目から逃れており、その事実がカステの死神としての感覚にどれほど信を置いたものかという問題を提起する。だがこの広い世界で、何の指標もなしに探し物をするのは、いくらでも時間がある身でもうんざりする。だから死神の感覚にまかせて、ジョウはカステとともに初めて踏んだ地で調査を開始したのだった。
「では逆に考えて、二度も同じ場所に出たということは、ここに死神を呼び寄せる何かがあるということですかしら? たとえば、一気にたくさんの命が失われる予定があるとか……もしくか、不法な生者がいるとか……?」
「そうかもな」
ジョウは後者を期待して目を輝かせた。だがカステは淡泊なもので、そんなジョウを不思議そうに見下ろす。
「そうかもな」
死に近い者が近くにいるかもしれないというのに、カステは特に辺りに注意を向けるわけでもなかった。
(……わざわざ探す必要はないのね。死神が行くところに死が生まれるのだから)
彼自身が死なのだ。
「随分と余裕がおありですけれど、死神さん、死を与えられない人間がいるのが問題なんですわよ」
余裕ぶる紙に釘を刺すと、不機嫌そうな目がジョウを見下ろした。
「……父上は寛容だな。おまえみたいなのを冥界に置いておくんだから」
「では冥界神を見習っては?」
「……」
カステはジョウに口では勝てないと悟ったのか、むっつりと黙り込んで歩調を早めた。ジョウはクスクスと笑いながら後を追った。
太陽は高い位置にある。正午の鐘が鳴り、人々は手を仕事の手を休める。
地下と地上では時間の感覚が違う。ジョウたちが冥界に戻ったのは夜だったが、それが昨夜のこととは限らない。天にあるあの太陽はジョウたちが去ってから何度昇って降りたか知れない。
宿の部屋に荷物を置いたままだが、どれほど留守にしていたことになるのだろうか。何日分かの宿代はまとめて払ってあるから、数日留守にしたところで問題はないはずだ。とはいえ、いったん宿に戻ろうかと歩いていると、路地裏から男が飛び出してきた。
「きゃっ」
ぶつかりそうになったジョウが思わず跳び退く。男が出てきた路地を見ると、そこには腹部を押さ、壁に背をもたせかけながら崩れ落ちる女がいた。折り曲げた脚がスリットからのぞいている。ジョウはそれが先日カステに声をかけてきた娼婦だと気付いた。
「さっきの男に刺されたのでしょうね。痴情のもつれってところではなくて?」
押さえた手の下で、衣服が暗い色に染まっていくが、ジョウは慌てることなく状況を分析した。カステを見ると、彼はいつの間にか手に大鎌を持っていた。そんなものを白昼堂々と出すなと言いかけて、路地裏の人目につかぬ場所でのことなので大目に見ることにした。
「この女……死にますのね?」
女は二人に目を向けたが、焦点は合ってなかった。
「…………いや……痛い……死に、たくない……」
彼女はジョウやカステではなく、死の気配を見ていた。
女の頬に痛みと絶望の涙がつたう。彼女は腹部から手を離し血まみれの手で反対の腕にしていた金鎖の腕飾りを外すと、それについている飾りをぎゅっと握った。そしてその拳を額に当て祈った。
「助けて……スワンダ…ミリ……ア…様………」
ジョウは絶句した。
(スワンダ……ミリア…………!?)
ジョウがカステに目をやると、彼は何度か目を瞬いていた。死にかけの人間など死神にとっては珍しくもない。だが彼は不思議なものを見るような目で死に瀕した女を見ていた。
だがそれは束の間のことだった。死神は無為に大鎌を出したわけではない。女の首に刃を当てて引き、麦の穂を刈り取るように魂を収穫した。刃が首と胴と離れさせることはない。ただ黒々とした大鎌の刃に淡い光が突き刺さり、刃が通った後にうっすらとした光を残す。
カステは柔らかく光る魂を手に取った。まるで雛鳥を手に乗せているかのように優しい手付きだ。魂は壊れやすいものなのかもしれない。その触り心地や質量の有無は興味をそそる事柄ではあったが、ジョウにはもっと気にせねばならないことがあった。
「ネエ、この女……スワンダミリアと言っていたようですけれど……」
スワンダミリアは古い女神の名だ。人間が神はただ天上神のみ、と唱え始める前には知られていたが、今となっては知る者もいないであろう名。この話はスワンダミリアだけでなく、他の神々にも言える。天上神も冥界神もあらゆる神は名前を持っていたが、それは忘れられるか変質するかしてしまった。
ジョウは女が強く握った手をこじ開けて腕飾りを手に取ると、その飾り部分をしげしげと見つめる。
渦を巻いた蛇が花の三枚の花弁のうちの一枚に食いついている。小さな飾りだがその様がしっかりと作り込んである。蛇も花も装飾品の意匠としては珍しくない。ただ蛇はその細い体でどこにでも、人の心の隙間にさえも入り込む悪の象徴とされ、教会関係者や信仰心の厚い者たちには忌避されている。だが細工物の作り手には、意匠とするには魅力亭だし、それを欲する人々もいる。だからやはり蛇は特別おかしな意匠というわけではない。
ただこの花を食む蛇というのは、ジョウがまだ地上で暮らしていた頃にはよく見られた意匠だった。
「これはスワンダミリアの象徴だわ。スワンダミリアは常若の神、枯れない湖に住む不死の神……」
脱皮を繰り返す蛇は何度も生まれ変わるものとして、不死の神の象徴であった。
「象徴?」
「不死神なら不死神とわかる記号となるもののことですわ。今の世で教会が車輪を掲げていますでしょう。あれは天上神の象徴ですわ」
「ああ、どこに行っても目に付くあれか」
車輪は教会の祭壇だけでなく、商家農家問わず戸口に掲げられている。唯一絶対とされている天上神の象徴は車輪、そして今は神と呼ばれなくなった不死神のそれはこの花を食う蛇だった。
天上には決して枯れることがない湖があるという。人がその水を飲むと不死になるという言い伝えをジョウは知っている。渦巻く蛇が湖を現し、三枚の花弁はそれぞれ死、生、そして湖がもたらす永続性を意味している。蛇が噛み付いているのは死にあたる花弁だ。
「一神教になって久しいですが、またスワンダミリア信仰でも復活したのかしら?」
だが一神教徒たちは他宗教、他宗派に対して激しい排除行動をしている。自分たちを正しき教え、正教と呼んで他と区別する。護教官が全国を闊歩しており、異端者を見つけ次第次々に宗教裁判に送っている。また教会は護教騎士団を抱え、信仰と武力を手にする教会の支配力は王に比肩すると言われる。
「不死神の力なら、俺から死すべき魂を隠すことはできるだろう……彼女は父上と同じ古い神だからな」
呟くようにカステが言った。ジョウが知っている神話では、冥界神、天上神、不死神がまず現れた。そして他の神々が生まれたのだ。三柱の神と他の神々では格が違う。
「となると、女神が冥界神の仕事の邪魔をしているということになりますわ。」
「彼女は天上でずっと眠っているというがな。起きたなら父上が気付きそうなものだが……」
「まさか、ね」
ジョウの仮定が本当なら、ジョウはおろか死神カステにも手に負えない。
「俺は不死神に会ったことはないが、不死をつかさどるからといって、俺たちの邪魔をするいわれはない。今回のことが彼女の意図とは思えない」
「言い切りますのね」
「不死神は死が人間にとって何であるかを知っているからだ」
「……何だというのかしら?」
「恩恵だ」
冥界神も死神を指してそう表現した。
「…………そうですかしら」
ジョウの声音が固く冷たくなった。その変化をカステは見逃さなかった。
「不満そうだな」
「アタシも人間ですので」
「なるほど」
非難するでも面白がるでもなく、カステはジョウの答えを受け止めた。




