3
夜になり、二人はアルトゥルポ邸の裏手にいた。
「俺が見てくる」
言うや、彼の足もとの闇が動いた。影は地から剥がれて波打つ。そして伸びあがるとカステの全身を包んだ。闇の塊はどろりと溶けたかと思うと、死神の黒衣になっていた。それらは一瞬のことだった。
カステは黒衣の頭巾をかぶりながら言った。
「こうすれば人間には俺は見えない」
死神の黒衣にはそのような効力があるらしい。ジョウは生に限りある人間ではなく、不死人であるせいかカステの姿は変わりなくはっきりと見える。
カステは同じようにして闇から大鎌を呼び出すと、それで窓を叩き割った。当然、大きな音がした。あの中年の男がすっとんできて割られた窓のあたりを見るやいなや、家の中に消えた。おそらく強盗でも入ったのかと思い、家の中を確かめに行ったのだろう。ジョウはその様子を物陰からうかがっていた。ずっと窓のそばにいたカステは男が行ってしまうと、窓枠に足をかけてやすやすと中に侵入した。
カステは死をもたらすためにあらゆる場所に現れる。家の中も例外ではない。だが今回のように彼が戸締りのされた屋内に入る際、いつも窓を壊しているわけではない。本来の肉のない姿ならば、彼には物理的な障害など存在しないのだ。つまり壁をすり抜けることができる。だが今の体は人間に限りなく近いためそれは不可能だった。
(人の家を壊して入る死神なんてめったに見られないわね)
カステはすぐに戻ってきた。
「ちょっとアナタ、それってもしかして……」
ジョウはカステが手に持っているものを見て唖然とした。
「もしかしなくても魂だよ」
こぶし大の淡い光が、カステの手の中で明滅している。
「あの家に老人は確かにいた。八十八歳らしい年老いた人間がな。昼間来たとき死すべき魂の気配がしたから……狩ってきた。なあ、わかってきたぞ。どうやら死の気配が感じにくくなったが、代わりにこの鼻でわかるようになったらしい。死すべき人間からは強く死臭がするんだ。そう考えれば、まあこの体も悪くない」
珍しく饒舌だ。この発見を喜んでいるのだろう。だがジョウにとっては今はそれよりも、カステは昼間の時点ですべてわかっていたということのほうが大事だった。
「なんで早く言わないの!」
「まあどうせ狩りに行かなきゃいけなかったからな。この魂を地獄に送ってくる」
言って彼人差し指と中指をぴんと揃えて伸ばすと、それを斜めに振り降ろした。するとその軌跡に従って空間がバックリと割れた。亀裂からは冥界の闇が垣間見える。死神はこうして二つの世界を行き来するのだ。二人がこの世に来たときも、こうしてカステに道を作ってもらった。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい!」
カステが躊躇なく闇に消える。長く引きずる黒衣の端が境を越えると、亀裂はゆっくりと閉じていく。ジョウは慌ててその身を異界への入り口に滑り込ませた。
夜の闇とは異なる闇に覆われた冥界。亀裂の先は灰色の石でできた冥界神のすみかだった。地下世界の王の城は、石を積み重ねてではなく、山ほど大きな岩をくり抜いて作られていた。長い廊下がのび、その果ては暗くて確認できない。天井に近い壁からは大きな黒水晶が無造作に伸び、入り組んだ梁のようになっていた。留まる濃い闇のせいで、黒水晶のそのつやつやとした輝きを見ることはできない。
「ちょっと! 待てって言ってますでしょう!」
先を行くカステはぴたりと足を止めた。
「あれ? ついてきたのか。待っていればいいのに」
ジョウが追いつくと彼は再び歩きだす。薄暗い闇の中ではカステの持つ魂の光だけがあたりを照らす。
「……アナタね、最初に訪問した時点で老人がただの死すべき人間と知っていたなら、教えてくださってもよかったのでは? 魂を狩りに行くなら、そう伝えてちょうだいな。こっちは不法な生者をひっとらえる気でしたのに」
「魂を狩ることを、いちいちおまえに言わなければならないのか?」
「エエ、アタシと人間世界で行動する以上、それはお願いしたくてよ。びっくりしてしまいますから」
カステはしばらくの黙考の後、口を開いた。
「人間は呼吸をするのにいちいち他人に言うか? 魂を狩るのは俺の本能であり、おそらく人間が呼吸するのと同じくらい自然なことだと思う。なのにわざわざ言えってか?」
「……単に言うのが面倒なだけかと思っていましたけど、違うみたいですわね。ネエ、例えば、真っ昼間の人ごみの中で死の気配、今は死臭でしたっけ、とにかく死ぬときが来た人間がいたとします。アナタはどうしまして?」
「狩る」
カステはそんな当然のことを訊いてどうするとばかりに即答した。予想された答えだったが、頭が痛くなりそうだ。
「……その姿で? 人前でしてよ?」
「黒衣を出すなら人には見えない」
「でもあれって、急に見えなくなるわけでしょう。そんなの変ですわ。いけません。人間がびっくりしてしまいましてよ」
「ずっと黒衣でいればいい」
カステが肉のある体でいるのは死臭を感じるために必要だが、姿が見えようが見えまいが、それとは無関係だ。彼の主張はもっともだったがジョウは譲る気はなかった。
「それは……駄目。それでは何も変わらないでしょう。せっかく人間の見た目があるのに!」
「よく考えりゃ、俺が人間に近づく必要なんてない。どうせ人間との交渉はおまえがやるんだ。俺はそばで見てりゃいいだろ。何かあって動くにも、姿が見えていないほうが都合がいい」
「マア! またそんなことを! 同じことを言わねばならないようね! 冥界神はアタシにアナタを手伝うようおっしゃったわ。人の世でアタシと行動せよ、ということよ。人間から距離を置くのはきっと冥界神の意に反するでしょうね」
「だからって、人間の振りをして、不法な生者が見つかる確証などないだろう? まったく、父上がどうしておまえみたいなのと一緒に行動しろと言ったのかわからん」
「それはこっちの台詞でもありましてよ」
遥か彼方まで見通すという冥界神の目でもとらえられぬ不法な生者。ジョウの不満はその捜索を手伝わされることだけではない。無口な死神に肉を与えたと思ったら、こうも色々と文句を垂れてくる。なるほど、死神が声帯を持っていない理由は、このためかと嫌味を言ってやろうとジョウは口を開きかけた。
「うまくやっているようだな」
声は大きなものではなく、また近くで発されたものでもなかったが、不思議なことにはっきりと聞こえた。
カステの持つ魂の淡い光があたりを照らしてはいるが、黒水晶の天井には届かない。だがジョウが声に反応して天井を見上げると、黒水晶の合間から光が漏れていた。光を受けた黒水晶の一面がつるりと輝いている。
黒水晶の梁の間に、さらりと光の糸が垣間見えた。
「冥界神!」
光の糸は冥界神の長い金色の髪だった。彼がふわりと地面に降り立つと、遅れて金色の滝が地に向かって流れた。
「そなたらがここに戻ってくる気配がしたので、様子でも見てやろうと思ってな。どうだ、死神よ。血肉の通った身体は?」
「重いです」
カステは表情を変えないまま、不機嫌な声音で答えた。
「重いか、そうか」
冥界神は心得顔でうんうんと頷いた。
「ジョウよ」
金色の髪を揺らして冥界神はジョウのほうへ視線を転じる。
「重いそうだ」
「そのようですね。でもじきに慣れましょう」
「だそうだ、死神よ」
「慣れる必要がありますか?」
「生あるものは死の恩恵にあずかる。肉体から離れた魂は次の生への種だ。我がそのように定めた。だがな、死神よ。おぬしはその死について詳しくても、死すべき人間については知らない」
「俺は知っています。人間は安らかな死を受け入れ、苦痛と理不尽な死を憎むのです。そういう存在だと知っていれば十分でしょう」
「おぬしは我が人間に与えた恩恵だ。ここはジョウに譲るがよい。そうすれば、おぬしはより人間にとって素晴らしい恩恵となるだろう」
ジョウもカステも冥界神の言葉の意味を考えねばならなかった。二人が内心首を傾げる中、冥界神はカステの手中にある魂を手に取った。
「この魂は我が地獄へ送り届けよう。たまには我自身が送り届けるのもよかろう」
冥界神は二人の返事を待たずに冥界の闇の奥へ向かって行った。
「何だったのでしょう……ですが、わかっていただけましたわね。アナタはアタシの言い分を受け入れるべきだと」
「冥界の住人とはいえ、おまえはただの人間。偉そうにするのはかしこいことじゃないぞ。しかし、癪な話だが、父上がああ言ったのだ。仕方がない。だが俺の領分にあまりに口や手が出すのは感心しないぞ。覚えておくんだな」
カステは冥界神に魂を取られて空になった手を、ジョウの目の前でぐっと握りしめた。死神を怒らせたら、魂をその手で握りつぶされるのだろうか。だとしたら、その魂は一体どうなってしまうのか。
(……魂がこの世からまったくなくなってしまうということはあるのかしら)
そもそも不死人のジョウの魂はどうなっているのか。ジョウ自身はその生命の秘密を知らない。永い時を生きる自分には、死神が本能で求めるという魂がまだちゃんと宿っているのか。そんなものはない、と言われたら、ジョウは信じてしまうかもしれない。
自身についてふと考えを巡らせはしたが、カステの脅しは直接的にはジョウには響かなかった。
「牽制なさらずとも、アタシは身の程をわきまえているつもりですわ」
「だといいが」
にっこりと笑ったジョウに対して、カステは面白くなさそうにそうに呟いた。