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カーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚ましたジョウは、ぽんと飛び起きると隣の寝台で眠りこけているカステを手荒く揺さぶった。
「起きて下さいまし!」
窓を開けて風を通す。季節は春なのだが、ここのところ天気が崩れがちで今日も曇っている。三階にあるこの部屋からの眺めはよく、視界を遮られることもなく街を見渡せた。街の中心部にある庁舎や領主の館、聖堂の尖塔も見える。
街の背後には山があって、そこから切り出した木材がこの街の財源の一つとなっているらしい。イオル産の木はまっすぐ育ち加工がしやすいと評判だそうだ。山にははげた部分があるのがよく見えた。
「昔はあんなふうに山まで分け入って、木を切るなんて考えもしなかったわ……」
ジョウはかつて人としてこの世で時を過ごしていたのだが、ふとその頃のことを思い出した。草原の民だった彼女の集落では遠くの森から木を切って運んできてやっと木材が使えた。森は彼女らにとって未知の領域で、そこには人ならぬ存在が息づいているとされていた。木を切るときはその森の存在に祈りと供物を捧げたものだ。
「カステ!」
ジョウは回想もそこそこに、また寝入ってしまったカステの寝台に飛び乗って足蹴にする。
「う? ん……うー」
「ホラ、さっさと起きてくださいな!」
ジョウが急かすと、カステはゆっくりとまぶたを開いた。
「……俺はおまえに足蹴にされねばならん理由があるか? 俺だってこれが礼を欠いた行為であることはわかるぞ」
目を開くなり、不満を漏らしたカステに対して、ジョウは足をどけながらにっこり笑った。
「起きてまずは朝の挨拶をするのが礼儀ってもんですわよ」
悪びれぬ様子のジョウに、カステは何やら言いたいようだったが、結局何も言わなかった。彼は起き上がって、寝台に腰かけると瞬きを繰り返す。
「まぶたはまだ慣れないな」
カステはまぶたが上げ下げできることにまだ慣れてないようだった。もとは骸骨なのだ、動かすべきまぶたがなければ、まぶたで保護すべき眼球もない。死神は不思議なことに目がないにもかかわらず低いなりにも視力がある。そのことについてジョウは訊ねたことがあった。
「とにかく見えるんだよ」
と、その一言で終わってしまった。説明しようにも表現し難いようだった。
宿屋の食堂で朝食をとる際、カステはうんざりした様子を隠さない。
「食う必要なんてないだろ?」
文句を言いながらパンを口に運ぶ。ジョウもカステも食物を摂取する必要がない。カステは人でないし、ジョウはただの人とは言えない存在だ。不毛の大地が広がる冥界で長く過ごすうちに、ジョウは食べ物を摂取することを忘れた。
「よろしいじゃないですの。人間世界で人のふりをするのだから、人間流にしたって」
「味ってのは面倒なものだよな」
これは嫌いだ、とジョウのパンにたっぷりと塗られた苺ジャムを指す。
「ではこれは?」
ジョウはパンを一口大の大きさに千切ると、それぞれに違う種類のジャムを乗せた。濃い赤、紫、緑、茶色、色とりどりになったパンを前にカステが嫌そうな顔をした。
「気に入るものがあるかもしれませんわよ」
「……食う必要はない」
「でも、人間のふりをするなら食べることを覚えないと。そしてどうせ食べるのなら、美味しいものを食べたほうがよろしいと思いますわよ」
「美味しいものねえ」
「それが人の楽しみの一つですわ」
ジョウは食事の度についつい食べ過ぎてしまう。食べることの喜びを思い出したからだ。
カステは気乗りしない様子だったが、一つ一つ口に運んだ。一切れ口に入れるごとに水に手を伸ばした。
「……何がどう違うのかわからん」
「つまりどれもお気に召さなかったということかしら。さては甘いのがお嫌いね」
「アマイ、ねえ」
甘い、辛い、苦い、しょっぱい、それらの区別をカステはできない。区別できないのはそれだけではない。彼は人の顔もあまり覚えられない。宿の亭主の顔は一週間滞在してようやく覚えた。もともと彼は視覚で個々を判別する必要などない。出会った人間とすぐに別れる彼はいちいち人の顔など覚えていられない。
アルトゥルポの自宅を訪ねたとき、扉を開けて応対したのは中年の男だった。
「アルトゥルポさんにお会いしたくお尋ねしました。ご在宅でしょうか?」
ジョウが言うと男は不審そうに戸口に立つ少女と男を見た。
「祖父に……何の御用でしょう?」
「アルトゥルポさんはこの街で最も長生きの方だと聞き及んでいますわ。そんなアルトゥルポさんに、この地方に伝わる古い伝承などを教えていただけたらと。アタシたちはそういったことを研究していて……」
男は疲れたため息を吐く。
「残念ですが、父は人と話せるような状況じゃないんですよ。冬を越したと思ったら、それで体力を使い切ったのでしょうね……わざわざお尋ねいただいたのに、残念ですがお引取りください」
男は一礼して、ばたん、と扉を閉めた。
「本当かしらね」
ジョウは疑ってかかる。
「もしかしたら、八十八歳なのに外見が若いとかで隠れているのかも。アア、もしかしてさっきの男がアルトゥルポかも! 自分の目で確かめる必要しかないですわ。今晩忍び込みましてよ」
息巻くジョウと違ってカステは大人しい。彼は何も言わず閉められた扉を凝視する。
「それより……」
「何か気付いたことでも!?」
「何でおまえは、俺以外のやつと話すとき、声が高くなるんだ? 変だぞ」
愛想よくしようとすると、つい声色を変えてしまうのは今も昔も多くの人間がやりがちなことだ。
「な……! 変ですって!? 無愛想なアナタの代わりにアタシが頑張っている証拠ですわよ!」