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外が静まるのを待つ間。カステは台座が落とす影に意識を集中していた。彼はただ一心に大鎌を出すこと願った。ジョウは邪魔をしないように黙っている。
ずっと睨みつけていると影が動いた。勢いづいて意識をさらに集中させると、影から黒い蛇のようなものが飛び出し、鎌の形をとった。
「出た……」
カステは迷子が親を見つけたときのような、安堵した表情を見せた。その様子を見てジョウは微笑んだ。
「ネ、大丈夫だったでしょう」
「ジョウ、台座から離れろ」
にやりとしてカステが鎌を振り上げる。ジョウはカステが何をしようとしているかすぐに理解した。
彼は勢いよく大鎌の柄で、台座から水の器をはたき落とした。ガチャンという音の後、カラカラと砕けた硝子片が床を転がる。飛沫が身に及ばぬように、カステは器が落ちる前に壁ギリギリまで後退していたが、彼の足もとに一欠けらの硝子片が転がってきた。飛び散った硝子片を追うようにして、不死の水は床に広がった。
「これでもう不法な生者はいなくなるかしら」
水がなければ、教主も聖女も水の恩恵にあずかるその他の者も、不死を保てなくなる。水の効き目が切れれば死神の目をあざむくことはできなくなり、死を迎えるだろう。
「だがまだ終わりじゃない」
「エエ、そうですわ」
「教主には断末魔の苦しみをもって死んでもらわなければ」
死神は己の誇りにかけて、彼を侮辱した人間に死を与えなければならない。
外の物音が止んだのを見計らって、祈りの広間に赴いた。広間には多くの信者、数人の司祭が倒れていた。護教騎士団の姿は見えない。
広間の真ん中に真っ白い装束を血で汚して、レンニャが倒れていた。
「ちょっとアンタ……ネェ、どうしたのよ。騎士団は? 帰ったの?」
ジョウはレンニャの頭のかたわらにしゃがみ、彼女の苦悶に満ちた顔をのぞきこんだ。
「…………うう……」
レンニャの白い頬に涙がつたっていた。傷が痛むのだろう。装束は汚れているが胸や腹には傷がない。背に刃を受けたか。
「ちょっと、アンタなんか言いなさいよ。アア、もうっ」
ジョウはレンニャをうつぶせにして傷の具合を見た。レンニャの白い装束は縦に裂け、背は赤く染まっていた。
「縦にバッサリね」
ジョウは多量の血にもむごい刀傷にも怯まない。カステが大鎌を構えて、魂を狩る準備をしていた。
「痛い……の。助けてっ……うっ」
レンニャは吐血した。口角から血の筋が這う。彼女はぎゅっとジョウのスカートの裾をすがる様に握りしめた。
「……それはできないわ」
床を汚した血が少しずつ、レンニャの背に生き物のように這ってゆく。器の割れた水のように広がるのではなく、その逆だ。ゆっくりとだが、背の傷が治り始める。
「そう、無理だ」
カステがレンニャを挟んでジョウの向かい側に膝をついた。ジョウは彼が彼女には見えない何かを見ているように思えた。
ジョウは不死だが所詮、人間だ。カステは神だ。死をもたらす神。
「私……死……ぬの、ね…………」
その声に恐怖はなかった。
「そうだ」
レンニャは薄く笑った。
「貴方、の言う、通り……です、ね…………。やっと……終わる……」
最後の一言にカステが反応した。
(やっと、ね)
レンニャは待っていた。なにかしらの変化を。カステを天の御使いと呼んだ。彼女は長い生の中で待っていたに違いない。白い毎日の調和を美しく崩す何かを。
「……哀れなおまえを苦痛なく逝かせてやろう」
レンニャに向けた言葉であるはずだが、ジョウはなぜか自分に言われたような気がした。彼の言葉にはわずかな憐憫の情が感じられた。
カステはレンニャの上体を抱き寄せた。
「ちょっとっ…」
ジョウの抗議は言葉半ばで途切れた。カステは人が死を恐れ忌避するのを侮蔑する。だが死神は彼の恩恵を受け入れるものには優しい。
「…………カステ……さ……」
レンニャは嬉しそうな顔をした。彼女にはカステがどう見えているのだろう。少なくとも憎むべき悪魔の姿ではないはずだ。カステがレンニャの唇にジョウの血で色づけされた彼の唇を合わせた。レンニャの頭ががっくと垂れた。
「これであらゆる死の苦しみから解放された」
死神の口付けは深い眠りをもたらす。死にも似たその眠りに夢はない。
誰にともなく言ったカステの言葉を、ジョウは聞いていなかった。もっとも彼女は言われなくとも、彼女は死神が与えた眠り、その夢の中で魂を狩られると安らかに逝けることを知っていた。
だがその知識があっても、ジョウの心には波風がたった。
「なんでよ……」
「え?」
鎌を振り下ろそうとしているカステの動きが止まる。
「なんで、おんなじ顔でそんなことするのよ!」
ジョウは声を荒げて、広間から飛び出した。その後姿をカステがぽかんとした表情で見送った。




