1
イオルの街の市門を二人の旅人がくぐった。
一人は年若い娘だ。女らしい体のまろみもまだないような少女で、深い黒髪を肩口で切り揃えている。暗い色の外套の下にはこのあたりの娘たちのように、白いふわふわとしたスカートを履き、花柄の刺繍を施したエプロンをしている。
もう一人は若い男だ。濃紺の上衣に毛織のズボンの上に灰色の外套を羽織っている。男がかぶっていた外套の頭巾が、町中から市門に向かって逃げてきた風によって落とされた。露わになった顔から判断するに、年は二十歳になるかならないかといったところだ。
「……どうして俺は人間の姿をせねばならん?」
男の顔は無表情だが声は不機嫌だった。
「死神というのはほとんど視覚、聴覚に頼らないで魂を探すと聞き及んでおりますわ。なんでも死の気配とやらがわかるとか。そうでございましょう、カステ?」
黒髪の少女ジョウは隣を歩く男を見上げた。この男は黒衣をまとった白骨を本来の姿とする死神だ。だが今は服の下には肉体があるし、彼の頭部には茶色の髪がふさふさと生え、空虚だった眼窩にはきょろきょろと動く眼球が収まっている。目はジョウと同じように虹彩部分も黒みが強い。
「そうだ。死神には人間のように五感は十分じゃないが、死の気配だけはわかるようにできている。だが、この体になってから気配が感じにくくなったぞ」
どうしてくれるんだよ、と不満を込めた口調でカステが言った。
「音、色、手触り……そんなものが俺に必要とは思えない。特にそう、こいつだ」
カステは自身の柔らかな鼻先を摘まむ。
「この臭いというやつはどうも好かん」
死神はぐちぐちと肉体について文句を垂れた。旅垢にまみれた人々のすえたような臭い、民家から漂う煮炊きの匂い、荷車を引く家畜の臭い、花売り娘が通った後の残り香、それらが混在して二人の鼻孔を刺激した。生活のにおいとは無念の地下世界に慣れたジョウの鼻にもきついのだ、初めて嗅覚を持ったカステの戸惑いは相当なものだろう。
「そうは言われましても、アタシはもとの体のままでいる意味があるとは思えないのですけれど。アナタのその文句は冥界神を否定しているのと同じですわよ。冥界神が人たるアタシをアナタにつけたことは無意味だと言っているようなものでしてよ」
カステは隣を歩く少女に視線を落とした。ジョウはただの人間とは思えぬ強気な態度で彼を見返した。吊り気味のまなじりがいっそう彼女を気の強そうな少女に見せている。
「……まったく、父上は何を考えているのか」
カステは視線を進行方向に戻した。納得はできないようだが、死の創造者である神を出されては文句は言えないようだ。
死の親たる冥界神が持つ名簿は死者の名を記録したものであり、どの空欄に誰が入るのかはあらかじめ決められている。死神はその空欄を埋めていくことを仕事とする。
「アナタは死すべき魂の気配がわかる。しかし、その能力があるにもかかわらず、なぜか回収できてない魂がある、そうでございましょう?」
名簿は順に埋められていく。一呼吸する間にも名簿はどんどん死神に魂を狩られた者の名が記載されていく。だがそんな名簿にはところどころ空欄ができている。死すべきときに死ななかった者がいる。名前が載っていないということは、まだ生きているということだ。その原因を突き止め、不法の生者を死へ導くのが二人の任務だ。
「ああ」
彼は何かを探すようにきょろきょろとあたりを見回しながら歩を進める。死の気配を掴もうとしているのだろうか。ジョウはその様子を横目でちらちらとうかがう。
彼によると魂の存在を確認し、それを狩ろうとして失敗したわけではなく、ただ死の気配がしなかったから狩っていないだけらしい。
「つまり、敵は死すべき魂の気配を消すことができる人物だということにはなりませんか。だったら気配を感じようが感じまいが関係なくて? その能力を無効にされているのですから。それより人間に混じって情報を収集したほうがよろしいかと。とても長生きの人がいるとか、生き返った人がいるとか、そんな人間がいて噂にならないほうがおかしいですもの」
カステは死の存在を知りながら目を背けて生きる人間たち、その無邪気な雑踏を睨みつけるようにして眺める。
「人間が俺をごまかせるなんてことがあってたまるか」
「ではなぜ名簿に空欄がありますの?」
カステは押し黙る。その理由を探しに人間世界にやってきたのだ。この問いに答えられるはずがない。
カステは人の世で魂を狩り集めてきたにもかかわらず、人間については詳しくなかった。彼は魂を狩ることにしか興味がないため、人々の営みには興味がないからだ。ただ彼は人の死因についてや、死に際の振る舞いについては詳しかった。
そうなると必然的に人からの情報収集は、彼に比べて人に詳しいジョウの仕事となる。
「この街でうんと長生きしている人ってどなた? え? なぜそんなことを訊くのかって? それはね、アタシたち旅をしながらその地域の伝説や民謡なんかを採取しているからです。そういうことってお年寄りのほうがよく知っておりますでしょ。だから」
カステが黙っているのをいいことに、ジョウは彼を学者の卵に仕立て上げた。今は遠くの大学に在籍していている学士で、学問以外はまったく使えない人物であるので、こうして自分が交渉や旅の世話をしてやっているのだ、と。その設定にカステはわずかに不愉快そうな様子を見せた。おそらく「まったく使えない」あたりがお気に召さなかったのだろう。
そうして長生きをしている者を探すうちに、数人があげた人物が一人。
「アルトゥルポ氏。御年八十八歳。確かに長寿ですわね。もちろん、ありえない年齢ではないですけれど……」
七十歳を超える者は稀だ。寝たきりという噂で、近所の人々も長らく顔を見ていないらしい。
「とにかく見てみるか。見れば何かわかるかもしれん」
街からのぞむ山の陰に夕日が隠れると、酒場や民家からの食事の匂いが街を包む。一日の仕事を終えた人々は、酒場で一杯やるか家で家族と温かな食卓を囲むかする。人を訪ねるには遅い時間である。特に就寝の早いご老体の訪問には適切ではない。
「アルトゥルポ氏に会いに行くのは明日ということで、とりあえず宿に戻りましょう」
ジョウの後について宿に戻るカステの服の袖を引く者がいた。
「お兄さん、よってかない?」
胸の開いた服を着た娼婦がカステに声をかけた。見ればスカートにスリットが深く入り白い脚がのぞいている。人が多いほうに足を向けた結果、どうやらそういった手合いの集まる通りに足を踏み入れてしまったらしい。
「よってかないわよ」
返事をしたのはジョウだ。彼女はいつもの丁寧な口調を捨て、つっけんどんに対応した。女はそんな彼女を見て、うふふ、と笑った。
「ああら、小さくて見えなかったわ。お兄さんはこんなちんちくりんな娘がお好みなのかしらぁ」
女は自分よりも頭一つ分低いジョウの頭をポンポンと叩く。完全なる子供扱いにジョウはかちんときた。
「ホホホ、そうよ。アタシはこの人のほくろの位置だって全部知っているんだから」
ジョウは挑むように女を見上げた。娼婦はそんな彼女を気にするふうもなく、残念だわ、と甘えた声で言いつつ、カステにしなだれかかりながら、自分の腕をカステのそれに絡めた。柔らかな女の感触が布越しに伝わると、カステは女を半ば突き飛ばすようにして、その手を振りほどいた。
「やだ、本当なの?」
カステに手を振り払われて、ジョウの言い分に真実味を感じた娼婦は、作り笑顔を引っ込めた。
「ちんちくりんな小娘が趣味じゃあ、しょうがないわね」
娼婦は長い髪をさっと手で払うと同時に愛想も払い落とす。冷めた口調で言い捨てて、彼女はさっさと他の男のもとへ向かって行った。
娼婦から解放されてしばらくすると、カステは左目尻のほくろがあるあたりを触りながら黙っていたが、やがて口を開いた。
「どうしてほくろの位置がわかったらいけないんだ?」
どうやらそれをずっと考えていたらしい。ジョウはころころと銀鈴が鳴る声で笑った。それは可愛らしい笑い声だが、それを聞いたカステの眉が寄る。
「馬鹿にしているだろう」
カステは神である。地下世界の支配者、冥界神により生み出された死の神だ。対するジョウは冥界で過ごして長いが、もとを辿ればただの人だ。ただ彼女には死神にとっては死の気配がせず、名簿にも名前が載るべき空欄がない。冥界神によれば彼女のような存在は理を外れた存在で、だからこそ不法な生者とは別に存在し続けることができるらしい。ジョウにはその理とやらの仕組みはよくわからない。冥界神も教えてくれない。
ただの人ではないが、彼女は本来、神を崇める立場であってしかるべきだ。しかし敬語を使ってはいるが、どうにも態度と言葉が一致していない。
「ホホ、先ほどの場合、普段目につかない場所にあるほくろの位置を知っているということは、それだけ親密って意味になりましてよ」
「おまえが俺のほくろの位置を知っているのは当然だが、しかし別段おまえと俺が親密だとは思えない」
「もっともなお言葉ですわ。どこにあって直径いくらかまで答えることができますけれど、それはアナタの体に肉を与えたのがこのアタシだから」
ただの骸骨だったカステに人間の容姿を与えたのはジョウだ。
彼女は冥界神のもとから死神を連れて行くと、冥界の土くれをこね、そしてそれを死神に粘土細工でもするように貼り付けていった。すっと彼女が肉を撫でると綺麗に人間の皮膚になっていった。その際に彼女は地下世界の闇を切り取って皮膚に点をつけた。それがほくろとなった。眼窩には黒曜石をはめ込んでまぶたをおろした。ジョウは己の指先を傷つけ、出てきた血で死神の色のない唇を染めた。仕上げに彼は死神に名を与えた。肉体を持つ者としての名を与えるため、カステ、と呼びかけると死神のまぶたがゆっくりと持ち上げられた。
ジョウは魂のないものを動かす術が使えた。本来は死体や白骨に肉を貼り付けたものを動かすだけだ。ジョウが念じて骨と筋肉を動かしているに過ぎない。だがカステは白骨だが自我がある。ジョウは肉を与え人間のように機能するように術をかけた。
そういった経緯でジョウはカステの肉体の生みの親とも言える立場である。加えて人間世界に不慣れな神の案内人でもある。その立場がジョウの態度を少しばかり不遜なものにしていた。
「女を突き放したのはよろしいのよ。でも……」
肉付けされた身体にカステはまだ慣れていない。人の身体が触れるのを嫌がるのもそのせいだ。なんでも、己の弾力ある皮膚、それ自身もいまだに大変不自然なものであるように感じられるらしいが、に他人に温度の持った肉体が布越しであろうが触れるのは、違和感を通りこして気持ち悪くさえあるのだそうだ。先ほど、しなだれかかってきた娼婦を突き飛ばしたのもそのためである。
「ああいう場合はアタシに口を開かせないで、とっとと女を追っ払うのが筋ですのよ。以後気を付けて下さいましね」
肉を貼り付けたとはいえ、神であるカステは人間の事情に疎い。娼婦のあしらい方などわかるわけもない。そもそも娼婦がどういった職業の人間か理解しているかどうか。
ジョウはつま先立ちになると、苛立ち半分、戒めの意味も込めて思いっきりカステの耳を引っ張ってやる。
「痛い、離せ! なんだ? 俺に対しておまえは何様のつもりだ?」
痛い、と訴えるその顔はやっぱり無表情だ。いや、よく見ると若干眉根が寄っているように見えるかもしれない。カステは表情を作ることにはまだ慣れていない。
「娼婦一人自分で追っ払えない男はこういう目にあうものなのです」
しれっと言うジョウにカステは、ふんと鼻を鳴らす。
「それが人間の常識とやらか。俺はただあの女から変な臭いがしたから、それで近づくのを許してしまっただけだ」
「変な臭い? 香水ではなくて? あの女相当きつかったのですけど」
「香水……人間が好んで身に染みこませる香る水のことだったな。そうだ、確かに香水の臭いもした。だがそれだけではない。きつかったからわかりづらかったが、死体のようなにおいだ。それに……死すべき魂の気配もしたように思う」
気配を感じにくくなっているとはいえ、まったくわからないわけではないらしい。
カステがこの世で最初に覚えた臭いは死臭だった。カステが冥界と人間世界とをつなぐ入口を開けたとき、たまたま墓地と繋がったのだが、ちょうど遺体が埋葬されるところだった。土をかけはじめた棺桶の蓋に別れを惜しむ親族がすがりつき、その蓋を開けた。そのときカステは死の臭いを覚えた。
死んだ人間が発する臭いと同じものが、生きた人間からするという。先ほどの女は店で客を待つ高級娼婦のたぐいではなく、道で客に声をかけるような安い娼婦だ。良い生活環境ではないだろう。一見元気そうに見えても、何かしら病を患っている可能性はある。体を悪くしたものの臭いを死臭のように感じたのだろうか。だとしたら、死すべき魂の気配がしたというのもわからなくはない。
「マア。そうでしたの。で、アナタはあの女の魂を狩りに行くのでして?」
カステは、さあね、と言って肩を小さくすくめる。表情はまだまだだが身振りのほうはなかなか様になっていた。




