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白い部屋、台座の上に置かれているガラス容器には瑕疵ひとつない。傾けられたその器からつつと落ちるのは水の一筋。落下の先にいるのは、台座に縛り付けられた死神だった。うなだれてぴくりともしない死神の首筋を水が打つ。
死神の目は固く閉ざされていた。レンニャはしばらく人ならぬ存在を苦しそうな顔で見つめていた。ぎゅっと目を閉じた後、彼女は己の面に出ていたあらゆる感情を心の中に隠した。
縛り付けられた状態のままカステは意識を取り戻した。気だるげに頭を上げ、その視線の先にはすこし距離を置いてレンニャがいた。上を見ると台座に置かれた器のふちが見えた。器は真っ直ぐに置かれているらしく、水滴がカステの上に降ってくることはない。
「……死神というのは」
レンニャが口を開いた。以前の熱を持った嬉しそうな声ではなかった。
「死神というのは本当なのですか?」
責めるような眼差しを向けられたが、カステはそれを見返した。
「ああ」
カステが肯定すると、レンニャは目を伏せた。
「おまえが死神という存在をどう思っているか知らないが、俺だって神の端くれだぞ。神を敬う気持ちがあるなら、縄を解け」
レンニャは首を横に振る。
「私たちは死を良き神だと認めていません。死は大切なものを奪うからです」
それを聞いてカステは唇の片端をあげて乾いた笑みを浮かべた。ジョウが見たなら随分と器用に笑うようになったと言うだろう。
「おまえらも死は人間に対する罰で、死神は悪魔だとか言うクチか……」
教会でジョウから聞いた話を思い出す。禁忌をおかして天上の楽園を追われた人間は罰として死すべき運命を与えられたらしい。
「あれが……悪魔の所業でなくてなんだというのですか?」
「あれ?」
指示代名詞で通じるような共通の出来事など、出会ったばかりのカステとレンニャの間にあったものか。
「疫病で死んでいく街の光景は忘れられません。淀んだ空気の中に蝿と蛆が行き来をし、野良犬が腐肉を漁るのです。清浄を保つ教会にもそれは及び、どこにも逃げ場なんてなかった……私が怖くて泣いている前で、黒い衣を引きずった悪魔は、父と母を殺しても飽き足らず、虫の息の患者を探して街中をさまようのです」
疫病で死んでく人間などカステには見慣れたものだ。
「泣きながら殺してやればよかったのか? 生憎俺たちはそんなふうにできてない」
穏やかな死も残虐な死も、カステにとっては等しく死である。そこに善悪はない。
「だから、悪魔だと言っているのです」
レンニャは悲惨な死を目の当たりにして、死を憎むようになったといったところだろう。あの教主がレンニャの祖父だというのなら、彼も孫娘の両親つまり我が子とその配偶者の死を経験したために、死神に対して愚かな挑戦をする人間になってしまったのだろう。
「まあどうでもいい。人間の言う良い悪いなど。どう思おうがおまえらが死から逃れられないのは事実だ。人間が俺にかなうものか」
「そうおっしゃるなら、どうして貴方は聖なる水に触れると苦しそうになさるのですか?」
追究しようとする声は震えている。追いつめられているのはまるでレンニャのようだ。
「聖なる水? これが?」
「スワンダミリア様がおられるという湖の水です。貴方が良き神というのなら、なぜ同じく神のものである水で苦しむのです。聖なる水を受けつけないというのは、あ……悪しきものだという証拠でしょう?」
指摘されたことはカステ自身にも理解できていないことだ。スワンダミリアといえば、天上神、冥界神とともに死が世界に誕生する以前から存在する強大な神。後から生まれたカステは力の差ゆえに、死と相反する不死に負けてしまったのかと思うが、どうにも納得できない。
(不死神の力なら俺から能力を奪うことが可能……かもしれない、だが)
だがそんなことをする意味がわからない。不死と死が両立し得ない関係とはいえ、嫌悪の気持ちを持っているわけではない。げんにジョウのような不死人を嫌っているわけではない。魂を狩る対象には見えていないのだ。死神の視界にはいらなくなったものは死に見放されたものであり、不死なのだ。
水からは不死神の象徴から感じる気配と同じものがする。不死を認めているカステだが、彼を苛む聖なる水とやらには嫌悪感しかなかった。
「これ、本当に不死の水か……?」
「ほ、本物です! お爺様がスワンダミリア様から授かったものだとおっしゃっていました!」
レンニャは声を荒げて反論した。
「偽物ならばどうして人間に不死にする力があるのですか!?」
「知るか。だが俺がおまえたちに死を与えようと考えている限り、おまえたちは死なねばならない存在なんだ。おまえも教主も見た目通りの年ではないだろう? それは人にはあってはならないことだ」
「でも私は今こうして生きています! あなたが神だと、私たち人間ごときがかなわない神だというなら、なぜここまで生かしたのですか!?」
レンニャはカステの痛いところを突く。この不死の水がどういったものであれ、レンニャたちが長い生を保っているのは事実だ。冥界神も死神も気付けず、今まで放置されていたというのが彼女たちが長生きしてしまった理由だ。彼らの見落としがなければ、この事態にはならなかったろう。
神は人間より優越だが万能ではない。
「人間は神に求めすぎだ」
レンニャは肯定も否定もしない。
「おいっ!」
レンニャは無言のまま、台座の器を傾けて置きなおした。カステの目に落下する滴が映った。それはだんだん近づき、ひやりとした感触を鼻先に感じると同時にカステは意識を失った。
もうすぐ夕飯前の礼拝の時間だから、祈りの広間へ行こうとロッソが言い出した。人の多いところへは行きたくなかったが、聞けば礼拝は城の者も巡礼者も皆が出席するものらしい。ここでジョウが礼拝への参加を拒否するのは不自然だ。大人しくロッソとともに祈りの広間へ向かう。
ジョウの気持ちなど知らぬロッソは、礼拝を取り仕切るという聖女について語っている。
「聖女様は年をとらないんだ。優しいし、綺麗だし女神様の化身だって言われているよ」
「ヘエ、つまり聖女様は不死なのね」
「もちろん!」
この城で生まれ育った彼にとって教主や聖女が不死であることは当然なのだ。
「アタシ、スワンダミリア神を信仰し始めて日が浅くて、よく教義がわからないの。アタシは死なずに済むって言われただけで……ここに来たからにはしっかりと教えてもらえるのよね?」
一体、不死神信仰者は不死に何を求めているのだろうか。長く生きることへの執着をジョウはわからないではない。しかし、長い生というものが良いことばかりではないことを知っている。ゆえに不死への執着はない。自身が不死となって実感したことだ。
(このままずっと一人で冥界の闇にたたずむだなんて、考えたくないわ)
ジョウは不死を望んだことはない。彼女の願いゆえに長い時間が必要となり、結果的に不死となってしまった。
「人間は不死となることで進化ができる。神は老いも死も知らず、おのが世界を統べる。人が不死となったとき、この世は神の手から離れ、真に人間の世界となる……これが教義。聞いたことない?」
きっと信徒の誰もが知っていて然るべき内容なのだろう、まさか知らないのかとロッソは怪訝そうだ。
「あ、あるわよ。でもアタシには難しくって。あの……違っていたら恥ずかしいんだけど……つまり、人が不死になるということは、神様と一緒になるってことで、だから人間の世界を支配できるというのね?」
「なんだ。わかってんじゃん。そうだよ。神に選ばれ不死となった人間たちがあらゆる国を治める。そしてこの世を永久に栄えさせるんだ」
人間が神と同等になるなど、カステが聞いたら怒るか馬鹿にするかしそうな発言だ。
「永久に……」
「そ、さあ着いた」
と言って足を踏み入れたのは、祈りの広間でなく食堂だった。先ほどロッソと通り抜けたときには人っ子一人いなかったが、今は奥の厨房から声があがっている。
「礼拝って長いんだよね。最中に腹がなっちゃうんだもん」
ロッソが戸口に姿を現すと、夕食の準備をしていた女の一人が彼にすぐ気付いた。
「まあまあ、ロッソ様。あら、今日は可愛らしいお友達を連れているのね」
「巡礼に来たジョウだよ。今日来たばかりで、城のことがわかんないって言うから案内してたんだ。ねえ腹減ったよ。何かちょうだい」
「はいはい」
ロッソは調理台の隅に二人分の椅子を引き寄せて着席する。
「座んなよ。」
促されてジョウも座ると、別の女が皿を二人の前に置いた。パンの上に火であぶった肉を薄く切って乗せたものに、干し葡萄がそばに添えられている。食べてみると、肉は温かく柔らかい。
「どう? おいしいでしょう。ロッソ様はね、いっつもこうして礼拝の前に来ては食べ物をねだるの。でね、何でも食べてくれるならいいんだけど、好き嫌いが多くって」
「いいだろ、そんなこと言わなくてもー」
唇を尖らせてロッソが抗議するが、厨房の女たちはかまわずカラカラと笑う。火の上に吊り下げられた鍋をかき回していた年かさの女が口を開く。
「お嬢さん、今日初めてここに来たのかい? ならこの子の年をお知りでないね。いくつだと思うね」
高い声で喋るロッソの身長はジョウよりも低い。
「十歳くらいかしら?」
女たちはジョウの答えを聞いてどっと笑った。
「あらあら、ロッソ様! いい? この子はね、お嬢さん、こう見えてもう二十歳なのさ」
ジョウはまじまじとロッソを見る。どこをどう見ても二十歳には見えない。
「不死、なの?」
「んーん、ただ成長が遅いだけ。ただ水を定期的に飲んでいるせいで、成長が遅いらしいよ。俺って、おふくろは俺が腹ん中にいたときに水を飲んでいたから、そんな頃から水を飲んでいることになるんだろうな、多分」
彼はなんでもないことのように自身のことを語る。なぜならそれが当たり前だからだろう。彼の言う水とは不死神の水に違いない。彼の周りには当然のように不死という言葉が溢れている。彼は人間が命に限りある存在だと知っているのだろうか。
(怖い)
不死の教主もロッソもその存在自体は怖くない。だが、不死を当たり前のように受け入れ、口にすることができるその環境にジョウは背筋を寒くした。そんな心の動揺は表に出さずにジョウは問う。
「水を飲んだら不死になるんじゃないの?」
「いーや、一回飲んだだけじゃ駄目なんだ。頻繁に飲まないと不死は保てない。あ、しまった。これはあんまり言っちゃいけないんだった」
慌てて口を手で塞ぐがもう遅い。
(不死を保つ、教主が言っていたのも頷けるわ。水がないと不死でい続けられないのね)
フォーガは定期的な水の摂取ができなかったがゆえに、あのような末路を迎えることになったというわけか。
「外見はともかく、中身も成長してないのはよろしいのかねえ」
年かさの女の一言にまたしても厨房中に笑いが広がった。ロッソは不貞腐れた表情のまま、文句をぶつぶつと垂れている。その様はどうみても子供だ。
「だからさー、そういうのやめてよねー。俺だって不死神の恩恵を受ける選ばれた人間だよ。もうちょっと、敬意ってやつを持ってほしいね」
笑い声が静まったのは、厨房に新たな人物が現れたときだった。
「あら司祭様、何かご用……」
女の言葉が終らぬうちに、司祭はジョウを見つけるや手を伸ばした。ジョウは椅子からさっとすべり落ちるようにして司祭の手を逃れ、そのまま調理台の下にもぐりこんだ。
「その娘を捕まえろ!」
ジョウは調理台をくぐり抜ける。そこで待っていたのは、彼女を捕まえようとする女たちの手だった。それらを払いのけながら勝手口から外に出た。立ち止まらず、後ろは振り返らず、ジョウは走った。
教主が司祭たちにジョウを探すよう命じたのだろう。隠れ隠れしながら城の敷地内を移動していると、白い服の司祭たちが何かを探すようにうろついているのを目撃した。
人を避けながら移動しているうちに、ジョウはやがて広い空間に行き着いた。奥には祭壇がある。これが祈りの広間に違いない。
祭壇には三枚の花弁を持つ花と、花弁の一枚をくわえたとぐろを巻いた蛇の像が鎮座していた。やがて祭壇の前には白衣に白い布で頭を覆った娘がやって来た。それはカステがジョウを助けに来たときにいた、あの娘、レンニャだった。信徒たちが彼女を見て、聖女様だ、と口々に囁くところをみると、彼女がそうなのだろう。彼女の両脇には白装束の司祭たち。教主はいない。
ぞくぞくと人が集まってくる。巡礼者と城の住人を集めると、結構な人数になった。三百人はいるだろうか。ジョウは後ろのほうで信徒たちに紛れ込んで司祭たちの目に映らないようにした。
ロッソも広間にやってきた。司祭のような白い衣装に着替えていた。厨房での一件で、ジョウのことを聞いたのか、楽しそうな表情ではない。
彼は聖女に挨拶をした後、前のほうに並んだ。厨房の女たちから様付けで呼ばれていたり、司祭のような格好をしていたり、何より不死の水の恩恵に預かっていることから、彼はそれなりに高い地位にあることは想像に難くない。
こうして並ぶと、白衣にも色々あることがわかった。帽子の縁に入った色味が違っており、色つきの腕章を巻いているものもある。ただ聖女だけがどんな差し色もなく、汚れ一つない真白い姿をしていた。
人の入りが少なくなってきた。人が揃いつつあるのだろう。ジョウは礼拝が始まる前に、そっと祈りの広間を後にした。
(城にいる人間が広間に集まるというなら、他の場所には人がいなくなる。ならカステを探す絶好の機会じゃない)
ジョウは祈りの広間を出ると、城の奥に向かった。ロッソに案内してもらった道を思いだしながら地下牢のある塔をめざす。
塔の前には見張りがいない。中に入り、螺旋階段を降り始める。塔の中は暗く、ジョウは足を踏み外さないように慎重に降りた。
地下は静かで、ジョウの足音だけが響く。拷問部屋も地下牢も見て回ったが誰もいない。
(誰もいないから見張りを付ける必要がないってことね)
ジョウががっくりと肩を落とすと、再び螺旋階段を昇り始めた。




