4
娘は挟みを手にすぐに戻ってきた。娘は縄を解く作業を始める前から喋り通しだった。
「あの、私レンニャと申します。貴方は初めてみる方ですね。ここに来たのは初めてですよね」
「ああ」
「よろしければお名前を教えていただけません?」
「……」
名前を訊ねられることに慣れていない。カステは即答できなかった。彼の名は死であるが、この場面でその回答は適切ではないし、彼女が聞きたいのはそういう名前ではない。
(名前は個人を識別するためのもの……)
「…………カステ」
つい最近付けられた呼び名を名乗る。それが自分を指す言葉だということを遅まきながらも実感した瞬間だった。
縄を解かれてカステは立ち上がろうとしたが、ふっと立ちくらみに襲われる。体がいつも以上に重く感じられる。
(よく人間は病気で死ぬが、病気とはこういう感じだろうか)
ふらふらと壁に寄りかかる。どの感覚もカステにとっては初めてのものだ。人間の体は重く脆く不便だ。
「カステ様……あの……」
レンニャが鋏を置いてカステの前で膝をついた。カステは目だけ動かして彼女を見下ろした。
「?」
「あの……もしや貴方は人ならぬ御方なのでは……?」
(ばれたか?)
教主とは異なり、カステの正体に気付いていない様子だったので気を抜いていた。教主と同じように、この娘も人ならぬ存在を感知できる人間か。
カステは身を支えるために壁についた手に意識を集中した。馴染んだ感触が手もとにやってくるのを待ったが、ざらりとした漆喰の感触の間に割り込むものはない。
カステがぎろりとレンニャを睨みつけると、彼女は肩を震わせ両手を組み合わせて頭を下げた。
大鎌が出せない以上、レンニャに死を与えることはできない。カステは彼女がわきに置いた鋏に視線をずらした。敏捷に動く自信はないが、あれを奪って動きを止めるしかない。不死だとしても、肉体は傷付くはずだ。再生するかもしれないが、逃げる時間稼ぎにはなる。
レンニャは恐る恐る顔をあげ、遠慮がちにカステを見上げる。
「あ、あの……私は見たのです。貴方が夜空に浮かんでらっしゃるのを」
「……それで俺を人でないと?」
「はい」
ジョウとこの城の外観を偵察していたのを、住人に見られたが、それがこの娘だったとは。
「空を飛ぶなど、ただ人の成せるわざではございませんでしょう」
「人違いじゃないのか?」
「いいえ。左右色違いの目を持つお人などそうそうおられないでしょう」
(ちっ)
ジョウに術のかけなおしをされたことを思い出す。目の色などどうでもいいと思っていいたが、その場しのぎで作られたこの新しい目が、まさかこんなところで仇となるとは。
「カステ様は天の御使いであられるのですか? それとも……」
レンニャは最後まで言わず、カステの返答を待った。その瞳から読み取れるのは、疑いや嫌悪ではなく純粋な好奇心だった。そして自分の答えが肯定されることへの希望と、そうだった場合にカステのために用意された憧憬の念。
カステが空を飛んでいたから人でないと言っているだけで、その正体を見破ったわけではないと考えられる。
カステはレンニャの鋏を気にするのはやめにした。
「あー、まあそのようなものだ」
歯切れの悪いカステの返答にもかかわらず、レンニャは組み合わせた両手をそのままに、再び頭を垂れた。
「ああ、貴方を縛めるという罪深い行為を犯したのがお爺様だというのなら、どうかお爺様を赦して下さい」
レンニャは頭を垂れたままの姿勢を続けた。
嘘でも「赦す」とカステは言う気にはならなかった。
「顔を上げろ」
「では……」
「いいから。顔を上げろ」
レンニャはようやく顔を上げた。カステは壁に背を預けると、ほっと息をついた。天の御使いとやらが何者か知らないが、正体がばれる危機は回避したわけだ。
「おい、これは何だ」
部屋には正方形の石の台座があった。部屋にはそれしかない。その台座にカステは縛りつけられていたのだ。成人男性の胸の高さくらいで、台座の上には硝子の器があった。器は球体を半分に切った形で、水が縁から今にもこぼれそうだ。
「スワンダミリア様の聖なる水です。さきほど私が来たら、中身が少しずつこぼれてしまっていて……お爺様が見たらかんかんになって怒り出しそう……」
そのこぼれた水がカステの上に注がれていた。意識を失う前の光景と合致する状況だ。
(スワンダミリアの水だと!? これのせいか!)
地下室で対峙したとき、教主は手に隠し持った小瓶から数滴の液体をカステに放った。あれも同じものに違いない。
不死神の湖の水。あらゆるものに不死を与える水。それの影響でカステの死神としての能力が著しく低下していると考えるべきか。
(不死が死に負けたっていうのか? 確かに俺は格下だが……)
不死神の力が死神の邪魔をする意図がわからない。今まで世界は限りある生とそれに区切りをつける死で回ってきたのだ。その法則に横やりを入れる必要がどこにあるのか。第一、不死神は天上で眠ったままだというのに、どのようにしてこの事態に関与するというのだ。
疑問は尽きないが、カステの能力が発揮できないのは事実だ。
(大鎌が出せないなら、これはどうだ)
後ろ手で小さく空間を斬る動作をする。
(これで冥界への入り口が……)
カステは期待を込めてちらと後ろを振り返るが、裂け目から冥界の闇が見えることなく、白壁がカステの期待を黙殺した。
(嘘だろう)
引きつった笑いを浮かべながら、次に影を呼び寄せ黒衣を纏おうとするがどんな変化もない。これではまるきりただの人間だ。
「カステ様、どうされました?」
「いや、何でもない」
内心の動揺を気取られまいと、カステは表情を引き締めた。相手を威嚇するのに表情は便利だが、こちらに不利な状況ではどんな顔がさらに事態を悪化させるかわかったものではない。
「貴方は不死なる神の御使いということなのでしょう。神々は私達を導くために貴方を遣わされたのですか?」
レンニャは己の解釈のままに話を進めていく。
(導く? 導くって何だよ?)
レンニャが何を期待しているのかがわからず、カステは返答につまる。ジョウならすぐになんと答えれば良いか教えてくれるだろうが、生憎彼女はここにいない。
(導く……こんな状況じゃなきゃ、死にならいくらでも導けるが……)
「あの……」
ぐるぐると考え込んでいるカステだったが、レンニャの声に結論を出さねばと焦る。立場はこちらが優位なはずだ、と考えて一言搾り出した。
「それは言えない」
「そうですね。神の御意志を私ごときが知ろうとは、身の程しらずでございました……」
レンニャは真っ赤になって頭を下げた。必死に謝るレンニャの前で、カステも内心必死だ。
(人間との交渉はあいつの役目だろう……!)
これからどうやらレンニャの前で天の御使いとやらを演じなければならないことはわかるのだが、それがなんなのかよくわからない。以前教会で天上神を演じたのは、それが人間にとってどういった存在であるかジョウから聞いていたからだ。人間たちの唯一の神、絶対者、演じるのは簡単だった。しかし天の御使いが何だかわからない。そう呼ばれる存在を冥界でも地上でも見たことがない。
(たまに地上に落ちてくる星々のことか? それとも有翼の神の誰かか?)
検討がつかないが、レンニャがへりくだっているため、どうやら己は多少偉そうにしたほうが良いことだけは理解できた。
「レンニャ」
名を呼ばれると、レンニャはかしこまった。
「はい」
「俺を縛ってこんなところに放置したことが罪深いというならば、俺の頼みを聞き届けてくれるか?」
カステを天の使いだと信じている娘に否はなかった。
教主はなおもジョウは不死にかかわる事実を隠していると言いつのった。
「もうよい。素直に喋らなかったことを後悔するがいい!」
しまいには老人は荒々しい靴音を響かせながら去っていった。
「あーあ……怒らしちゃった。嫌な予感……」
ジョウは肩をすくめ、次に肩の力を一気に抜いた。
彼女の嫌な予感はみごと的中した。間もなく別の足音が響いてきて、ジョウの独房の前で止まった。扉が開けられるとすぐに手枷を付けられて外に出された。薄暗い廊下を歩かされ、ある一室に連れてかれた。逃げることは前も後ろも屈強な男に挟まれてはかなわなかった。
部屋には明かりが灯っていた。日光の明るさには程遠いが、暗い廊下から来た身には十分眩しく感じられた。目が慣れ、そこが何の部屋であるか確認する。
「やっぱり」
ぽそりとしたジョウの呟きは誰にも聞かれることはなかった。
ジョウは天上から吊るされた手枷に両手を固定された。左右の固定位置は間が空いており、ジョウは両手を挙げて広げる格好になった。男たちは彼女の無防備な背に回り込んだ。
ジョウが覚悟を決めて、歯を食いしばった。
(死にはしないわよ)
背中に痛みが走る。男が木の棒でジョウの背を打ったのだ。一定の拍子をもって棒はジョウの背を打つ。そのたびに彼女は漏れそうになる声を喉の奥に引っ込めた。
(死にはしないわ。早く意識がなくならないかしら……)
気を失うしかこの責め苦から逃げる方法が浮かばなかった。
レンニャが通ると、皆一様に頭を下げた。
「おまえはここでは偉いのか?」
レンニャの後ろを歩いていたカステが訊ねた。カステはレンニャに頼んで用意してもらった白い衣をまとっていた。死神の黒衣をそのまま白くしたような衣だ。その頭巾を目深に被り、顔を見えないようにする。地下牢で顔を合わした面々に見つかってはならない。
「偉いだなんて……ここで一番偉いのは教主であるお爺様です」
「でもおまえもそれなりに偉いんだろう? 皆がおまえに道を開ける」
「皆さんは私みたいな者をその……聖女……と、呼んでよくして下さいます」
自分のことを聖女というのが恥ずかしいらしく、その言葉は躊躇のすえに紡ぎだされ、囁くようなものだった。
「ふうん。聖女? どうしてそう呼ばれているんだ?」
「私は不死なのです。不死の水を定期的に口にするのを許されているので……だから私に皆さんはよくしてくれる。すべてはスワンダミリア様のお力のおかげです」
そのように口にしたレンニャの顔は少し沈んでいた。聖女とよばれることに対して引け目や重責を感じているがゆえの表情かもしれない。だが聖女の表情の翳りは微々たるもので、人の感情に疎い死神がそれに気付くことはなかった。
「定期的に飲むといっても、水が無限にあるわけじゃないんだろう? ここは天上ではないのだから」
不死の湖があるのは天上だ。この地上にあるわけがない。不死の水は有限に決まっている。
「無限ではないですれけど、有限というわけではありません。水は人々の祈りによって増えるのです。多くの人が祈ればそれだけ増えるのです」
「増える……だと?」
「そうです。祈りは力になるのです」
レンニャはそれがこの上なく素晴らしいことのように語った。
「カステ様がここにいらしたのも、我々の祈りに応えてのことなのでは……あ、すみません。また詮索するようなことを……」
レンニャが隣で一喜一憂しているが、カステは気にも留めない。
(増える? 不死の水が? 人間の力ごときで?)
「祈り? 何だそりゃ。増えるって……」
「そう……そんな水を私が飲んでしまってよいのでしょうか……」
「え? 何だって?」
レンニャはのうつむき加減の早口は、カステにはよく聞き取れなかった。
「いいえ、何でもありません」
彼女はにこりと笑った。ジョウの悪戯っぽい笑みや小馬鹿にしたようなそれとはまた違う種類の笑みだった。
「あ、あの……?」
カステがなかなか視線を外さず、レンニャの顔は徐々の赤くなる。
「人の顔には色々あるな。おまえのような笑い顔もあるんだな」
「え……」
「揺れる水面が陽を受けて光っているようなふうに見える」
カステはさらりと言ってのけた。彼は肉のある体を得てから、目で見た光景の中からレンニャの笑顔に相応しい比喩を取り出したまでだ。褒めるつもりなどないのだが、それを聞いたレンニャは耳まで真っ赤になる。
「なぜ顔を赤くする……?」
心底不思議そうにカステが問うたが、レンニャは、えっと、や、あの、を繰り返すばかりで、結局カステの謎が解けることはなかった。




