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身のうちで虫に這い回られているような不快感があった。カステは意識が汚泥に足を取られて進むことができず、その中に沈んでいくかのような心地がした。ぬかるみのような闇にあっては、冥界の暗闇が懐かしい。どれだけ暗くともあそこにはただ一つ絶対の光明が存在する。あの優しい光が映える冥界の闇に帰りたい。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
まぶたの裏が明るくなった。ざわざわとした不快感も引いて行く。ぼんやりと復活する意識の中で女の声が聞こえる。ここは冥界ではなく、人間世界、しかも彼の敵のすみかだったと思い出す。
(ジョウじゃないな)
低めで遠慮がちな声ははっきりとした物言いの澄んだ声と似ても似つかない。
まぶたを開けると若い娘がいた。ジョウの見た目よりいくつか年上だろう。彼女は意識を取り戻したカステを見て息を呑んだ。じっと彼の目を見ていることから、おおかた左右色違いの目に驚いたといったところか。
彼女は真っ白い簡素なドレス姿だった。髪の毛はベールにきっちりと包まれていてどんな色をしているのかわからない。
「……」
カステは返事をしなかった。かわりに顔をしかめた。
(この女も不法な生者……)
教主とは違って傲岸な態度ではなく、むしろどこか自信なさげなだが、彼に負けず劣らず強烈な死臭がした。
「ここには一般の方は入れないのですよ」
「俺は入りたくはなかったんだが、無理矢理こんなところに縛り付けられた」
ぶっきらぼうなその口調に覇気がない。気だるさがカステに付きまとい、口を開くのもおっくうだ。
「誰がそんな酷いことを! ここは聖なる場所なんですよ!」
娘は痛ましそうにカステを縛る縄を見る。
「誰が、だって? 教主様だよ」
娘が不安そうな顔をする。
「お爺様が? そんな、きっと何かの間違いでしょう。確認してよいようにしてもらいます。あの……大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが。お医者様をお呼びしましょうか?」
娘がカステの前で膝をつき、気遣わしげに彼の顔をのぞき込んだ。
「いや、それよりこの縄を外してくれ」
己を縛する縄に視線をやる。縄は三重にきつく巻かれている。
「あ、はい!」
娘は縄を解きにかかる。だがどうにもうまくいかないらしく、カステは一向に自由になれそうにない。
「無理なら道具を使え」
「道具?」
娘はきょろきょろと何もない部屋を見回した。
「この部屋にないなら。他所から持ってこりゃいいだろ」
指摘されて娘の頬は羞恥の赤に染まる。
「あ、はいッ。えっと、すぐに!」
娘は小走りに部屋を出て行く。その白い背をカステは睨みつけていた。
「別に隠すことでもないから教えてあげてもよろしくてよ」
どうやって不死になったか教えることはたいしたことではなかった。教えたところで個人の努力でどうにかなるものではないからだ。教団がどんな方法で不法に生を謳歌しているのか検討がつかないが、ジョウの真似をしたいといっても簡単にできるものではない。
「アタシは生まれつき人じゃないものが見えたの。それでね、ある日、死神が冥界への入り口を作るところに居合わせてね、そのまま死神について冥界に入ってしまったのよ」
ジョウは言葉を切った。
「それでどうしたのかの? 冥界には不死神の湖がないであろう?」
「それでって? それだけよ。神の領域に入った者は不死になる。古くからの言い伝えを知らないの? 今の世では言わないのかしら。アタシは冥界に足を踏み入れることで不死になったのよ。別に不死神の水の効果じゃないわよ」
「そんなはずはない。それだけで不死を保てるはずがなかろう。おぬし、隠しておるな」
教主の声音がわずかに固くなった。彼は不死を保つと言った。保つということ、それは不変ではないのだ。何らかの方法で生を保っているだけなのだ。
「隠してないわよ。冥界神がそう言ったのよ」
冥界神と口にした瞬間、彼の言葉が頭をよぎった。
『……かすかだがミリアの気配がする』
ジョウが手に入れた二つの不死神の象徴には不死神スワンダミリアの力に似たものが感じられるという。
「……あんたは天上に行って、不死の水で不死に?」
「そうだ。あのわしは確かに不死神の湖に行った! だがわしは……っ!」
不死神の湖は天上界にある。そこに行ったということは神の世界に足を踏み入れたということだ。
「そこ、本当に天上だったの?」
「木々は青く、花は咲き乱れ、獅子の隣で兎が眠る、これが天上の楽園でなくてなんだというのじゃ」
(条件はアタシと同じはず……ならどうしてこいつは不法な生者なの?)
教主は死神の目をあざむいて生を送る者なのだ。一方、ジョウは死神に見向きもされないで生き続けている。
(こいつは私と一緒なんかじゃない。やっぱり不法な生者なのね)
だが二人とも神域に入った者であるにもかかわらず、違いが生じた原因はわからない。




