プロローグ
アタシには大事な人がいた。
その人はもういない。
でもアタシは彼を探し続けている。
長い間
長い間
いつか見つかると信じて
だから、これはほんの戯れだった。
その人が見つかるまでの暇つぶし。
寂しいアタシの虚しい遊びのはずだった。
冥界神は両手一杯に巻物を広げ、大きく溜め息をついた。死者の国の王は太陽の光を集めたような髪をし、大地に力強く根付く植物たちのごとき緑色の目をしている。それが死者の王とは誰も思わないだろう。その容姿は天上の最高神のものであり、人間が思い描く冥界神とは黒髪黒目黒衣と三拍子揃った姿だからだ。だがまさに彼は死者の王なのだ。陰気な死者の国で唯一の太陽のような、そんな絶対的な存在。
冥界神とはいうものの、今や人間は彼を神と崇めておらず、別の名で呼んでいた。すなわち、魔王と。彼の名は人間たちの間で失われて久しい。少しばかり前、彼が神とされていた頃、冥界神と呼ばれていたことがあったが、その時でさえ彼の真の名はすでに忘却の彼方であった。
冥界神は美しい眉宇をひそめた。肩を落とすと同時に大きな溜め息をつく。
「アラ、珍しい。地下世界の絶対者がそんなふうに嘆息なさるなんて」
ころころと笑う少女の声がした。烏の濡れ羽のような髪を肩口できっちりと切りそろえている。彼女が着ている赤い衣は薄暗い冥界に映えていた。彼女は頭蓋骨を後生大事に抱えている。
「足らんのだよ」
「マア、何がでございましょう」
少女の口調は丁寧だが、どこか揶揄するような響きがある。冥界神がそれを不快に思う様子はない。
「名簿に空欄があるのだ」
冥界神は巻物を少女に手渡した。代わりに少女は腕の中の頭蓋骨を差し出した。
「落とさないで下さいましね」
少女は巻物を広げてゆく。冥界神は彼女に渡された頭蓋骨を興味深げに観察している。
「確かに空欄が沢山ありますわね。これはここ八十年の記録ですかしら」
冥界神は頷く。名簿には縦書きに人名、死亡日、死因が記載されている。本来ならぎっしりと行が詰まっているはずのそれには、ところどころ空白がある。
「そこに載るべき者がいまだに死んでおらんのだ。我の目を持ってしても見つからぬ」
「アラアラ、それは大変。アナタ様はそれを八十年もほったらかしにしていましたのね」
少女の口ぶりはあまり大変そうではなく、むしろ楽しんでいるようだった。
「人の世の八十年など我にとっては短く感じるものだ。八十年で気付いたのだ。十分に早い発見であろう」
「ハイ、そうでございますね。アナタ様はよう発見なされた。それでどうなさいますの?」
冥界神は頭蓋骨の眼窩をのぞいたり、指を突っ込んだりして答えない。頭蓋骨が突然、顎を動かしてカツカツと歯を打ち合わせて笑い始めたが、冥界神は驚く様子はない。冥界神がその頭をぽんと叩くと、頭蓋骨は静かになった。
痛いほどの静寂はこの地下世界では珍しくなかった。冥界神はしばしの間、しかしそれは荷人の世で言う一日ほどに相当するが、黙らせた頭蓋骨を凝視していた。
「そうだ。死神を使わそう」
立ったまままどろんでいた少女はゆるゆると面を上げた。
「死神、でございますか。名簿の空白は死神がまさに死すべき者を看過した結果では? アナタ様の目を持ってしても見つけられぬものを、今また死神に見つけよとは……」
「うむ、おぬしの言う通りだろう。だが我は決めた」
二人の声が反響する中に、衣擦れの音がしたかと思うと、部屋の闇の中から死神が現れた。死神は漆黒の衣をまとっている。布が全体的にあまりすぎているように見えるのは、その体に肉がないせいだ。死神は深くかぶった頭巾の奥からその虚ろな眼窩をのぞかせていた。彼の細く真っ白な手には大鎌が握られている。柄は長く、大鎌の刃は三人並んだ人間の首を一息に落とせそうなほど大きさだ。金属の輝きはなく、大鎌は黒衣と同じく冥界の闇を吸ったかのような色をしている。
「この者に行かせよう。おぬしも行くがよい。この者に見えるのは死の気配のみで人など見えておらぬゆえ」
冥界神の言葉に、少女はその黒々とした目を丸くした。
「アタシもですの? 神々に到底及ばぬ人の身でアタシがどんなお役に立てましょう」
「だがただの人とも言えぬ身だ。そうであろう?」
「……意地悪なお方ですこと」
「どうせ暇をしておるのだろう。さあ、行くのか行かぬのか?」
「嫌だと申しましたら?」
「そうだな、頭を下げて頼んで見せようか?」
冥界神が微笑んだ。冗談を口にしたつもりだろうが、少女には笑えない話だった。彼女はこの地下世界の絶対者に対して畏れを失ってはいない。
「恐ろしいことをおっしゃいますわ。アタシに否と言えましょうか」
「そうか、ではこの死神とともに、我の恵みを享受せぬ者、不法な生者を見つけ出すがいよい」
「冥界はそぞろ歩き、人間世界を眺めているだけの日々を送るアタシがお役に立てるかどうかはわかりません。ですが精一杯努めますわ」
「おぬしが言うように、おぬしが人の身だというのなら、必ずや役割を果たすだろう」
再び冥界神は微かに笑んだ。冥界の闇色を吸い込んだような少女の黒い目は、その地下世界の陽光のために眇められた。