□3場 開幕
暗闇と静寂の中、ステージ脇のボックス席の一つに明かりがともる。その様子を、アステルは舞台袖で見ていた。
光に照らされたボックス席の中、一人の人物が立ち上がった。ダレッシモである。
ダレッシモは主催者として、そこで挨拶をする。生来目立つのが好きなようで、彼が主催する舞台やイベント事の時は、決まって謝意を述べ、その後軽い自慢話があり、そしてもう一度謝意を述べてから締める。
それを右の耳から左の耳へ流して聞いていたアステルだが、挨拶を終えたダレッシモがアステルの名前を呼び、拍手が起こったのを聞いて、背筋を伸ばして身を引きしめる。
領主の娘らしく優雅な歩き方を意識しながら、明るくなったステージに出る。
今のアステルの姿は、まさに貴族の令嬢といった風体だ。
ゆったりと裾にギャザーの入ったサテンのドレス。色はシャンパンゴールド。長い髪は一部結わき、残りは背中に波のように流れる。そして胸元にはユキトから贈られた、青い石の首飾りが輝いていた。
アステルが現れて、客席からの拍手がより一層大きなものになる。アステルは中央で歩みを止め、ドレスの端を摘んでお辞儀すると、直立不動の姿勢でその場がまた静かになるまで待った。
拍手が鳴り止み、何の音もしなくなったところで、ピアノに座る伴奏者に目配せする。
伴奏者が小さく頷くと、アステルは歌いやすい姿勢を取り、深く息を吸って口を開く。
一曲目は、軽快なジャズ調の曲だ。
歌詞の内容は、仕事で失敗した鉱夫が、夜の酒場で陽気に飲むという話だ。
ホーストンに住む労働者には人気の歌で、これを聴きたいが為に、彼らの給料から考えたら高いチケット代も、惜しむことなく払う者が多くいる。それを分かった上で、二回の公演で一回ぐらいの割合でこの歌を選曲するのが、ダレッシモの経営戦略の一つだ。
リピーターと口コミでやって来た客達が笑顔で歌を聴いているのが、ステージ上のアステルから見える。気分が乗ってきて、声に伸びが出てくる。
一曲目が終わり、続けて二曲目の序奏が始まる。
二曲目は、ドーア国で有名な歌劇の一幕に登場する曲で、遠い恋人を想う愛の歌。
前曲とは雰囲気がガラッと変わり、ゆったりとしたピアノの旋律に乗せて、アステルのよく通る澄んだ歌声がホール内を包み込む。観客は聴き入るように、とろんとした夢見心地な目でアステルを見つめている。歌の切なさで胸を締めつけられ、アステルの声で甘い気持ちにさせる。
二曲終わって、ここで挨拶が入る――と誰もが思っていたが、アステルは俯いた状態で黙ったまま立っているだけだった。
どうしたのかと、観客席から僅かにざわめき起こり始める。
「なんや? どないかしたんか?」
ユキトにだけ聞こえるように、小さな声でジョージが訊ねてくる。ポケットに隠れていたので、アステルの様子に気づかなかったらしい。
とはいえ、見ていたユキトも、今の状況を理解しているわけではない。
「アステルが下向いたまま微動だにしない」
「嬢ちゃん、具合でも悪うなったんか? ワイのとこからじゃ、よう見えへん」
ジョージはポケットから少しだけ顔を覗かせるが、ただでさえ後方の席、しかもユキトの腰の位置にいるのでステージが見られるはずもない。
ユキトも改めて、ステージ上のアステルに視線を戻す。
――と、しばらく動くことをしなかったアステルが、急に一歩前に出る。その様子に静まり返った客席の方に、顔を上げて目を向けると、胸を押さえるように首飾りの青い石を握る。
そして浅く息を吸うと、唐突にアカペラで歌い出した。
ユキトはステージから目が離せなくなった。アステルの歌声に聞き惚れたのでも、歌う姿の美しさに目を奪われたのでもない。歌の内容を聞き漏らさぬようにする為だ。
アステルの口から紡がれた歌詞はこうだ。
母の愛に庇護されては 温もりに甘えていた
人知れず咲く花の子よ 風雨に晒されなさい
外界など臆するな ただそこに立つだけでいい
飛び出し 初めて大海を知る
一身に太陽の光を受けて
母への思いは 忘れはしない
それを胸に 我願う
海に咲きたい
伴奏者が戸惑っているので、完全なアドリブであることはすぐに気づいた。
そしてその即興で歌った詞が、比喩表現ではあったが、アステル本人のことを歌っているということもユキトは分かった。
どんな思いでアステルがそれを歌ったのかは分からない。
ただその詞には、今のアステルの本当の気持ちが隠れていると感じた。その証拠に、歌の途中でアステルの頬に一筋の涙が流れたことを、ユキトは見逃さなかった。
歌が終わったところで、ユキトは自然と立ち上がり、拍手を送っていた。
「ユ……っ!」
そこで初めてユキトが来ていることに気づいたアステルが驚く中、ユキトはステージに近づくと、ひらりと壇上に上った。
目を見張るアステルの傍に寄り、服の袖で頬を拭ってやりながら、優しく声を掛ける。
「泣くほど辛いなら、誰かに助けを求めればいいのに」
「な、泣いてなんかいない!」
「上手く言えないけど。アステルがアステルの為の人生を送りたいと思うのに、誰の許可も要らないんだよ」
「……ユキトも同じようなこと言うんだ――――」
そんなアステルの呟きをかき消すかのように、ホールの各出入り口に配置されていた警備員がステージに向けて駆け寄ってくる足音がしてくる。
気丈に振舞おうとしているが、不安を隠しきれずに瞳を揺らしているアステルを見て、ユキトはそっとアステルの手を取ると、いつもと何も変わらない晴れやかな顔で笑ってみせた。
「ここを出よう、アステル。人魚姫にはこの狭い水槽より、もっと広い海がいいよ」
「ユキト……」
「その人魚姫様をここから連れ出すには、アステル、君の手伝いが必要なんだけど?」
そう言ってユキトは首を傾げ、取った手を強く握る。
「まったく、この従者は――」
と、アステルはわざとらしく怒ったふりしながら呟くと、きゅっとユキトの手を握り返した。
そうしているうちに、警備員達がステージの端にたどり着き、よじ登ってきていた。ユキト達を囲うようにジリジリと近づいてくる。
「逃がすな! 私の娘を誑かす不届き者だ!」
ボックス席から身を乗り出して、ダレッシモが叫んだ。
それでもユキトは動じることなく、どこか余裕さえ感じさせる笑みを浮かべている。
そのユキトのポケットから、ジョージが顔を出す。
「これはワイの出番やな!」
「うん。頼りにしてるよ、天才スカンクさん」
「任せときぃ!」
ユキトは、右手はアステルと繋いだままで、左手を前に上げる。ジョージがユキトの身体をつたって、左肩から腕に行き、手の甲で立ち止まる。
警棒を手に迫る警備員達。いつの間にか、ホール内は歓声に包まれている。剣闘士の戦いを観ている気分にでもなっているのか、盛り上がった観客は何故かユキトを応援していた。
それに気を良くしたジョージが警備員に背を向け、リズミカルに腰を振りだしたのを横目で見てから、ユキトは警備員達の方を見てはっきりとした口調で言った。
「それでは、皆さん。涙のお別れと参りましょうか!」
その声を合図に、ジョージはお尻に力を入れた。その直後、鼻だけでなく目にもツンと来る悪臭が警備員達を襲った。恐らく、観客席の方にも臭いがしているだろう。
皆が怯んでいる間に、ユキト達は舞台袖に向けて走った。手を放さぬよう、狭い通路を走り抜ける。
その途中、アステルが苦笑する。
「コンサートが台無しだな」
「まあ、領主さんのステージはビジネスだし。やっぱり文化は、お金儲けを目的に使うものじゃないね。自分を表現する、気持ちを伝えるものだって、アステルを見て思ったよ」
「そりゃどうも」
新しい追っ手はすぐにやって来たが、ジョージの活躍で切り抜け、三人は劇場を出た。




