□1場 薔薇色の人生
アステルはエルキンの屋敷に戻された。
ホーストンの一角にある高い石の塀に囲まれた敷地。その中に、塀の外からでも分かるぐらい存在感のある建物が一つ――そこがアステルの家だ。
二百年以上も前からそこに建っていたものを、今のダッレシモの代で改装と増築して、更に大きく立派になった。小さな城と言ってもいいかもしれない。
内部は全部繋がっているが、塔が付いていたりあちこち突き出したりしており、少し複雑な造りになっている。大きな場所に慣れていない者にはかなり不親切で、初めて中に入った領民が迷ったことも何度かあるらしい。
その広く入り組んだ屋敷に入り、玄関ホールの階段を上がったところにある応接間で、アステルは養父であるダレッシモに引き合わせられていた。
「あの時はどうかしていた。優しいアステルなら許してくれるな?」
などと謝罪を受けていたが、アステルは内心納得していない。
また同じ過ちを繰り返さないとも限らない。
見た目には恰幅はいい小物といった風貌だが、金儲けが上手いだけあってそれなりに頭の良い男だ。しかし、それ以上に妻を失った悲しみが大きく、冷静でいられないほどだったのだから信用ならない。
だが他方で、今回のことで娘をも失う気持ちを味わったのだから、本当に反省している可能性もありうることだ。これが演技でないのなら、改心したと見てもいいのかもしれない。
それをすぐには判断出来ないまま、アステルは何も言わず父親の話を聞いている。
少なくともそれに安心したのか、ダレッシモは諭すような声で話し始める。
「アステルも、もう家出なんて馬鹿げたことは考えるんじゃないぞ。ここにいるだけで、お前は薔薇色の人生を送ることが出来るのだから。他のところは人魚のお前にとっては危険な場所だし、ホーストンにいるのが一番なんだ。何よりお前か、お前と結婚する入り婿が私の家督を継ぐんだ。どちらにしろ、ここに骨を埋めるぐらいの気でいないとな」
「はい、父様」
アステルはダレッシモを見ることなく、首を振ることもなく、ただ声だけで答えた。
窓の方を向いていたダレッシモはそれに気づかず、そのまま話題を変える。
「何にしても、明日の夜のコンサートに間に合って良かった。券はもう完売したぞ! みんなアステルの歌声を聴きたくて仕方がないんだな! いやはや、たいしたものだ!」
それからは今度のコンサートの話が続き、ようやく部屋を出た頃にはアステルは疲弊しきっていた。
廊下を歩きながら、アステルは物思いに耽る。
(本当に俺の人生はこれでいいのか?)
ダレッシモの言う通り、ここにいれば食うに困らず、安定した生活が約束されている。死んだ母との貧しい生活を思えば、それは幸せなのかもしれない。
だが、貧しくても楽しく暮らしていたあの頃でも、十分幸せだったと胸を張って言える自信がある。経済的に豊かだからといって、薔薇色の人生とも限らないということだ。
(それに俺だけぬくぬくしていて、それでいいのかな。ユキトは俺の為に怪我を負ったんだ。それだけじゃなくて他にも――)
男の人魚であると知られることを恐れ逃げ出したことで、ユキトやジョージ、シャオンにも迷惑を掛けた。犠牲にしたと言ってもいい。
そう考えていて、ふとユキトの言葉を思い出す。
自室の扉の前で立ち止まると、伏し目がちになり、垂らした腕の下で強く拳を握る。
(俺は本当に、これで『胸を張って自分の人生を生き抜いている』と言えるだろうか……)
自分で分からないものに結論が出るわけもなく、そのわだかまりを小さな溜め息と一緒に出すと、ノブを捻って自室の扉を開いた。
と、そこにシャオンの姿があり、アステルは思わず目を見開いて固まる。
椅子に座っていたシャオンは、アステルに気づくと立ち上がった。ただでさえどことなく少しやつれた顔を、それ以上無いぐらい引き締め、直角に腰を折って頭を下げる。
「アステル様。守り通すことが出来ず、申し訳ありません。本当ならば他人に任せるなんてことはせず、近侍である私が全うすべきでした」
「ちょっ、待ってよ! シャオンが謝ることじゃない! あなたはよくやってくれたもの! あれはあの時選択出来る、最善の策だったんだから!」
アステルは薔薇色の長い髪を揺らして首を横に振り、シャオンの傍に駆け寄って、その体をそっと抱きしめる。
シャオンは抱き返してくることはなかったが、振りほどくこともしなかった。ただ涙もしゃっくりも何も無いが、シャオンは泣いているような気がした。それでも立場を考えて甘えられないのではないかと、アステルは思った。
(辛い思いをさせて、むしろ謝らないといけないのは俺の方だ)
そんな罪の意識を感じながら、しばらく抱きしめたまま目をきつく閉じていると、不意にノックの音がして振り返り、その流れでシャオンから身を離す。
いつからそこにいたのか、開いたままだった扉に拳を当てた格好のヨルムが立っていた。
「アステル嬢、時間だ。そろそろコンサートのリハーサルが始まる」
「分かった」
ヨルムを見て取り乱すこともなく、アステルは静かにその場を離れた。
ヨルムの後について、前をしっかり見ながら廊下を進む。
(そうだ――いつもの生活に戻るだけだ。父様ももう大丈夫そうだし、なんの心配もいらない。ここにいればシャオンがこれ以上傷つくこともない。だからこれでいいんだ)
そう自分を納得させて、アステルの青い瞳は睨むように細められた。




