□2場 抱いた罪
「で? あの犬はなんなんだよ」
部屋に着いて早々、アステルがそう切り出した。荷物を置き、ぼふんと音がするほど盛大にベッドにもたれる。
外観と異なり、屋内は思いのほか綺麗だった。一等部屋だというこの部屋も、スイートルームにしては広さがいまひとつだが、調度品はそれなりに質の高い物が揃えられているようで、室内の雰囲気も暖かみと清潔感があるので居心地は良い。
アステルはベッドのスプリングを軋ませながら、首を傾げているユキトを睨む。
「まあ百歩譲って、スカンクが喋るんだから、喋る知能を持つ犬がいたとしてもおかしくは無いけど。だとしても、犬がホテル経営してるのは変過ぎだろ!」
「『変』言うたら、あのオノリイヌ言う犬、ただの犬やないな」
「だから、俺もそう言って――」
「そうやなくて。長生きして知力をつけた動物ゆーのとも、少し違う気がするんや。なんや、魂が異質な感じっちゅうか……。まじまじと見ぃひんかったし詳しくは分からへんから、うまいこと説明出来へんけど」
ジョージが小難しい顔をして唸っている。しかし考えて結論が出るわけでもないので、しばらくすると疲れて脱力していた。
その様子を見ていたユキトは、顎に手を当てて「んー」と言って考える素振りをしてから、ジョージに問いかける。
「ジョージ。魂が普通と違う可能性って、どういう時にあると思う?」
「あぁん? せやなぁ……生まれ持った魂が既に特殊な奴もおるけど、大概は魂が混ざりおうた時やな。それはつまり“喰う”行為があった時や。“喰う”側も、“喰われた”側も、魂の主導権を争ってどっちが勝つか負けるかに関わらず、魂の色が変わって歪みが――ってまさか、あの犬が“喰う”か“喰われた”かしたゆーんか!?」
それにはユキトは答えず、肩を竦めてみせただけだった。
アステルが前屈みになって、床にいるジョージを見下ろす。
「そうだとして、それってどっちか判断出来るものなわけ?」
「どうやろなぁ。そもそも魂が見える言うても、別に常に目に映ってるわけやないんや。隠し絵みたいによ~く注意して見ぃひんと判らへん。ま、どのぐらいで見えるかとか、詳細が判るかとかは個人差やな。特に感覚が鋭いもんはぱっと見ぃで色々判るようやけど、ワイはそないな超直感持ってへんし」
「ふーん。自分のこと天才とか言ってたくせに」
「うっ……。せ、せやけど、ワイにかて判ることもあるんやで! 前に、“喰う”ゆーんは相手の魂の隙間に割り込むこと言うたやろ? 隙間は、各々の魂に一つだけぽっかり開いとる、ま~るい穴に見えるんや。異質な魂で、その穴があれば“喰った”側で主導権を勝ち取ったもんで、穴が無ければ“喰われた”側で主導権を勝ち取ったもんや!」
「なるほど。それで、あのオノリイヌの穴はどっちだったの?」
「それは、えっと――――――あ、あった!」
(――ような気がする……)
最後のは口に出さず、ジョージは視線を逸らす。
と、ユキトがジョージの頭を撫で始める。まるでよく出来た子を褒めているような感じだ。その状態のまま、にこやかな顔で言う。
「鈍感なジョージのわりに、珍しく鋭いねぇ」
「ホ、ホンマ? いや~、そないに褒められると照れるわ~……って、今のは馬鹿にしたやろ! ワイのこと鈍感て! ニブチンのユキトに言われたないわっ!」
ノリツッコミで返され、その後もキャンキャンと吠えかかられるが、ユキトは気にした風もなく「まあまあ」と宥めると、もう一つのベッドに腰を下ろす。
「これから話すことは、オノリイヌのプライバシーに関わることだけど。僕が教えたんじゃなくて、ジョージが自分の力で気づいたことだから――解るね?」
そう前置きするユキトが、少し真剣な目になったのを感じて、二人は思わず無言で頷く。
「オノリイヌというのは以前僕が付けた名前だ。便宜上ここではその名前を使うけど、話はもっと前、まだ名前の無い犬だった時に遡る」
ユキトの話はこうだ。
ある時、オノリイヌは一人の男と出逢った。そこは人通りの無い道端で、男は川に飛び降りようとしていた。明らかに自殺しようとしていたのだ。
その頃のオノリイヌは生死の瀬戸際で、どうにか食いつないで懸命に生きていた野良犬だった。そんな状態で、目の前に命を捨てようとする者がいて、何も思わないわけが無い。
男に怒りを覚えた。生命の冒涜、自分のやっていることへの当てつけとさえ思えた。
次の瞬間、オノリイヌは本能のまま男の魂を“喰った”。死を見つめていた男は、あっさり魂の主導権をオノリイヌに取られ、男の精神はこの世から消えた。
その時のオノリイヌには罪悪感は無かった。いらないものを貰ったまでのことと捉えていた。
しかし男の魂と共に、男の姿も手に入れたオノリイヌの前に、二人の人間が現れた。
男の妻と子どもだった。
彼女達の呼ぶ『パパ』はもういない。彼女達の笑顔は、オノリイヌに向けられるべきものではない。だが、どうしてもそれを捨てることは出来なかった。
彼女達にとって、『パパ』の存在は心の支えだった。借金があるようだったが、それでも前向きに生きようとする気概があったのは、家族の絆があったからだ。
それに気づけないでいた男に、改めて腹を立てた。と同時に、自分の愚かさを嘆いた。
オノリイヌがあの時“喰った”ことで、男の魂だけでなく、二人の思いまで奪ってしまった。
“喰う”ことをせず、自殺も食い止めていれば、いつかは男が立ち直っていた可能性も確かにあった。その男の姿が、妻子の幸せに繋がっていたかもしれない。
それからオノリイヌは後悔と罪滅ぼしを胸に、妻子の前では『パパ』を演じた。男の記憶は無くても、その姿だけでも二人の心の支えになると信じて――。
「そういう経緯があって、罪滅ぼしの一環で、男が経営していたホテルをオノリイヌが代わりに引き継いでやってるわけなんだけど……これを良い話なんて思っちゃいけないよ」
腹の前で手を組み、ユキトは神妙な面持ちで話す。
「別に、“喰った”ことを責めたりはしないけど。この世は弱肉強食。精神的に強かったオノリイヌが生き残ったのもまた、食物連鎖の一つと僕は捉えてるから。ただ、後悔とか罪滅ぼしとか、それの意味の無さに早く気づいて欲しいと思ってるんだ」
「おい! その言い方はあまりにも――」
「だってそうでしょ? 『誰も誰かの代わりにはなれない』ってよく言うけど、それは全くその通りなんだよ。どんなに頑張っても、男が彼女達にしてきたことを代わりには出来ない。それで傷つくのは妻子だよ。男があのまま妻子の前から消えていた方が、彼女達は男の偽者……男の幻影に囚われないで済んだ。記憶の中の存在になった方が、その直後は落ち込んだとしても、将来的には真っ直ぐ前に進めることが出来たはずなんだよ」
淡々とした口調で語るユキトを見て、アステルは口を噤む。
「それよりも、誰かの犠牲の上に立って生きるなら、胸を張って自分の人生を生き抜くべきなんだ。それが生き残ったものの責任、本当の罪滅ぼしだと僕は思う」
アステルは言い返せなかった。ユキトの言うことも理解出来たからだ。
中途半端に救うのは、考えようによっては無責任かもしれない。それが果たして相手の為になるのか、相手を思ってのことなのか、罪の意識から逃れたいが為の自己満足ではないのか。それはアステルには分からなかった。
唯一分かったのは、ユキトが言っているのはオノリイヌのことだけじゃない、ユキト本人の境遇のことも言っているのだろうということだ。
ユキトの長い話が終わり、途中で飽きていたジョージが前足をぶらぶら揺らす。
「なーなー、ずっとここに居ってもしゃあないし、外に出ぇへんか? せっかくこないな都会に来たんやし、あちこち見て回ろうやー」
駄々をこねる子どものように間延びした声で訴える。
ユキトはようやく表情を笑顔に戻して、ジョージの首根っこを掴んで、アステルの手元に持っていく。アステルも流れでついつい受け取った。
「そうだねぇ。さっきも言ったけど都会は人で溢れてるから、その中でいるかも分からないアステルに気づく人はいないだろうし、いいと思うけど。アステル、どう?」
ユキトに問われて、アステルは迷うことなく首を縦に振った。