第一話
──キラリと輝く黒い刃。
「ま、待ってください!」
「テメエ、何者だ! こんなトコで何してやがる」
「だから誤解ですってば! 僕は──」
(どうしてこんなことになるんだろう)
首筋に当たる冷たい感触。
余計な真似をすれば即座に切り落とす、と背後から鈍い光を放つ大きな鎌が喉元へと宛がわれ、冷たい汗が頬を伝い無意識のうちにごくりと息を飲む。
少しでも動かせば、それだけで命は無い。
低く殺気を含んだその声から彼が本気だということは明らかで。
焦りとも困惑ともとれる呟きを漏らし、ユキは心の中で嘆息した。
『Grim Reaper』
──それは少し前に遡る。
正直、嫌な予感はしていたのだ。
「おかしいな。多分この辺のハズなんだけど……」
渡された地図を頼りにここまで来たはいいが、いつまでたっても目的の場所にたどり着くことが出来ず、ユキは焦っていた。
自分で言うのもなんだが方向感覚が若干不自由なので、今回は念には念を入れて来たというのに。
──なのに、たどり着けない。
(困ったなあ。このままだと予定の時間に遅れちゃうよ)
腕に嵌めた時計を見れば、予定の時刻まであと三十分。
現在時間は午前十時を少しばかり過ぎたところ。
目の前には近年更に進んだ環境破壊の抑制にと推進された緑化運動の賜物ともいえる、都内とは思えないほどの緑に覆われた公園の木々が広がるのみ。
他に視界にうつるものといえば暖かな日差しの中、散歩を楽しむ老人やその先で無邪気に遊ぶ子供達ばかりで、キョロキョロと辺りを見回してもやはりそれらしい建物はない。
「まさか載ってる地図が間違ってるなんてことないよね……?」
ふと浮かんだ考えに、もう一度手にした紙に視線を落とした時だった。
──キイィィィィィィン。
「──!?」
突然激しい耳鳴りに襲われ片手で頭を押さえる。
「──ッ! この感じ……まさか!」
ハッと息を飲むと周囲に視線を巡らせるが、特に変わった様子はない。
(気のせい?)
だがしかし──。
感じたソレを確かめるべく、視界を閉ざし感覚を研ぎ澄ます。
風にざわめく木々。
鳥達の羽ばたきと鳴き声が消え、周囲を沈黙が包む。
しかしそれも束の間。
わずかに震える空気と覚えのある違和感を感じとると、地図をポケットにねじ込んでユキが弾かれたように駆け出した。
感覚に従い、恐らくソレがあるだろう場所を目指す。
僅かに呼吸が乱れ足が速まる。
木々の合間を縫って、迷うことなく公園の更に奥へと入り、その先に広がるぽっかりと開けた場所にたどり着けば。
「……やっぱり」
直径はおよそ二メートル。
形は縦長の楕円に近く、陽炎のようにそこだけが奇妙に揺らいだ目の前のモノを見て、ユキがぽつりと呟いた。
かつて、とある研究者のグループが一つの警告を世界に発した。
──この世には、この世界だけでない様々な世界が存在すると。
通常、それぞれの世界は膜の様なものが張り巡らされ本来は互いに重ならない筈だった。
それが今、世界を隔てるその境界が揺らぎはじめたというのだ。
当初は空想として存在を否定されていたそれは、だがしかし、近年になって急速に世界に認識されることになる。
何故なら──。
「まだ開いたばかり、か」
開いたばかりの歪みへと近づくと、片膝をついてその場に屈み地面に手をのばす。
そこに侵入した形跡も何の変化もないことを確認すると、ユキはホッと息をついた。
(よかった。まだいない)
恐れていた事態にはならなかった事に安堵するが、早く歪みを閉じなければならないことに違いはない。
「早く知らせないと──ッ!!」
ざわり、と粟立つ肌。
思わず反射的に顔を上げた瞬間、ソレを見たユキの目が大きく見開かれた。
最初に見えたのは、歪みの向こうから伸びた二本の手。
緑色のざらついた鱗のような肌。硬質の爪は鋭く、その手はあきらかに人間のものとは異なり、爬虫類のそれに近い。
ちょうど二足歩行の大きなトカゲのような姿といえばいいのか。
「──ッ!!」
とっさに左に動いたのはただの勘だった。
まさに間一髪の所で、今まで頭があった位置に鋭い爪が伸び、空を切る。
「……くッ!」
転がった反動を生かしてそのまま起き上がると、相手との間合いをとる。
(──まずい……)
危険を知らせる警鐘が脳裏に激しく鳴り響く。
こういった化け物に対して通常の物理的な攻撃というのは効きにくい。
その上、ただでさえ丸腰で倒す術のない自分では正直、分が悪すぎる。
どうするべきか考えを巡らしかけた時──。
「雑魚が」
「!?」
視界の端に映る影。
ユキの脇を、黒と白のかたまりが風のように駆け抜けた。
「消えろ!」
黒いコートを翻し長身の男が化け物へと突っ込む。
身の丈ほどの鎌を振り下ろすと衝撃波が起こり、一瞬にして目の前の化け物と歪みが消滅した。
「……すごい」
あまりにも突然の出来事に呆然と立ち尽くす。
(あの化け物をたった一撃で。この人一体……)
「おい」
「え?」
ふいにこちらを振り返った男と視線がぶつかり、少し低めの声にハッと我に返る。
歳は十代後半か。
目を引く白い髪。眉間に皺を寄せこちらを見つめる視線は鋭いが、整った顔立ち。
「あ、えっとあの──ッ!!」
慌てて返事をしようとした直後、男の姿が視界から消え次の瞬間、ひやりと首筋に感じた違和感に反射的にユキの動きが止まった。
「…………え?」
恐る恐る視線を下に下ろせば、見えたのは喉元に宛がわれた鋭い刃。
「テメエ、何者だ」
低く呟かれた声。
──そして話は冒頭に戻る。
「だからさっきから言ってるじゃないですか! 僕は決して怪しい人間じゃ……」
「へえ。じゃあただの人間が何故こんな所にいる? ここで何してやがった」
「それは誤解です! 僕は」
「黙れ。今すぐその口喋れなくしてやる」
グッと鎌を握る手に力が込められ、触れた箇所からうっすらと血が滲む。
「わーーーッ! ホントにちょっと待って!!」
思わず目を閉じるユキ。
──ヴヴヴヴヴ……。
と、突然どこからともなく響いた振動音が、一瞬二人の間から緊張を薄れさせた。
まさに天の助け。男の手から力が抜け、ユキが安堵の息をついた。
(……た、助かった)
「あの、何か鳴ってますけど……」
「…………」
無言の男。
発信源はあきらかに彼からなのだが、どういうつもりなのか動く様子がない。
「早くしないと切れちゃいますよ?」
「…………」
「もしかして僕が何かすると思ってる、とか?」
「…………」
「あのー?」
「──チッ! 余計な真似はするなよ」
「しませんしません」
何もしない、と両手を上げ降参のポーズ。
動きたくても未だ首には鎌があるのに動けるわけがない。
男は舌打ちすると鎌を持つ手はそのままに、もう片方の手で懐からケータイを取り出した。
「……何だ?」
『クロト! いつまで油売ってるの!』
「ユウナか」
『ユウナか、じゃないわよ。まったく、片付いたのなら早く報告しなさい!』
聞こえてきたのは可愛らしいが少しだけ怒気の篭もる声。
元々音量が大きいのか、それとも相手の声が大きいのか。
二人のやりとりがユキの耳にも入ってくる。
「今は取り込み中だ」
『取り込み中って、何かあったの?』
「怪しい奴を一匹捕まえたんだよ」
『怪しい人?』
「歪みの傍をうろついていた。これから片付ける」
「ちょっと待って! だから人の話を聞いて下さいってば!! さっきから何度も言ってますけど誤解ですって! 僕は本当に怪しい人間なんかじゃありません!」
「ならなんであんなところにいた。正直に答えろ。言わなきゃ殺す」
「それは……」
『──そこまでだよ』
「!?」
突如かかる制止の声に、男の動きがピタリと止まった。
「……どういう了見だ、英里」
あきらかに不機嫌そのものの声で呟けば。
『──どうもこうも、その子はボク達の新しい仲間だよ。クロト君』
繋がったままだということを忘れていたケータイを通じて、先程とは違う声が男の言葉に答えた。