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笹舟  作者: ヴィッセ
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三、〈スパン・シュガ〉...


 ドクダミはヒルガオの手を引き〈スパン・シュガ〉の外に出ていた。扉の前の石段に並んで佇んでいる。陽が沈んだ外界は昼間の蒸し暑さを逃がしきれておらず、虫の鳴き聲と共に沈澱していた。

「雨は何処へ消えたと思う、」

 ドクダミは唐突に切り出し、ヒルガオを見据えた。薄暗い闇の中で、露草色の瞳は曇ることなく彼の瞳を捉えている。凪いだ夜風に足元の草が撫でられ、サァサァという聲を出した。

「僕はね、沼だと思うんだ。」

 〈ミリト・ジェリ〉を出て〈野〉を暫く歩くと、左手に砂利の小道が見える。其処には大きなドングリの木と小さなドングリの木が根を張っており、ソレが沼への道しるべになっていた。その横を通過し更に進むと短い吊橋があり、その下が例の沼である。通称〈吊橋沼〉と呼ばれている。

「おかしいと思わないかい。あんなにも降っていたのに、草さえ濡れていやしなかったんだ。」

「お前は其処に行ったことがあるのか。」

「ああ、一度だけ。今の君と同様、入学仕立ての頃に迷い込んだのさ。もう随分前のことだけれど。……あの沼は特殊だ。」

 〈野〉の方をうつろに見つめた彼の瞳のわずかなかげりを、ヒルガオは見逃さなかった。きっと其処には何かがあるのだ。ヒルガオは今すぐにでも〈吊橋沼〉に赴きたい気持ちになった。

「今日はもう暗い。あそこの吊橋はなかなか高いんだ。落ちたら、そう容易にはいかないよ。」

 ドクダミはヒルガオを悟ったかのように付け加えて、〈野〉に背を向けた。


「……僕たちは水を欲しがっている。」


 ソレだけを云い残し、ドクダミは一人で〈スパン・シュガ〉の方へ去って行った。ヒルガオは何となく追い掛けてはならないような気がして、彼が小さくなってゆくのを見つめている。

「何が云いたいんだ、はっきりしろよ。」

 ヒルガオは小声で悪態を吐いた。彼は所謂いわゆる欲求不満を覚えていたのだ。

 此処は明らかにもと居た地域とは掛け離れており、それでいて不可解なことがしばしば起こる。第一、生徒たちからしてヒルガオの常識の範疇はんちゅうではないのである。彼らは皆外に繰り出すことなく窮屈な四角いはこの中を好んで暮らしているし、そのせいで誰一人陽に焼けた者は存在しない。ソレだけでもヒルガオはそんな生徒達にひどく味気なさを覚えていた。同じ年頃なのにも関わらず、こうも異なる世界に居たのだろうか。そういった思いは、転入した春から度々感じてきた。そのためクラスにも馴染むことなく過ごしてきたのである。けれどこのままでいられる筈はないと思っていた。何故なら楽しかった故郷の残像が、心臓に穴を開けるからである。


    ◆


 今日は珍しく目覚めが悪い。真四角の開放的な自室で、ヒルガオはぼんやりと目覚めた。朝日は窓をすり抜け額や手足を露にし、小鳥のさえずりがいつものように彼の躰を起そうとしている。昨日の有余った元気さは何処へ行ってしまったのだろうか。服を着替え、顔を洗っても、気概は一向に湧かなかった。

 その時、誰かがコンコン、コンコンとノックをする音が聞こえてきた。その人物はゆったりとしたペースで扉を叩いている。

「ヒルガオ、」

 ヒルガオには粗方察しがついていた。彼の部屋を訪れるのは、ドクダミくらいのものなのだ。ヒルガオはノブを廻し、日光が射し込む室内に招き入れようとしたが、彼が一人で訪れていないことに気が付いた。

「一昨日はごめんなさい、私はリンドウと云うの。」

 もう一人は、〈食堂〉で雨が降った際にヒルガオに詰め寄った少年であった。彼は名乗った後にしきりに謝罪の言葉を述べた。あっけらかんとした真四角の部屋に射し込んだ日光が三人を包み込む。

「あの時はつい興奮してしまってね、貴方の気持ちを考えもしなかったの。それで、良ければと思ったのだけれど、」

 リンドウは乗り出すようにしてヒルガオに顔を近付けた。

「一緒に、〈吊橋沼〉へ遊びにゆきませんか。」


 〈吊橋沼〉は、〈野〉を暫く進むと左側に見えてくる砂利の小道の先にある。ソレを前提として、彼はものを云っているのであろうか。ヒルガオはいささか虚を突かれた感覚に陥った。

「本当はね、私も〈野〉に行ってみたかったの。あんな緑の中でお昼寝をしたら、さぞかし気持ちの良いことでしょうね。貴方が〈野〉に行くようになってから、私随分想像していたのよ。」

 ヒルガオは開いた口が塞がらないといった様子で、瞳を輝かせるリンドウを見ていた。期待感に溢れた彼の瞳は硝子玉の様な光沢を持ち、丸味を帯びている。

「君は〈野〉が嫌いではないの、」

「まさか。まだ一度も足を踏み入れたことは無いけれど、その時が来たならばきっと好きになるわ。貴方を見てそう確信したのだもの。」

 彼はにっこりと笑みをこぼし、少し笑い声を上げた。ヒルガオの表情もやっと柔らかいものとなる。

「ドクダミ、この子やっぱり素敵ね。」

 リンドウはドクダミの肩を数回叩いて、また少し笑い声を上げた。


「放課後が、今までにないくらい楽しみよ。」


 三人が去った後の部屋は、物静かにも時計の秒針の音が響き渡っている。今日の授業を終えたら、〈吊橋沼〉に遊びに行くのだ。





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