三、〈スパン・シュガ〉..
思わず嚥下してしまいそうだ。ヒルガオは目を細めて、天から降り注ぐ液体を全身に浴びていた。不思議とその場を抜け出す気分にもならない。寧ろ元来自身が欲していたような、そんな感覚が脳裡を満たしている。
雨足は一段と加速し、遂には肩の辺りにまで水嵩を高めた。まるで外界も〈食堂〉も洪水にあったかのような有様だ。
「顔をお貸しになって。」
ヒルガオははっとして我に返った。話し掛けてきたのは、アケビと共に来た少年だ。彼は水を掻き分け乍ら近付き、ヒルガオの両肩を掴んだ。
「まさか君、今日お水を飲んでいらっしゃらないとか。」
「……水、」
ヒルガオは首を縦に振った。彼は〈ミリト・ジェリ〉に来てから殆ど水分を摂取していない。環境の変化に対応しきれていなかったため、様々な部分で不足しがちだったのだ。
「駄目よ、お水を欠いては。このままだと、そのうち死んでしまう。……私たちは脆い、お分りでしょう。」
思ったよりも深刻な表情で少年は云った。ヒルガオには彼の感覚が分からない。多少水分を摂らない程度で、こんなにも大げさな返答になるとは予測出来なかった。
「君が呼んだの。」
降り注ぐ液体の中で四人は立ち尽くしている。まるでコンピュータがフリーズしたかのようにぴくりとも動かない。テーブルも椅子も既に役割を果たさなくなっていた。
「……僕が、」
漸く口を開いたヒルガオは少年の言葉に困惑していた。疾しいことなど微塵もない筈なのに狼狽してしまう。少年はソレを知ってか知らずか、ヒルガオとの距離を更に縮めて云う。
「君は欲したのでしょう、水を。だから君が呼んだの。」
「僕は、雨なんか降らせることは出来ない。」
「私は、そうは思わない。何故なら君は、少々変わっていらっしゃるもの。」
少年は右手をヒルガオの首に添えた。一方左手は肩を捕らえたままだ。少年はその態勢で話を続けた。
「何も恥ずべきことではないの。こういうことは、稀に起こりえる。ほら、ドクダミだって呼んだことがあるの。ねえ、」
少年は肩越しにドクダミを一瞥し、その後再びヒルガオに視線を合わせた。
「私は君に、興味があるの。」
微笑んだ少年は青白い顔をしている。もう随分と日光を浴びていないような色具合だ。
「だって君、あの〈野〉に行ったのでしょう。私は一度も足を踏み入れたことがない。殆どの生徒も同様よ。なのにどうして、君は〈野〉にゆくの。」
少年の疑問は明確だった。全ての生徒が右に倣うこの〈ミリト・ジェリ〉では、ヒルガオの行動は奇怪なものとして生徒達の瞳に映し出されている。ヒルガオは尋問される窮屈さを覚えていた。
「もう、よせ。」
詰め寄っている少年を引き剥がし、ドクダミは水中に沈んでいるヒルガオの手首を、器用に捜し当てて掴んだ。
「雨はじきに止むだろうさ。もうこんなに降ったんだもの、十分だろう。」
彼がそう云った途端、雨足が徐々に弱まってくる。こうしてあんなにも降り注いでいた雨は、時間を追って一滴も落下しなくなった。水嵩も共に降下し、あっという間にもとの有様になり果てる。只奇妙なのは、膨大な水がつい先程まで存在していたという形跡さえも消え去っているこの光景だ。そして天井の吹き抜けの窓硝子も、何ら変哲が無いのがかえって気に掛かる。しかし雨は確実に降った。何しろ、四人の頭髪や衣服は水分をまとい、身体に寄り添っているのだ。
彼らは暫くの間、吹き抜けの窓硝子を見つめるしかなかった。
◆
靴底が高鳴っている。音は少し時間をかけて、大きくなったり小さくなったりを繰り返す。どうやら、誰かがこの長い廊下を行ったり来たりしているようだ。
「何をしているんだい、」
ドクダミが階段を上ると、一人の少年の姿があった。ヒルガオである。彼はしきりに歩いている。
「今日はどうしてか、体調が一等良いんだ。だからだまっていられないのさ。」
「ソレはやっぱり、水を摂取したからかな。」
ドクダミは壁に背中を任せて、足を交差させた。わけが分からないヒルガオは立ち止まり、前傾姿勢をとる。
「お前まで、何を云い出すんだ。からかうのも大概にしろよ。」
「からかってなんかいないさ。真面目に話している。」
「なら、云ってみろ。」
「あの雨のことをかい。」
「ああ。」
ヒルガオは彼があの雨について、確実に何かをに知っていると思っていた。というのも、昨夜アケビと共に現われた少年の『ドクダミも呼んだことがある』、といった発言に着目していたためである。そして彼は、もしかするとその雨を止ませることも出来るかも知れなかった。
「僕たちは水がなければ死ぬ。だから、水が欲しくなる。」
「僕はあの時、欲しいだなんて微塵も思っていなかった。」
「躰が欲しがっているのさ。それも、来たばかりの頃からね。水球儀だって、」
ドクダミはヒルガオの手首を掴んで走り出した。
「僕たちは水を欲しがっているのさ。」