二、〈水球儀〉
ヒルガオとドクダミは、〈ミリト・ジェリ〉と云う名の学校に通っている。別棟には寮があり、校舎の位置関係が山中にあることを考慮して、生徒は其処で寝起きをする生活を送っていた。外界の森林の狭間は、小鳥や蝉の聲で満ちている。そういった〈音〉の中で、彼等は半生を過ごす。
〈ミリト・ジェリ〉は木造で、形は茶碗を引っ繰り返して置いたような、滑らかな半円である。何処の誰のものとも分からないが、そういった技術が随所に見られる校舎でもあった。硬質の幹を、いとも自然にカーヴさせているかのような、人為的な見境を付けさせない不可思議さと曖昧さを感じさせている。
一方、別棟の寮は〈スパン・シュガ〉と、生徒達の間では、親しみを込めた愛称で呼ばれていた。其処は〈ミリト・ジェリ〉とは打って変わった長細い構造になっており、全生徒と幾人かの教師分の個室や食堂、大広間、浴場等が納められている。
それにしても、両棟を通して、ヒルガオやドクダミのような生徒達の入ったことのない場所は数多く、内輪の立場ながら、なかなか霧に遮られているかのような全容の見えなさである。しかしそれらに疑問を抱く者は稀で、然程関心のない様子で生徒達は通り過ぎて行く。何故なら、ソレが彼等の《当り前》であったからだ。
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授業は坦々と続いて行く。この〈ミリト・ジェリ〉では、午前午後共に三時間ずつに授業が割り振られている。クラスは一学年九つあり、生徒数はかなりのものだった。
この前、ある授業で、ヒルガオは〈水球儀〉に興味を持った。海底を写し出す、あの碧い大きな球体だ。それは〈ミリト・ジェリ〉の一階、入ってすぐのホールに、ヒルガオが見上げる程の体格で佇んでいる。支柱には誰かの名前が彫ってあり、後に先生に聞けば、卒業生の手作りだといった。
その〈水球儀〉は美しかった。海水に見立てた水は海の碧を模し、光の入り具合によっては、オーロラのように揺らめく。海底は砕いた貝殻を固めて作り、水面下には模型魚や人魚が穏やかに遊泳している。小さくも大きい世界が、確かに息づいていた。
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ヒルガオは〈野〉に佇んでいた。太陽の恩恵を受けた肌に、白いティーシャツが映えている。
午後の三時間を終えたヒルガオは、何かに導かれるようにして、此処まで歩いてきた。
〈野〉は学校の前側に広がっており、元来グラウンドのような役割を担っていた。だが近年、生徒達が〈野〉に繰り出すことは数少なくなって行き、代わりにその殆どを〈ミリト・ジェリ〉や〈スパン・シュガ〉で過ごすようになっていた。その為、ヒルガオのような、外に出たがる少年は不思議がられていた。
「ヒルガオ、君は本当に外が好きなんだね。」
ヒルガオが野に佇んでいると、きまってドクダミが顔を出す。彼は微笑んでいた。
「お前達こそヘンなんだ。勉強なんて、退屈だろう。あんな場所には、長居したく無いのさ。」
「けれど君は、〈水球儀〉が好きなんじゃあ無いのか。ほら、さっきも見ていただろう。」
彼に〈水球儀〉のことは話していなかった。春に転校してきたばかりのヒルガオは、風変わりなこの学校の生徒達に溶け込まず、ましてや自分のことはあまり話さない質であった。
不意を付かれたヒルガオは、ドクダミの顔を見つめた。
「前にね、水球儀を見つめている君を見掛けたことがあったんだ。」
放課後、授業を終えたドクダミが螺旋の中央階段を下り、一階に辿り着こうとした時のことだった。〈水球儀〉は、丁度中央階段を下りたその先に設置されている。ドクダミは普段通り、その横を通り過ぎて校舎を出ようとしていた。その時、一人の少年と肩がぶつかってしまった。ドクダミはごめん、と反射的に謝ったものの、どうやらその聲は、少年には届いていないようである。
少年は、少し前傾姿勢になって、〈水球儀〉の海中を覗き込んでいた。普段なら誰も見向きもしないソレに魅入る少年を、ドクダミは呆然と見つめた。
「あの時の君、とても好きそうな顔をしていたんだ。それは此処の生徒がしたことのない表情さ。と云うより、出来ないのかも知れない。」
ドクダミは足下の草を爪先でいじり、ヒルガオから視線を外した。
「それから、君は何かに集中すると、周りに起きた一切のことは分からなくなるよね。昨日だってそうだったろう。なんて集中力だ。」
少し笑い聲を立てながらドクダミは云った。今日の風は穏やかだ。水路の水も、緩やかに流れている。
風に弄ばれるドクダミの髪の毛が、銀色に輝き、波打って尾を引いた。