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腹心の滾り

「弓月殿——ッ!」

 いち早く危険を察知した八色が、黒墨色の袴を翻して若と影の間に躍り出た。

 耳に痛い甲高い金属音が辺り一面に木霊す。

 不意を突かれる形で、若はその場に呆然と立ち尽くした。

 若からわずか一寸ほど先の地面に鉄色の刃物が突き刺さっていた。

 若の背筋に、気持ち悪い底冷えするような汗がどっと噴き出す。

 剣呑な雰囲気に呑まれ、若は八色が話す言葉を理解できないでいた。必死に彼の言葉を拾おうとするものの、指の間から零れ落ちる砂のようにまるで頭に入ってこようとしない。

 突然現れて襲ってきた男は、狂気じみた目をしている。今にも笑い出しそうな顔をしているその顔を見た時、若の背筋が震え、唐突に理解した。

 清村屋の奉公人を殺したのはこの男だ。

 男は腕っ節の立つ八色と互角に組み合っている。今にも筋肉の軋む音が聞こえてきそうだ。けれども実際は何の音も聞こえて来なかった。

 八色の目が赤くなり、若には彼の本性が垣間見えたような気がした。

「逃げろッ! 弓月殿!!」

 般若の形相をした八色の怒声に、若ははたと我に返った。

「返せ。先見の……返せぇぇえええええ!!!」

 男が唾を吐き散らして叫ぶ。正気でないのは既に明らかだった。

 若は根が生えたように動かない足を気持ちを奮い立たせて引き抜くと、二三歩と足を動かし、まろぶようにして駆け出した。

 背後から耳を覆いたくなるような男の意味不明な悲鳴が追い迫ってくる。

 恐怖で足元がもつれる。若は護身刀を家から持ちださなかった事を惜しく思いながら、地面に手をついて横倒しに転がった。次の瞬間、

 ヒュウ——ッ!

 風を切り裂く音がしたかと思うと、若の腹に鋭い激痛が走った。

「弓月殿!?」

 咄嗟に振り返った八色がそれまでの覇気を掻き消し、咄嗟に地面に倒れ付す若を見て叫ぶ。その隙をついて男が八色の手から逃れた。八色は目の色を変えて若に飛び掛っていく男を追うが、間に合わない。赤みがかっていた八色の瞳は、恐怖で普段の色に戻っていた。

「弓月殿!」

 大声で呼びかけるが、若は失神しているらしく少しも動かなかった。地面に鮮血が滲み出ていた。男は倒れ伏す若に躍りかかり、次の瞬間、ぎゃっという叫び声と共に脇にのけ反った。若と男の間隙(かんげき)に猫のようなしなやかさで割り()ったのは、険しい表情の近江であった。彼女の姿を見た八色の顔から張り詰めていたものが解ける。

「あんたのこと、調べさせてもらいましたよ。清村屋の奉公人にも手をかけたようね。何故清村屋の奉公人がこれを持っていたのかは知り得ませぬが、若様の手にそれが偶然渡ってきてしまった……。もしその手で若様の髪の毛一本でも触ってごらんなさい。灰にして差し上げます」

 長い艶々とした近江の黒髪が、その細い一本一本が生き物の如く逆立ち、仄かに青く輝いた。そしてあっという間に彼女の全身が鬼火に取り囲まれる。

 近江は半眼になって男を見遣り、男は蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできずに呆然と立ちすくんだ。

「あんたが何者なのか、だいたいの調べはついておりますよ」

 近江は言って、気絶してしまった若の頭を優しく抱き起こした。そして心得た様子で若のふところに手を差し伸べ、例の浅葱色の封筒を取り出した。

 その封筒を目にし、みるみるうちに男の目の色が変わっていく。

「この封書。『先見の書』というものだろう。欲深いあんたは、奉公人がこの封筒を持っているのを見て、思わず手をかけたのでしょう」

「サキミの書……」

 少し離れた所から八色が目を見張り、近江の顔を見つめて呟いた。近江は気にせずに先を続ける。

「数百年に一度、神様の忘れ物として突然現れるのが先見の書。それは、封を最初に開いた者の将来を見せるといわれます。見るものは決まって良き未来。見た者は必ずその未来に酔ってしまう、副作用のない悪い薬のようなもの」

 彼女は、冷えた目で自我を失いかけている男を見据えた。

「たとえ見せられた未来が、本当にならなくとも……」

 近江は言い終えると口を噤み、八色と合わせて男をひたと見つめた。

 男の体は、すでに人の姿を保てずに崩れ始めていた。体中を黒い物が流れ落ちていくその姿は異形の者と化している。

「……哀れだな」

 ポツリと呟かれた八色の深い声が、近江の耳にも届いた。

 そうですね。

 近江の口が確かにそう形つくっていたが、声にはならなかった。

 彼女は先見の書を求めて近づいてくる異形の者に、左手をかざした。右手には先見の書がある。何の変哲もない、ただ浅葱色をしているだけの封書が。

 近江が何事かを唱えた。左手の指先に、青白い炎が渦状に小さく取り巻く。術を唱えるたびに動く唇のあい間から、異様に鋭く尖った犬歯が覗いた。

 たかが紙切れ一枚に盲執し、とり憑かれた男のなんと哀れなことか。

 何百年もの間、欲に取り付かれて現世を彷徨い続けた男は亡者となり、異形と成り果てた。そこまでして、果たして本当に先見の書を見る価値などあるのだろうか。

 本当に、なんと哀れなことよ。

 近江は右手に持った浅葱色の封書を異形の者に成り果てた男に向かって投げつけた。封書を受け取った男の、叫びに似た歓喜の声がなんとも痛々しかった。

 近江は小さく左手に渦を巻いた青い炎に、そっと息を吹きかける。

 次に近江が口を開いた時には、男は封書もろとも火に巻かれ、後には灰も残っていなかった。





「先見の書など、この世にあってはならぬ物であるのに」

「だが、あの男は最期に人の形をしておったぞ」

 近江は隣にさりげなく腰を下ろした巨漢を見上げ、口元に笑みを浮かべる。そして寝所に横たわる若を見つめてきれいな顔を歪めた。

 異形の男の件が済んだ後、八色と近江は日出の親方とその妻の助けを借りて医師を呼び、若の傷口を診てもらった。

 幸い臓腑に傷はついていなかったらしく、腹を少し切っただけだった。医師も「切り口が綺麗だから治りも早いでしょうよ」と言っていた。

 医師はそう診断したけれど、近江がそうであるように八色の顔色もまた冴えないものだった。

 若が持っていた封書は「先見の書」などではなく、ただの浅葱色をした紙切れだったのだ。近江はそれを手にしたときに六感で気づいていたが、とうに自我を失いかけた男には判断がつけられなくなっていた。そのため近江が芝居をうって男を騙す形で強引に解決する結果となり、更に悪いことに、若は刀傷を負った。

 近江は薄暗い座敷の中で小さくなり、立てた膝の上に額を乗せて黙り込んでいた。そんな彼女の隣に座る八色も、若を守れなかった責任を感じて口を開くのも重いようらしかった。

「おうみ」

 そこに、優しく語り掛ける若の声を聞いて、沈黙していた近江の顔に色がさした。

「若様……お体の調子は如何でございましょうか」

 戸惑い気味に、こちらに顔を向ける若の隣にそっと腰を下ろした。

「そうですね、近江の顔がよく見えるようになりましたね」

 若は茶目っ気たっぷりに笑いかけたが、少し動いただけで傷に響くのか、固い表情が完全になくなる事はなかった。

 ふっと、近江の目から涙が零れた。

「若様……」

「おやおや。女の子を泣かせてしまうなんて」

 若はまだ少し青白い顔で笑みを浮かべて近江を見遣り、八色に視線を送った。

「若様がご無事でいてくだされば、わたくしはよろしいのです。それだけで、なにもかも」

 普段の毅然とした彼女からは想像もつかない、子どものような姿だった。



 ◇◇◇◇



 若の傷が完治するのに半月を要した。

 若は家業を手伝いつつ、両親の目を盗んでは八色とともに消えた白銀燈を探した。白銀燈は河原の橋の下にひっそりとたて掛けてあったのを、八色が見つけた。

「さすが付喪神。錆び一つありやせん」

 するりと伸びた白銀の刀身を惚れ惚れと眺めつつ、八色は奥座敷でうっとりと呟いた。すると霞がかかったように刀身が曇り、薄く文字が浮かび上がる。ただ一言。

 殺めてしまった。

 けれど八色は全く意に介したふうもなく、目じりを下げて胸を張りながら言った。

「不可抗力だったろうが。白銀燈殿は小生が手元に置いても良いと弓月殿から許しを得た」

 まるで人の違う八色はそう言うと、丹念に刃を調べ始めた。付喪神もそれからは何も言わなかった。

 たまたま通り掛かった若と近江は、個々の表情を浮かべた。

「喜んでいるようでございますが、なんでしょうか、あの変貌ぶりは……」

「いいではありませんか。白銀燈も幸せそうですし。あぁ、そうだ。近江、これからお茶でも飲みに行きませんか?」

「えっ……」

「近くに京都から出てきた和菓子屋が店を開いたそうですよ」

 若は近江が顔を真っ赤にして俯き加減になっていくのに気づかず、滔々(とうとう)と続けた。

「お土産に饅頭を買って帰りましょうか。近江は小豆が好きですからね」

 近江の気も知らず、にこにこと微笑みながら返事を待っている若に彼女はこくりと一つ、頷くのが精一杯だった。


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