近江の心
「どうした、顔が死人のようでのうか」
珍しく八色の近江に掛ける声が柔らかい。
若は顔の青い近江のために真綿が詰まった膝掛けを取り出し、熱いお茶を淹れた。
「近江、これを飲みなさい。腹の底から温まります」
近江が殊に寒さに弱いことを知っている若は、彼女が体の芯から温まれるようにと火鉢やら生姜湯など用意した。
八色は何もしないで立っているが、もろもろの事情を知っているので手を貸す必要はないと考え、敢えて手を出さないのかもしれない。
近江はあれこれと世話を焼いてくれる若に、それはもう畳が擦り切れるのではないかというほど額を付けて、平に礼を述べた。若はいいのだと言って笑うのだが、彼に心酔している近江にとって笑い事ではないのだった。
八色はわざとらしく大きな咳払いをし、黒い袴をさばいて座敷に座り直した。
「おっほん。近江、何かわかった事は?」
「そうでした。近江、相手が残した足跡や匂いなど、見つかりませんでしたか?」
八色に習って背を正した若に、近江の顔が引きつった表情を一瞬浮かべて普段通りの表情を繕って口を開いた。
「今回の件につきましては、わたくしめに一任して頂きたく存じます」
「……つまり、何か心当たりが?」
「……左様にございます」
やっと、といった様子で若の問いに答えた近江は、予想以上に疲労の色が濃く顔に出ていた。
(こんな近江を見るのは初めてだ……少し、様子をみようか……)
若は意識を近江に向け、わかったと一つ返事を返した。
「この件は近江に任せることにします。ただし、無理はいけませんよ。何事も諦めが肝心であり、引き際を間違えてはいけませんからね」
若の朗らかな笑みを向けられて近江の顔は見事に真っ赤に熟れた果実のようになり、細くて歯切れの悪い謝辞を述べるにとどまった。そんな彼女の反応を見ても、蚊に刺されたぐらいにしか感じられない若という存在は、八色からすれば驚異的であり、なにより近江が報われない気がした。
話は終わったとばかりに若が立ち上がり、近江を見やった。
「わたしは、これから日出橋の親方の元に行って来ますから、留守番よろしくお願いしますね」
「わ、若様。お一人では危のうございます! わたくしめもお供にっ!!」
「いえ、近江はここで待っていてください。もし、また同じような妖が来るとも知れませんから」
「それは、八色に留守中を見張らせれば」
「それでは近江に妖を任せた意味がありませんでしょう」
「……若様、わたくしは先の妖の件、そのような意味でお頼み申したわけではございません」
「近江、わたしは──」
「弓月殿、もうよかろう。近江、弓月殿には小生が付いて参ろう。そう目を吊り上げるな」
更に言い募ろうとする若の声に被せて、様子を窺っていた八色が言って笑った。さも嫌そうに目を吊り上げる近江に向かって「まぁ、任せろ」と言い、若には目配せして頷いて見せた。
「若様、何かございましたらわたくしめをお呼び下さいまし。いつ何時でも若様の元に馳せ参じます」
結局近江が折れ、深々と傅いて若を送り出した。
「八色、若様の御身に何かあったら許しませんよ。絶対に」
と、釘を刺して八色も送り出した。
睨みつけられた八色自身は表情一つ変えず、さっと黒尽くめの着物を翻して歩き出す若の後を追った。その巨躯を小門の下に潜らせると、彼の姿は木影に溶けてじきに見えなくなった。
日出橋は若の屋敷を出てからしばらく歩いた先の、枝垂れ柳の見える先に渡してある、この辺りで一番大きな橋だ。その日出橋を渡って右に道を折れた先には、目的の日出橋の岡っ引きが住む長屋が居を構えている。
若は八色をあとに従えて日出橋の岡っ引きが住む長屋の戸を潜った。
「御免下さい」
屋敷からそう遠くない場所にあるはずなのに、若が控えめに奥へかけた声は疲労感が滲み出ている。
平均的な人間より病がちで脆弱なつくりをしている、と八色は若の顔色を盗み見て思う。
少しもしないうちに顔を出したのは、三十過ぎの親方の妻だった。彼女はいつ見てもおおらかな表情をしており、若は彼女が怒っている姿を見たことがない。が、町一番の倹約家として親方の尻を引っぱたくほど生活態度には厳しい人らしいことを若は人伝に聞き知っていた。
若は作り笑いを浮かべて懐から浅葱色の手紙を取り出し、手短に用件を話して聞かせた。日出の親方の妻はこれに真摯に耳を傾けて話を聞き終えると、少しお待ちいただけますかと断って奥に入り、親方を連れて戻ってきた。
「これはこれは。お久しぶりです、若旦那。用件はざっと家内から聞きましたよ」
姿を現した親方はどうしてか疲れた様子で力なく笑うと、若の手中にある手紙に視線を移した。
「この手紙の差出人、或いは受取人のもとに届けさせれば良いわけだ」
「簡単に言いますと、そういうことですね」
「すこし、貸していただけませんか」
親方は利き手とは反対の左手を差し出して、若から手紙を受け取った。
「気は引けるが、中を検めさせてもらいましょう」
といって、親方は何の躊躇いも無く封に手をかける。
「ですが、それは失礼ではありませんか」
若は思わず親方の手から手紙を取り返した。すると親方の方が困った表情を見せて言う。
「でもねぇ、若旦那。宛名も宛先も無い手紙の中身も検めなくて、どうやって探すんです? 無理でしょうに」
「それは……そうですが」
軽く俯いた若の視界にすっと親方の右手が飛び込んでくる。清潔そうな布に巻かれた手はなんとも不自然に映った。
「その手……どうかされましたか」
「あぁ、これですか。実はもう聞いているとは思いますが、清村屋の奉公人を殺した下手人と取っ組み合いをした時に負わされた傷でしてね。お恥かしい事ながら、それでも下手人は捕まえることが出来なかったのですが」
彼の言葉に若は納得して、親方の顔色を見た。
道理で疲れた様子をしているわけだ。そして、親方が家の奥からなかなか出てこられなかったのも、この手の傷と何か関係があるのだろう。岡っ引きといっても所詮は一人の人間の男なのだ。
若は少しの間逡巡し、何か決意した面持ちで顔をつと上げて微笑んだ。
「お手を煩わせてしまいましたね。この件は、私の方でどうにかできないかやってみることにします」
「そりゃあ……いいんですか?」
「人探しなら私もいくらか周辺に顔が利きますし、どうにもできなければ、親方にもう一度頼みに来ますよ。親方は、傷を悪化させないように養生してください」
若は手紙を懐にしまうと、さっと素早く親方の左手に数枚の銭を握らせる。視線を下ろした親方は手中を見て軽く目を見張った。
「それで傷の治りを早くするような、栄養がある物をたくさん食べると良いですよ」
失礼します。と若は軽く頭を下げて、見送りに来た親方の妻にも会釈をした。
「ありがとうございます」
戸口に立った若の背に、夫婦揃って頭を深く下げる気配と声がした。
なんだか鰻が食べたくなってきたな、と暢気なことを考えながら若が八色を連れて人気もまばらな道端に出ると、突如背後から若を迫りくる影が差した。そして若が振り返る刹那のことだった。
鋼色に、若の眼前が閃いたのは。