037 泥と汗の対価
翌朝、俺――ハルキが日課の水汲みをこなしていると、藪を掻き分ける鋭い足音が近づいてきた。
「ハルキ! 手を貸してくれ。仕留めたぞ、昨日の大物をだ」
やって来たセイルさんの顔を見て、俺は思わず手を止めた。
いつも冷静沈着な彼が、珍しく興奮を隠しきれない様子で、銀色の髪を少し乱らしている。
「えっ、もうですか? 手伝いは昼からって約束でしたよね」
「状況が変わった。とにかく急ぎたい」
セイルさんのただならぬ様子に、俺は「分かった、すぐ行く」と応じ、
一輪車を引っ張り出した。
狩猟した鹿は、鮮度を保つために河川に沈めてあるという。
だが、放置すれば狼や他のモンスターに嗅ぎつけられ、
せっかくの獲物を奪われるリスクがある。俺も気が急いた。
早歩きで森を進む道中、セイルさんが獲物を仕留めた状況を語ってくれた。
今朝、偶然にも昨日の群れの先頭にいた個体を見つけたのだという。
セイルさんが木陰に潜んで機を伺っていると、その鹿は逃げるどころか、
自ら彼の方へと歩み寄ってきた。
「まるで見ろと言わんばかりに、俺の前で堂々と胸を突き出して止まったんだ。
あんな経験は初めてだよ」
「へぇ……。それはまた、随分と肝の据わった鹿ですね」
俺は相槌を打ちながらも、ふと思う。実際に鹿が止まったのか、
それともセイルさんの射程に入った瞬間に『止まって見えた』のか。
熟練のハンターが見せるゾーンのようなものかもしれないが、どちらにせよ幸運な話だ。
やがて、せせらぎの音が大きくなり、視界が開けた。
ごつごつとした岩が転がる川辺。
くるぶしほどの深さの浅瀬に、その巨体は横たわっていた。
流されないよう、大きめの石が重しとして置かれている。
「……でかっ」 間近で見ると、その迫力に圧倒される。
若い個体だろうが、骨格ががっしりとしている。
昨日の群れのリーダーに違いない。
優に100キロ、下手をすれば150キロ近くあるんじゃないか。
セイルさんの横顔を盗み見ると、どこか自慢げな、誇らしげな表情を浮かべていた。
「流石に大きいな」 「ああ……」
だが、感傷に浸っている時間は短い。
二人の視線が獲物の重なり、「これをどう運ぶか」という現実的な問いに突き当たる。
「セイルさん、今回も頭は外しますか?」
「そうだな……。脳は皮のなめしに使えるが、今はゴブリンからの戦利品がある。
不要な部分はここで処理しよう」
内臓はどうするかと尋ねると、セイルは少し迷ってから
「今回は捨てよう」と決断した。
脂は石鹸や灯火の貴重な原料になるが、この巨体をあの山道で運ぶリスクを考えれば、軽量化が最優先だ。
俺たちは穴を掘り、頭と内臓を埋めて処理した。
その後、鹿の手足を太い棒に縛り付ける。
「よし、いくぞ。せーの……っ!」 二人で力を込め、鹿を持ち上げる。
ズシリとした重みが肩に食い込むが同時に「これならいける」とも思う、気合で一輪車に乗せた。
俺が一輪車の取っ手を取り、前でセイルさんが棒の端を担ぐ。
重量のほとんどを一輪車に預ける形だが、道なき道だ。バランスを保つだけでも全身の筋肉が震える。
十分後、俺は「いける」と思った自分を全力で呪っていた。
「くっ……! 重い……っ!」
獣道すら怪しい森の中を一輪車で進むのは、想像を絶する重労働だった。
平坦な場所を選んで回り道をするが、それでも木の根や岩に車輪が取られるたび、腕が千切れそうになる。
食いしばった奥歯が軋み、頭に血が上る。顔は真っ赤に火照り、七月の湿った空気が肺を焼く。
全身から噴き出した汗が目に入って痛い。
「一旦、休憩しましょう……」
俺が声を絞り出すと、前を歩くセイルさんも無言で頷いた。
彼もまた、あの涼しげな顔を汗で濡らし、肩を激しく上下させている。
一旦鹿を下ろし、革袋の水筒を煽る。
「……ぬるい」
この異世界に来てから慣れたと言いたいが、体温で温まり、革独特の匂いが移った水はどうしても好きになれなかった。
「ほれ、これでも噛んでおけ」 セイルさんから、鹿の脂と干し肉を砕いて板状に固めたものを渡される。
砕いた鹿の干し肉を油で固めた物、見た目は、焼きのりみたいなスティック状の形状だ。
「ありがとうございます」
ガシガシと硬い肉を噛み砕き、強引に飲み込む。
喉を通り過ぎるエネルギーが、疲弊した体に充電されていく感覚がある。
隣で同じように肉を噛んでいるセイルさんを見る。
昨日までの彼は、どこか「スマートな金融トレーダー」のような、洗練された知識層のイメージがあった。
だが、今目の前にいるのは、泥に汚れ、汗を滴らせ、歯を食いしばって獲物を運ぶ、俺と同じ「肉体系労働者」だ。
俺より一回り背が高く、ガッチリとした体躯。広背筋が発達した逆三角形の背中は、オリンピックの水泳選手のようにしなやかだ。
鋭い眼光を湛えたまま、長い銀髪を後ろで乱暴に縛り直すその姿には、エルフという種族の優雅さよりも、この大地で生き抜く男の執念を感じた。
今、この瞬間、俺と彼は全く同じ価値観の中にいる。理屈じゃない、この獲物を村まで運び切るという泥臭い執着だ。
「いくか……」 「いきましょう」 手に松脂を塗り込み、滑り止めにする。
布のバンテージを巻き直し、俺は一輪車を握り直した。
最初の一歩が一番重い。
だが、一度動き出せば軽くなる。
つっかえ、止まり、また力を振り絞って押し出す。その繰り返し。
辛いが、確実に前に進む、進ませる。
「ふぅーっ! ふぅーっ!」 前屈みになり、地面だけを見つめて進む。
ようやく目的地の解体場に着いた時には、肺が破けるかと思った。
「ドタッ」と倒れ込みたい気持ちを抑え、最後の仕上げに取り掛かる。
鹿の後ろ脚を棒とロープで固定し、滑車の代わりの木の棒にロープを通し吊り上げる。
二人で全力でロープを引くと、ようやく鹿の体が宙に浮いた。
「ハルキ、助かった。あとは俺がやる」 俺の役目はここまでだ。
セイルさんはここからさらに、ナイフを握って皮を剥ぎ、肉を切り分ける過酷な作業が待っている。
「いえ、いい仕事でした。……セイルさん、後でお茶を持ってきますよ」
「悪いな。頼む」 セイルさんは既に解体用のナイフを抜き、鋭い眼差しで肉を見据えていた。
村に戻ると、ちょうど昼食の残りがテーブルにあった。
朝の五時に起きて7時に朝食、もう何時間経っただろうか。
今は午後の二時過ぎ。七時間近く動きっぱなしだ。そりゃ腹も減る。
俺は自分の昼飯をかき込みながら、セイルさんの差し入れを考えた。作業の合間に片手で食べられて、かつ力が湧くもの……。
かまどで作業をしていたフィアさんに相談してみる。
「あら、それならこれがいいわ」 そう言ってフィアさんが用意してくれたのは、ライ麦とカタクリの粉で焼いた薄焼きのパンだった。
その間に、たっぷりのベリージャムが挟んである。
「これならセイルも喜ぶわ。故郷の味なのよ」 おちゃめに笑うフィアさん。
温かいハーブティーが入った壺と、そのベリージャムのサンドイッチを持って解体場に戻る。
セイルさんに手渡すと、彼は少し意外そうな顔をしてから、血を拭った手でそれを受け取った。
「フィアさんからです。故郷の味だって聞きましたよ」 俺が付け加えると、彼は一口、それを大切そうに齧った。
「……ああ。ありがとう。嬉しいよ」
「へぇ、そんなに美味しいんですか?」俺まで嬉しくなった。
「これは、俺の故郷の菓子なんだ。小さい頃から、フィアの母親が焼いてくれるこれが好きでな……」
そう語るセイルさんの表情は、どこか遠くを見ているようだった。 「嬉しい」という言葉とは裏腹に、その瞳に宿った色はひどく悲しげで、俺の胸に妙な静けさを残した。
俺はそのときのセイルさんの表情が、忘れられなかった。
-----------------------------------------------------
【設定補足:歴史的背景】
今回、フィアがセイルに作ったサンドイッチのパンは、フィンランドの伝統的な無発酵パン「リエスカ(rieska)」をモデルにしました。
本作の世界観である「12世紀〜14世紀の欧州」の技術体系と、北の大地の植生を考慮し、以下のような時代考証に基づいたアレンジを加えています。
じゃがいもと時代の整合性
現代のリエスカにはじゃがいも(ポテト)を練り込むレシピが一般的ですが、本作の舞台設定ではじゃがいもを使用していません。
じゃがいもはアンデス原産の新大陸植物であり、ヨーロッパに持ち込まれたのは16世紀、食用として広く普及したのは18世紀頃です。
地域によって材料が違い、小麦、ライ麦、大麦、などがあるそうです
今回は、寒冷地で入手しやすいライ麦を主原料にしました。
ライ粉だけではボソボソしがちな無発酵パンに、貴重な澱粉(カタクリ粉)を混ぜることで、腹持ちの良いパンになっています。




